第二話 秘密主義

木の軋む音が今にも聞こえてきそうな、とにかく窮屈としか表現できない部屋。使い道や出どころ不明のガラクタや、ほとんど隙間なく並んだ本棚など物理的に窮屈であるのもそうだが、それ以上にこの部屋に漂うある意味異質な雰囲気が、オムに窮屈さを感じさせるのだ。

ここ所長室は、研究所の中でもっとも居辛い場所と言っても過言ではない。窓はなく、光源は暖色を帯びたランプのみで基本的に薄暗い。動線は著しく悪い状態で、薄暗さも手伝って、何かしらにつまづき盛大に転びそうになったことが何度もある。実際何かの角に頭をぶつけ、流血したことは三度ほどある。そしてそれを圧倒的に上回る数、この部屋の主はひっくり返っている。所長のいる方から突然音がしなくなったと思ったら、そこでうつ伏せに倒れ、物の間に埋もれて動けなくなっていることがある。よくわからないガラクタの隙間で気絶したかのように眠っていることがある。毎回助け起こすのだが、本人曰く「寝てただけ」らしい。それならこんなとこで寝ないでくださいと何度言っても改善してくれない。

所長本人以外に唯一この部屋への立ち入りを許されているオムが、何度整理整頓を試みたことか。結果はすべて散々だった。

ひしめき合う幾台もの本棚から、一冊でも本を抜き取ろうものなら、木材が悲鳴を上げるのが漏れ聞こえる。それは、無視するにはあまりに不気味で恐ろしく、オムに本棚が崩れ落ちてくる嫌な情景を想像させるのだ。そうなると、無闇に本棚を探ることすらできない。(所長本人が触る分には何の支障もないのが実に奇妙である)できることはせいぜい床に散乱している紙類を集めることぐらいだ。そして、その程度の掃除に効き目はない。少し目を離した隙に全て元通りになっている。それでも性根の真面目さ故に、定期的に掃除を続けているのだが。

オムは当分、環境の改善を諦めることにしている。この部屋に立ち入り始めて最初のうちは、この雰囲気に気圧されて、鳥肌が立つほどだったのは確かだ。

しかし慣れとは怖いもので、歪んだ家具配置にも随分馴染んでしまった。この部屋は”癒着している“と形容できそうなばかりに張り詰めた雰囲気を閉じ込めていて、環境自体に大きく変革はない代わりに、ごく稀に部屋の主人の気まぐれがささやかな変化をもたらすことがある。

この間は、実に通りづらかった本棚と壁の狭い隙間が大きく広がっていた。この部屋には所長とオム以外立ち入らないため、本棚がひとりでに動かない限りは所長が動かした以外考えられない。だが、それについて訪ねても所長は「そうだっけ」「覚えてない」の一点張りだ。おそらく無意識に近いほど適当に動かしたため、覚えていないのだろうとオムは推測した。

オムが本棚をどかそうとしようものなら倒れる本棚は一つでは済まないぐらいなのに、所長が適当に動かす分にはすんなりいうことを聞くようだ。どこまでも妙な部屋である。

そうして室内の動線が多少改善されたのにも関わらず、そこを通るとき、物足りなさに似た感覚を覚えたことにゾッとした。この部屋の病的な窮屈さが自分の中で当たり前になっていて、それに対して無意識のうちに執着している。

人の習性にはとにかくあらゆる慣れたものを維持したがるということがあるのかもしれない。

それは環境にしてもそうだし、行動にしてもそうだ。

やたら書類を机上に広げてしまうオムのこの癖は、所長からうつったものだった。一度身についてしまうとこれも中々離れない。

オムはバラついた書類から目当ての場所を見つけ出して、指差した。


「この成分がスパークの発生に伴って熱を発する性質があるみたいで、それから着火して爆発したんだと思います」

「へえ。どうするの」

「比率をいじってどうにかできれば一番手っ取り早いんですが、仮想質量の小規模再現が奇跡的だったのもあって、まだ検証が浅い感じはありますね」


所長の骨張った手がさらさらと書類をたぐる。こういう実験の話をする時の所長の返答はいつもゆったりしていて、その分深く考えられているようにオムには思えた。いつもの浮遊感ある会話とは違う、思慮深さを感じるからだ。


