人魚と内緒話

新巻へもん

あらしの夜に

 珍しく課長がそそくさと帰っていく。

 課長は上司よりも部下が先に帰るのはあり得ないという価値観の持ち主だった。

 しかも、ワーカホリックときている。

 休みの日には何をしたらいいか分からないそうだ。

 そんなわけで俺は帰宅途中が午前様となるのが状態となっている。

 これは千載一遇のチャンスとばかりに職場を抜け出した。

 周囲の同僚たちは死んだ目をして働き続けている。

 もう手遅れということらしい。

 俺はまだ人間としての理性が残っていたのでさっさと職場を後にした。

 オフィスを出たときに一段階増した気温と湿度が建物を出た途端にさらにうなぎ上りになる。

 ワイシャツが体にまとわりついて不快だったが、まだ今日が3時間以上も残っていると心が躍った。

 日中はしょぼしょぼと振ったりやんだりしていた雨は今は上がっている。

 さて、何をしようか。

 考えながら最寄り駅への道を歩いた。

 気まぐれに坂道を下っていつもは通らない川沿いの道に出る。

 川と言っても都会を流れるものの例に漏れずコンクリートに囲われた巨大な堀というのが実態だった。

 普段は底の方をチョロチョロと少量の水が不景気な細い流れを作っている。

 およそ情緒や趣きとかとは無縁の存在だった。

 それが今夜はどうだろう。

 この辺りでは雨は降っていないにも関わらず轟々と音を立てて濁水が渦を巻きながら流れている。

 道路から1メートル半ほどの高さの護岸の縁にかなり近いところまで水面が近づいていた。

 どう見ても川の水位は地面よりも上である。

 これはヤバいんじゃね?

 どこかに通報した方がいいのではないか。

 警察? 消防?

 心当てもないまま取り出したスマートフォンの表面にボタリと水滴が落ちる。

 最初の水が落ちてから滝のような驟雨が降り出すまではほんの数秒だった。

 さらに稲光が走りギャンという雷の音がする。

 雨脚の強さと落雷による感電に恐怖を感じながら避難場所を探した。

 護岸とブロック塀に挟まれた道路に雨をしのげそうなところは………。

 あった。

 ぼんやりとカクテルグラスをかたどったサインが暗闇の中に浮かび上がっている。

 10メートルほどの距離を走って年季の入った重い木の扉を押しあけた。

 雨と雷から身を避けられると、こんな店があったかなという疑問が湧く。

 しかし、後ろの扉越しに雷鳴を聞き、目の前の扉の磨りガラスの向こうから明るい灯りが透けて見えれば前に進む以外の選択肢はない。

 扉を開けると静かなピアノ曲の音が聞こえる。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうから心地よい声が響いた。

