禁則エレベーター
杉浦ささみ
第1話
古い中華屋でバイトをしていたことがある。繫華街の雑居ビルの5階に軒を構えていて、客足は少ないが、窓からは都市の夜景を堪能することができた。シフトが入ってる日は、店の入り口まで基本的にエレベーターで移動する。
そのエレベーターに乗るときには、言葉を発してはいけないというルールがあった。誰が作ったのか、なんのためにあるかもわからない。しかし、僕が仕事をはじめてから、このルールを破ったものは見たことがなかった。
ある夕方、僕は大学を出てまっすぐ職場に向かった。その日は、エレベーターで3人と乗り合わせた。うち2人は友人。宅飲みをしたり、バイト中につまみ食いを謀ったりする仲だった。仕事はほとんど同時期にやりはじめて、大学でも講義をよく被せた。残りの1人は2つ上の先輩だ。ラグビー部所属で体はゴツく、その分懐も広かった。僕たちの粗相を笑って許してくれたし、なんならつまみ食いをはじめに唆してくれたのは先輩だった。
この日は、喋ってもよさそうな空気があった。天井には監視カメラ。しかし、上役も僕らの行動を見張るほど暇ではないだろうし、こんな形骸化してそうなルールを破っても咎められるとは思えない。だいいち、うつむき加減に口を開けばバレる心配はないはずだ。そういった観念によって、けっこう気は弛んでいた。
エレベーターに足を踏み入れると、いつもの癖でみんな、むっ、と口を結んだ。それがおかしかったのか、先輩が真っ先に口をぷるぷるさせはじめた。ほか2人も、しだいに変顔なんかをやりはじめ、ゆるい緊張がまたたくまに密室を包んだ。
僕も負けじと店長の顔真似をした。しかし満足できるリアクションを貰うまえに、自動ドアは開いてしまった。油や調味料のにおいが流れ込んできて、それが仕事場の前であることを僕に知覚させた。そして、一言も喋らなかったことに、なぜか僕は安堵した。食品サンプルの並んだ、赤い入り口へと歩いていく。
「今日は客どんくらいくるかなー」と先輩。
「いや、それより変顔はやめてくださいよ先輩。小学生じゃないんですから」
僕は中秋の肌寒さに身を震わせながら言った。
「だってさ、お前もやってきただろ」と先輩は僕の肩を叩いた。
「そうだそうだ、先輩の言うとおりだぞ」と友人。
「え、俺の店長の顔真似そんなにおかしかったすか」
「店長の顔真似? お前、なに言ってんだ」
先輩は乾いた笑いを貼り付けて、僕を見た。通路を歩いていると、夕暮れを報せるカラスの声が不規則に耳に入ってきた。空は廃材のサビのように赤かった。
「お前さ、めっちゃ大声で歌ってただろ。演歌みたいに変なこぶしつけて、白いキツネが~、って」
「は、いや。なんですかそれ」
僕は口をぽかんと開けたまま、笑うそぶりを見せたが、傍から見れば付け焼き刃の笑顔にしか思えなかったと思う。僕の両腕は雨粒のような鳥肌に覆われた。
「身に覚えはないです」
2人は僕の言っていることが冗談と思えなくなったのか、会話を不自然に中断し、「へへ」と誤魔化しの笑みを浮かべ、足早に職場へと進んでいた。気まずかったけれど、僕もそれに従って歩いた。
そのエレベーターの建設地に、大量の白いキツネの遺骸と、1人の祈祷師が埋められたという噂は後から知った。しかし詳細を知ることは叶わなかった。深掘りする由もない。
禁則エレベーター 杉浦ささみ @SugiuraSasami
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