「そんな回りくどいことしないで、普通に極性加えるのじゃダメかな?」

「極性の付与って、確か魔術でしたっけ」


所長はしばらく沈黙して、


「忘れた」


と呟くように言った。


「恐らくそうですね。それだと、今回の実験の趣旨とは外れてしまうんです。火薬を加えるだけでスパークを外部出力できるようにするのが目的ですから」

「火薬入れて極性の魔術を再現できるようにすれば?その、何とかシツリョウの何とかには精密性が求められるんだろうしさ。それなら単に刺激与えたら作動する装置を作った方が、キミの言う趣旨とやらには合うと思うよ」

「僕は極性について疎いので何とも言えませんね……魔力を有する現象の物理的な指向性を捻じ曲げるものだったか、あるいは……」


どん。


考え込むオムの集中を鈍い音が破った。オムは一気に我に返り、顔を上げる。所長が自分を不思議そうに見つめてくるのが目に入る。


「オムさぁーん!いるノ?」


聞き覚えのある独特な調子の声が続いて聞こえた。背後のドアの外からだ。


「あ、はい!」


ドアまでは距離があり、中々音が通らない。そのため、オムは少し声を飛ばすことになる。


「地下室に取りにいくものがあるのヨ。一緒に来テ〜」


地下室は魔術で施錠されていて、所長かオムしか開けられない。解錠を頼んできているのだろうとオムにはわかった。

よほどの理由がある時を除いて、所員に解錠を求められるのはもっぱらオムだけだった。それは所長の不規則な行動パターンと、掴みどころのない性格のせいだろう。


「ええと……すみません、また今度この実験については話させてください」

「うん」


オムは急いで机上に広げた書類をかき集め、小脇に抱えてドアへ駆けていく。もちろんその道中には無数の紙類が散乱しているが、オムは既に、それらを踏まないよう避けて走るスキルを身につけていた。僅かに見える床だけを踏んで進む。所長は紙を踏みつけることに躊躇がないようで、薄黄色い紙の群れには所長の靴底の跡がまばらに刻まれている。

本棚と本棚の狭い隙間をすり抜けてドアにたどり着く。ドアを開けると、百吹とモーヴィスが出迎えた。


「やっと来たァ。何度も呼んだけど一向に来ないもんだカラ、いないのかと思っちゃったヨ」

「すみません、実験の件で話し込んでしまって」

「また所長と長話?オムさんって、すごいよネェ」

「あの人と真面目な話できんのはオムぐらいだよな。俺らがしようとしてもなんか成り立たないって言うか」

「所長は話すペースがゆっくりなだけですよ」

「そうかナァ。オムさんが辛抱強いだけな気がするケド」

「辛抱強い?僕がですか」

「自覚ないトコが謙虚ってか、真面目ちゃんだよネ」


百吹は少しいたずらっぽく微笑んだ。


「よほど生真面目じゃなきゃ所長の相手なんかしてらんねえわな……」


モーヴィスはどこか遠い目をしている。


「なんか、所長って秘密主義?だよネェ」

「ああ。本当に」


百吹はさっきオムが出てきた所長室のドアを指差した。


「そこの所長室だってサ、認識阻害かなんかかかってるデショ?オムさんが開けた隙に見ようとしても、中が信じらんないぐらい真っ暗なノ」

「え?」

「まさかとは思ってたケド、気づいてないのネ……もしかして、オムさんと所長本人には関与しない認識阻害なのカナ。え、そんな事できるノ?」

「さぁ?俺は魔法にあんま詳しくねえからわかんねえ。でもんな話聞いた事ねえけど」

「だよネェ。わたしも聞いたことない」

「偏った技術ってことですか……でも、所長が魔法に詳しいかと言うと……」


オムは何を聞いても「忘れた」とか「わかんない」とか言う所長の顔を思い浮かべた。あと、細かい作業や複雑な作業をやらせるとことごとく失敗する不器用さも。所長が魔術についての知識量や技術力に長けているようには、とても思えない。


