海のきらめき

七海参

海のきらめき

その車両には、女性の他に誰もいなかった。

座るもののない座席に太陽が差し込んで、定期的に駅名を読み上げる車掌のざらついた声と、車体がきしんで揺れる規則的な音が、温かいけれどどこかくすんだ色のない空気を作り上げていた。


女性はぴんと背筋を伸ばして、けれど何をするでもなく、車窓から見える景色をただぼうっと見つめていた。

電車はいくつかの駅に停まり、そのたびに開く扉は、誰を受け入れることもなく閉じた。そしてまた、その体を重たそうに揺らしながら走り出すのだった。


両手指で足りない数の駅を通り過ぎてから、女性はのろのろと腰を上げた。

ここで降りようと決めていたわけではなかった。ここで降りようと決めたことにも意味はなかった。


二つしかない自動改札機の片方にICカードを翳して、誰も駅員のいない駅を出た。

平日の真昼間ということもあってか、町はしんと静まり返っている。駅前だというのに、女性の視界に入る人間は、向かいの歩道で歩行器とともにのっそりと歩いている老婆一人だけだった。

町全体が柔らかい日差しに照らされて、うとうとと微睡んでいた。ひなびた、という言葉がいやにしっくりとそぐっている様子だった。

もう桜はとうに散っているけれど、夏というにはまだ早い、そういう半端な季節だった。


女性はぐるっと周りを見渡してから、なんとなく歩き出した。

町に、にわかに生ぬるい海風が吹き抜けた。磯の匂いに、ああ海だ、とはっきりと思った。そういえばこのあたりは海が近いのか、とそこで初めて気がついた。

そういえば海には来たことがないんだっけ、とそこまで思って、なぜかどうしようもなく嫌な気分になった。

なぜだろうとしばらく考えてから、海には全部があるのよ、と自慢気に言った、彼女のことを思い出した。


大学時代のことだった。キャンパスの最寄り駅にある行きつけの喫茶店で、太っちゃうからケーキは我慢と笑ったあの子は、その後アイスティーを頼んで、シロップとミルクをこれでもかというほど足していた。足首まであるベージュのスカートと、袖口が伸びて薄っぺらくなった茶色のカーディガンをよく着ていた。

女性はホットコーヒーを啜りながら何となく聞き返した。

「どういうこと?」

「ほら、地球で最初の命が生まれたのって、海じゃない」

「そう、ね」

「だからね、海ってそれだけ神聖な場所なのよ。今あたしたちが失くしちゃった夢とか忘れちゃった思い出とかも、人間の想いとして寄り集まって、海に還っていってるんですって。だから、海ってあんなに、きらきらしてるのよ」


あくまで熱弁する彼女にいろいろと思うところはあったけれど、その時は適当に聞き流した。

女性とゼミで一緒だったその彼女は、スピリチュアル系のヨガや占いによく通っていて、女性を含めた周囲にもそれらを幾度となく勧めていた。


誰かの言葉や感情をまるで自分のものかのように喋る子だった。権威のある他人が力強く断定する言葉をすぐに信じる一方で、彼らがそうする理由について考えようとはしなかった。

人間関係における微妙な権力の勾配に対して極端に鈍く、そういうことに聡い人たちから眉を顰められているのをよく見かけた。いじめとは言わないまでも、周りからは緩やかに避けられているようだった。


それでも、彼女に恋人が途切れることはなかったし――その終わり方は時と場合と相手によって様々であったが、そのたび別れてから一月も置かずして新しい相手を見つけていた。

頭のいい人と結婚したいなあ、というのが彼女の口癖だった。

自分にそれと釣り合う価値を認めているというよりも、むしろ、自分の代わりに何が正しいのか決めてくれるような、そういう相手を探しているように見えた。



◇◆◇



歩いているとお腹が鳴ったので、途中にあったうどん屋に入って、かけうどんを一杯頼んだ。

「観光ですか?」

女性よりも二回りほど年下であろう若い男の店員が、愛想良く話しかけてきた。女性はゆっくりと瞬きをした。

「別に、ここへ来たかったわけではなかったんですけど」


店員は妙な顔をしてから、客商売らしく一瞬で表情を切り替えて貼り付けたような笑顔を浮かべ、なるほど、と、まるで理解したかのような無意味な相槌を打った。

「目的のない旅、みたいなことですか? よく聞きますよね、自分探しとか、そういうの」

「いえ」

女性はそっけなく即答した。今度こそわかりやすく不審そうに眉を寄せた店員をよそに、女性は独り言のように続けた。

「探したところでどうせ見つからないんです、自分なんて」

店員の青年はそれが理解できなかったようで、どうにか当たり障りのない返答を考えようと試みたのか、しばしフリーズしていた。


「わかるわよ、そういうの」

カウンターの中にもう一人いた、恰幅の良い中年女性がそう話しかけてきた。名札によると、どうやらこの店の店主のようだった。

「あたしもね、今大学生の娘がいてね、この春に東京で一人暮らし始めたんだけど。好きなことしたいって思ってたはずなのに、気づいたら独身時代に好きだったこととかも忘れちゃってるのよね。もう、子供が生まれてからはそのことばっかりだったから」

