【完結】パパさんの魂を悪魔が買いにやって来た(作品230824)

菊池昭仁

パパさんの魂を悪魔が買いにやって来た

第1話

 新橋駅のガード下、居酒屋『源五郎』には仕事帰りのサラリーマンやOLが、会社での愚痴や不満、上司の悪口や恋話を肴に安い酒を飲んでいた。

 時々電車の音と振動で話題が中断してしまい、今、何を話していたのかを忘れてしまう、そんな居酒屋だった。


 赤ら顔の会社員が熱弁を奮っている。


 「だから俺は課長に言ってやったんだ! そんなに偉そうに言うんだったら自分で・・・」


 ガタンゴトン ガタンゴトン ゴーッ ガタン ピロロロロー ピロロロロー 危ないですから黄色い・・・


 「あれ? 俺、今なんの話をしていたんだっけ?」

 「やだなー、大崎主任。もう酔ってるんですか? あのピンサロは安くて良かったっていう話っすよー」

 「ああそうそう、それでとってもオッパイのデカイ・・・」


 となり、またある社内不倫のカップルは、


 「俺たち、もう別れ・・・」


 ゴーッ ゴーッ 危ないですから ピロロロロー ピロロロロー ガタンゴトン ガタン ガタン


 「それで今日のラブホはどこにする?」

 「いやん、課長のエッチ・・・」


 と、そんな調子のある意味平和な居酒屋だった。

 そして今日は金曜日、いつものように万年係長の小川義男が店にやって来た。


 「税込み1,000円の『ちょい飲みセット』をお願いします」


 するとバイト店員のフィリピン人留学生のジュリアが、ピンサロと同じおしぼりを係長に渡した。


 「イツモノ ヤスイ ヤツネ? チンポ」


 ジュリアが片言の日本語で言った。

 ジュリアは日本に来てまだ三か月、昼は早稲田の大学院で「高齢者の性衝動に関する行動分析をガルブレイスの経済理論に基づき検証する弁証法的帰納法による唯物論的研究」というどうでもいい研究に没頭している女子大生だった。

 彼女はマニラ大学を首席で卒業した才媛だったが日本語がまだ出鱈目で、失礼極まりない日本語だった。


 「オイ ハゲオヤジ オマチドウサマデシタ タマニハ ホカノモタノメヨ ボケ チンポ」


 誰が教えたのか、ジュリアは必ず言葉の最後に「チンポ」と付けた。

 ジュリアはそれが正しい日本語だと信じている。


 小川係長は何も言わず、『ちょい飲みセット』の冷凍焼けしたドドメ色のびんちょうマグロの刺身に、たっぷりと醤油をつけて頬張ると、泡が4割を占めている温い発泡酒を美味しそうに飲んだ。



 「ぷは~、仕事の後のビールは最高だな? しあわせしあわせ」


 係長の幸福に対する基準は、驚くほど低かった。

 そんな係長のテーブルを、巨大なゴキブリが悠然と通って行った。

 それは黒い革靴くらいのゴキブリだったが、いつものことだったので小川係長は慣れていた。

 以前、それをヤンキー店長に注意したら、


 「お客さん、ゴキちゃんも来るくらい、うめーってことっすよ!」


 と言われ、それ以来何を言うのも止めた。

 この店ではクレームは無視される。



 蒸し暑い夏の夜だった。

 するとそこへシルクハットに黒マント、内田裕也の持っていたようなステッキを持った、鷲鼻の40才くらいの男が係長の前に立っていた。



 「それは人間の食べる物ですか? その『ちょい飲みセット』の枝豆は昨日のお客の残り 物ではありませんか? それにジンジロ毛も混じっている」


 小川係長はそれを気にすることなく言った。


 「仕方がありませんよ、ここは新橋ですからね? これでもサラリーマンのオアシスなんですよ、ここは」

 「相席させていただいてもよろしいですかな?」

 「どうぞどうぞ」


 男はジュリアを呼んだ。


 「お嬢さん、すまないがシャトーマルゴーの1984年のワインとフォアグラとベルーガのキャビア、それからカマンベールにオレンジマーマレードをつけて下さい」

 「そんな物、この居酒屋『源五郎』にはありませんよ」


 小川係長がそう言うと、


 「カシコマリマシタ、チンポ」

 「えっ、そんなのあるの? この店に?」

 「アタリマエネ オマエ タノンダコトネエダロウコノヤロウ チンポ」

 「まあ、それはそうだけど」

 「コノ ビンボウニン チンポ! アハハハハ」


 ジュリアは笑って厨房へそれを伝えに行った。



 「ワイン、フォアグラ、キャビア、オレンジマーマレード・カマンベール、イッチョウ チンポ!」

 「あいよ、チンポ!」


 どうやらこれを教えたのはヤンキー店長のようだった。

 笑い転げる店長たち。笑いすぎて過呼吸になり、酸素マスクをつけている者までいた。



 「申し遅れました、わたくしメフィスト・フェレスと申します」


 メフィストは小川係長に名刺を渡した。

 

