あの夏に置いてきた写真
帆尊歩
第1話
忘れる事が救済と私はずっと思ってきた。
(ママが私の人生を奪ったのよ)五歳で死んだ娘は定期的に私の夢に出てきては、私を糾弾する。
夢に出てくるあの子は成長していて、生きていれば私はこんな姿だったと言っているよう。生きていればもう六十なのにね。
あの人は、あの子が死んだのは、私のせいだと言う。
私が手を放したから、あの子は海にさらわれたと言う。
結局それが原因であの人とも離婚した。
風の噂で、この間亡くなったらしい。
それはそうよね、お互いにもう八十なんだから。
「君枝さん、また窓の外を見ているの」介護士の女の子が話しかけてくる。
女の子と言っても、四十は過ぎているわね。このホームに入って、余生を穏やかにと思ったけれど、相変わらず娘は私の夢に出てきて、恨みがましく私を見つめるし、あの子が死んだのはお前のせいだと言うあの人の言葉は、耳鳴りのようにいつも私の心を攻撃する。
あの五十五年前の夏の海。
あの子が流される前に撮った写真は本当に幸せそうで、まさかそのすぐあとに、あんな不幸が降りかかるなんて、だからあの写真はあの夏に置いてきた。
でもそれは正解。
もし目にすれば、その写真は私の胸を締め付けるだろう。
「なに」と介護士の女の子に答える。
「明日からボランティアの高校生が来るからよろしくね」
「ボランティア?何しに来るの?」
「ボランティアの体験ですって、いじめちゃだめですよ。まあ、君枝さんは窓辺で鼻歌を歌っているだけだから、関係ないか」
「宮沢賢治の星巡りの歌よ」
「はいはい、そうでした。よろしくお願いしますね」そう言って介護士は去っていった。
次の日。
数人の女子高生がやって来た。
「なんの歌ですか」そのうちの一人が、あたしに話しかけてきた。
この子がボランティアの女子高生か。
「興味があるの?」とあたしは答えた。
「いえ何だか良い歌だなと思って」
「宮沢賢治よ、星巡リの歌」そう言うと、私は何もなかったかのように、また窓の外を見つめラララと歌い始めた。
「何を見ているんですか?」またしても女の子が尋ねてくる。
「風に揺れる木々」女の子は何を言っているんだこのおばあちゃんは、という顔であたしを見つめた。
「おかしい」とあたしは言った。
「えっ、いえ」
「様々な物を思い出さないようにするために、窓の外を眺めているの」
「思い出さない?」
「そう、記憶は楽しい事ばかりじゃない。あなただっていやな思い出はあるでしょう」
「でもそれを含めての人生ですよね」
「生きていると、自らの命を絶ちたくなるような、悲しみや苦しみ、そして怒りがあるの。過ぎ去れば物理的な問題はない。でも心はそうはいかない。心の底に沈殿したそういう思いは、段々に心をむしばみ、そして体をむしばんでいく」
「そんな」
「辛さは、心と記憶が管理しているのよ」
「だから思い出さないようにするんですか」
「そうよ、忘れる事が救いであることが世の中にはたくさんあるの」
「おばあちゃんにも」
「君枝よ」
「君枝さんにもそういう思いがあるんですか?」
「忘れちゃったわ」
「でも、でもそういう悲しみや辛さの先に、幸せや喜びがあるんじゃないですか。喜びと悲しみはみんな平等で、今は辛くても、その分の喜びが人にはあるんじゃないですか」なんてまっすぐな考えなんだろうと思った。
あたしはすこし笑みを浮かべると、
「あなたは良いお嬢さんなのね」と言った。
別に嫌みで言った訳ではない。
そんな訳ではないと思う。
「そんな」
「人生は平等でもなく、幸せでもない。人生は不平等で理不尽で、悲しみと辛さだけの人生を送る人もいる」
「そんな」
「気の持ちようなんて言うけれど、そんな事では救えない辛さもある」
「でも過ぎ去ってしまえば、そんな事も良い思い出」
「そんな事本気で思っている?」
「いえ」そして女の子はアタシの横から離れていった。
向き合え。
そんなこと。
向き合えば夢の中のあの子は私を許してくれるの?
向き合えば(お前のせいだ)というあの人の言葉を享受できるの?
それが忘れる事よりもアタシの救済に繋がるの?
その夜の夢の中では、あの子はあたしを糾弾しなかった。
それどころか、アタシに優しく微笑む。でもその顔は、昨日私に話掛けてきた女子高生だった。
そういえば、もうあの子の顔も思い出せない。
夢の中のあの子は、あたしが記憶に向き合おうとした瞬間に優しくなった。
その時私は分かったのだ。
ああ、あの子は私に忘れて欲しくないんだと。
ごめんなさい。
あなたの事を忘れようとしていたママを許して。
途端夢の中のあの子は私に甘えてきた。
目が覚めたあたしの頬には涙の跡があった。
ボランティアの最後の日、あの女子高生があたしのすぐ横を通ったので、
「どうもありがとう」と言った。
彼女は始め何の事か分からないと言う顔をしたけれど、すぐに笑顔になった。
あの夏に置いてきた写真は何処にいったのかしらね。
今ならきちんと見ることが出来そうなのに。
あの夏に置いてきた写真 帆尊歩 @hosonayumu
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