槙野 光

 妻も恋人もいない万年独り身の私は、休日になると駅前にあるコンビニに向かう。ドアマン要らずのガラス張りの自動ドアが恭しく左右に開き、私は堂々たる足取りで店内に足を踏み入れる。

 休日の朝は、平日の忙しなさを忘れたかのようにのんびりとした空気が流れていて、レジ前に立つ年配の女性店員も余裕綽々な様相で私を待っている。

「すみません、ホットコーヒーのレギュラーをください」

「はい、180円です」

 快活な笑顔。いつものトーク。変化のないやり取りは波風を立てることなく、空気に溶け去るように私の時間の中にすっと馴染んでいく。

 不快にも愉快にもならないその何でもないやりとりが、私は好きだった。

 私にとって休日のコンビニは、さながら遊園地のチケット売り場だ。チケットの代わりにドリップ式マシンで挽いたコーヒーをカップに注ぐと、馨しい香ばしさが鼻腔を擽り、肺を満たす。香りが逃げないよう蓋をしカップを握るとほのかな温もりが指先を伝い、皮膚や器官を通り身体中に染み込んでいった。

 カップを握りしめ向かう先は、いつも決まっている。

 砂場がひとつ。木製ベンチが二脚。遊具がないせいか人気の少ない、小ぢんまりとした公園だ。

 駅と、私が居住するアパートの合間に緩やかな傾斜の坂がある。下って右に逸れると現れるそこは、フェンスの代わりに常緑樹が聳え立ち、ベンチの隣に桜の樹が一本植えられている。

 現実を生きていると時折寄り道をしたくなるが、私にとってこの公園は現実の喧騒を忘れさせてくれる変え難い憩いの場所だった。



 春と夏の合間。梅雨の手前の空は、透き通るように青い。私は公園のベンチに腰掛け、座面にカップを置く。そして、リュックを膝の上に下ろして文庫本を取り出す。小麦色の紙製のブックカバーに指を滑らせると、微かに乾いた音がした。

 小豆色の栞紐の先端を指先で摘みページを捲ると、右上に印字された七十という数字が視界に入る。文字を目で追いながら時折コーヒーを口にすると、舌にさらっとした苦味が広がった。喉を鳴らして嚥下し、また頁を捲る。

 公園の主のような堂々たる佇まいで皆を見守る桜の木は、薄紅色から瑞々しい碧へと姿を変えようとしていた。爽風に吹かれると木漏れ日が揺らぎ、葉擦れの囁きが耳に届く。空から降ってきた光が本に陰影をつくり、まるで私に手を振っているかのようにゆらゆらと揺れる。ついと口元を緩ませ顔を上げると、梢から桜の花弁が一片、ひらりと舞った。

 砂場も遊具もない公園は、子どもたちに人気がない。しかし、私はひとりではなかった。

 駅前に向かう子どもたちの賑々しい声が遠ざかっていく中、耳に届くふたりの声。

「綺麗だわねえ」

 ゆっくりと紡がれる、老婆の嗄声。

「そうだなあ」

 老婆の声を優しく受け止める、老爺の暖かな声。老婆の嗄声とは違い、張りがある。

 隣を見ると、斜向かいの平家に住む老夫婦の姿があった。

 隣のベンチで繰り返される和やかな会話。時折声を途切らせ、息を吐く老婆。彼女の背を撫でる老爺。その掌は傍目から見ても優しく、老婆を映し出すその瞳は美しい。大切な人を想う真っ直ぐな心に触れる度、陽だまりに照らされたような気持ちになった。

 老夫婦と会話をすることはほとんどなく、いつも軽い会釈だけだ。けれどいつからか、共に過ごすそのひと時が待ち通しくなっていた。



 夏が終わり、風に冷たさが織り混ざり始めた頃、雨が降った。雨具がただのお飾りになってしまいそうなほどの土砂降りの雨に、手持ち無沙汰になった私は二階建てアパートの窓を塞ぐカーテンを開く。

