かのもの、または古龍の子

やまおり亭

1. 夕涼み

 人ではないものに語りかける。

 その行為の歪さにさえ慣れてしまえば、音声配信は何よりも手軽な趣味の一つになる。少なくとも瀬尾せおにとってはそうだ。そうなった。

 

〈――と、人の肉をからす行方ゆくえに思いを馳せたところで、本日はおひらきに。またいつか夕刻にお会いしましょう。〉


 言い切って呼吸を止め、少し遅れて配信も止める。六畳ほどのワンルームからあっという間に声が消え、その静けさにはばかるようにそうっと息を吐き出した。

 配信に使っていたスマートフォンの画面を机に伏せると、とたんに部屋の中が暗くなる。ベランダへ続く硝子窓がぼうっと光ってみえた。

 夏の宵の口は、東京ほどではないにしろ、まだ十分に明るい。

 椅子に腰かけたまま、瀬尾はひとりの部屋で耳を澄ませた。

 今朝がた引っ越してきたばかりの町の、まだ荷解きも満足に終わっていない小さな部屋で、一番最初に業者が取り付けてくれた冷蔵庫が低い音を立てて震え始める。

 うんと遠くで、バイクが東から西へ駆けてゆく。

 明かりを点ける気にならず、まだ物干し竿もないベランダを窓越しに見る。窓のそばには、中途半端に開けられた段ボール箱が積み上げられていた。両の手で事足りるほどの数だから、ゆっくり整理しても二日はかからないだろう。

(画材は一つ残らず持ってきたのに)

 それでも荷物はたったこれだけ。

(ずいぶんと身軽になった)

 けれど後悔はない。身軽になるのも、知り合いのいない北の町へ移り住むのも、瀬尾が望んだことだからだ。

 立ち上がり、電灯のスイッチを探そうとして、やめる。

 かわりに窓を開けた。勢いよく室内へと押し寄せる熱気は、かすかに森と土の匂いを含んでいる。

(ベランダ用のスリッパは買わないと)

 脳内の買い物リストに書き込んで、素足でベランダのコンクリート床を踏む。

 夏らしからぬ、ひやりとした感触が心地よい。

 けれど――

(いいや)

 すぐに、これは違うと思い直した。

 瀬尾が踏みしめているものは、コンクリートにしてはつるりと滑らかで、何より足の裏に貼りつきそうなほどに冷えている。

 足元へ目を向けた、その時。足の下から半透明のハンカチのようなものがするりと抜け出した。

(あ――)

 柔らかな氷の板のようにきらめくそれは、瀬尾の顔よりも大きく広がり、浮き上がりつつも蝶の形をとって、どこかへ飛んでいく。

(あっちには、確か大きな川があった)

 やけにゆったりと羽ばたく蝶を見送りながら、瀬尾は思う。

(ここにもいるのか)

「まあ、幽霊なんて、いない場所のほうが珍しいくらいだものな」

 誰にともなく呟く。

「それ、幽霊じゃありませんよ」

 と、応える声があった。

 声は瀬尾の右手、ベランダの仕切りの向こうから聞こえてくる。

(お隣さんだろうか)

 若い男の声だ。姿は見えないが、年の頃は自分と同じか、少し下だろうと瀬尾は想像する。

「夕涼みですか?」

 恐らく隣人であろう、男の声が続けた。

 先程のやりとりは夏の夜の夢だったのかと思うほど、さっぱりとした声だった。

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かのもの、または古龍の子 やまおり亭 @yamaoritei

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