 「悪魔? メフィスト・フェレスさん? どうも、小川です。すみません、名刺は会社にあるもので・・・」

 「いいんですよ、あなたのことは調査済みですから。

 ところで小川さん、あなたは実に素晴らしい魂をお持ちだ。

 涎が垂れてしまいそうなほど美しい。

 小川義男58才。ヤマネコ運輸、万年係長。

 部下や同期にどんどん先を越され、家でも邪魔者扱い。

 毎週金曜日の夜、『ちょい飲みセット』が唯一の楽しみ。

 いかがです? 私にあなたの魂を譲っていただけませんか?」


 すると係長は、


 「浮気調査ですか? だったら家内に言って下さい、浮気するお金もないとね?

 僕は月1万5千円のお小遣い制なんです。しかもランチ代込みの。

 高校生の娘は3万円なのに僕はその半分なんです。

 そんな僕が浮気など出来るわけがない」

 「実にお気の毒ですな? 聞くに堪えません。

 もしあなたの魂を私にお譲りいただけるのでしたら、あなたに男爵の称号を与え、王宮での酒池肉林をお約束いたします!」

 「何をバカなことを言っているんですか?

 魂を売ったら死んじゃうじゃないですか!」

 「ご心配なく、納品は3年後で構いません。

 その間、あなた様は王宮で美女たちに囲まれ、贅沢三昧の毎日を送るのです。

 悪い話ではないと思いますが?

 定年してこれから先、100歳になるまでの人生を想像してみて下さい。

 まさに生き地獄ですよ?」


 そこにジュリアが料理を運んでやって来た。


 「オマチドウサマデシタ チンポ」


 この美しいフィリピーナのジュリアが言うと、なんだかフランス語っぽく聴こえるから不思議だ。

 ワインを上品に小指を立てて飲むメフィスト。


 「どうです、考えてみては・・・」


 ゴオッー 


 電車の音でメフィストの声がかき消され、途絶えてしまった。

 小川係長は酒に弱い自分が酔って夢を見ているのだと思っていた。



第2話

 「ただいまー」


 女房と娘はテレビを見て笑い転げていた。


 「あはははは、ねえ乃亜、見て見てこの吉本の『びびでばびデブ』ってチョー笑えるんだけど!」

 「ママ、このお笑い芸人、今、ヤバいんだよ」

 「そうなの? ヤバいの? バカみたい! お尻なんか出して! あはははは!」


 

 小川係長は戸棚から、電子レンジでも袋ごと大丈夫なレトルトのボンカレーを取出しチンした。

 炊飯ジャーからご飯をよそり、ボンカレーをかける係長。


 「ボンカレーはカレーの王様だな? 実にウマい!」


 美味しそうにボンカレーを食べる小川係長。


 

 食事を終えると係長は食べ終えた食器を自分で洗い、風呂に浸かった。


 「ああ、今日もいい一日だった。極楽極楽」


 すると女房たちの入った後の、炭酸の抜けたバブのお湯の中からまたメフィストが現れた。


 ブクブクブクブク サッブーン


 「なななな、なんだお前は! 

 お前は引田天功なのか!」


 係長は思わず湯舟に沈んでしまいそうになるほど驚いた。


 「先ほどは大変失礼いたしました。

 どうしてもあなた様の魂が欲しくて、このようなストーカーまがいのようなことをしてしまい、どうかお許し下さい」

 「だから言ったでしょ? 魂は売らないって!

 出て行って下さい、このお風呂から早く!

 だいたい何ですか? シルクハットに黒マント、おまけに爪先の丸まった靴まで履いて、そして内田裕也さんのステッキまで持って!」

 「申し訳ございません、そのままあの居酒屋からテレポーテーションして参りましたもので」

 「いいから魂は売りません! 絶対にです!」

 「そうおっしゃらずに」

 「警察を呼びますよ!」

 「わたくしは絶対に諦めませんからね? 

