同人の矜持

諏訪野 滋

同人の矜持

 その売り子の女性は、所在なげに他サークルのブースを眺めていた。

 コミケの初日はあいにくの大雨だというのに、あちらこちらの人だかりからは楽し気な嬌声きょうせいが聞こえてくる。年に一度のお祭りなのだから踊らなければ損とばかりに、誰もが自分の好みの本を探し当てようと血眼になって徘徊していた。そんな中で彼女のテーブルの前だけは、ぽっかりと人の流れが途絶えていて、かえって妙に目立ってしまう始末だ。売り子は小さく肩をすくめると、もうこれで何度目になるだろう、目の前に積んだ自サークルの新刊本をきれいに並べ直した。


 ふと顔を上げた彼女は、自分の方へと真っすぐに歩いてくる一人の男に目を留めた。もしや、と身体を固くした売り子の前で、果たしてその男は足を止めると、固唾かたずをのんでいる彼女を黙って見下ろす。テンガロンハットを深くかぶった、彫りの深い男だった。帽子の陰からのぞく鷹のような眼光は、その男が場慣れした歴戦の猛者もさであることを物語っている。ほう、と小さな声を漏らした男は、低い、しかし喧騒の中でもよく通る声で言った。


「サークル『白百合女学園』のブースは、ここで間違いないか?」


「あ、はい。いらっしゃいませ」


 男はテンガロンハットのつばをわずかに上げると、鋭い視線でテーブルの上を探った。


「おたくの新刊『学内でレズ風俗、始めました!』、二冊もらいたいんだが」


「に、二冊ですか⁉ はい、ありがとうございます! 一冊はどなたかへのプレゼントですか?」


 男は懐から裸の紙幣を取り出しながら、ぼそりとつぶやく。


「いや、保存用だ」


「あ、そうでしたか。じゃあ、ブックカバーもサービスでお付けしときますね。実はこれも、うちのサークルのオリジナルなんですよ」


 てきぱきと同人誌を包み始めた売り子に、男は天気の話でもするような口調で言葉を継いだ。


「どうだい、お嬢さん。このところの景気は」


 売り子は手を動かし続けながら、寂し気に苦笑した。


「はは、時代ですね。七年前にサ終したゲームキャラの、しかも百合本なんですから。ニッチの二乗、どこにニーズがあるんだって感じです」


「……それでも忘れられないんだろう、あんたは?」


「私が覚えててあげなきゃ、彼女たち、寂しがるじゃないですか」


 売り子は顔を上げると、営業用ではないスマイルを返した。


「お兄さんこそ、凄いですね」


「何がだ」


「この本のタイトルを口に出して買う人って、初めてですよ。書いた本人が言うのもなんですけれど、恥ずかしくなかったですか?」


 売り子の言葉に、男はさも意外だというようにわずかに首をかしげた。


「いや。何ならもう一度注文できるが」


「あはは。もしかして、罰ゲームかなんかで買わされているんですか? どこかでお友達が見ていて、後でネットにアップされるとか」


 男はむっつりと言った。


「俺はこの本のことを、SNSで偶然に知った。あんたの性癖が俺に刺さったから、俺はここに来た。ただそれだけだ」


 売り子は自分を恥じた。卑屈になる必要などなかったのに、売れない弱小サークルであるという焦りから、自らの誇りをおとしめめるような言葉を放ってしまった。それはなにより、自分の本をわざわざ求めてきた目の前の男に対する背信行為ではないか。


「……ごめんなさい。私、失礼なこと言いましたね」


 陽炎が立ち上り混沌が渦を巻いている会場を見渡しながら、男は静かにつぶやいた。


「コミケという場所にはルールはあっても、あんたを縛る常識や羞恥とは無縁だ。あんたもそいつを知っているからこそ、ここでこうして自分の本を売っているんだろう?」


 売り子は、ぴくり、と手を止めた。


「そう、ですね。お兄さんの前にいる私が、本当の私かもしれません」


「勘違いするな、俺はあんた自身などに興味はない。俺が興味があるのは、この本の中であんた自身が情熱を注いで思い描いた、なぎさ優希ゆうきという俺の推しキャラ二人が関係を深めていくその過程と結果。それさえ得られれば、俺はもうここには用はない」


 売り子は雷に打たれたように顔を上げると、勢いよく立ち上がった。彼女の顔には、もはや迷いなど微塵もなかった。


「そうでした。もちろん、私もそのつもりです。この本の中身が、私の全てですから」


 売り子は紙の包みを男に手渡すと、深く頭を下げた。


「お買い上げ、ありがとうございました」


 男はふっと笑うと、ホールの出口へときびすを返しかけた。


「待ってください」


 男は足を止めると、わずかに振り向いた。


「あの。来年、渚と優希の新しい百合本を作ったら、またここで会えますか?」


 男はテンガロンハットを深くかぶりなおしたが、ひさしの下の彼の口元が笑みをたたえているのを、売り子は見逃さなかった。


「俺。その二人の元ネタって、知らねえんだよな」


 男の言葉に、売り子は目を見張った。


「え。彼女たちのこと知らないままで、私の本を買ったんですか? ゲームのキャラクター目当てではなくて? お兄さんさっき、渚と優希が推しキャラだって」


 男は今度こそ売り子に背を向けると、後ろ手に片手を挙げた。


「きっと来るさ。キャラが何だろうと、あんたの百合本目当てにな。ブースの抽選が来年も当たること、祈ってるぜ」


 そう言い残して、男の姿は今度こそ雑踏の中に消えた。


 売り子はしばし呆然としていたが、やがて頬を上気させると独りうなずいた。


「よし、頑張らなくっちゃ!」

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