真花

 オレンジ色だった。部屋に射す西陽は陰影を濃く、照らされたところは艶やかに、まるでここにあるものの全てを二色に分離したかのようだった。一歩踏み込めば私も同じに染まった。この部屋に入ったのはいつぶりだろう。子供の頃はよく父が書いたり読んだりしている横で絵を描いたり私も本を読んだりして過ごした。あの頃は夕陽になると大体母が夕食に私達を呼んだ。私達は生返事をして母に怒られて、父と二人で、でもねぇ、と言う視線の合図を交わした。大人になるにつれて私はここに来なくなり、いずれ家も出て、たまに戻って来ても階下で喋るばかりだった。私の記憶の糸は途切れていて、子供の頃と今日が隣同士で繋がった。窓に向いているソファに腰掛ける。眩しさに目を細める。今も机の前の椅子に父が座っているような気がする。それがオレンジ色の部屋が織り成す錯覚だとは分かっている。その錯覚の父が私に言う。それは幼い頃に言われて飲み込めなかった言葉だ。

――生きるとは、途中だと言うことだ。

 大人になってずいぶん経つが、改めて言われても文字通りのことしか分からない。だがきっと父はそれ以上のことを伝えたかったのだ。もっと老境に差し掛かったら理解出来るのかも知れない。私はその言葉を初めて言われた場所、机からちょっと離れた床の上に座る。私が遮る分だけ影が長く伸びる。錯覚の父を見上げても私は凪いでいた。今日の分の涙はもう出尽くしたようだ。父はそれ以上は何も言わず、影も作らない。私が立ち上がれば影も背を伸ばす。その影を引き摺って、壁にある本棚を端から一冊ずつ指で差して行く。ランボオ、高村光太郎、中原中也……この段は詩人のようだ。別の段には夏目漱石、島崎藤村、太宰治などがあり、また別の段には現代の小説家の本、次の段には海外の小説家の本と、整理されて並び、どれもが一律にオレンジ色に照っていた。小学校四年生のときに、父に栞をプレゼントした。青い栞で、何かメッセージを書き込んだような記憶がある。何と書いたかは覚えていない。あの栞を使って、ここにある本は読まれたのだろうか。父の性格からしたらどっちもあり得る。大事過ぎて使えない、と、モノは使うことで生きる、の両方の可能性がある。今となっては確かめる術はない。反対側の本棚も見て回ってから、窓辺に立った。

 父が多分ほとんど見なかった景色だ。この部屋にいるには理由があって、机に向かう訳で、だが、時々は外も見たんじゃないか。私が見ているオレンジの世界を、母の声を聞き流しながらチラリと見たんじゃないか。私は父の錯覚を押し除けて、机の前の椅子に座る。座って、窓の外を見る。変哲のない住宅街だが、ここからしか見えない景色であることも間違いない。だから私は父と体験を共有した。

 机に向くと、一冊の本が置いてあった。カバーがかかっていて本のタイトルは分からない。オレンジ色に表面を削られるように光を浴びて、縁の向こう側に小さな影を作っている。まるでこの本だけが光に抗って踏ん張っているみたいだ。私は急に鼓動が早くなるのを感じて、じっと本を見詰める。触れていいのだろうか。だがこの本の主はもういない。錯覚すら消えている。本はどっちがいいと言った価値判断はしない。するのは私だ。私は、だったらいいに決まっていると胸の中で言って、早口でだって私はお父さんの娘だから、と胸で呟いて、手を伸ばす。

 本はハードカバーで、親指くらいの厚さがあって、どうあっても一日では読めなそうだった。持ち上げると光と影も一緒に付いて来て、開いた途端に中のページにもオレンジ色が浸透する。左手に乗せてページを捲ると、半分を過ぎたところに栞が挟んであった。青い栞だった。その青だけはオレンジの光を弾いていた。涙はまだ残っていた。

「お父さん、途中じゃん」


(了)



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