 ネバーギブアップ!」


 そう言ってメフィストはまた、湯舟の中に沈んで行った。




 風呂から上がり、係長は2階の寝室へと入って行った。

 この家は妻の静枝にせがまれ、35才の時に買った2LDK、28坪の建売住宅だった。

 売れ残りの最悪物件だった。

 それをイケメン住宅営業マンにメロメロだった静枝が決めた家だったのだ。


 「これ、下さい。うっとり」


 家は一生のお買い物、それを八百屋さんで大根でも買うかのように決めちゃった静枝。

 嵐やV6、関ジャニ∞のようなイケメンだった。

 その建売住宅は係長の都内の職場からは電車で1時間半もかかり、35年の住宅ローンは70才まで延々と続く家だった。

 定年になって職を失っても、その後10年もローンを支払わらなければならない。

 住宅ローンは恐ろしい悪魔の呪いだ。

 支払回数420回、自分に生命保険までかけて支払いを続けるのだ。


 でも係長自身は持ち家には拘ってはいなかった。

 係長には欲が無かった。

 大きな家が欲しい、ベンツが欲しい、毎日キャバクラに住みたいなんてことは思わない人だった。

 当然見栄も張らない。

 家は風呂とトイレ、キッチンと台所、それに茶の間があって、そこに家族が雑魚寝でも十分に良かったのだ。


 豪華なダイニングキッチンは高級フレンチの店に行けばいいし、ホームシアターなどは映画館に行けばバケツでポップコーンを食べながら、大きなカップでコーラを飲みながらドルビーシステムのデッカイスクリーンで観ることが出来るし、大きな風呂は源泉掛け流しの日帰り温泉に行けばいい。普段はシャワーで十分なのだ。

 畳一畳もあればそこで何でも事足りると、小川係長は思っていた。



 妻の静枝が寝室にやって来た。


 「おやすみなさい」


 係長は久しぶりにムラムラとし、静枝に声を掛けた。


 「なあ、いいだろう?」

 「したいの? まだ乃亜が下で起きてるから早くしてよね? ハイ、1万円。前金になります」


 それが静枝とのエッチの時の決まりだった。

 家庭内デリヘルシステム。

 したい時は前金で1万円を女房の静枝に渡さなければやらせてはもらえなかった。

 そして各オプションはそれぞれ1,000円を支払わなければならない。

 係長は三カ月掛かってようやく貯めた1万円を静枝に渡した。

 すると静枝はパジャマの下とおばさんパンツを脱いで、


 「さっさと出してよね? 明日、パートで早いから」

 「わかっているよ」


 係長がキスをしようとすると、

 

 「そんなのいいからさっさと出しなさいよ!」

 「う、うん」

 「それとも手でする?」



 早漏気味の小川係長はすぐにイキそうになり、


 「で、出るうっ!」

 

 と、あっけない幕切れとなってしまった。

 勿体ない。

 静枝はそれを事務的にティッシュで拭き取り、ゴミ箱へ捨てるとパンツを履き、パジャマの下を履いた。


 「ありがとな?」

 「どういたしまして。おやすみなさい」

 「おやすみ」


 3か月に1度の性欲処理が虚しく終わった。



 

 翌朝、係長はいつものように6時に起床し、駅まで静枝にクルマで送ってもらい電車に乗った。

 満員電車に揉みくちゃにされても、痴漢に間違えられないようにと、係長はいつも両手はバンザイ状態にしていた。

 90分のバンザイ状態、それは拷問にも等しい。

 高校の野球部の虐めじゃあるまいに。

 そしてヘトヘトになりながら、やっと職場へ到着する毎日だった。

 でも係長は愚痴は言わないし、それを辛いとも思わない。



 「小川係長、困りますよこの稟議書じゃ。これでは上にあげられませんよ。

 もう一度書き直して下さい」


 課長の飯島は新卒で入社して来た係長の部下だった男だ。

 飯島は37才。最年少のエリート課長である。

 仕事のイロハを教えたのは係長の小川だったが飯島はセンスがあり、どんどん顧客を拡大して昇進していった。

 小川係長をあっさりと追い抜いて、今や彼が小川係長の上司である。

 飯島はそんな係長を気遣っていた。

 内心では小川係長を尊敬していたからだ。

 飯島課長は40才には間違いなく部長になっているはずだった。



 係長のお昼は立ち食いそば屋の『じじそば』で大盛りかけ蕎麦350円にネギと天カスをどっさりと乗せて食べるか? 『吉田屋』の牛丼、並、ツユだくだくの牛丼か? あるいは『日低屋』のラーメン、280円のヘビーローテーションだった。

 今日のランチは『じじそば』の日だったのでかけ蕎麦を啜っていると、そこへまたメフィストがやって来た。


 「こんにちは小川係長さん。夕べはどうも」

 「またアンタか? だから俺は浮気なんかしないし、出来ないの!