温かくて、それでいて哀愁のこもった口ぶりだった。母親になった人間の話し方だった。

女性はしばしフリーズした後、なるほど、と、これ以上なく無意味な相槌を打った。


地元で行きつけのファミレスよりもやや長い時間を待たされてから出てきたうどんは、期待値を越えない程度にそこそこ美味しかった。

丁寧に汁まで完飲してごちそうさまと手を合わせた女性に、はあいと愛想良く店員が声を上げた。


古びたレジに金額を打ち込みながら、あのねえ、と店主が切り出した。

「投げやりになっちゃだめですよ、お客さん。今は自分なんて、って思うかもしれませんけども。きっとうまくいくときが来ますから。――これがお釣りと、レシートと、それとこれ、うちのチラシです。良かったら、また来てくださいねえ」

あくまで励ますように、にこやかに言った店主に、女性は一瞬目を見張った後、おざなりに頭を下げた。


店を出てから早足で歩き出し、振り返っても店が見えないくらいまで来てから、女性は貰ったチラシをビリビリに引き裂いた。捨てようと思ったけれど、ゴミ箱もコンビニも目につくところには見当たらなかったので、レシートと一緒に丸めて手のひらに握り込んだ。


また黙々と歩き続けていると、そのうち、甲高い子供の笑い声が聞こえた。純粋さと生命力に満ち溢れたその声は、女性が見て取ったこの町の様子には似つかわしくなかった。

女性はなんの気なしに振り返った。


まだ幼稚園児であろう、小さな子供がいた。両親と手を繋いで、この世の全てを信じ切ったような顔できゃらきゃらと笑っていた。

女性は親の方へ目をやった。子供の隣で微笑む父親は、ごく普通の会社員という雰囲気で、女子会で写真を見せたら、優しそう、とか、いい人そう、とか言われるような容姿だった。


そして、反対側の母親は、ベージュのスカートと茶色いカーディガンを着ていた。

何もはばかることはないと言わんばかりの子供っぽい笑顔が、メイクをしているようにはとても見えないその顔が。

学生時代の、例の彼女の顔と重なった。


一瞬だけ大きく目を見開いた女性は、その後全てに興味をなくしたようにふっと視線をそらすと、回れ右をして、もと来た駅へ戻る道のりを歩き始めた。

それが本当に彼女だったのか、あるいは違う誰かだったのか、女性にとってはどちらでも構わなかった。彼女に似た人物が幸せそうに家族と笑い合っていた、その事実だけで女性には十分だった。



◇◆◇



そのまま国道沿いを歩いていた女性は、どこまでも代わり映えのしない町並みを抜けて、その足を止めた。


海があった。

今まで気づかなかった波音と磯の香りが、くっきりと鮮明に五感に飛び込んできた。

とろりと粘ついたような青い海と誰もいない砂浜が見えて、その手前に大きくカーブした道をせき止めるような形でガードレールがあって、その隙間から、海岸まで降りられる階段が伸びていた。


気づけば、何かに引かれるようにふらふらと階段を降りていた。

ここからは見えないどこかで、かもめが鳴いていた。

重い足をずるずると引きずって、砂浜を進んだ。

そのまま波打ち際まで歩いてきた女性は、履いていたスニーカーに波がかかった瞬間、つんのめるように立ち止まった。

女性はそっと視線を上げた。

穏やかな海は、きらきらと眩しいほどの日差しを反射しながら、まっすぐに伸びる水平線のその向こうまでずっと続いていた。


ぼうっとそれを眺めていた女性は、不意に全身の力が抜けるのを感じた。

ふらりと前にのめるような形で膝をついて座り込むと、ぱしゃんと軽い音がした。

買い替えようと思いながら捨てきれなかったスニーカーも、体のラインに合わない真っ黒なロングスカートも、海水でびしょ濡れになった。

それが予想外にひどく冷たくて、ぞわっと鳥肌が立ったけれど、立ち上がるだけの気力はなかった。

ただ俯いて、揺れる水面を覗き込んで、そこに映る己の姿を認めて、女性は小さく笑った。


きっとこれからも、私が彼女みたいになることはないのだった。

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