第4話 琴葉の恩返し―七月十五日
琴葉が駅を出ると、夕方にもかかわらず、ぎらついた光が濃い影を作っていた。
いつもは誰かしら並んでいる駅前のバス停に人はいなかった。視界をふさぐバスもなく、ロータリーは見通し良く閑散としていた。ストライキは朝だけではなく、今日中続くようだ。
琴葉は、ストライキについて調べたのだが、労働争議の一つだということだった。外国では多いが、日本でストライキが起きるなんて珍しいことらしい。
風が吹きぬけて、少しだけ涼しさを感じた。
誰もいないバス停に近づいていく人がいた。その男性はバス停に貼られた紙を読むと、しばらく固まってからタクシー乗り場に歩き出す。
背が高く、案山子みたいにぴんと張った肩をしている。半田先生だ。
タクシー乗り場にはいつもはタクシーが待機しているが、今日は出払っていて、いなかった。
先生はがらんとしたタクシー乗り場にぼんやりと立っている。
ありがとうストライキ、ありがとう労働争議。琴葉は胸の中でとなえて駆け出す。
おかげで先生にまた会えた。
「半田先生!」
琴葉を見て、先生は細い目を少し開けた。
「おや、田中さん」
名前を憶えていてくれたと嬉しくなる。
「偶然ですね」
「先生、私、今朝も先生を見たんです!」
「そうですか。気づかなかったなあ」
「あの、自転車の二人乗りはしちゃいけないんですよ!」
琴葉の予想通り、先生はそのことを知らなかった。
「知らなかった。恥ずかしい。ありがとう。おれは本当に駄目だなあ」
先生は気恥ずかしそうに、薄くなってきている頭をさわる。
「田中さんはどうですか。高校は?」
「楽しいです。この前、大学の先生が来て数学の特別授業をしてくれたんです。すごく面白かった。学校の子も興味のあることが近くて、話が合います」
「それはよかった」
先生はうれしそうに笑う。
先生が両親を説得してくれたから。
理系コースのある高校に行きたいという琴葉に、女の子だから特別なことはいらない、しかも理系なんてもってのほかだと言う親を。兄たちは、本人が希望すれば理系でも何でも行かせてあげていたのに。
三者面談で先生はきっぱりと言った。
「琴葉さんには数学や物理方面の才能があります。理系分野に力を入れているこの高校に行くことは、とても良い選択だと思います」
自分以外の誰かがそんなことを言ってくれるなんて思わなかった。あきらめるしかないのかと、机の下で爪が食いこむほど強く手を握っていた琴葉は驚いて顔を上げた。
先生の肩はまっすぐに、何かを守るように張っていた。
今、とても楽しいのは先生のおかげです。
そう伝えたかったけれど、突然にそんなことを言ったら変かもしれない。
「あの、先生」
「うん」
「イヤホンで音楽聴きながら自転車で走ってもいけないんですって」
「はい」
「ヘルメットもしてください。事故に遭った時、助かる確率が全然違うそうです」
「分かりました」
まごついたあげくに、今朝ネットで見た自転車に関する情報を言ってしまう。何だか訳が分からない。こんなことが言いたいんじゃないのに。失敗したと思ったが、先生はなぜか泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう、田中さん」
タクシーが止まり、ドアが開いた。
「それじゃあ、お元気で」
背の高い先生は腰をかがめて窮屈そうにタクシーに乗る。
「じゃあ……」
消え入るような声しか出なかった。タクシーのドアがゆっくりと閉まる。
もっと上手に、大人みたいに、何か言えたら良かった。くやしい。
きっと自分は先生に恩を返したいのだ。
――何もできないのかもしれないけれど。でも私は忘れない、絶対。
琴葉は大きく手を振った。
走り出したタクシーからは多分、見えていなかった。
*
半田と同じアパートに、前山という七十台の女性が住んでいる。
彼女がアパートの庭で小さなたぬきを見たという。
「子だぬきっていうの? 絶対、たぬきだったと思うのよ。半田さんは見てない?」
「……見ませんね。大きな猫だったのでは」
半田は気まずそうに目をそらした。アパートの門灯が明るく光っている。
「そうだったのかな。ところで、畑で野菜がとれすぎちゃって。何か作るから食べに来ない? 時々遊びに来ている、半田さんのお友だちのあのご家族も一緒にどう?」
「本当ですか。喜びます、きっと」
「あのごろうくんって子、かわいいわよねえ。元気いっぱいで」
前山さんは目を細める。
「そういえば、前にバスの運転手がストライキをやったじゃない。あれ結局どうなったのかしら」
「会社が交渉に応じて、労働条件を改善して給与も上げるそうですよ」
「なら良かったわねえ。やったかいもあるってもんだわ」
前山さんは自分もそのストライキに参加したかのように威勢よく言い、半田も「そうですね」と笑った。
<了>
39番系統の風 糸森 なお @itonao
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