同人の矜持
諏訪野 滋
同人の矜持
その売り子の女性は、所在なげに他サークルのブースを眺めていた。
コミケの初日はあいにくの大雨だというのに、あちらこちらの人だかりからは楽し気な
ふと顔を上げた彼女は、自分の方へと真っすぐに歩いてくる一人の男に目を留めた。もしや、と身体を固くした売り子の前で、果たしてその男は足を止めると、
「サークル『白百合女学園』のブースは、ここで間違いないか?」
「あ、はい。いらっしゃいませ」
男はテンガロンハットのつばをわずかに上げると、鋭い視線でテーブルの上を探った。
「おたくの新刊『学内でレズ風俗、始めました!』、二冊もらいたいんだが」
「に、二冊ですか⁉ はい、ありがとうございます! 一冊はどなたかへのプレゼントですか?」
男は懐から裸の紙幣を取り出しながら、ぼそりとつぶやく。
「いや、保存用だ」
「あ、そうでしたか。じゃあ、ブックカバーもサービスでお付けしときますね。実はこれも、うちのサークルのオリジナルなんですよ」
てきぱきと同人誌を包み始めた売り子に、男は天気の話でもするような口調で言葉を継いだ。
「どうだい、お嬢さん。このところの景気は」
売り子は手を動かし続けながら、寂し気に苦笑した。
「はは、時代ですね。七年前にサ終したゲームキャラの、しかも百合本なんですから。ニッチの二乗、どこにニーズがあるんだって感じです」
「……それでも忘れられないんだろう、あんたは?」
「私が覚えててあげなきゃ、彼女たち、寂しがるじゃないですか」
売り子は顔を上げると、営業用ではないスマイルを返した。
「お兄さんこそ、凄いですね」
「何がだ」
「この本のタイトルを口に出して買う人って、初めてですよ。書いた本人が言うのもなんですけれど、恥ずかしくなかったですか?」
売り子の言葉に、男はさも意外だというようにわずかに首を
「いや。何ならもう一度注文できるが」
「あはは。もしかして、罰ゲームかなんかで買わされているんですか? どこかでお友達が見ていて、後でネットにアップされるとか」
男はむっつりと言った。
「俺はこの本のことを、SNSで偶然に知った。あんたの性癖が俺に刺さったから、俺はここに来た。ただそれだけだ」
売り子は自分を恥じた。卑屈になる必要などなかったのに、売れない弱小サークルであるという焦りから、自らの誇りを
「……ごめんなさい。私、失礼なこと言いましたね」
陽炎が立ち上り混沌が渦を巻いている会場を見渡しながら、男は静かにつぶやいた。
「コミケという場所にはルールはあっても、あんたを縛る常識や羞恥とは無縁だ。あんたもそいつを知っているからこそ、ここでこうして自分の本を売っているんだろう?」
売り子は、ぴくり、と手を止めた。
「そう、ですね。お兄さんの前にいる私が、本当の私かもしれません」
「勘違いするな、俺はあんた自身などに興味はない。俺が興味があるのは、この本の中であんた自身が情熱を注いで思い描いた、
売り子は雷に打たれたように顔を上げると、勢いよく立ち上がった。彼女の顔には、もはや迷いなど微塵もなかった。
「そうでした。もちろん、私もそのつもりです。この本の中身が、私の全てですから」
売り子は紙の包みを男に手渡すと、深く頭を下げた。
「お買い上げ、ありがとうございました」
男はふっと笑うと、ホールの出口へときびすを返しかけた。
「待ってください」
男は足を止めると、わずかに振り向いた。
「あの。来年、渚と優希の新しい百合本を作ったら、またここで会えますか?」
男はテンガロンハットを深くかぶりなおしたが、ひさしの下の彼の口元が笑みをたたえているのを、売り子は見逃さなかった。
「俺。その二人の元ネタって、知らねえんだよな」
男の言葉に、売り子は目を見張った。
「え。彼女たちのこと知らないままで、私の本を買ったんですか? ゲームのキャラクター目当てではなくて? お兄さんさっき、渚と優希が推しキャラだって」
男は今度こそ売り子に背を向けると、後ろ手に片手を挙げた。
「きっと来るさ。キャラが何だろうと、あんたの百合本目当てにな。ブースの抽選が来年も当たること、祈ってるぜ」
そう言い残して、男の姿は今度こそ雑踏の中に消えた。
売り子はしばし呆然としていたが、やがて頬を上気させると独りうなずいた。
「よし、頑張らなくっちゃ!」
同人の矜持 諏訪野 滋 @suwano_s
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