Unknown Journey

偶像崇拝

ふと目覚めても、視界を出迎えるのはいつもの天井ではない。あの天井が、自分の中で既に馴染みあるものになっていることに目覚める度気づいて、その度無性に不快だ。


あの場所を離れても生活と心身が改善することもなく、むしろ堕落したように感じる。進歩を期待していたわけではない。しかし、あの場所の影響が容易に取り払われることはないのだと実感すると余計に不愉快だ。


もう何日部屋から出ていないのか。外の音が漏れ聞こえないこの空間からは、外界の様子を想像しがたい。社会からはあまりに隔絶していた。長期滞在者向けの宿は、長い間外出しない客を不思議に思わないのだろうか。それとも、客のことなんて気にしていないのだろうか。そういう想像すらも、非現実的な浮遊感に刈り取られる。まともな思考すらままならない。


防音魔法の張ってある部屋を選んだのは、世の中の喧騒から身を守るためだった。だが、自分の息遣いだけがこだまするこの静寂が、返って精神をすり減らしているような気がしている。


情緒は完全に脈絡を失って、脳細胞は死滅したかのように思う。


僕はもう、この感情を後悔と呼んでいいのかわからない。


僕は決して、彼らから逃げたかったわけではない。彼らのことなどはどうでもいい。

一番逃げたかったのは、他でもない僕自身からだ。今この場を離れなければ、気が狂ってしまうと本気で思った。


この世界は狂っている。それでも、だからこそ、自分だけは正気でいたい。己と言う拠り所さえ失くしたあの日の感覚を、もう二度と味わいたくない。


そう思った時点で、既に狂っていたのかもしれない。


彼らは分厚い認知の壁を通してしか他人を視認できないらしい。見えていないのとほとんど同義であるように、彼らは盲目的だ。


彼らが僕を目の前にする時、彼らが見ているのはただの幻である。僕はそれがどうしようもなく腹立たしい。理由は言葉にならない。鈍感な生き物を眺めている時のようなもどかしさ、見世物にされるときの屈辱、言葉を知らない白痴と出会った時のような焦燥感。そういう全てがひたすらに不快なのだ。 抑えても抑えても収まらない苛立ちが、やがて殺意にすら変貌し始める。僕が僕のものでなくなったかのように制御が効かなくなる。僕はそれが怖い。


だからあの場所を去った。僕はどうしても彼らと同じ空間に居られなかった。仕方なかった。例えば、あの場所が僕を普通にしてくれるとしても、僕はあの偶像崇拝的な空気にはとても耐えられないから。


彼らは僕のことなんてすぐ忘れるだろう。また新たな偶像を探し回るまでだ。幸いこの世界には、都合の良い偶像になり得そうな人間が山ほどいる。僕の代役に困ることはないだろう。代役は、何なら僕に似ていなくても構わない。彼らが欲しているのは僕ではなく、手頃な偶像にすぎないのだから。


こうして思考を巡らせるだけで、理性が途切れそうなほど殺意が込み上げてくる。僕が制御できない”僕“は、あの場所を離れても容易に消えるものではないらしい。


この世界はどれほどまで僕を苦しめれば気が済むのだろうか。もう、自分以外の何もかもを失ったのに。

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