 一日500円玉一枚渡されて、このおつりの150円を必死でブタの貯金箱に貯めているんだ!

 昨日は女房に1万円も取られちゃったし。

 浮気なんて絶対に無理!

 わかったらとっとと帰ってくれ!」

 「私は興信所の者ではありません。私は悪魔です。

 あのー、すみません、海老天ぷら、そばでお願いします。

 昨夜もお願いしましたが、是非とも小川さんの魂を私に譲って欲しいのです。

 どうです? 王宮での夢のような暮らしが待っているのですよ?

 昨夜の奥様との味気ない、オナニーのようなエッチではありません、あんなことやこんなこと、そしてそんなことやあんなことまでしてくれる、パリコレのスーパーモデルやグラドル、そしてあの有名な『だん兵衛』のCMの女狐のような女優さんのそっくりさんとも・・・」

 「そんなのどうでもいいことです。私は魂は売りません!」


 天ぷらそばが出来上がった。


 「はい、島原産車エビの天ぷらそば、おまちどうさまでした!」

 「あ、ありがとうございます」


 お蕎麦を食べ終えた係長の後ろ姿を目で追いながら、メフィストは天ぷらそばを啜っていた。

 

 「ああ、あの魂が食べたい!」


 メフィストは海老の尻尾まできれいに食べる悪魔だった。



第3話

 終業のチャイムが鳴った。

 最近では「働き方改革」とかで、労務の方から勤務時間が厳しくチェックされ、定時で上がることが義務付けられていた。

 

 小川係長の若い頃は、深夜の残業などは当たり前で、午前2時に仕事を終え、それからみんなで近くのラーメン屋に行き、餃子をつまみにビールを飲み、ラーメンを食べて朝の始業時間まで会議室の椅子を並べて仮眠するのが当たり前の時代だった。

 だがその頃の方が今よりも楽しかった。

 働いている、生きているという実感があったからだ。

 今では何でもかんでもコンピュータで管理され、行動記録も携帯のGPSで見張られていた。

 特に現場を知らない連中は「お客様が一番だ!」と喚き散らし、お客さんの都合に合わせて配達するという、時間指定配達を導入した。

 おまえら自分で配達してみろ、バカ!

 お米やリンゴがぎっしり詰まった箱を持って、エレベーターのない5階の団地に運んでみろっつうの!

 そして階段を上がり、やっと5階に辿りついてチャイムを押しても出て来ない。

 部屋の中からは女の喘ぎ声。

 仕方なくまたクルマに戻って次の配達先に行こうとすると、


 「何やってんだ! 今すぐ持って来い!」


 と携帯で怒鳴られる始末。



 データだけを見て、あれが悪い、これがダメという前に、もっと現場の苦労を分かってあげて欲しい。

 小川係長は現場想いの人だった。

 そんな係長は現場からの信頼も厚い。


 「いいよ係長、俺が運んでやるから」

 「いつもすまないね? 虎次郎さん」

 「いいってことよ、俺と係長の中じゃねえか? 困った時はお互い様よ、なあサクラ?」

 「ありがとう、虎次郎さん、サクラさん」




 定時に会社を出て、満員電車に揺られてまた1時間半、そこから歩いて30分。

 電車の待ち時間やなんやらで、それでも家に着くのは19時半を過ぎてしまう。

 一日のうち、往復で約5時間がこの過酷な通勤で占められていた。

 睡眠で8時間、通勤で5時間、一日24時間の約半分の時間が無駄に消えていた。

 単純な話、35歳で家を買った係長の人生が、定年までの25年の間に、そのうちの約6年もがこの通勤に消えてしまうというわけだ。

 電車のグリーン車で座ることが出来て、寝たり、本を読んだり、ツイッターをしたり、エッチな動画を見ていられるなら通勤も有意義ではあるが、満員電車の押し競饅頭の中、バンザイ状態の通勤は地獄である。

 小さな家の住宅ローンを払うために、係長は人生を無駄にしていた。

 小川係長は思う、住宅ローンのために生きているようなものだと。


 係長は永谷園の鮭茶漬けにお湯を注ぎながら、テレビのバラエティ番組を観て大きな口を開けて笑っている女房と娘を見て、係長は溜息を洩らした。


 (こうやって、俺の人生は過ぎていくんだなあ?

