これは着ない、二度と着ない

外清内ダク

これは着ない、二度と着ない



 この道は知ってる、以前まえに見てる。60年前のあの夏に、貴女を担いでここをまっすぐ駆け抜けたのだ。あの時は教導院の祭殿も墓地も植木も何もかも、砲撃でめちゃくちゃになっていた。俺は必死だった。職務に? 違う。断じて違う。一人の男として人間として、俺は貴女を護りたかった。細く白い震える腕で俺の首へすがりついてくる貴女――当時12歳の生意気な少女を、くだらぬ紛争のためなんかには決して死なせたくなかったのだ。

 ――女王陛下ユア・マジェスティ

 貴女の入った黒い棺を、今、俺は肩にになっている。平民へいみんの一兵士に過ぎない俺が、たったの8人しか選ばれない栄誉ある棺担ぎ人ポールベアラーに任命されたのは、ひとえに貴女の厚意のおかげだ。俺と貴女の特別な関係を知らぬ者はいない。俺は王家哨ロイアル・セントリーの制服ごしに貴女の重みを感じながら、墓地までの道を淡々と歩んだ。ずっとこの服を着て、貴女にお仕えしてきたのだ。この上着に袖を通せることを、どれほど誇りに思っていたか。伝えたかった。話したかった。百万言を尽くしても足りはしない。

 なのに貴女はもういない。

 貴女はあまりに特別すぎた。俺には特別すぎたのです、女王陛下マ・ァム……



   *



 サン=ダルマン紛争についてはどこの歴史教科書でも数ページを割いて記述しているらしいが、俺の知る限り、あの砲火の熱さを描ききった書籍はこの世にひとつも存在しない。俺は逃げた、あの火の中を。焼け落ちようとする宮殿を駆け、黒檀のドアを力ずくで蹴り開け、竜火弾スピッターが絶叫にも似た金切り音を響かせながら降り注ぐ庭園を全力疾走で突っ切ったのだ。

 俺の背中には貴女がいた。その頃はまだ公女プリンセスと呼ばれていた貴女。必死にすがりついてくる貴女の止まらない震えを、俺は、軍服の薄い羊毛生地越しに感じていた。

「助けて、助けて、神様、助けて、お母様、お母様っ……」

「助け、ます、俺が」

 息を切らせながら低くつぶやく俺に、貴女は涙を散らして怒鳴りましたね。

「僭越なるぞ農民兵ヨーマンッ! 貴様が狙われるのが分からぬか!」

「分かりません。学がないので」

「私を置いていけ。サン=ダルマン勢は私が欲しいだけだ」

「そのために街を焼く暴徒が、この軍服を見逃すとお思いか」

「じゃあ脱げっ! 私はお前の名も知らぬのに、なんで命を賭けさせられる!?」

「お黙りなさいッ!」

 俺は叫んだ。叫ぶつもりなどなかったのに、声は砲撃の炸裂音をすら掻き消して黒雲の空を震わせた。わざと悪態をついて嫌われようとする貴女。名も知らない一介の兵士にまで仁愛の目を向けてくれる貴女。そんな貴女だからこそ――

「無名で結構! 報いも要らぬ! 惚れた女は死んでも護る! だから俺は男なのだッ!!」

 俺は走った。走って、走って、走って、走り、教導院に転がり込んで、裏口から抜け、墓地の丘へ続く小道をただまっすぐに疾走した。西だ。西へ行くのだ。タニス・リー街路ストリートには友軍が陣を敷いている。走るのだ! 心臓が破れてもいい。脚がちぎれてもいい。この体などくれてやる! 俺は貴女を、ただ貴女だけを――



   *



 俺は瀕死人のようにあえぎながらも友軍の陣へ逃げ込むことに成功し、割れんばかりの歓声をもって迎えられた。貴女はすぐさまエンダーシャー公の庇護下に入り、俺はと言えば、そのまま官軍の末端に配属された。それからわずか3週間後、俺は帝都防衛戦の途中で利き腕を負傷し、あえなく後送とあいなった。療養所で傷が癒えるのを待つ間にも戦況は目まぐるしく変わっていき……

 17ヶ月後、ようやく手で物が掴めるまでに回復したときには、もう紛争は終わっていた。

「残念だったなあ、英雄ヒーロー

 俺が退院する日、療養所で隣のベッドにいた老兵が、歯抜け顔でカラリと笑った。

「手柄を立てそこねたな」

「要らないよ、そんなもの」

 苦笑する俺の、それは、たしかに実感だった。いいんだ、手柄なんて。20歳手前の血気盛んな年頃のはずなのに、俺は自分の中の何かが枯れているのを感じていた。俺はもう成し遂げた。一生の中で自分が果たすべき役目を、すっかり果たし終えたのだ。そんな気がした。

 それが勘違いの自己陶酔に過ぎないと、喝破してくれたのも貴女でしたね。

「私のものになれ!」

 退院直後の俺は、なかば拉致同然に宮殿へと召喚され、貴女から、まったく唐突にこう命じられた。あのねえ、貴女、こういうところは良くないと思う。勝手すぎるし急すぎる。せめて説明くらいはきちんとするべきだ。

