不知火

白河夜船

不知火

 地獄というのは案外近しい場所にあるのだな、とぼんやり思った。

 ぼろアパートの汚い部屋には、湿気と熱気と蝉の声と黴と埃と何かしらが腐った匂いと血臭が充満していて、床に転がった男の死体に早くも蠅が纏わり始めたのを目に留めて、僕は「は」と乾いた小さな声を洩らした。どうやら笑ったらしい、と他人事のように知覚する。


 直、これは腐敗して蠅と蛆の食物になり下がるのだ。


 そう考えると、なるほど確かに愉快だった。握り締めた包丁と身体に付着した返り血を途方に暮れた様子で眺めていた兄が、どうするかなぁ、と呟いて首を傾げた。父を殺した現実に、感情が追い付いていない雰囲気である。


「……駅前行ってさぁ、パフェ食べたい」


 僕も同じなのだろう。しばし思考して、やっと出てきた答えは実に間が抜けていた。






 何とか汚れを落として最低限身形を整え、兄と二人で家から逃げた。後先の展望などなく、ただただ穏やかに停滞した今だけが目前にある。夏休み中で悪目立ちしにくいとは言え、高校生と中学生が警察から逃げ果せるとも思えない。碌でもない終わりの見え透いた短いモラトリアム。僕等はそれを、駅前のファミレスでチョコレートパフェを食べるために浪費した。


 クリームとアイスとチョコレートソースを一緒くたに頬張りながら「うまい」と兄は呟いて、「うん」と僕も頷く。家庭内暴力DVモラハラネグレクトその他諸々。多少恨みや不満はないでもないが、母が僕等を置いて逃げ出したのも頷ける。心底最悪な父親だった。


 家族皆で外食に行った記憶など、片手の指で数えられる程度しかなく、それだって両親が始終苛ついていたので、別に幸せな思い出とは言い難い。コンビニやスーパーで買う普段の食事も何とか工面した少ない食費でいかにして腹を満たすかということばかりに気を取られ、あまり楽しむ余裕がなかった。


 娯楽のための食事を摂るのは、いつぶりだろう。舌に広がる甘味が快い。


 死んだクソ親父が現金派でよかった。もしキャッシュレス派で現金の手持ちがなかったならば、僕等はパフェをこうも気軽に食べられず、落ち込んでいたかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、トッピングのクッキーを囓る。

 父に殴られた時、折れたのだろう。上の犬歯がその拍子に一つ、ぽろりと取れた。掌に吐き出す。芯に赤いものが詰まった小さな白い塊を半ば不貞腐れて兄に見せると、兄は僕の掌からそれを摘まみ上げ、菓子でも食べるようにして口に含んだ。


 喉が上下する。

 どうやら、呑み込んだらしい。


「何してるのさ」


 言われて初めて自分がしたことに気づいた様子で、兄はゆっくり目を瞬いて苦笑した。ふと、懐かしさが込み上げてきて記憶を探れば、心当たりの思い出が一つ見つかった。


 僕が小学校低学年の頃だったか。


 取れた乳歯を見せた時、兄は全く同じことをしたのである。よほど腹が減っていたか、ぼーっと考え事でもしていたか、いずれにせよ論理的理由も感情的理由もたぶんない。無意識の行動であったろう。あの時も、ばつが悪そうな顔で苦笑していた。

 バニラアイスを匙で掬って食べる。

 冷たさが折れた歯に沁み、これからどうしようと考えた。ああしたい、こうしたいという当てもない。手持ちの金で電車に乗って、行けるところまで行ってみようか。ちょうど駅の近くにいるのだし。


「なぁ、兄ちゃんどっか行こうよ。どこ行きたい?」

「ヴェネチア」

「……………」


 クソ親父の財布をウエストポーチから取り出して、中身を確かめてみた。三万円弱では、流石にヴェネチアには行けない気がする。






「お会計が658円になります」

 きっと僕はひどい面をしているのだろう。気遣うような、距離を測るような、それでいて腫れ物を見るようなファミレス店員の視線から逃げ、兄と二人で駅へと向かった。


 切符を買う。

 目下の目的地は、なるべく人気が少ない海辺の町だ。


 ヴェネチアはどう考えても無理なので、海に接する土地で妥協した形であるが、それでも文句はないらしく、兄は黙って僕についてきた。父を手ずから殺したせいだろう。いつもより口数が少なく、ぼんやりしている。


「僕はさ、これで良かったと思ってるよ」


 僕の言葉に兄は応えず、ほんの僅か顔を歪めた。困っている風にも、泣いている風にも、笑っている風にも見える、何だか複雑で不思議な表情だった。

 盆過ぎ、それも昼前の車内は閑散としていて、クーラーの稼働音と車輪がレールを踏むガタゴトという音ばかりが耳に付く。

 田舎を目指して電車を乗り継ぐごとに、窓外の景色は鄙びて素朴になった。トンネルに入っては出て、をごく短い間隔でしばらく繰り返す。やがて視界が開けると、片側の車窓に赤い海が広がっていた。