 定年になったらどうして暮らそう? 

 年金を貰うにはまだ早いし、住宅ローンはあるし。

 取り敢えず、ヤマネコの営業所で荷物の仕分けでもするしかないか? 年寄りには辛いだろうなあ。

 趣味もない、お金の掛かる趣味は静枝に叱られちゃう。

 いいや! そんなのは贅沢な話だ!

 健康で仕事もあり、家族もいて、小さいけれど持ち家もある。

 毎日こうしてご飯が食べられて、お風呂にも入ることが出来て、ふかふかの布団で眠ることも出来る。

 3か月に1度は静枝も夜のお相手をしてくれる。お金は盗られるけど。

 こんなにもしあわせなことはないじゃないか!)


 小川係長はスーパーの特売で買った、1本98円の発泡酒を大事そうに大事そーに労わるように飲んだ。


 「しあわせ、しあわせ」


 この言葉が係長のいつもの口癖だった。




 その頃、課長の飯島は総務の梢とラブホでニャンニャンしている最中だった(羨ましい)。

 飯島は梢と社内不倫をしていた。


 「ねえ、飯島ちゃん、あの小川係長って課長の元上司だったんでしょう? 

 自分の部下が自分の上司になるって、チョー笑えるんですけど」

 「係長のことを悪く言うもんじゃない。俺はあの人から仕事のイロハを教えてもらったんだ。

 悪い人ではないし、仕事が出来ないわけでもない。

 ただ、あの人が万年係長止まりなのは、出世に興味がないからなんだよ。

 小川さんは、いつもあれで満足なんだ」

 「へえー、係長さんって欲がないんだねー。

 コズピョンにはわかんないなあー。

 ねえ、もう一回しよ♪」

 

 そう言って梢は飯島にチューをした。



 飯島はパッコンパッコンしながら悩んでいた。

 それは北島部長から小川係長の子会社への出向を打診されていたからだった。



 「飯島課長、小川係長のことなんだがあの人もあと1年で定年になる。

 本来なら定年延長で65才までは雇用されるが、あの人の場合それは難しい。

 俺もあの人にはかなり世話になったから何とかしてあげたいが、現状では厳しいんだ。

 そこで相談だが、今のうちに「さいたま」のウチの子会社、ヤマネコ・パッケージに出向してもらってはどうだろう?

 あそこならたとえ係長がボケてオムツをした徘徊痴呆老人になったとしても、死ぬまで働くことが出来る。

 どうだ? 飯島課長?」

 「あの「さいたま」のヤマネコ・パッケージですか? あの「さいたま」の?」

 「そう「さいたま」「さいたま」と強調するな。

 このまま窓際族として「Windowsおじさん」しているよりも、「さいたま」のヤマネコ・パッケージで段ボール箱を作っている方が幸せだと思うんだが」

 「あの「ダ・サイタマ」で段ボール作りで一生を終える?

 それはまるでハリポタの「アズカバンの囚人」も同じじゃないですか!」

 「飯島、だから「ダ・サイタマ」と言うな、「さいたま」と言うだけでも辛いのに、「ダ」なんて付けると、なんだかお洒落なフランス語みたいに聞こえるじゃないか?」

 「すみません、つい・・・」

 「お前の気持ちもわかる、俺たちはあの人に育てられたも同じだ。

 なんとかしてあげたいんだ、たとえ「さいたま」でもだ」

 「そうですか・・・。

 でも「さいたま」だけでもシベリアと同じ響きなのに・・・。

 それならいっそ、「いばらき」や「とちぎ」の方がマシじゃないですか!

