31 またね
朱塗りの柱と白壁、そして底知れぬ森の木々が落とす影は、長く伸びきって玉砂利の上を満たした。太陽はどこにも見えず、ただ暮れゆく空の色と灯りがなくともきく視界が、陽の光がまだ地上に存在することを語っていた。人の気配がない神域は恐ろしいほどに静かで、流れゆく水の音だけが、その場をかろうじて現実に繋ぎ止めている感すらある。動かない薄暮の中で、少女と向き合った女は――美津子は、不意に頽れるように小川に膝をついた。
「呪いでもいい。私を見なくたっていい。私はもう、帰りたくない」
座り込んだ膝の合間から、白いワンピースの裾が見る間に水を吸い込み、腿にまとわりついた。湧水は形を変え、美津子の傍らにどうにか浅瀬の道を見つけて流れていく。駄々をこねる子どものような美津子に、向き合う少女は困惑するように眉尻を下げた。
「ここは単なる夏の果て。居座られると、ぼくが困る」
「でも、私には帰る場所がないの」
湿度の高い日陰は、ひたひたと皮膚の表面に染み込んでくる。それはより湿って暗い場所へと美津子を誘う無数の細い腕のようで、生理的な不快感を覚えながらも、抗うことを躊躇う甘美さもあった。俯いた顔に、涙は枯れてしまったように流れなかった。進むことも、退くこともかなわない。ただ根が生えてしまったように動けない。地の底に引きずり込まれそうな心地の美津子を、他人事のように眺めていた少女は、何かに気がついたように視線をよそに向けた。
「美津子、おまえはそう言うけれどね。少なくとも今、心からおまえを探している者がいるようだよ」
美津子はゆるゆると顔を上げた。耳を澄ましても、人の声も気配も聞こえない。ただ水の流れと、境内と、少女がいるだけだった。何も変わらないように思えるが、少女には何かが見えているのだろうか。美津子は呟く。
「……私に、そんな価値はないわ」
「おまえにとってそうであっても、皆にとってそうとは限らない。それが現実だ」
少女は肩を竦めた。もう話すことはないとばかりに足を引くと、ころりと下駄が鳴った。それは、がらんとした境内にいやに音高く響いた。
「さあ、迎えが来るよ。もうお行き」
兵児帯と袖が翻る。切りそろえた髪が揺れる。静寂の向こうから、不意に耳鳴りのように無数の音が押し寄せて来て、その合間に少女の言葉はかき消されていく。
「夏は、また巡り来るのだから」
美津子ははっと目を開いた。わんわんと耳元で物音が増幅して聴こえた。首筋にそよ風が吹いて、視界に団扇が揺れるのが見えた。
「美津子さん、大丈夫ですか。随分うなされていましたよ」
豊が心配げな顔をして視界に入ってきた。手に団扇を持って、美津子を煽いでくれていたようだった。全身が汗ばんでいる。身体の下には座布団が並べられており、腰や肩のあらぬ所が痛かった。
「……私、眠っていたの?」
「病み上がりに掃除をしていたから、お疲れが出たんでしょう。布団でもお貸しすればよかったですね」
美津子はゆっくりと身を起こした。豊が水差しを差し出してくれたので、ありがたく口に含んだ。喉がひどく乾いて、鼻との境目あたりに痰のような、何かねばついた塊があるような感覚があった。夏風邪はまだ治りきっていなかったのかもしれない。離れの戸を少し開けて、豊が母屋の様子を窺った。
「お仲人さんたちも、帰られたようですよ。美津子さん、部屋に戻るようならお手伝いしましょうか」
美津子はしばし現状を整理しようとぼんやりしていた。そう、今日は久子が引っ越してきたところで、仲人夫婦が挨拶に来て、それで客間を使っていて――では、あの鉦の音も、騎馬の行列も、家の前の桟敷席も、そしておかっぱの少女も、玉砂利の中の小川も、すべて夢だったのか。自分の格好は相変わらず和装だったし、祭りをしている様子はない。
どこか安心したような、なにか残念なような気がしながら、美津子は上体を起こした。手をついた拍子に何かにこつりと当たって、何気なくそちらを見る。まだ汗をかいてひんやりとした冷やしあめの空の瓶が、そこにあった。
【文披31題】薄暮のための小品集 藍川澪 @leiaikawa
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