 もう、夕方なのだ。


 随分と長く電車に乗っていた。

 見慣れない駅名。知らない町。もうここらでいいだろう、と電車を降りた。蒸し暑い。生温い潮風が肌にへばりつき少々鬱陶しかったが、何かから逃げ切ったような解放感が胸を満たして、気持ちはむしろ爽やかだった。

 いかにも日本然とした田舎町を、兄と一緒に歩く。この町の住民の足は、たぶん基本車なのだろう。夕闇が迫る時間帯も手伝ってか、歩道を歩く人間はおらず、夜になってしまえば誰も僕等を見咎めないことは明らかだった。


 海に面した小高い丘の下に、鳥居が建っている。


 どうやら神社があるらしい。石段を登って四方を見回せば、社務所もなく辺りは杜に囲まれて、ちょうど良い塩梅に人目を避けられそうな雰囲気だ。


「暗くなるまで、ここで時間を潰そう。それから――――」


 兄に話し掛けたが返事はなく、仄赤い薄闇に沈んだ境内にいるのは僕一人きりだった。自分の顔から、表情が抜け落ちるのを自覚する。何の感慨も混ざらない虚しい溜息を吐き出した。


 兄は、たまにこうして見えなくなるのだ。






***



 ――――

 ――――

 小学校の修学旅行。

 その費用を、兄はどうにかして工面したらしい。

「俺は行けなかったけどさ、お前は行けよ。で、何かお土産買ってこい」

 はにかみながら差し出された修学旅行費入りの茶封筒を、僕はおずおずと躊躇いがちに受け取った。

「………でも」

「いーんだよ。細かいことは考えなくて。お前が行ったなら、俺も半分くらい行ったような気になれるしさ。その金、アイツにはバレないよう仕舞っとけよ」

 兄に対する後ろめたさと引け目はあったが、漠然とした嬉しさと期待の方が勝ってしまって、それ以上の反論はしなかった。生まれて初めて旅行に行ける。その一事に浮かれていたのだ。



 五月だった。



 少ないお小遣いで細やかな土産を買って家に帰ってみると、兄がいなくなっていた。



「お前のせいだ」

 深夜。帰宅後初めて顔を合わせた時、缶ビールを呑みつつ父は据わった目で僕を睨んで吐き捨てた。

「お前がどーしようもない奴だから、こーなったんだ。逃げたんだよ、アイツも。母親と同じで―――」

 嘘だ。

 と思ったが、口には出さなかった。嘘だ。だって僕は、父が留守の間に見つけたのだ。居間の隅に、人の歯が転がっているのを。

 犬歯だろうか。芯に付いた血が茶色く変色したそれは、あんな汚い部屋にずっと置かれていたにしては妙に綺麗な状態で、つい最近そこに落ちたものではないかという気がした。

 兄の歯だ、と直感的に思った瞬間、点と点が繋がって、その場で一体何が起こったか察してしまい、吐き気と憎しみが込み上げた。



 兄が修学旅行費をどうやって手に入れたか、僕は知らない。聞いても教えてくれなかったから。グレーな金だったのかもしれないし、案外地道で泥臭い苦労を僕に悟られたくなかっただけかもしれない。しかし、出した覚えのない金を僕等が使っているのに気づいた父は、恐らくこう考えた。


 俺から盗んだのだ、と。


 兄をよく知る僕の方では、そんなことは絶対ないと言い切れる。あんまり腹が減って、パンを買うためちょろまかした数百円にすら、激怒するような父親なのだ。そんな奴の金を当てにするほど、兄は馬鹿じゃない。

 いずれにせよ、修学旅行費は兄が自力で用意したものであり、父はそれを自分から不当に奪われたものと勘違いした。そして、


「お前のせいだ」


 事ある毎に、父はその言葉を繰り返した。


「お前のせいだ!」


 そして、父は兄を殴ったのではあるまいか。殴って、殺してしまったのではあるまいか。感情的に。衝動的に。歯はきっとその時、折れたのだ。殺して、遺体をどこかに捨てた。お前のせいだ、としつこく僕を責めるのは、自分がやったことの責任を八つ当たり的に、きっかけを作った僕へ擦り付けようとしているから―――――


 兄の失踪は家庭環境の悪さから家出ということで片付けられて、事件と認識すらされなかった。あるいは僕が父に抱いた疑念を警察に話していれば、何かが変わっていたのかもしれない。そうしなかったのは、待っていたためだ。



 父を殺す機会を。


 人殺しを躊躇ってしまう、ただの子供である僕が、一線を越えられる瞬間を。






 兄の歯は水道水でよく洗い、ハンカチとコンビニの袋で包んで、石を使ってなるだけ細かく砕いた。消化しきれない小さな異物は排泄される。ひもじくて色んなものを口に入れてきた経験から、僕はそれを知っていた。細かくした方がたぶん、腹の中で溶けやすい。


