常は泡沫也。

第一話 いつもと同じ


キッ。


「あ」


フラスコが妙な音を立てるのと、青年が妙な声を上げたのは、ほぼ同時だった。


キィーッ、パリン!ブチッ。


そこに、出来損ないの笛のような甲高い音、ガラスの破片が飛び散る嫌な音、チューブの破裂する鈍い音が続く。

青年が我に返り、身を引いたときには、身につけた白衣は薬品に染まっていた。


「あー……」

「何?」

「ば、爆発しました……すみません」


呆然とする青年に背後から声をかけたのは、コートに身を包んだ眼鏡の人物である。


「へえ」

「すみません……ガラスとか、そっちに飛んでませんか?」

「いや。音が聞こえただけ」

「良かった。怪我はないですよね」

「うん」


青年は落胆したように肩の力を抜いて、うっすらと煙を出すフラスコの残骸を拾い始めた。


「それ、毒性とかないの?」

「はい。引火性というか、燃焼性が高いだけで……って、僕、説明し忘れましたっけ?」

「聞いた覚えはないけど」

「ああ、ごめんなさい……」


青年は謝り通しである。


「所長、もう一回爆発する可能性もなくはないので一度外に出てもらっていいですか?片付け終わったら声をかけますから」

「その白衣に付いてるやつが燃えたらどうすんの」

「僕が着てるのには防火性能があるので、平気だとは思いますが。何より所長は燃えやすそうなので」

「ワタシが着てるの革だけど」

「いえ、性格的に……」


所長と呼ばれた人物は首を傾げた。


「何が?」

「あ、いや、そういうつもりじゃなくて」

「まあいいや」


青年は弁明しようとしたようだが、所長は無視して、部屋を出ていこうとした。だが、何かを思いついたかのように、ドアの前で青年の方を振り返って、


「バケツで水汲んでこようか」

「え?」

「その変な薬品、流すのに要るでしょ」


青年は驚いたような顔をした。


「いや、その、これは僕の過失ですから」

「要らないの?」

「要らなくはないんですけど……」

「じゃあ取ってくるから」

「あ、ありがとうございます」


瞳を瞬いて表情にうっすら訝しげな色を浮かばせる青年に気づく様子もなく、所長はその場をからりと去っていった。

青年は足音が聞こえなくなるまで、彼の去った方を見つめていた。




御椀をひっくり返したような形のガラスの外壁。その鉄の仕切りの間から燦々と日光が差し込んでくる。目元に差し込む光は木の葉の下を通っているせいで点滅するように感じられ、明滅する眩しさに彼は目を細めた。