「何のことです?」

 首をかしげる俺に、17ヶ月ぶん大人になった貴方は――今や公女プリンセスならぬ女王クイーンである貴女は、胸を張って迫ってきた。

「貴様を我が護衛に任命しようと言うのだ」

王盾隊ソブリンズ・シールズがいらっしゃるでしょう?」

「あれはダメだ、任期が3年しかない。そういうんじゃなくてェ……」

 貴女はなぜかきまり悪そうにそっぽを向き、腹の前で指いじりしはじめた。あの時ばかりは貴女が普通の少女のように思えた。そう、普通の少女。どんな形でもいいから気に入った男をそばに置いておきたいと願う、14歳の、思春期の乙女。その青春の矛先が他ならぬ俺に向いていることに気付き、俺は……微かに鼻へ届く貴女の汗の匂いに、猛獣のような興奮を覚え始めた。

王家哨ロイアル・セントリー。原則終身の役職。法務省が書庫をひっくり返して探してくれた。なんとびっくり、560年も昔の立法だが、別に廃止されたわけじゃないから今も制度は生きている。まあ装備だの服務規定だの、細かい所は現代風に改めねばならんが……」

「はい」

「……分かったか?」

「おそらく」

「ふん。よかろう。じゃ、ひざまずけ」

 言われるままに片膝をついた俺に、貴女は、優雅に手のひらを差し伸べた。

「これより生涯、私を護れ。

 惚れてくれたんだろ、名もなき男」

 手を取り、指に口づけすることを、貴女は俺に許してくれた。

 ああ。報いは要らぬ? 何を浅はかな。

 一生分の報いを、俺は先払いで受けてしまった。

 やっと始まったのだ。このとき、俺の人生が。



   *



 それから俺は、あらゆる時間を貴女と共有した。

 執務の時も、閣議の時も、俺は常に貴女の斜め後ろで樫の木のように揺るぎなく立ち、貴女に近づく全ての者へ休みなく目を光らせた。貴女が門をくぐる前には先行して警戒した。貴女が群衆に背を向けた時はこの身を盾として貴女を庇った。多くの者が俺をからかった。「お役目ご苦労! 一杯どうかね」俺は一言。「お気遣い無用」

 その夜、俺は貴女の部屋に引きずり込まれて叱られた。

「馬鹿者」

「は」

 貴女はソファで足を組み、片眉つりあげた呆れ顔で、直立不動の俺を見上げた。その時の貴女はよわい18。くつろいだ部屋着姿で髪もほどいてしまっていたが、それでもなお、所作のひとつひとつは研ぎ澄まされた直剣のように凛然として、俺の心をたまらなく掻き乱すのだ。貴女は知るまい、俺の気持ちを。気づいていまい、貴女のお叱りを返って嬉しく感じている俺に。

「あれではかどが立つだろうが。エンダーシャー公は我が王権最大の支持者ぞ」

「は」

「一杯くらい構うまい?」

「酔ってはお役目を果たせません」

「堅物だなァ……も少しゆったり構えたらどうだ。それこそ王盾隊ソブリンズ・シールズだっているのだし」

「……」

「たまには遊んだりしないのか? 女は? 結婚は?」

「いたしません」

「なぜ?」

「……言いたくありません」

 貴女の、あんなに深い溜め息を、あの時の他には聞いたことがない。貴女はたっぷり10秒あまりも沈黙し、やがて、足を引き上げてソファへ仰向けになった。そして10秒。さらに10秒。微動だにしない俺に、貴女が一瞥をくれた。

「……ばか」

「は」

「次から『おこころざしのみありがたく頂戴します』と言え、ああいう時は」

「そういたします」

「下がってよい」

「は」

 敬礼して部屋を出ていく俺の背に、貴女がぶつけたわめき声は、去りし日の砲火よりなお激しく宮殿を震わせた。

「ば〜〜〜〜〜かっ!!」



   *



 知っている、自分が愚かなことは。

 議会が侃々諤々かんかんがくがく紛糾して11時間が経過したあの時、貴女と一緒にこっそり議場から抜け出した。もうじき晩餐会の時間だというのに、ふたりして甘ったるい飴玉を分け合い、舐めた。グレートムンスターの離宮では、貴女が川にはまって叫んでいたので、俺は慌てて岸辺から手を伸ばし、

「隙ありっ」

 貴女に川へ引っ張りこまれて一緒にグショ濡れになりもした。

 貴女はいつも快活で、俺にたくさんの悪戯を仕掛けて、俺を困らせては笑ってた。大臣たちにも侍従たちにも決して顕わにしない甘えた顔を、貴女は俺にだけ見せてくれる。俺はそれが嬉しくて、頬を緩めてしまったこともある。