 部長! せめて練馬区のヤマネコ・メールではダメなんでしょうか?」

 「わかってくれ飯島、それは出来ない。

 あそこは、練馬は練馬でも、一応、東京23区なんだ・・・」


 部長は泣いていた。


 「そうですよね? 練馬区は東京都・・・。

 練馬区なのに、都内・・・」

 「頼む飯島、おまえから小川さんに言ってくれんか!「さいたま」の深谷、ヤマネコ・パッケージに出向だと」


 飯島も泣いた。


 「でも深谷ですよ! 「さいたま」だけでも屈辱なのに、深谷・・・。

 あの、ネギしかない深谷ですよ! いくらなんでも酷すぎる!

 「さいたま」と言うだけでも辛いのに、おまけに深谷だなんて、とても私には言えません! そんな死刑宣告のような人事は・・・」




 飯島はそんなことを考えながら梢とズッコンバッコンしていたので、思わず梢に中出ししてしまった。


 「あーあ、どうすんのおー、中にしちゃってー。

 今日は危険日なのだぞー! プンプン!

 飯島ちゃん、ちゃんと責任とって結婚してもらうからニャアー、テヘペロ」

 「中にしてしまった・・・」



 小川係長もまさか自分が「さいたま」の子会社で段ボール作りの話が持ち上がっているとは思いもしなかった。




 

 翌朝、小川係長が出社すると、飯島課長に会議室に呼ばれた。


 「小川係長、どうか落ち着いて聞いて下さい。

 来月より、ヤマネコ・パッケージに転勤していただきます」


 そう言って飯島課長は小川係長に辞令を渡した。


 

 「えっ! ヤマネコ・パッケージって、あの「さいたま」の? しかも深谷にあるあそこに俺が・・・」


 係長はその場に膝から崩れ落ちてしまった。


 「いったい俺が、俺が何をしたって言うんだ? 定年まであと1年、それはあんまりじゃないか!

 「さいたま」でも大宮や浦和ならまだしも。

 深谷だなんて・・・。

 頼む飯島、せめて、せめて練馬のヤマネコ・メールにしてはもらえんのか!」


 係長は飯島課長のネクタイを引っ張った。


 「すみません、私にはどうすることもできないんです、分かって下さい! 小川さん!

 これは係長のためなんです!」


 係長はまるで幼稚園の年長さんのように駄々をこね、泣き叫んでいた。


 「さいたま! さいたま! 深谷なんて絶対にイヤだあー!」

 


 小川係長の泣き声と、飯島課長のすすり泣く声が会議室にこだましていた。



第4話

 小川係長のヤマネコ・パッケージへの出向が決まった。


 係長は自暴自棄になっていた。

 小川係長は居酒屋『源五郎』に行くと、ジュリアに言った。


  

 「とりあえず生10杯、すぐに持って来い!」

 「オキャクサン、「ちょい飲みセット」ハ 発泡酒1杯ダケダヨ チンポ」

 「うるさい! 単品で持って来いって言ってんだ! このバカチンポ!」


 ジュリアは驚いた。日本に来て初めて驚いた。

 発泡酒ではない、サントリーモルツの生ビールをこのオジサンが頼むなんて!

 しかも10杯も!


 ジュリアは食い逃げされたら大変だと心配し、店長に相談した。


 「店長、ダイジョウブデスカ? チンポ」

 「大丈夫だろう? 万が一の時はケツ持ちの竜神会の雅さんに取り立てをお願いするから心配すんな」

 「ワカリマシタ、チンポ」


 ジュリアのとんでもない日本語に、いつものように店長とスタッフは息が出来ないくらい笑い転げていた。




 ジュリアが生ビールをビアホールの給仕のように両手に10杯、ジョキを持って係長のテーブルにやって来た。



 「遅い! あと枝豆にフライドポテト、焼き鳥セットに刺身の船盛、ホタルイカの沖漬とカキフライ。

 それからサイコロステーキとホッケの開きを持って来い! 大至急だ!」

 「ワ、ワカリマシタ、チンポ」


 ジュリアはその場に気を失いそうになりながら、震える手でオーダーの端末ボタンを押した。


 「オオ・マイ・ガアッー!」



 ジュリアは胸の前で十字を切り、神に祈りを捧げた。

 明日、この世が滅びるのではないかとジュリアは怯えていた。



 小川係長は飲んだ。そして食べまくった。

 いつもの「ちょい飲みセット」ではなく、『源五郎』のすべてのメニューをまるで「帰れま10」のように食べて飲んだ。



 「ふざけるな! ふざけるなよ!

 俺はあと1年、あと1年で定年だったんだ!

