黒い線香

@ninomaehajime

黒い線香

 線香の臭いがした。

 家の一室で幼子は顔を上げた。仏壇があり、位牌が置かれている。ただし、香炉に線香は焚かれていない。

 畳の上で人形と遊んでいた幼子は立ち上がった。覚束おぼつかない足取りで襖を開けた。その後ろ姿を、横たわった市松人形が見送る。

 縁側から見上げた空は薄雲が張っていた。淡い陽光を受けながら、幼子は長い縁甲板えんこういたを歩く。裸足のためか、足音は鳴らなかった。線香の臭いを追って、鼻をひくつかせる。

 家の中は静かだった。いつもなら母や祖母が立ち働く気配がするのに、鳴りを潜めている。この雰囲気には覚えがあった。父がずっと眠っていたときだ。

 足の裏に冷たい感触を受けながら、短い足で臭いを辿る。ふと耳朶じだに何かを唱える声が触れた。聞き覚えがあった。顔に白い布を被せられた父のすぐ近くで、頭を剃った男の人が手を合わせて朗々と声を上げていた。

 また、誰か眠ったのだろうか。

 年端も行かない子供には、人の死という概念がよく呑みこめていなかった。ただもう二度と会えないことだけは何となくわかった。

 読経と線香の臭いが大きい方へと歩いた。辿り着いたのは、家の中で一番広い座敷だった。襖を開くと、多くの大人たちがいた。線香が焚かれた畳の間に集まり、暗い色をした着物を着て誰もが沈痛な面持ちをしている。

 その中には母と祖母もいた。両手で顔を覆って泣いている。

 幼子は座敷の中をよく覗いた。上座にはやはり頭を剃り上げた人が正座し、数珠が絡んだ手を合わせて意味のわからない言葉を張り上げている。その前には布団が敷かれており、誰かが横たわっている。

 顔には白い布が被せられ、真っ白な衣裳を着ている。自分によく背格好が似ている気がした。

 母が嗚咽おえつを漏らしながら我が子の名を繰り返している。幼子は小首を傾げた。自分はここにいるのに、どうしてそんなに悲しそうな声で呼ぶのだろう。

 そのことを伝えようと、座敷に一歩足を踏み入れた。ふと違和感に気づいて、目線を上げる。薄暗い天井から何かが下りてきている。線香の煙によく似ているけれど、黒い色をした何かだ。座敷にいる大人たちは、誰も気づいていない。

 立ち止まった幼子の眼前で、黒い煙はうねりながら下りてきた。顔に被せられた白い布をくぐり、吸いこまれていく。

 胸に置かれた小さな指が、ほんの一瞬だけ動いた。

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