標準人体手引書ができるまで

月這山中

~魔物ハンター・ヨハンの一生~



「チクショウ! フラれた!」


 時計屋のヨハンは叫んだ。

 思いを寄せていた女が他の男と逢引きしている現場を目撃してしまい、そこから逃げて来ている最中だった。


「なんてことだ……あんな男を選ぶなんて……あんなセンスがないやつに負けるなんて!」


 自室に引きこもると机に突っ伏し、ヨハンは散々泣いた。


 ヨハンは彼女に多くの贈り物をしていた。


 宝石を散りばめた髪飾り、リボンをかけた子猫、英雄の歯型が付いたコイン、手作りの指輪、等等……


 彼女に贈り物を続けていたのはヨハンだけではなかったのだが、ヨハンは自分こそが世界一女に尽くしていると信じて疑わなかった。

 ヨハンの愛情が憎悪に反転する。


「なにか仕返ししてやれないものか……待てよ。あの女『生まれた時から歯が一本多い』とか話していたな」


 ヨハンは机に向かって、紙に人体を描いた。

 男と女。絵だけは子供の頃から得意だった。

 それから父のタイプライターを引っ張り出し人体について事細かに書き連ねる。


 一冊の本が完成した。ヨハンはその表紙に『魔物の見分け方』と銘打った。


「できた!」


 ヨハンは『魔物の見分け方』を手に、路地裏の酒場へと向かった。

 そこでは男たちが酒を飲みながら泣き叫んでいる。


「ちくしょう!ちくしょう!」

「センスがないよ。センスが」

「でもかわいい……!」


 あの女に惚れていた男はヨハンだけではなかった。この村の独身の男たちほとんどが彼女に思いを寄せていた。


「おい、お前ら……お前ら! 聴け!」


 ヨハンは男たちを集めて本を開く。


「これを見ろ! 人間の身体というのは、皆こうなっている」

「だからどうした?」

「あの女は人間じゃないということだ」


 男たちは顔を見合わせる。


 逆恨みをしていた男はヨハンだけではなかった。





 ヨハンは男たちを引き連れて結婚式に乗り込んだ。


「あの女は魔物だ! あの女は魔物だ!」

「な、なんだ君たちは」

「その女は魔物だ! それを庇うお前も魔物だろう!」

「違う! 何をする、やめろ!」


 女は夫ともども火あぶりになった。

 ヨハンは復讐を成し遂げた。


「ああ、気分がいい」


 火を見つめるヨハンの頭が叩かれた。


「ヨハン! タイプライターを使っただろ!」


 ヨハンの父だった。


「タダ飯食いが勝手なことをするな!」


 ヨハンは父に引きずられて家に帰った。





「こんにちは。テクタ出版の者です」


 出版社がヨハンを訪ねた。


「ヨハンさんが書かれた『魔物の見分け方』、この絵、この文才。素晴らしい」

「要件を言え」

「ぜひとも我らに売らせていただきたい。マージンは二割で」

「四割だ」

「三割で」

「いいだろう」

「名前もかっこよくしましょう、『標準人体手引書』などいかがでしょう」

「センスがいいな」


 ヨハンは契約を結んだ。





「この絵がいいよね。額に入れて飾りたい」


「文才があるよね。センスがいいよ」


「魔物は怖いから一冊持っておきたい」


 『標準人体手引書』は飛ぶように売れ、多くの人間が処刑された。





 ヨハンの下にはまとまった金が入るようになった。


「こんにちは。イシス新聞の者です」

「要件を言え」

「連載に興味はありませんか?」


 時計屋をやめ、ヨハンは執筆に明け暮れた。


 連載タイトルは『魔物ハンター・ヨハンのお悩み相談室』

 魔物の脅威について、解剖学的な人体について、主婦でも手軽にできる魔物の見分け方について、ヨハンは毎日書き続けた。


「ああ、忙しい」


 家のドアがノックされる。


「開けなさい」

「要件を言え!」

「教会の者です」


 教会の関係者だった。

 ヨハンはドアを開けると、膝をついて謝罪した。


「すみませんでした」

「かまいません。あなたの『標準人体手引書』についてですが」

「な、なにか問題でも」

「我らの書庫に収蔵したいと思うのです。一冊いただけますか?」

「……!」


 ヨハンは諸手を挙げて喜んだ。


「代金は支払いますので」

「いえ、いえ! 教会から頂くなどできません、持っていってください!」

「ありがとうございます」


 教会の関係者が去った後、ヨハンはスキップで家の周りを五周した。


「ああ、今日は良い日だ」


 ヨハンの母が窓から顔を出した。


「ヨハン! 変なことしてないで飯食っちまいな!」

「今行くよクソババア!」

「生意気言うんじゃないよ!」


 ヨハンは鍋蓋で頭を殴られながら家に入った。





「指が一本多い! この子は魔物だ!」


「瞳の色が違う! この子は魔物だ!」


「胸が大きすぎる! 魔物だ!」


「毛が薄すぎる! 魔物だ!」


 『標準人体手引書』は飛ぶように売れ、さらに多くの人間が処刑された。





「ああ、忙しい……」


 ヨハンはすっかり老いていた。

 新聞の連載は今も続けていたし、『標準人体手引書』は重版を重ねて、この世に手にしたことのない者はいないほどになっていた。


 ドアがノックされる。


「要件を言え」

「ヨハンさん、あなたに魔物の容疑がかかっています」


 ヨハンがドアを開けると、銀色の鎧に身を包んだ騎士達がなだれ込んできた。


「この六十年間、あなたは執筆を精力的に続け一切衰える様子がない。そんなことができるのは人間ではありません」


 ヨハンはゆっくりと、頭を振る。


「そんなもん理由になるか!!」


 窓から飛び出そうとしたところを取り押さえられた。

 ヨハンの両親は十年前に死んでいた。





 ヨハンは丸太に磔にされた。その足元に焚き木が積まれていく。


「まさか『標準人体手引書』の作者が魔物だったなんてな」

「俺たちを混乱させるために書いたんだろうさ。よく考えれば道理が通る」


 民衆が話し合っている。


「魔物め! 消え去れ!」

「魔物め! 燃え尽きてしまえ!」


 民衆が叫んでいる。


 ヨハンは、彼女の笑顔を思い出す。

 贈り物をするたびに見える、飛び出した右上の糸切歯を。


「ああ、かわいかったな」


 火がつけられた。



  終

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