 鈍色の空から降り注ぐ雨は、まるで絹糸で紡いだ薄布のように街並みをぼやけさせる。

 アスファルトの上で弾けた雨音は激しい。窓を突き破り耳に届いたそれは、大地が悲鳴を上げているかのようだった。

 得体の知れない何かが胸に迫ってくるかのような感覚に、ざわりと心臓の毛が逆立つ。

 雨音に、こんなにも嫌なざわつきを覚えたことはない。身体の内側から響く不協和音に、思わず唇を引き結んだ。

 早く止まないかと厚く重い灰白色の空を見据えていると、不意に遠くから獣の遠吠えが響いた。秒針と共に音量を増す遠吠えの正体がサイレンだと知ったのは、斜向かいの家の前で救急車が止まったからだ。

 カーテンを閉じた私は窓に背を向け、重い足取りで寝台に向かう。

 たった五歩が、遠かった。

 寝台に腰掛け手を付くと、枕元に置きっぱなしにしていた文庫本に指先が当たった。乾いた音は、まるで私の心の中のようだ。雨音に包まれた灰色の世界は、私から安らぎを奪っていった。

 その日以降、公園から声が消えた。

 ひとりになった私の記憶から、老婆の柔らかな声も、老爺の暖かな掌も、そしてその瞳も、全てが薄れていく。けれど、声だけは鮮明に残った。

 あの穏やかなひと時を、老爺は覚えているだろうか。訊ねてみたかったが、勇気が出なかった。老爺の瞳に映る翳りに触れるのが怖くて、だから私は老爺を避けるようになった。

 平屋の前に立つ人影に気づかないふりをして、俯いて、通り過ぎる。老爺からも、声は掛からない。

 そうして私の足は次第に公園から遠ざかっていき、あの穏やかなひと時は帷を下ろした。



 街中が色鮮やかに着飾り始めた冬の日、家の近所に野良猫が住み着いた。雪に降られたかのように真っ白な猫の身体はまだ小さい。けれど、世界の厳しさを既に知っているかのようで、私が近づくと毛を逆立て威嚇をする。しかし、逃げようとはしなかった。多分猫は、温もりに飢えていた。

 踵を返し、駅前のコンビニで猫用ささみを買い猫の前に置いてやると、毒でも入ってはいやしないかと鼻先を近づけくんくんと匂いを嗅ぐ。私は息を呑んで、猫の動向を見守った。

 よっぽどお腹が空いていたのだろう。しばらくして恐る恐る舌を出しささみを舐め始めた猫は、その内被りつくように咀嚼を始めた。

 私は心の中で歓喜の声を上げながら、みるみる間に小さくなっていくささみを眺めた。

 猫はささみを食べ終えると、口周りを舐めてそっぽを向き何処かへ消えてしまう。私が手を伸ばしても空を切り、後を追いかけようとした頃には豆粒ほどの大きさになり街中に紛れてしまった。

 私はささみが入っていたプラスチックの空袋を手に、ひとり自宅へと戻る。部屋は暗く、いつもより冷え切っていた。寝台に横になり瞼を下ろすと、白が脳裡を過ぎる。私はそれを振り払うように、寝返りを打った。

 猫は気まぐれだ。もう、現れないかもしれない。

 考え始めるとキリがなく、その日はなかなか寝付けなかった。朝陽が照る中、寝不足のまま平家の前を通り、駅へと向かう。眠りについたように平家は静まり返っていて、胸の軋む音がいやに大きく響いた。

 鬱々とした気持ちで仕事をこなした私は、帰途につく。そして、アパートの鉄階段を上ろうとすると、声が聞こえた。

 みゃあ。

 平家の前を見ると、小首を傾げた猫が前脚を揃えて私を見ていた。私の心情など知る由もない猫は呑気に欠伸をし、再び鳴く。

 目の奥が熱くなり、胸が詰まるようだった。

 私は腕で目元を拭い、急ぎ足で駅前のコンビニに向かった。

 肩で大きく息を切らし手に入れたささみを、猫は音を立てながらあっという間に平らげた。

 ささみを食べ終えた猫は私に向かってひと鳴きすると、再び姿を消す。しかしもう、胸は軋まなかった。

 それから猫は、頻繁に私の前に現れるようになった。

 猫にも好みがあるようで、味によって食い付きが違った。

 鰹味は嫌い。まぐろ味はまあ好き。ささみ味が大好物。しばらくすると頭を撫でれるようになり、猫との逢瀬は私の疲弊した心の癒しとなっていった。



 冬のある朝、雨が降った。

 絹糸で紡がれた薄布のように街並みをぼやけさせるそれに、私は猫が心配になって傘を手に自宅を後にした。アスファルトの上で弾けた雨が足元を濡らし、遠くから獣の遠吠えのようなサイレンが響く。鼓動が早鐘を打ち、焦燥感に襲われた。

