13 エピローグ

 目を覚ますと、見慣れた自室の天井が広がっていた。


 あれからどれくらい経ったのだろう。窓の外には夜の帳が下りて、部屋全体が薄暗い。


 リゼルはベッドに寝かされているようで、頭の下に柔らかな枕の感触があった。


「旦那様……?」


 そう声をあげたのは、傍に置かれた椅子にグレンが座っていたからだ。軽く腕組みをして眠っている。


 リゼルは起きあがり、部屋を見渡した。サイドテーブルには水差しやら果物やら花の活けられた花瓶やらが満載で、ぼうっとしてしまう。窓から差し入る月光に、林檎の赤とガーベラの白色が浮かびあがって綺麗だった。


 色彩に見惚れていると、横で衣ずれの音がする。リゼルははっとそちらを見た。


「リゼル……起きたのか」


 グレンが目を開け、心配そうにリゼルに視線を注いでいた。


「調子はどうだ? どこか痛みはないか? リゼルはもう三日も寝込んでいたんだ。屋敷中大騒ぎで、見舞いが絶えなかった。その果物やら花やらは、全部使用人達が持ってきたんだ」


「み、三日も? なんてご迷惑を……!」


 記憶に干渉する魔法は、思いのほか体に負荷をかけるらしい。改めてサイドテーブルに目をやる。うずたかく積まれた果物も、可憐に咲く花々も、思えばリゼルの好きなものばかりだった。きっとネイには一番心配をかけただろう。申し訳ない。


「でも、体調は大丈夫です。吐き気も目眩もありませんし、記憶の連続性にも問題ございません。体の動きも問題なさそうです」


 両手の指を曲げ伸ばしして答える。不思議なほどに意識は冴え渡っていた。どうやらリゼルの魔法はある程度成功していたらしい。


 けれど、まだまだわからないことはたくさんあって、リゼルは恐る恐る訊ねた。


「その……記憶は戻ったのですが。実際のところ、何が起こっていたのですか?」


 グレンは目をそらさなかった。答えを求めるリゼルの眼差しを受け止め、ゆっくりと話し始める。


「リゼルが俺に保護魔法をかけた後、表向きは何も変わらなかった。リゼルは記憶をなくしているし、俺も静観して、相手の出方を窺うことにした。リゼルの魔法があれば、再度襲撃を受けても平気なはずだからな」


 そこまで信頼されていたのかとこそばゆい心地になる。無事に発動して本当に良かった。


「そうしているうちに、あの日――マギナ家が襲ってきた。魔獣退治中、今度は不自然に廃墟が崩落して、それに巻きこまれたんだ。だが思った通り、リゼルの保護魔法で俺は無事だった」


 崩れた廃墟の中で、グレンは他に被害者がいないか見回っていた。そこに、足音がしたのだという。


「メイユ・マギナだった。俺はとっさに気を失っているふりをした。あの女は俺に近づいてくると、何か魔法をかけたようだった。その時に記憶を奪うとか何とか言っていたから、その通りに振る舞うことにしたんだ」


「そこでメイユを捕らえてはいけなかったのですか?」


「証拠がない。おそらく廃墟の崩落も魔法でやったのだろうが、マギナ家以外が魔法を扱わないこの国においては、それを明らかにする方法がない。当然、マギナ家が犯行を認めるわけもないしな」


 言われてみればそうである。リゼルにとって魔法は生まれた時から存在するものだから、考えが至らなかった。


「俺が記憶を失っていると思ってもらえば、相手も油断するだろう。言い逃れのできないところを押さえるつもりだった」


「そ、そうだったのですね……」


 全く思い切った作戦である。


「で、では、今マギナ家はどうなっているのですか? メイユは?」


 問うと、グレンは気遣わしげにリゼルの手に触れた。その仕草一つで、あまり良くないことになっているのだろうと見当がついた。


「メイユ・マギナは実行犯として王宮の地下牢に入っている。今回の事件を指示した両親とともにな。マギナ家は爵位を剥奪され、今後、王国の管理下に置かれる。そして……魔法の使用を永久に禁じられる」


「えっ?」


 ぎょっと目を見開いたリゼルに、グレンは平坦な調子で続けた。


「実は、魔法をマギナにのみ独占させているのは良くないと、元老院でもずっと話し合われていたんだ。今後は、異国の魔法使い・魔女と連携し、国全体で魔法の研究を進めていく。ゆくゆくは研究機関を設立する予定だそうだ」


「そう、ですか……」


 古王族の裔と謳い、魔法を唯一使える特別な一族だと驕っていた彼らには、この上ない屈辱だろう。けれど何年後か、何十年後か――全ての民が魔法を使うさまを夢想して、リゼルの口元が綻んだ。