 それなのに「さいたま」だ? しかも深谷・・・。

 俺が一体何をしたというんだ! 俺は、俺はずっと会社のために・・・、ううううう」



 係長はとうとう泣き出してしまった。


 「お気の毒に。さいたまの深谷ですか・・・。

 心中お察し申し上げます」


 そこにメフィストが立っていた。



 「小川さん、あなたはもう十分やりましたよ。

 どうか私にその魂を売って下さい。

 そして深谷から逃れるのです。

 いいんですか? ネギ臭くなっても?」

 「ネギ?」

 「そうです、しかも「さいたま」ですよ、海のない」

 「海のない、さいたま・・・」

 「深谷になると、自宅から片道3時間通勤になってしまいます。

 単身赴任になるんですよ、それでもいいんですか?」

 「単身赴任・・・」



 そうなのだ、今の自宅からはもう通勤は無理だった。

 単身赴任しかない。

 係長は暗澹たる思いになった。


 「いかがです? 私にその魂をお譲り下さい、そして一緒にパラダイスへ参りましょう!

 ねえ、小川係長さん?」


 メフィストは赤い舌を出して笑った。


 「イヤだ! 俺は魂を悪魔に売ってまで快楽に溺れようなんて思わない! 

 お前のような悪魔に魂を売るくらいなら、俺は深谷へ行く!

 たとえネギまみれになろうともだ!」


 居酒屋に沸き起こる拍手と歓声!



 「よく言った!」

 「アンタは偉い!」

 「アンタは俺たち新橋の「ちょい飲みセット」族の星だ!」

 「ブラボー!」

 「愛してるわ!」

 「令和の新鮮な野菜組から立候補しろ!」


 中には涙を浮かべている者さえいた。



 「帰ってくれ! 帰れ! 俺は絶対に魂は売らん!

 俺は深谷へ行く!」


 たちまち店内にシュプレヒコールが沸き起こった。



 「深谷! ねーぎ! 深谷! ねーぎ!」



 メフィストは茫然とした。


 「諦めない、私は絶対に諦めない!」


 メフィストの闘志にメラメラと火が付いた。




 


 係長が家に帰ると、静枝と乃亜が「エンタの神様」を観て、また大口を開けて笑っていた。



 「ただいま」

 「おかえりなさい、あははは、あははは」

 「ちょっと話があるんだ」


 それでも静枝と乃亜はテレビに夢中だった。

 係長はリモコンでテレビを消した。


 「なにすんのよ!」

 「パパ、信じらんない! 今、アキラボーイなんだよ!」


 係長は言った。


 「来月から深谷のヤマネコ・パッケージに出向することになった」

 「深谷って、あの「さいたま」の?」

 「そうだ、あの「さいたま」の深谷だ」

 「元気でね?」

 「体に気をつけてね? パパ」

 「私たちは大丈夫だから、心配しないで。

 先生さようなら、みなさんさようなら」


 静枝と乃亜は再びアキラボーイを観て、笑い転げた。


 係長はうな垂れて、風呂場へ向かった。





 今日は風呂の湯の温度は42℃にして、肩までたっぷりと湯を張った。



 「俺の人生は終わったな・・・」



 そこへまた、メフィストが現れた。



 「アンタもしつこいなあ、売らんと言ったら売らないの!」

 「では、こういたしましょう。

 王宮生活をトライアルしてみませんか?」

 「トライアル?」

 「そうです。1週間だけ、酒池肉林の王宮パラダイスをご堪能いただき、そこでご満足いただければご契約ということでいかがでしょうか?」

 「いわゆるクーリング・オフみたいなやつか?」

 「そうです、そうです。

 いかがですか? 係長さんに損はないと思いますが?

 もしもご不満な点がございましたら、どうぞ消費者生活センターにでもご相談いただいて結構です」


 メフィストはニヤリと笑った。


 (王宮で王様のような生活をすれば、どんな人間でも必ず落ちる。

 なぜなら人間は欲の塊だからな? ウヒヒヒヒ)


 係長は思った。

 俺にはもう何も失う物はない。会社も家族もすべて失った俺に、生きる希望はなくなってしまったと。



 「わかりました、トライアルに応募します」

 「ホントですかあ! ありがとうございます!

 ではこちらの仮契約書にサインをお願いします!