 名前を呼べば、私が探していることは猫の耳にすぐに届いただろう。しかし、呼ぶ名はない。飼うことも出来ないのに名前を付けるのはどうかと猫を『猫』とすら呼ばなかったことを酷く後悔しつつ、私は街中を彷徨い続けた。

 身体が冷え切った頃、私は公園の存在をやっと思い出した。無意識の内に、避けていたのだろう。しばし逡巡したが、私は久方ぶりに公園に足を向けた。雨水を吸ったスラックスのせいで、一歩が酷く重かった。

 結論から言うと、猫はいた。そして、もう一人。

 桜の木の下にしゃがみ込んで傘の柄を肩にかけた老爺。その前で、前脚を揃えて座る猫。

 老爺が、猫に手を伸ばす。

「おいで」

 その声は、以前よりも張りがない。少し嗄れたそれは、太陽を失った空と同じように鈍色の空気を纏っていた。胸の奥に棘が刺さり、ちくりと痛む。私は公園の入り口に立ち尽くして、一人と一匹を眺めた。

 ふと猫がこちらを向いて、みゃあと鳴いた。それに釣られるようにこっちを向いた老爺と目が合う。

 目尻や口元に刻まれた皺。コーヒー豆と似た、焦茶色の瞳。

 私と老爺は何も言わず、しばし互いの瞳を見ていた。しかし、空気を破るように猫が再びみゃあと鳴くと、老爺は目元を和らげて、口元に弧を描いた。

「……君を呼んでいるようだな」

 声を掛けられて、私は軽く息を吸って吐息を漏らす。いつの間にか息を詰めていたようで、肺の中で広がった酸素が身体中に染みた。肩の力を抜いて、私も老爺と同じように表情を緩める。

「どうやら、そのようですね。……そちらにお邪魔しても?」

「ああ」

 なるべく音を立てぬよう近づいてしゃがみ込む。少し濡れてはいるが五体満足な猫は、呑気に欠伸をし片足を上げて耳裏を掻く。ほっと胸を撫で下ろしていると、老爺が猫の頭を慈しむように優しく撫でた。

 暖かなその掌に、胸の奥に刺さった棘がゆっくりと溶けていくのが分かった。

 梢を伝い滑り落ちた雨粒が傘にあたり、弾ける。あんなにも痛かった雨音が今は優しく耳に届く。老爺と私は柔らかくなっていく雨音のように、ぽつぽつと言葉を交わした。時折そこに猫が混じり、その度に、私と老爺は顔を見合わせて笑みを溢した。

 その日を境に、近所に住み着いた野良猫は老爺の家族となり、猫は『ユキ』となった。

「おはようございます」

「ああ、おはよう。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 老爺の口元に笑みが浮かぶ。その声には張りが戻り、嗄声はどこかへ消えた。

 リュックを背負った私は駅前で仕入れたコーヒーを手に公園に向かい、ベンチに腰掛ける。

 隣からはもう、声は聞こえない。それはやはり寂しいけれど、目を瞑ると鮮明に想い出せる。

「綺麗だわねえ」

 ゆっくりと紡がれる老婆の嗄声が。

「そうだなあ」

 老婆の声を優しく受け止める、老爺の暖かな声が。


 穏やかなひと時の、あの光景が。


 そろそろ冬が終わる。

 見上げると、膨らんだ蕾が桜の木に寄り添っていた。微かに赤く色をつけるそれは、やがて花開くだろう。

 俯き開いた本を見ると、空から降り注いだ光が手を振るように揺らいでいた。

 私はついと口元を緩め、想い出と共に再び頁を捲った。

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