終わりない世界と終わるべき音楽について
坂本忠恆
その一
人々は自らの労働の結果である生産物を互いに関係づけるために、彼らの行う様々な労働の形態を抽象的人間労働と同等のものとせざるを得ない。彼らはそれと知らずにそれを行う。彼らは物質的なものを価値という抽象に還元することによって、それを成し遂げているのである。
マルクス
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エピグラフの効果は、皆がそれを承知していながら、そのような暗黙知に対する従順な緘黙によって守られている。ここにはひとつの不思議な公平性が存している。善良な人々にとって、私がマルクスの言葉を引用したとしても、即時に私がマルクス主義者であると断ずる理由にはならないだろう。読者は、私がこれから書こうとすることに対して、一つには妥当な期待から、もう一つには妥当な慎重さから、私がエピグラフに掲じた言葉の意味するところを判断しようとする。そのような慧眼には、私がマルクスの言葉を引用したことは、これから私の述べる内容如何では、むしろ私が反マルクス主義者であることのひとつの事跡であると映るかもしれない。
暗黙知の言語化は、詩的に解せば、それは世界に対する裏切りである。友人に対する疑心のようなものでもある。私は今、エピグラフに対する言及によって、ささやかにではあるが、世界を裏切ってみせたわけだ。しかしながら、本当に我々は、かかる倫理的判断に基づいて「緘口するべき」と己を戒めているのであろうか。それこそ、我々はそれと知らずにそれを行っているのではないか。一冊の書物から連続性を絶たれた一節を抜き出す行為の効果は、言葉の本来の意味を超えて、その行為自体に含意された超越的な効果を示すのではないか。このことによる快楽、無欠なる事物からその連続性を断ち切って己がものにするという悦びは、連綿と続く自然界から蝶々を一枚一枚剽窃して飾り棚に閉じ込める喜びの中にも伏在している。何となれば、自然なあるものをそれとは反する形で拐引することはそれ自体独創足り得、そのような独創は我々の感性に芸術するときのそれを模倣させるからだ。
しかし、世界は本当に我々の思うように連綿としているのだろうか。実際のところは、私には分からない。ただ私の目には、世界という場は、人間同士の関係が連綿としているのではなく、そのような関係を夢見る人間たちの断絶が連綿としているだけのように映るのである。
連続性の崩壊への参与。離散的世界解釈への内なる従属。いわゆる名言を引用するときに、我々はそれを実践している。ありのままの世界や自己といった、事実無根の理想を笑殺しているのだ。それこそが超世界的解釈の入り口であり、我々を完全な世界システムに、知らず知らずのうちに、刃向かわせる理由なのだ。
聖書やシェイクスピアの一節を、ナポレオンやレーニンの一節を引用することによって、我々が描き出そうとする世界の景色は、必ずしも不具者の印象を伴わない。それにより不具になるのは、寧ろ剽窃を許した世界の側である。剽窃によって、世界のありのままの姿は突然に失われ、作られた、レディメイドな品物へと変貌する。陳腐化してしまう。演劇の中では、より自然なものがその正当性を挫かれるというのは、世界が我々に剽窃を許した報いなのかもしれない。
私がこれからここに紡ぎだす、私の愛するべき人、
はじめに、私は音楽の鳴りやまない世界を生きたいと願った。そう願う私にとって、音楽の最大の欠点は、それが終わることであった。
世界文学には二人のアンドレがいる。ジッドとマルローである。文学少年だった私は、ジッドが好きではなかった。一方で、マルローは好きだった。このことについて、私はある日、同じ町に住んでいた私より少し年嵩の少女に話したことがある。彼女のことをここでは
私たちはⅩ半島の海沿いの街に住んでいた。大きな港はないものの、ドライブの合間に立ち寄るのに適した海食崖の先に展望台があり、人の往来が盛んだった。
私たちは人目を疎んで、展望台からほど近い岩礁から延びる堤防に腰掛けて、田舎者の無聊を慰めていた。
遠く沖の方、視界の左端からタンカー船がもどかしい速度で這入ってきて、その影がちょうど入日と重なるのは七月の頃合いである。私たちはその瞬間をじっと待ってから、それを合図に、あたりがすっかり暗くなるまで話に耽ることがあった。
「ジッドは、きっとSFを書けなかったんじゃないかな」
私が言うと、Cは笑いを含ませながら聞き返してきた。
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、ジェルトリュードの死は僕からしたら滑稽だもの。どうして目の見えない彼女が、世界の景色に理想を抱いて、さらにはそれに幻滅することができるというんだ。きっとジッドは事実というものを軽んじていたんだ。感受性の世界にだけ浸って生きるのは作家にとって必ずしも良い習慣ではないと僕は思う」
私はCの前では大人を気取りたかった。彼女は私の心根をよく承知していた。彼女は私の自尊心を試すことに、ある種の悦びを見出していた。