「違うノ?」

「まぁ……でも、妙なところで詳しいのは同感します」


モーヴィスは髪をかき乱した。


「はぁー。やっぱさ、全ッ然所長のことわかんねぇんだよなぁ!そもそも、所長の名前すら知らねえし」

「そうそうッ!いつかオムさんに聞こーってずっと思ってたんだケド、所長の本名って何なノ?」

「え」

「わたしたち、ここに来て最初の頃は所長の存在すら知らなかったんだヨ。わたしたちをここに置いてくださいって相談したのも、丁度玄関にいたオムさん相手だったし……オムさんの口ぶり的にもう一人ぐらいいるんだと思ってはいたけど、オムさんじゃなくてあの人が所長なノ!?って知った時はすごくびっくりしたんだカラ!」

「ほんで、会ってみても自己紹介どころかこっちのことも全然聞かないで、なんか無関心?みたいな感じだったしよ。でも無愛想ってわけじゃないし……ほんと掴みどころねぇんだよ。しかも、なんか怖くてさ。本人に聞くにも聞けねえんだ」

「オムくんナラ所長のことたくさん知ってるデショ?もちろん、名前だって!」

「あー……」


目を輝かせて尋ねてくる百吹に、オムは目を逸らしたくなった。


「な、何デス?そのリアクション……」

「まさかオムでさえ知らないとかじゃねえよな?」

「あーいやその……」


知ってはいる。知ってはいるのだ。


「……”わなし“です」

「はい?」

「は?」

「な、梨?」

「多分、果物の梨じゃないただの“わなし”です」

「”わなし“」

百吹とモーヴィスは顔を見合わせた。

「へ、変な名前?だネ。どこの言語?どういう綴りなノ?」

「……おそらく表記上はひらがなかと」

「え、ひらがな?それ名前なノ?」

「流石に違う、とは思うのですが、そうとしか言ってくれないので」

「適当にほどがあんだろ。もしかしてあだ名か?」

「僕も何度か聞き直したのですが」


オムは神妙な顔でうつむいた。その表情を見るに、オムは冗談も嘘も言っていないと二人はわかった。


「えぇ〜……じゃ、じゃあ、わなしさんって呼べばいいのカナ?」

「いや、そう呼ぶと返事しなくなります」

「えぇ?」

「自分が呼ばれてるって気づかない感じですかね……それでも呼び続けて気づかせると、所長って呼べと不機嫌になります」

「え、何それ自分の名前って自分で言ってんだよな?」

「不思議、ですよね」

「不思議とかじゃなくてちょっとイッちゃってんだろ」

「ちょっとイッてる、かもネ……」


百吹はオムを見上げた。


「所長って本名も謎だらけだネ……所長っていったい何者なノ?」

「何者も何も、あの人は所長ですよ」

「それはわかってるケド。なんかこう、もっと他にないのカナ?年齢とかさァ!」

「……聞いたことはありますが……」

「またはぐらかされたわけ?」

「忘れた、と一言だけ」

「はぐらかし方も雑じゃねえか」


百吹の懐疑的でありながら、少しの好奇心に輝く瞳と、モーヴィスの怪訝一色の視線が突き刺さるのを感じる。

所長が本名を明かさないことには理由があるのだろうか。それともただ単に言いたくないだけなのか。

もし後者だとしたら、それは何故だろう? そもそも名前なんてただの識別記号に過ぎないじゃないか。そこに何か深い確執でもあるのだろうか……本名が珍妙で恥ずかしいとか?どんな名前でもわなしの方が奇天烈な気がするが……

いや、やめよう。


「……ところで、地下室の方はいいんですか?」

「あ、ああ。そうだった。俺は石の貯蔵庫に用があってさ」

「わたしは暗所で育てる植物ネ」


常人よりは知識への欲求を持つはずのオムが、しつこく彼の素性を探ろうとしないのは。

オム自身気づかれていないだけで、百吹の言うような秘密を抱いているからだ。所長がオムのことを深く聞かないように、オムも所長のことを問い詰めたりはしない。自分には所長をしつこく問い詰める権利はない。

所長が、僕を知ろうとしない限りは。

そんな理屈で己の好奇心を抑えている。だが、互いを知ろうとしないこの奇妙な関係を取り持ちたがるのには、そんな理性的な理由だけでなく、この関係が崩れるのを恐れているというのも、一つはあったかもしれない。


深淵は、まだ覗かないから。

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Unknown Journey @16040005

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