第3話 たぬきと半田―七月十五日

 朝のバス停に誰も人がいないのは奇妙だったのだが、半田はそれに気づかなかった。


 いつもは車で勤務先の中学校に通っているが、今日は研修のため、電車に乗らなくてはいけなかった。半田の家は駅から離れていたので、バスで駅まで行く予定だった。

 バスには何度か乗ったことがあった。駅に向かうのは39番系統。それに乗ればいいはずだ。

 半田はバス停の先頭に立つ。朝から気温が高く、くらくらとするような暑さだ。標識板が作る細い影に体を入れてみたが、全く涼しくない。

 しばらくそのまま、ぼうっとしていた。

 バスが来るはずの時刻を五分過ぎた。時間を確認しようとしてようやく、標識板に何か紙が貼ってあることに気がついた。


『運休のお知らせ』


 今日はストライキでバスが走らないという案内だった。

 そういえばそんなことをどこかで聞いた気がするが、まさか今日だとは思っていなかった。

 どうしたものか。車で駅まで向かってもいいが、駐車できる場所があるだろうか。

 駅まではバスでも三十分くらいかかる。タクシーがつかまればいいが、難しそうな気がする。


 肩をすくめて歩き出した半田を、灼けるような陽射しが追いかけてくる。汗が額から頬に伝った。


「もし。半田先生ですか」


 古風な呼び止められ方をした。

 振り向くと、男女の二人組がすぐ後ろに立っていた。

 男の方は若く、日焼けしていて屈強な体つきをしている。見栄えのよい男前だ。隣の女性は三十代くらいで、半田を意思の強そうな目でしっかりと見据えている。


「はあ、そうですが」


「このたびは、うちのたぬごろうが大変、ご迷惑をおかけしました。お詫びに参りました」


 女性が張りのある声で言い、男性とともに深く頭を下げる。


「たぬごろうくん。私の知る限り、そういう生徒はいませんが。人間違いでは」


「いえいえ。大雨の日に先生に取り憑いた子だぬきは私の子なんです。本当に申し訳ありませんでした」


 半田は口をぽかんと開けた。クラスの中野と松下の話を思い出す。気をつかって突飛な嘘をついてくれているのだと思い、中学生にそこまでさせた自分を反省していた。

 しかし、この人たちは何なのか。


「子だぬきの親というと」


「もちろん、私もたぬきです。なんて、見なきゃ信じられませんね。お待ちくださいね。よっと!」


 威勢のいい掛け声とともにくるりと宙返りする。祭りの踊りを見るようだった。灰色に近い色のたぬきが地面に着地する。となりの男性がいたところには、顔の大きなたぬきがいた。

 固まる半田の前で、二匹の輪郭がぼやけ、人間の姿にもどった。母だぬきが快活な口調で言う。


「町内の当番たぬきから連絡が来まして、何でも先生が自分のせいだと、大変思いつめておいでとか。うちの子が全部悪いんですよ。先生は何も気になさらないでください」


「たぬごろうはやんちゃで手に負えないんです。すみません、本当に」


 となりで男が苦笑いしている。


「えーっと、あなたがお父さん?」


「いや、おれはたぬごろうの叔父です。姉ちゃんの旦那は疥癬かいせんが元で死んじゃって」


「たぬごろうは、私も悪いことをするたびに叱ってはいるんですけど、効果が無いんです。いい加減にしろって言ってるのに、またすぐに同じことをする。お前は耳が無いのかっ、って言いたくなる。困っちゃいますよ」