「魔法が普及すれば、もっと発展は早くなるはずです。そうなったら良いですね。――でも」


 この顛末に思い至ることがあって、リゼルは視線を落とした。


「では、この件は千載一遇の好機だったわけですね。マギナ家から魔法を取り上げるために……」


 知らず背中が丸まっていく。心臓が軋んで嫌な音を立てた。ならば、グレンの不思議な行動の全てに理屈で説明がついてしまうのだった。


「だから、旦那様もずっと演技をなさっていたのですね」


 目の奥が熱くなる。喉に重苦しい塊がせりあがってきて、声が震えそうだった。


 そういうことだった。記憶を失ってから、人が変わったようにリゼルを大切にし始めたグレン。当然だろう。全てはマギナ家を油断させるための振る舞いだったのだ。


「裏にそのような思惑があったことは否定しない」


 グレンはごまかさなかった。はっきりと、勘違いのしようもないほど明確に、淡々と事実を伝えてくる。


「――だが」


 そこで言葉を区切り、グレンが強くリゼルの手を握りしめた。その大きな手のひらをずいぶん熱く感じて、リゼルは自分の手が、氷にでも浸かったように痺れて冷え切っていると気づく。


 グレンはわずかに身を乗りだし、厳かに断言した。


「俺は、今までの言葉を嘘と言うつもりはない」


「え……?」


 見開かれた翡翠色の瞳が、月影を宿してきらめいていた。グレンはこの上なく真摯な眼差しをリゼルに向けていた。


 息を呑んで見つめ返すと、なぜかグレンの目元がじわりと赤くなる。


「……愛おしく思うのも仕方ないだろう。幸せな記憶を代償にすると言って、俺を助けたこと自体を忘れるような女を前にして」


「あ……え、ええ……?」


 急に心臓がばくばくと脈打ち始めて、全身に熱い血を送り出す。手足の先まで熱が巡って、指先のこわばりをほどいていった。


 顔にも熱が集まって、薄闇の中でも隠せないくらい朱に染まっているに違いない。リゼルは恥ずかしくなって、ぱっと顔を背けた。


「あ、あの、でも、私はその、旦那様に好きになってもらおうとして、保護魔法をかけたわけではありませんし。あ、新しい魔法を試してみたいな、という、どうしようもない望みがあったんですよ……?」


「知っている。だが、そういうところも可愛く見えているのだから仕方がない」


「あ、か、かわ……」


 狼狽えてろくに返事もできないリゼルに、グレンは畳みかけた。


「愛している、リゼル」


 伸べられた手が、そっと頬に添えられる。視線を合わせるように、優しく顔を上向かせられた。


「本当にすまなかった。記憶喪失と言って騙していたことも、結婚してからずっと冷たくあたっていたことも。俺は愚かだった。リゼルを知ろうともせず、勝手な決めつけで傷つけた」


 切々と告げられる言葉は、苦しげに掠れている。


「許しを乞うつもりはない。俺にできるのは、この先一生をかけて、リゼルを愛し抜くことだけだ。だが……リゼルが俺を許せないというのであれば、従おう」


 顔の熱も引かないまま、リゼルは首を横に振った。こみあげてくるものを飲みこみもできず、ひっくとしゃくりあげる。ぽろぽろと、涙があふれて頬を滑った。


 グレンが焦ったようにリゼルの目元を親指で拭う。


「やはり、嫌だったか……?」


「そうではありません」


 リゼルは微笑んで、グレンの手を自分の手で包みこんだ。温かい手だった。今までの人生で差し伸べられた中で、一番。


「嬉しいのです。とても。言葉では言い表せないくらい」


 リゼルの手の中で、グレンの指がぴくりと跳ねる。構わず、リゼルはぎゅっと強く握りしめた。もう離さないように。今から言う本心が、過たず伝わるように。


「ですから、贖罪みたいに思わないでください。私は本当に、気にしておりませんから」


 しばらく、部屋には沈黙が落ちる。グレンはリゼルの願いを吟味するように、じっと黙っていた。ただ密やかに手だけが握り返される。


 やがて泉に小石を落とすように、ぽつりと呟きが漏らされた。


「俺に都合が良すぎる。リゼルはお人よしだと言われないか?」


「ネイには、たまに……。でもそうでしょうか? わがままを申していると思いますけれど」


 これはリゼルの人生のうち、とびっきりの強欲だった。


「何の理由もなくただ愛してください、とお願いしているのですよ……?」


 ふ、とグレンが微笑する。訝しげなリゼルの手を引いて、自分の胸に抱き寄せた。全身に温もりが回って、耳元で拍動が響く。リゼルのそれより力強くて、けれど早さは同じくらいだった。


「わかった上で言っている。だがそれくらい俺にとっては容易いことだ」


 顔を上げると、優しい目でこちらを見つめているグレンと視線が絡んだ。引かれるように、二人の距離が近づく。


 二度目の口づけは、一度目よりもずっと長かった。リゼルの体がくたくたになってしまうくらいの時間が経ってから、グレンはリゼルを解放した。


 真っ赤になって息を乱すリゼルの前髪を撫で、グレンは優しく彼女の体をベッドに横たえる。熱に潤んだ瞳を隠すように、そっと目元を手のひらで覆った。


「おやすみ、リゼル。俺の魔女。良い眠りを」


「はい……おやすみなさい、旦那様」


 瞼の作った暗闇の裏、リゼルはわずかに笑んで吐息を漏らした。


 明日目覚めても、何もかもを覚えている。


 〈了〉

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冷酷な旦那様が記憶喪失になったら溺愛モードに入りましたが、愛される覚えはありません! 香月文香 @kozukiayaka

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