29 焦がす
「久子と申します。改めまして、よろしくお願い申し上げます」
玄関でぺこりと頭を下げた久子は、今日から嫁入り前の行儀見習いでこの家に引っ越してくることになっていた。身にまとった洋装は夏らしくさわやかな薄縹色で、当世ふうの器量よしの顔によく似合っている。後ろに控えた姉の文子よりは少しばかり大柄で、白粉をはたいたふっくらした頬に自然に桜色の血色が宿っているのが、いかにも健康的だった。これは兄も気に入るわけだと思いながら、美津子は嬉しそうな稔や父母の後ろでひっそりと見守っていた。
美津子の夏風邪が治るかどうかというところで、久子が間もなく引っ越してくるという話を聞かされ、病み上がりに早々と美津子は自室を引き払うこととなった。ようやく美津子の荷物を移動し終えたのが今朝のことで、女中も含めて大急ぎで部屋の掃除をした。久子が来る今日は、姉夫婦にあたる文子と啓明も仲人として同行してきており、稔や両親としばし今後の予定なども含めて話すとのことだった。美津子も同席するかと一応聞かれたのだが、病み上がりなのでと辞退した。実際のところは、あのまばゆいばかりの幸せな様子を見せつけてくる仲人夫婦、そして稔と久子を眺めるのが居心地悪いというのが本音だった。文子と久子の姉妹は、自分の持たないものばかりを美質として持ち合わせているし、啓明は見ているだけで胸の中を灼き焦がすようで、自分の中の嫉妬や欲望を始終刺激されるのが怖いのだ。
夫婦や仲人たちの話し合いの席は客間に設けられた。本来新しく美津子の部屋となったはずの客間の控えも、客間との間の襖を開け放った上で荷物を端に寄せられて使われてしまっている。何処にも身の置き所がない美津子は、逃げるように離れの戸を叩いた。しばらくして出てきた豊は、驚いた表情を見せた。
「美津子さん、どうされたのですか。稔さんや久子さんのお話を伺っているものとばかり思っていましたが」
「……病み上がりなので、私は失礼することにしました。客間を使っているので、少しこちらで休ませてもらってもいいですか」
美津子が正直に言うと、豊は色々と察したように頷き、上がったところの板間に散らかった本をぞんざいに端に積み上げ、座布団を並べてくれた。行儀が悪いと思いつつも、美津子はありがたくその上に横たわった。豊は傍に腰を下ろす。
「……久子さんのお嫁入り、なかなか慌ただしく決まりましたね。正式なお式などは涼しくなってからとは聞いていますが、こんなに早く引っ越して来られるとは、僕も思いませんでした」
「お兄様は、久子様のことをお気に入りでいらっしゃったから。一日も早く一緒に暮らしたいと、前々から申しておりましたもの」
もっともそれは、美津子への当てつけも含んでいただろう。お前にはこんなに思ってくれる男はいないだろうと言わんばかりだった。久子に罪はないが、あの何も知らぬ従順で無邪気な様子にすら、美津子は妬ましくなってしまいそうだった。兄の悪意にまんまと踊らされているのも癪だが、自分の気難しく神経質な性格をも嫌悪してしまう。そこに加えて仲人の啓明にまで心を乱されては、もはや自分を消したいとすら思った。どうして人の心というのはこうも面倒にできているのだろう。涙がこぼれて座布団に染みを作ってしまうのを、寝返りを打ってごまかそうとしたら、豊の手が美津子の頭を撫でた。
「……僕には、美津子さんのおつらさが全部わかるわけではありません。けれど、美津子さんの人生はまだこれからです。生きていれば、楽しいことも幸せなことも、これから見つけていくことができると思います」
「……楽しいことなんて、あるのかしら」
美津子はぽつりと呟いた。寧ろ、この人生がこれから十年、二十年と続くことの方が憂鬱だ。それならば、自分の手で楽に終わらせる方がいい。
いっそ、今ここで豊が美津子を連れ去り、二人でどこかに逃げ出せたなら。いつかの雷雨の日に夢見たことを思い出した。もはや家が燃えようが家族がどうなろうが知ったことではない。なんなら美津子が豊とどこかに消えたところで、もしかすると、両親も兄もこれ幸いと駆け落ちということにして、心配も追いかけもしないかもしれない。ただそれを、豊は実行するだけの力を持っていないだろう。豊の郷里は遠く、仕送りは途絶えがちなのを美津子は知っていた。豊が大学の研究に加えて教授の手伝いや翻訳の仕事などをこなすことで、なんとか家賃を工面し入れていることも知っていた。今それを一旦捨ててしまうことは、二人揃って路頭に迷い、野垂れ死にすることを意味する。貧困ゆえの心中は、美津子の望む死ではない。どうせ死ぬなら、潔く死にたい。
だから今は、美津子も豊も、ただ黙って寄り添っていた。鍵のかからない檻に閉じ込められたまま、二人はじっと時を待って臥していた。
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