「まるで盲人の世界を知っているような口ぶりだね」
「知っているとも」
言うと、私は両目をギュッと瞑ってみせた。すると彼女は、私の目をさらに手で覆うと、そのまま私を抱き寄せてから、私の耳元で語りだした。私の家と同じ石鹸の香りがした。
「わたしたちの知る暗闇と、盲人の知る暗闇が、どうして同じ暗闇であるはずがある? 私たちの知るそれは、光を知るからこその、その対象観念としての暗闇なんだよ」
「でも、暗闇であることには変わりないじゃないか」
「世界がどうして対概念を必要とするのか、きみには分からないのか? どうして善があり、悪があるのか。どうして信仰があり、懐疑があるのか。どうして男があり、女があるのか。どうして光があり、闇があるのか……」
Cの声調はどこか誦経に似ていた。彼女は同じ調子で言葉を繋いだ。私は、彼女に選ばれたことが誇らしかった。
「作家は、尋常信じられないものを信じさせなければならない。猥褻なものの多用は論外だけれど、きっと彼らは人間に本来備わる器官を、あるときは摘出し、あるときは組み替えなければならない。音があれば、僕たちの耳はそれを聞く。光があれば、それを見る。文学の担う使命は、きっとそれ以上のものでなければならない」
暗い足許から潮騒が立ち込めていた。
薬物面談のように、Cは私の心の奥にあるものを詳らかにしてくれる。
「きみが何を考えているのか、わたしにはわかるよ。他の誰にも分らなかったとしても、わたしには分かる。わたしたちは一つになれるはずだ」
当時の私たちは世界に絶望していた。後年になって、その苦悶が実は退屈という毒素から生じた若さの免疫に過ぎないと悟ったのは、皮肉にも成熟というアレルギーに全身が侵されてからのことだった。私たちは、その形なき絶望を、まるで壁のシミから人面を見出すときのように、何とかして具現化しようと無意識にもがいていた。形のないものは、私たちには価値のないものだった。
Cは純粋数学を軽蔑していた。観念には世界に通じる糸口が必要だった。観念が世界とどのようにして関係するのか、学者が世界の諸相から数式の成り立ちを類推するように、その逆を行うことが私たちには必要だった。何となれば、全て我々は世界との関係の中から立ち現れなければならないからだ。全ては関係から相対的に規定される影のようなものだ。客観世界など存しないことは自明である。故にこそ私たちは科学定数のようなゆるぎない観念の獲得を夢見た。それは私たちの拙い世界観に過ぎなかったが、私たちの信じるところによれば、世界と関係した観念は世界を変えることができた。物理定数の変化が世界の成り立ちを根底から変えるように、あるいはそのような関係の強固さを逆手に取った機械設計が可能なように、私たちは私たちの観念を、それを生み出す思想をデザインしなければならい焦燥に駆られた。
「おもしろい話がある。きみも興味を持つはずだ」
と、Cは唐突に話を切り出した。彼女は後ろから私を抱擁し、その腕を徐々に強めていった。まるで蛇が獲物を絞め殺すかのように、あるいは溺れる者が最後の藁にしがみつくかのように。
「最近、隣家に越してきた少女のことだよ。aという名前なんだが、彼女はピアノを弾くのさ。昨夜その家に招待されて、演奏を聴いたんだよ。実によかった。彼女はまだ君と同じくらいの歳なのに、もうプロのピアニストとしての道を歩み始めているんだ。そのために、周囲に気兼ねなく練習に励めるこんな田舎に引っ越してきたというんだ」
「それが面白い話?」
「いいや、おもしろいことはまだ何もない」
私は彼女の抱擁から抜け出すと、立ち上がって彼女を見下ろした。
「それじゃあ、これからおもしろいことをするというんだね?」
彼女は頷いた。
「わたしは音楽が嫌いなんだ」
「僕も嫌いだ。あんなものは人を怠惰にする」
「じゃあ、どうする?」
私は海の方を見た。海風がいかがわしい女の指先のように私の頬を撫でた。私はその風に声を絡めるように、低く呟いた。
「その子から、音楽を奪おう」
聞くと、彼女は何も答えずに立ち上がって、私の額にキスをしてから、石鹸の香りだけを残してその場を辞した。
どういうわけか、不可解な衝動に駆られて、私はこのまま海に飛び込みたいと思った。心と体がばらばらに砕けていくような心地がした。私は震えていた。どのような悲劇的な物語にも、それを育んだ静かな夜がある。あらゆる狂気の準備はこの静寂の中に養われている。狂気はあの静かな夜な夜なと、我々の知らぬところで関係している。悲劇とはこの密通により生じた私生児なのだ。
私は崩れかけた自我を理性で組み立てなければならなかった。私は剥製のように生きなければならない。一度死を予覚しなければ、精神の確立というものはあり得ない。
私は海を後にすると、Cの背中を追いかけた。
終わりない世界と終わるべき音楽について 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto
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