「あら。外は雨が凄いのね。さあ、入ってらして」

 透き通るような肌の女性がチラリと笑みを見せる。

 俺はドアマットに靴底をこすりつけるとカウンターに歩みよった。

 カウンター内の女性は真っ白なフワフワのタオルを取り出すと手渡してくる。

 頭から順にぐっしょりと濡れた雨水を拭き取った。

 女性は俺の手からタオルを受け取るとカウンターの中にしまう。

 白いシャツの上に黒いジレをまとった女性は口の端をきゅっと上げた。

「おかけになって」

 耳に染みこむような声音が心地よい。

 最初に見たときはそれほどとは思っていなかったが、女性がとても魅力的に思えてきた。

 勧められるままスツールに腰掛ける。

 俺は意味もなく壁に並んだ酒瓶を眺めた。

「えーと、こんな雨の日に似合うお酒ってありますか?」

「そうですね。そのままですけど、レイン・ドロップというカクテルがあります。ジンベースでさっぱりとした口当たり、青い色が奇麗ですよ」

「じゃあ、それ、お願いします」

「畏まりました」

 お酒は飲まないわけじゃない。

 でも、正直なところ、お酒の種類を言われてもあまりよく分からなかった。

 こういうお店ではバーテンダーさんに任せておけばいいということだけは知っている。

 バーテンダーさんは鮮やかな手並みで材料をミキシンググラスに入れ、軽く混ぜるとカクテルグラスに注ぎ入れた。

 グラスを俺の前のカウンターにすっと置く。

「お待たせしました」

 グラスを持ち上げて口をつけた。

 涼やかな青色の見た目に反してアルコール度数が高い。

 咽せないように気をつけて嚥下する。

「美味しいです」

「ありがとうございます」

 間をもたせるためにもう1口分味わった。

「不思議ですね。扉2枚を隔てただけなのに雨も雷の気配もしない」

「そう。ここは別世界なの。だから、外の喧騒は聞こえないわ」

「あなたが言うと本当のような気がしてくるな」

 女性はくっと笑う。

「ここは本当にあなたが暮らしている常世とは違うのよ。お酒とひとときの語らいで日常を忘れるための場所」

 どうやらそういう設定の店らしい。

「へえ、そりゃいいや。毎日上司のお説教とお小言ばかりだから」

 家に帰って色々とするつもりだったけど、今日はもうここで飲むことにしよう。

 グラスに半分ほど残ったレイン・ドロップをクイと開ける。

「もう1杯何か召し上がりますか?」

「そうですね。じゃあ、同じものを」

 女性が再び雨を溶かしたようなカクテルを俺の目の前に置いた。

「そういえば、慌てて入って来たから知らないや。お店の名前はなんて言うんですか?」

 俺の空けたグラスを洗う女性は顔を上げる。

「セイレン」

「外国語ですか? どういう意味です?」

「ギリシア神話に出てくる怪物よ。歌を歌って船乗りを呼び寄せていたの」

「ああ。お客が来るようにということですか。それじゃ、あなたも何か歌うんですか?」

 女性はふっと笑みを浮かべた。

「私は歌えないわ」

「それは残念。いい声をしているのに」

「ありがとう」

 気が付けばカクテルグラスは空になっている。

「えーと。もう1杯。待てよ。支払い足りるかな」

 俺は財布を取り出すと1万円札を取り出してカウンターに置いた。

「これでまだ足りる?」

「ええ。十分です」

「それじゃあ、もう1杯。次はそうだな。折角だからジンを使った何か別のものを。メジャーなのだと何になります?」

「ギムレットは有名ですね」

「じゃあ、それをお願い。3杯分。それで一旦清算してよ」

 女性は緑がかった淡い白色のカクテルを作った。

 今までのものよりちょっと甘味が強い。

「これも美味しいね。それで、さっきのセイレンだっけ? 怪物っていうけど、どんな姿なの? 綺麗な女の人?」

 柄にもないことを言ってしまう。

 少し酔いが回っていた。

「半分人で半分別の生物です。古代では下半身が鳥、その後は魚になったようですね。上半身は想像のとおり女性です」

「当たった。へえ、それじゃ人魚だ。あれ。童話に人魚姫ってありますよね。同じものなのかな?」

「アンデルセンの童話の人魚は人を食べませんよ」

「ということは、セイレンは?」

 女性は妖艶な笑みを浮かべる。

「それはもうばっちりと」

「怖いなあ。それじゃ、俺も食べられちゃう?」

 女性は1万円札を回収すると手提げ金庫にしまい、代わりに千円札を数枚取り出しカウンターに置いた。

「1つ内緒の話を教えてあげましょうか。神話だとセイレンは自殺したことになってます。でもね、本当は下半身も人の姿になって人間社会に紛れ込んでいるんですよ。もう、歌は歌えなくなっているんですけど……」

 俺が覚えているのはそこまでだった。


 次に意識を取り戻したとき、俺のことを若い消防士が覗き込んでいる。

 ウーウーというサイレンがけたたましく響いていた。

「こんなところで何をやってるんです。避難指示が出ているんですよ」

 担架から救急車に乗せかえられると病院へと運ばれていく。

 後で医者から聞いた話では岸壁の横で泥酔して寝ていたそうだった。

 不思議なことに屋外に居たのにほとんど衣服が濡れていなかったらしい。

 夢でも見ていたのかと思ったが、病院代を支払おうとしたときに財布の中身が数千円少なかった。

 家に帰り翌朝は普通に出勤する。

 あまり課長のことを言えない社畜ぶりに苦笑が出た。

 日中はいつもどおりに働いたが、午後8時過ぎになると帰り支度をしてオフィスを後にする。

 課長は凄い目で睨んでいたが、俺にはもっと大事なことがあった。

 昨日とはうって変わって雲の無い夜空の下、記憶を頼りに川沿いの道に出る。

 しかし、いくら探してもカクテルグラスの看板は見つからない。

 それ以来、雨が降りそうな日には仕事を切り上げて早く帰るようになった。

 なんとなく、また近いうちに『サイレン』にたどり着けそうな予感はしている。


-完-

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