 明朗に笑ってはいるが、目の下に隈があり少し疲れが見える。


「具体的には、どんな感じなんでしょう」


 気になってつい聞いてしまう。


「先生、聞いてくれます?」


 せき止めていた水が溢れるように、母だぬきがたぬごろうについての悩みを滔々と話しだした。三人のそばを車や自転車が通り過ぎていく。


「なるほど。たぬごろうくんを見てないから、断言はできませんが、お母さんの感じからすると、大きな問題はないんじゃないかなあ。きっと段々、落ち着くと思いますよ」


 母だぬきは歯に衣着せないが、明るくて裏表のない印象だ。たぬごろうにも愛情をかけつつ、多くは求めていない。大抵の場合、こういう親だとあまり心配はない。


「でも最近、たぬきの事故は多いと聞きますから、車の危険をしっかり注意した方がいいかと思います。活発な子は時として、こちらの思いもよらない行動をしますから」


 母だぬきの表情が明るくなる。


「ありがとうございます。ずっと悩んでいたので話を聴いてもらえて、何だかほっとしました」


「先生、今日は学校には行かないんですか?」


 弟だぬきがたずねる。はっとして腕時計を見ると、かなり時間が経っていた。


「まずい、急がなくちゃ。今日は研修で駅に行かなくちゃいけないのに、バスがストライキで休みみたいで」


「そうだったんですか? 私がくだらない話でひきとめちゃったから」


「だったらおれが駅まで送りますよ。姉ちゃんが自転車に化ければいい」


「いや、そんな」


「せめて何かさせてください。なあ、姉ちゃん」


「もちろん、先生のためならそれくらい」


 母だぬきはうなずくと、次の瞬間には古びたこげ茶のママチャリが道に出現した。弟だぬきがサドルにまたがり、大声で半田を呼ぶ。


「先生はやく、乗ってください!」


「それはさすがに」


「いいから!」

 

 弟だぬきに無理矢理に自転車の荷台にまたがらされる。


「行きますね! しっかりつかまって」


 走り出した自転車はものすごいスピードだった。弟だぬきの漕ぐ力に加えて、多分、自転車自体も走っている。

 半田は荷台に必死につかまった。風が耳元で鳴っている。

 弟だぬきはとても楽しそうだ。


「当番たぬきは、先生の生徒さんからの手紙を読んで、おれたちに連絡をくれたんですよ」


「中野と松下ですか?」


「確かそうかな? 男の子と女の子。手紙、感動しましたよ。先生は好かれているんだなあと思いました」


「あの子たちが良い子なだけですよ」


 中野と松下に心の中で謝る。信じなくてごめん。本当だったんだな。

 自転車は勝手に進み、半田にやることはない。蜻蛉とんぼが水田の上を飛んで行くのを見送る。

 その軌跡をたどるうちに、ある気がかりな男子生徒の顔を思い出す。

 周りに気づかれないように、いつも明るく振る舞っているけれど。時々お弁当を持ってきていない。忘れただけと嘘ぶく彼を傷つけずに、とうにか助けてあげられる方法はないだろうか。自分の手など払いのけられてしまうのかもしれないけれど。


「先生は家族はいないんですかあ」


 弟だぬきが風の音に負けないようにか、大声で聞いてきた。気泡を吐きながら水の底に沈むようだった思考の流れが中断する。


「一人暮らしです。両親は他県にいます。私はもてなくて」


「そうですかあ? 人間は見る目がないなあ」


「気楽で楽しいですよ」


 嘘ではない。自分は仕事のことばかり考えてしまうから、所帯を持っても家族をうまく幸せにできたか分からないとも思う。

 それにそもそも、恋愛というものに興味があまり無かった。そんな自分はおかしいのかもしれないと思いながら、気づけば歳をとっていた。


「今度、お家に行ってもいいですか? たぬごろうが山から帰ってきたら、きっちりと詫びを入れに行かせたいんです」


「別にいいのに」


 半田は薄く微笑む。通りすぎる風景が、早回しの映画みたいだ。青い空が抜けるようにまぶしい。

 風貌は冴えないし、人見知りの性格はいつまでもなおらない。せめて自分にできることはしようと心がけてはいるが、そもそも能力が低い。

 もっと明るくて指導力のある教師になれたら良かった。

 新しいクラスになって、がっかりしたような顔の生徒たちを見るたびに、自分が担任で申し訳ないと思う。

 でも子どもたちは優しくて。

 「ありがとう」と言ってくれる子にはいつも、お礼を言いたいのは自分だと思う。親からの温かい言葉も。その一言でまたどうにか生きていける。無益な雑務や理不尽なクレームで削り取られた穴に、優しく土をかけてくれる。


 下り坂を自転車が勢いよく疾走していく。段差でタイヤが宙に浮き、横向きに倒れた。


「わっわわっ」


 思わず声が出て身構えた。しかし斜めになった自転車は、地面につく前にぴたりと止まると、元気よく跳ね起きて垂直にもどった。


「すみませーん。大丈夫でしたか?」


「あ、はい」


「安全運転、気をつけます」


 弟だぬきのおおらかな笑い声が響き、自転車は爽快な風のように坂を下っていく。

 半田も何だかおかしくなってきて、笑ってしまった。

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