約八千円の研究書
紫鳥コウ
約八千円の研究書
ブースに戻り「本人離席中」のポップを下げる。
遙花さんが座ってくれていたおかげに違いない。こんなに可愛い子も書いている、という想像だけで、
挨拶回りの流れで購入した知り合いの新刊を詰めた
正直、買いたくないものを買わされていると感じることはある。僕はそこまで財力があるわけではないのだから、貴重なお金は大切にしたい。
足繁く通っている書店で知り合った、遙花さんに頼み込んで、売り子をしてもらっている。「不在時に来て下さる方がいるかもしれないので!」というのは名目で、本音は、どういう形でもいいからデートをしたかったのだ。
下宿先の近くにある〈トロッコ書店〉の店員さんである遙花さんに
「わたしもお買い物に行ってくるね」
売り子という形であれ、この文芸系の同人誌即売会に行くのを、楽しみにしていた遙花さんが、不在にしているあいだは、本は一冊も売れることはなかった。
僕たちは撤収をすると、その足で焼肉屋さんに行った。まず、
「あっ、ごはんとキムチを頼むのを忘れてましたね」
「そうだった。注文したものを運んできてくれたときに、追加で頼もうか」
遙花さんは、ぼくをリードして物事を進めてくれる。それが、年下の男のひとと付き合い慣れているから、という理由であってほしくない。
「これ、もう良い感じに焼けてるよ」
「あっ、じゃあ遙花さんが……」
「ううん。
こころのなかで、こんなことを思ってしまう。
(あーんってしてほしいなあ)
しかしそんなことを言い出すわけにはいかない。
お言葉に甘えて、見事に焼けているお肉を食べる。のみこむ前に、店員さんがキムチを運んできてくれた。
「ありがとうございます」
ぼくも黙礼をする。こうして、感謝の言葉を述べられるひとは、素敵に思える。そして、すべての仕草が、僕を魅了してやまない。
「おいしいね」
その
大学院に在籍していても「研究生」という立場は、悪い意味で特殊だ。
制度で決まっているわけではないのに、研究報告会で発表をさせないという暗黙の了解がある。この立場を小馬鹿にしてくる先生もいる。「博士課程に進めなかった落ちこぼれ」と
僕が「研究生」という立場を選んだのは、研究だけに集中しなくてよく、ある程度は自由な時間が確保されているという理由からだ。
修士課程のときに研究をしていたことを、実践したくなったのだ。どうしたら、異なる「立ち位置」のひとたちを「繋ぐ」ことができるのか。それが、僕が考え続けていたことだった。
もしかしたら、創作物を
研究をしながら執筆もする。そういうことができるのは、「研究生」という立場しかなかった。
そして、イベントでの売り上げを研究のために使うのは自然なことだ。図書館に必要な本を買ってもらうことのできない「研究生」ゆえに、所蔵されていない高い研究書は、自分でなんとかして調達しなければならない。
一万円札を握りしめて、遙花さんが働いている本屋さんへ自転車を走らせていく。
万札を手にできるほどの売り上げを計上できたのは、遙花さんのおかげでもある。だから、本を買うのは、遙花さんの働くお店しかない。
しかし、遙花さんの姿はそこにはなかった。もちろん、休みの日があるのは不思議ではない。そのことを、僕に断る理由もない。仕方なく、目当ての研究書を買い求めて、物足りない気持ちを抱えたまま、下宿へと戻っていった。
だけどそれ以降、遙花さんを見ることはなくなった。連絡もつかなくなった。なにか事情があるのかもしれないけれど、僕になにかしらの罪があるのではないかと気にしてしまうのも、不自然なことではなかった。
もう一年「研究生」を続けたあと、地元のセレモニーホールに就職をした。実家在住になったのは、祖父母の介護もしなければならなかったからだ。
しかしもう、どちらも
いまもなお、時間を見つけては執筆活動を続けている。時間的、地理的な理由もあり回数は少ないながらも、イベントにサークル参加することもあった。相変わらず売り上げは伸び悩んでおり、SNSで検索をしても僕の本の感想はひとつもヒットしなかった。
それでも、小説を書くことを止めなかったし、本を作ることは続けていった。
今秋も、純文学の短篇小説を三作収録した『爛熟』という新刊を、二十冊だけ作った。二百
周りのブースには、ちらほらとひとの姿が見えていて、楽しそうな話し声も聞こえてくる。本も順調に売れているらしい。
四時間もかけてここまで来たのだから、数冊は売れてくれないと、ひしゃげるほど落ちこんでしまう。だけど、閉幕まで残り三十分を切っても、一冊も売れることはなかった。首都開催で、ブースの数が多いゆえに、僕の存在は、すっかり
「ひさしぶり」
もう周りの賑やかな光景を目にしたくなくて、
「これを一冊くださいな」
八百円という決して安くない新刊を手に取ってくれた彼女は、ばいばいと手を振って、行ってしまった。ちゃんと会話をすることはできなかった。まだまだ回るところがあるのだろう。
彼女に新刊を手に取ってもらえたことに、嬉しさを感じることができなかった。
〈了〉
約八千円の研究書 紫鳥コウ @Smilitary
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