 だから女王陛下マ・ァム、あの晩も。人気ひとけのない宮殿の廊下を二人きりで歩く道すがら、あなたが小声でささやいた言葉に、俺はどれほど動揺しただろう。

「結婚が決まりそう」

 貴女の半歩後ろを行きながら、俺は、足取りを乱さないことに苦労した。俺より頭二つ分近くも小さな貴女でさえ、まっすぐに伸びた美しい背中を俺に向けたまま、正確すぎるほどに正確なリズムで靴音を響かせていたというのに。

「相手は大陸のさる公子だ。ま、政略結婚だな」

「は……」

「一度会ったことはある。気迫はないが、善良な男だ」

「それは……おめでとうございます」

 貴女は足を止めた。

 振り向きもせずに。

「……そう思うか?」

 俺は何も言えない。

 何も言えなかったのだ。覚悟の足りぬ、心の弱い、この俺は……



   *



 夜が更けて、闇が来て、俺は貴女の部屋の前に、我が身を盾として立っていた。そのはずなのに、修行の足らないこの俺は、ひどく重く暑苦しいものを胃臓の中でぐるぐる駆け回らせていた。結婚。善良な男。政略結婚。秩序と伝統。俺にはどうにもできぬもの。

 夜半が過ぎた頃、ドアが薄く開き、隙間から貴女の声が聞こえた。

「ちょっと、来い」

「は……」

 呼ばれるままに、俺は貴女の部屋へ入った。暖炉に火はなく、ランプも消され、カーテンの隙間から細く差し込む月光だけがわずかに照らす暗闇の中、俺は数歩、とまどいながら奥へ進んだ。次第次第に目が慣れてきた。そして気づいた。

 貴女の黒いシルエットが、じわりと、冷たい夜気の中に浮かび上がっていることに。

陛下マ・ァム……」

よ」

「……いけません」

「なぜいかぬ?」

「いけません!」

 ああ、俺は。

 俺はこの時ほど、貴女を恨んだことはない。

 貴女は一体、分かっているのか。俺がどれほど男であるか。俺の股にぶら下がっているどうにもならない塊が、どれほど濃密な獣性に満ちて固く立ちあがっているか。俺は目を逸らした。歯を食いしばった。

 貴女が……一糸まとわぬ貴女の裸体が、俺に抱かれるのを待っていたのだ。

「知っていたのだろ、私の気持ち」

「は……」

「気づいてるに決まってる、お前の気持ちも」

「は……」

「恋をしたいと願ってはいけないか? 王の嫡子として生まれた者は、好きになった相手と触れあってはいかぬのか? これは私のワガママか? それほど私は不自由なのか?」

「いいえ。貴女には権利がある。どのようにでも生きる権利が」

「だったら何故!?」

 貴女は俺に駆け寄った。体ごと俺に抱き付いた。貴女の肌が、温もりが、おそろしく魅惑的な汗の匂いが、嫌と言うほど俺の心を掻き乱した。ああ! 俺の制服に、貴女の涙が染みていく! 貴女という一人の女性の魂が、俺を包む外殻に乗り移っていく!

「何故ワガママを言ってくれない!?

 お前になら、メチャクチャにされても構わないのに!」

 俺は……

 俺は、俺は……!

 俺は貴女の、肩に手を添え、そっと……貴女を押し返した。

「貴女を愛しているからだ」

 沈黙があった。

 涙をすする音がした。

 俺は武張ぶばって背すじを伸ばした。

「護ります。

 今までも。

 これからも。

 貴女が永遠とわの眠りにつく、その時まで」

 興奮した貴女の息が、少しずつ静まっていき、やがて貴女は喉をうならせた。

「……おい。ちょっとかがめ」

「は?」

 言われるままに膝を曲げた俺に、貴女から、不意打ちのキスが来た。俺は自分の唇に押し付けられたものの信じがたいまでの柔らかさに、ひととき我を忘れ、呼吸も忘れ、心臓を脈打たせることさえ忘れてしまった。しばらくして貴女は、突き飛ばすようにして俺から離れ、背を向けた。

「これくらいは良かろう? ばかめ」

 床に脱ぎ捨ててあった服をつかみ取り、貴女は奥の間へ去っていく。貴女の剥き出しの背と尻が、月光の中に白く浮かび上がる。氷のように冴えたその美しさを、俺はただ立ち尽くしたまま見送るばかりだった。



   *



 あれから50年。貴女の葬儀も滞りなく終わり、俺は宮殿の中に与えられていた住まいを引き払った。

 代わりに、帝都の片隅に小さなアパートを借りた。妻も子もない。親類との交流も途絶えて久しい。だが不思議と寂しさはない。俺の胸は満たされている。引継ぎだの身辺整理だのと面倒な残務を片付けたその夜、俺は王家哨ロイアル・セントリーの制服を脱ぎ、クローゼットの奥に吊るした。目には見えないが俺には分かる。この上着の第二ボタンの脇あたりに、今でも貴女の涙が染みている。

 ――女王陛下ユア・マジェスティ

 厚い羊毛生地を指で撫で、俺は深く息を吸う。

 これは着ない。二度と着ない。




THE END.

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これは着ない、二度と着ない 外清内ダク @darkcrowshin

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