「あッ所長!」


そんな植物園を歩いていた彼の耳に、軽やかな声が入ってくる。そちらを振り向くと、そこにはオーバーサイズの白衣に身を包んだ少女がいた。


「ああ……」


彼は感嘆詞を漏らした。少女は彼に駆け寄っていく。


「また来てくれたんだネ!からくりばっかいじってる”アレ”と違って、植物好きで大変よろしいナァ」


少女の言う”アレ”が何を指しているのかも彼にはわからなかったが、一番わからないのはその後だった。


「植物好き?」

「そうだヨォ、いつも来る時覇気がないけど、もっと、植物が好きだ〜!ってアピールしていいんだヨ?いくら隠したって、このあたしにはわかるんだカラ!」

「隠すって、何を」

「植物好きのオーラ」


彼はしばらくの間逡巡しなければならなかった。『植物好きのオーラ』という単語があまりに不可解だったからだ。


「ワタシが?」

「うん、モチロン。植物園にこんな頻繁に寄ってくれるの、貴方ぐらいだヨ?」

「そんなに来たっけ」

「毎日は流石に、頻繁の範疇に入りますヨ」

「ワタシが毎日、ここに?」

「やだナア、すっとぼけちゃっテ。今日なんてホラ、水やりする気まんまんじゃないノ」

「水やり?」


彼は首を傾げたが、少女はさらに微笑んで、


「すっとぼけるのが下手なんだネ。植物園に来て、あげく両手にバケツまで持っといて、水やりする気がないなんて言わせないヨ」


彼は自分の両手にぶら下がった、水で満杯のバケツに視線を落とす。

やけに両手が重いと思ったら、バケツを持っていたのか。彼は一人で納得した。


「さァ、それで水やり以外に何をするつもりだったノ?」


自信たっぷりといった様子の少女。彼はやはり、しばらく沈黙しなければならなかった。自分は何故バケツを持っているのか……


「……なんだっけ」

「嘘が思いつかなかったんナラ、深くは聞かないであげるヨ。じゃ、片方貸しテ!」


少女は彼が左手に持つバケツを取って胸に抱えた。彼は左手が軽くなったことに感動して左手を開いたり握ったりした。


「ちょうど野菜ゾーンのほうの肥料を撒き終わったのヨ。肥料の後はたっぷりの水!タイミングが良かったネ」


少女が歩いていくのに、彼はついて行った。やがて少女は目当ての場所についたらしく、歩道から外れて土に足を踏み入れる。彼もそれに続く。


「均等になるように、パーッとやるんだヨ……こうやって!」


少女はそう言って膝を曲げた。彼が何かと思った次の瞬間、少女は勢いよくバケツを振った。


バシャーッ!


バケツの中から生き物のように水が飛び出す。水は広く撒き散らされて、うす茶色い土を薄黒く染めた。


「こんなふうに上手く撒けるようになるのにも、コツがいるんだヨ」


職人のような表情で少女は言う。


「大丈夫、所長みたいな植物好きナラすぐ習得できるヨ!」


彼が少女の意見に賛同したかは別として、少なくとも少女がやった水撒きは楽しそうに映ったらしい。

彼は少女に習い、バケツを両手で持って膝を曲げた。バケツの中の水ががらり、という妙に不気味な音を立てる。少女は、そこではじめて顔色を変えた。彼の目に、自分の存在が入っていないことに気づいたからだ。


「ちょ、退くから待ッ……」


彼にはその声は届かなかった。


バッシャーン!


「ぐワーッ!」


少女の断末魔がガラスの外壁を震わせたのだった。





研究所の廊下にも、その断末魔は響きわたる。


「……また百吹もぶきがなんかやってんのか」


木材や何らかの部品を抱えた獣の耳の男が、呆れた表情で呟いた。


「植物園がもうちょっと静かな場所だったら、昼寝場所ぐらいにはなるんだがなぁ。たまに行ってやっても百吹のうんちくを聞かされるばっかだし」

「あ、あの、モーヴィスさん」

「うわっ」


そうひとりごつ男、モーヴィスは、背後に近づいていた青年に声をかけられるまで気づかなかった。


「なんだ、オムか」

「えっと、驚かせちゃいました?」

「ちょっと考え事してただけだよ。てかオム、今日は実験じゃねえのかよ?」

「それが、その……バケツ、見てません……?」

「バケツ?炊事場に二つあるだろ」


オムと呼ばれた青年は、その言葉に気まずそうに目を伏せた。


「そのバケツが、二つとも炊事場にないんです」

「は?誰かが使ってんのか。いやでも、百吹は植物園に居るし、植物園のバケツ使えばいいからそんなとこのバケツ持ってくわけないし」

「僕も百吹さんではないと思いますが……」

「そういや所長も植物園入ってったの遠目に見たな。余計、所長がバケツ持ってくわけもねえしな……」

「今なんて言いました!?」

「え、どうした」

「所長が、今、なんて……?」


すっかりしおれていたオムが突然活力を取り戻したので、モーヴィスはびっくりして訝しんだ。


「いや、所長が植物園に行ってたなぁって」

「何故……」


と思ったらまた萎びれた。一体どうしたというのか。いや、大体の予想はつくが。モーヴィスはため息をついた。


「なんかよくわかんねえけど、また所長に振り回されてんのか」

「いや、いいんです……僕が彼一人に任せたのが悪いので……」

「任せたって、何を?」

「バケツで水汲んできてって、お願いしてしまって」

「え、それだけ?」

「はい。フラスコが爆発して飛び散った薬品を拭き取るための水を」

「そんなんバケツ二つ分も要らねえだろ。てかなんでバケツ持って植物園行ったんだよ」

「僕にもわかりません……」


モーヴィスは、そう言ってうなだれるオムを哀れみの目で見つめることしかできなかった。

所長の奇行というか、脈絡のない言動は今に始まったことではない。彼は、彼の助手であるオムでさえ計り知れない人物らしいし、それについて気を揉むのも珍しいことではない。

俺達にできるのはただ嘆くことだけだと、モーヴィスはオムと共に天を仰いだ。

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