30 色相
青を背景に白い雲の立ち上っていた空が、その色相を橙と濃藍に変える薄暮に、家々の軒先にかけられた提灯に火が灯って、町は俄かに非日常の顔を見せ始めた。どこからともなく鉦の音が響いてきて、往来には物売りやそれを見る人々が行き交った。美津子は見慣れたはずの町の見慣れない顔に戸惑い、人波に流されるようにそぞろ歩いた。
この時期に、祭りや縁日の類などあっただろうか。盆にはまだ早いし、人々の姿は彼岸のそれとも思えず、熱と質量を持っているように見えた。美津子の夏着物の懐には小遣いの入った財布があったので、試しに物売りから瓶入りの冷やしあめを買って飲んでみた。ひんやりとしたそれは掌の体温を少し下げる。淡い黄金色の中身を口に含めば、甘みもほのかな生姜の味もよく知るものだった。
ふと、道の向こうから行列がやってくるのが見えて、美津子は道の端によけた。白い着物の先駆けが鈴を鳴らし、人々が道を空けたところに、見目の良い騎馬の男たちが続く。この地域に、このような儀式はあっただろうか――美津子が考えていると、行列の中に一際美々しく飾られた馬を見つけた。艶やかな白毛の馬の背に、黒紋付に袴姿の啓明が乗っていて、美津子は思わずぽかんとしてしまった。
これは夢だ。だって、さすがにおかしい。洋装姿しか見たことのない啓明が、そんな畏まった黒紋付を着るような行事なんて――そう思っていると、啓明はその涼しい瞳を行く手から逸らした。その先に視線をやると、我が家の門構えの前に一段高い桟敷があって、文子と久子、美津子の兄、そして両親が和装で勢揃いしていた。文子は薄紅に御所車の色留袖、久子は薄縹に辻が花の振袖、稔と父は黒紋付、母は黒留袖を着ている。家族たちが浮かれたように啓明に手を振る中で、文子はひとり慎ましやかに微笑んでいた。彼らの視界の中に、美津子はいない。それは、かの名高い物語の一幕のようで、けれどひどく滑稽で、再現に失敗した寸劇のようだった。もはや、美津子は笑うしかなかった。御息所は車争いの屈辱に耐えながら御簾の影で大将の君を恨めしく思ったことだろうけれど、美津子は冷やしあめ片手にぼんやりと行列を見送った。瓶の中の冷やしあめを飲みきってしまうと、ひょいと空瓶を路傍に置き去りにして、美津子はまた手ぶらで気の向くままに歩き出した。家の前は素通りした。誰も美津子に気づくことはなかった。
きっとこれはおかしな夢の中なのだ。またそのうち目が覚めて、現実に絶望するのだ。提灯はどこまでも続いていた。町の道筋はでたらめだった。どこまでも、町は続いていた。鉦の音は鳴り止まない。不意に手を掴まれた。振り返ると、豊がいた。
「美津子さん、帰りましょう」
豊は息を切らしていた。この人混みの中で、美津子を探していたのだろうか。美津子は首を傾げる。
「帰るって、どこに?」
どうせこれは夢なのだ。さっき素通りした家は、もはや自分の家ではない。現実に帰るより、少しでも長く夢を見ていたい。美津子の手を掴んだ豊の手は、汗ばんで熱を帯びていた。するりと滑って、美津子の手は抜け出した。美津子は諦め半分に呟く。
「大丈夫よ、どうせ目が覚めるのだから」
美津子の体はふわりと浮き上がる。ほら、やっぱり夢なのだ。提灯の続く町の先へ、美津子は飛ぶように進んでいく。そうして気がつけば、朱塗りの門を構えた神社の境内へと辿り着いていた。白い玉砂利で浄められた地面に足がつく。打って変わって音は消え、人もおらず、ただ岩影から流れ出した湧水が玉砂利の谷に小川を作っていた。人目のないのをいいことに、美津子は身につけていたものを脱ぎ捨てた。下駄も、帯も、夏着物も取り去ってしまうと、洋装の白いワンピースが現れた。雑誌でしか見たことのないような、膝下までを覆う生地は陽炎のように薄く、本当にきちんと着られているのか不安になるほど締め付けがない。袖もほぼないに等しく、肩から先が剥き出しになると腕が本当に軽かった。あらわになった腕や足先は青白く骨が浮いていて、我ながらみすぼらしく思った。裸足で湧水の小川に浸ると、冷たい水が心地よく足指の間を通り抜けて熱を奪っていく。このままずっと、ここでぼんやりとひとり過ごしていようか。そう思ってふと目を上げると、和装の幼い少女が佇んでいた。
少女は七、八歳ほどだろうか。着物は肩揚げがほどこされ、兵児帯を巻いている。肩までの長さの髪はきれいに切り揃えられ、黒目がちな瞳とふっくらした頬が可愛らしい子どもだった。少女は静寂の中に、小さな唇を開いた。
「来てしまったんだね、美津子」
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