 僕は兄の歯を食べた。


 父に見つかって捨てられたり、失くしてしまうことを恐れたのである。自分の体内こそ、家よりも学校よりも安心できる、僕が持ち得る唯一の安全な隠し場所だと思われた。

「……何してんだよ」

 ざらついたものを水筒の水で何とか流し込み、顔を上げると兄がいた。呆れたような困ったような顔をして、寂れた公園の片隅にしゃがんだ僕を見下ろしている。

「兄ちゃんを食べた」

「馬鹿だなぁ」

 以来、僕には兄が見える。

 時々見えなくなることもあるけれど、いつだって兄は僕の傍にいてくれるのだ。



***






 賽銭箱の横に据わって夜を待つ内、どうやら眠ってしまったらしい。目を覚ますと辺りはすっかり暗くなっていて、真夜中特有の静けさが境内を押し潰すようにして覆っていた。耳を澄ますと、遠くで波の音が聞こえる。


 僕は立ち上がった。

 そろそろ行かなければ。


 石段上に建つ鳥居の影から、人も立っていないはずなのに忽然と生白い手が突き出され、海の方を指差した。

「兄ちゃん」

 近付いたら手は引っ込んで、今度は石段下の鳥居の影から先と同じ具合でまた現れた。近付いたら消え、前方にまた………その繰り返し。

 思った通り、深夜の田舎町はぞっとするほど人気がなかった。外灯も少なく、月ばかりが明るい夜闇の底にありながら、手は不自然なほど真っ白である。道標の如きその手を追って、小走りに歩く。


 やがて浜に行き着いた。


 波間に浮かぶ白い手が僕を手招いている。


 荷物を放って、シャツとサンダルを脱ぎ捨てた。ウエストポーチから取り出した大きめのカッターナイフを握り締め、海に入る。


 遙か遠く、深いところで兄が僕を呼んでいる。


 全て幻覚だというのは分かっていた。


 あの手も、『兄』も。


 イマジナリーフレンドという言葉くらいは知っている。幼少期に開いた心の穴を埋める、空想の友達。『兄』もたぶんその一種だ。一人ぼっちになった寂しさと心許なさに耐えきれず、僕が作り出した空想の―――だから、僕の記憶と想像の範囲から『兄』が逸脱することはなかった。いつまでも、僕が高校生になった今も中学生のまま、生前の兄を継ぎ接ぎしたような言動を取る。


『兄』がしたことは僕がしたことであり、『兄』がしたいことは僕がしたいと望むことなのだ。


 父を殺したのも、僕を殺そうとしているのも僕自身。


「お前のせいだ」

 父の身勝手な言い分だと頭では理解していたけれど、その一言がずっと胸の奥底を苛んでいた。兄が死のうとしている時、どことも知れない場所に捨てられている時、僕は暢気に笑っていた、楽しんでいた。罪悪感と惨めさから逃れるように僕は父を憎んで、そして復讐を果たしてしまった。

 生きる目的は失われ、やるべきこともやりたいことも見当たらない。最早『兄』だけが生きるよすがなのだけど、時折見えなくなることがある。僕はいつか『兄』すら失うのかもしれない。



 碌でもない人生を歩んできた。これからも、僕は碌でもない人生を歩むのだろう。


 なら、僕の人生においてきっと今ほど完璧に、全てが満たされている瞬間はない。



 道標のように、燈火のように揺らいでいた兄の手がいつの間にか消えていた。星月夜の下、暗く広い海に仰向けとなって僕は浮かんで、握り締めていたカッターナイフの刃を押し出す。海なんかに来たのは、父親と同じような場所で同じように死にたくなかったからか―――そんなことをぼんやり考えながら、一息に首を裂いた。

 塩水が傷に沁みる。血がだらだら溢れ、息が乱れて、僕の身体は水に沈んだ。ここまですればもう生き残る心配はないだろう。苦しい。痛い。叶うなら、蠅と蛆ではなく海の生物が僕の死体を食べてくれたらいい。




















































 ――――

 ――――

 気がつくと、僕は電車に乗っていた。トンネルの中を走っているのか、それとも近くすら見通せないほど辺りの闇が深いのか。窓は全て真っ黒で、その表面に煌々と電灯の点る車内が映り込んでいる。

 僕の隣に兄が腰掛けていた。僕等の他、ここには誰もいないらしい。

「仇は取ったよ」

 と僕は言う。

「馬鹿だなぁ」

 呟いて、兄はほんの僅か顔を歪めた。困っている風にも、泣いている風にも、笑っている風にも見える、何だか複雑で不思議な表情である。




 いつまで経っても電車は駅に着かず、ひょっとすると永遠に、この暗い空間を走り続けるのかもしれない。兄と一緒なら、それでも悪くないと思った。



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