 明後日の満月の夜、お迎えに参ります。

 なおトラベルセットは必要ありません、すべて用意してありますので。

 お体ひとつでご参加下さい」


 小川係長が仮契約書にサインをすると、メフィストは飛び跳ねて喜んでいた。

 そしてメフィストは大きくガッツポーズを決めた。


 「よっしゃあああ!」


 


第5話

 約束の満月の夜がやって来た。

 メフィストと係長は近くの公園で待ち合わせた。



 「かぼちゃの馬車とか来るんですか?」

 「いえ、ここが王宮の入口になります」

 「何もないですけど?」

 「まあ、お待ち下さい」



 すると、メフィストはステッキで地面に魔法陣を描き始めた。

 大きな円を描き、そこにダビデの星や数字、星座記号を書き入れた。

 メフィストは魔法陣の中央に立つと、係長を呼んだ。



 「では小川係長さん、王宮へ参りましょう。

 どうぞこちらへ」



 係長は魔法陣の中に入った。

 するとメフィストは呪文を唱え始めた。



 「エロエロ エスエム エロエロ エスエム 我らを王宮へ導きたまえ!」

 「うわっー!」


 魔法陣の地面が開き、ふたりは地底深く落ちて行った。




 気が付くと係長はベルサイユ宮殿のような王宮の噴水の前に倒れていた。


 「大丈夫ですか? 係長さん?」

 「ここが王宮なんですか?」

 「そうですよ、ここが魔王の王宮です。

 あなたは今日から1週間、バロン小川になるのです。

 ここは想念の世界なのです。

 自分が思ったことはなんでも目の前に実現します」

 「どんなことでも?」

 「そうです、例えばフランス料理を思い浮かべてみて下さい。すると目の前にそれが現れます。

 リムジンやフェラーリ、プライベートジェットにクルーザー。

 豪華客船に六本木のキャバクラ、秋葉原のメイドカフェに地獄坂48。

 なんでも思いのままです。

 ちなみに、壇蜜でも吉瀬美智子でもOKですよ。うっひっひっ」


 メフィストはスケベそうに笑った。



 「思ったことはすべて叶うんですか?」

 「そうです、なんでも叶います。やりたい放題です!」


 小川係長は試しに真赤なポルシェを想い浮かべてみた。

 すると目の前に突然真赤なポルシェが現れた。


 「ほ、本当だ! すごい!」

 「ね、言った通りでしょう?」

 「じゃあ、じゃあ、サッポロビール!」


 キンキンに冷えたサッポロビールの大ジョッキが係長の右手に現れた。


 「でも、ポルシェに乗ったら飲酒運転になっちゃうしなあ」

 「ご心配には及びません。ここには警察はおりませんし、事故を起こしても誰も死にません。

 もちろん小川係長さんも」

 「そうなんですか! それじゃあ失礼して」


 係長はゴクゴクと喉を鳴らしてビールを飲み干した。



 「プハー、うまい! サイコー!」

 「では、存分にお楽しみ下さい。

 ただし、絶対にしてはいけないことがひとつだけあります」

 「何でしょう?」

 「絶対に家族のことを想い出さないことです。

 家族を思い出すと、このすばらしい世界から追放されてしまうからです。

 わかりましたね?」

 「それは大丈夫です。私は家族から捨てられた人間ですから」

 「そうでしたね? それではくれぐれもお気をつけて」


 それだけ言うとメフィストは消えた。


 係長はポルシェに乗ると思いっきりアクセルを踏んだ。

 ポルシェは王宮の中にあるサーキットを疾走した。


 「すごい!すごいぞ! なんというスピード感! シートに体が押し付けられる!」



 スピードメーターはすでに280kmを越えていた。


 小川係長は笑いが止まらなかった。 

 

 「俺は何でも出来る! 俺は王様なんだあ!」


 小川係長は完全に舞い上がっていた。




第6話

 王宮はAKB48、乃木坂46、欅坂46みたいな若くてカワイイ女の子たちでいっぱいだった。

 その子たちにもみくちゃにされる小川係長。



 「男爵さまーっ! こっち向いてーっ!」

 「私を抱いて下さーい! おねがーい!」

 「きゃー! 男爵様ー!」



 するとそこへ猫耳のメイドたちがやって来て、



 「男爵様、晩餐会の前にお召し替えを」

 「えっ、着替えるの? ご飯食べるのに?」

 「もちろんでございます。どうぞこちらに」



 その部屋は衣装部屋になっており、夥しい中世の衣装がたくさん飾ってあった。



 「なんだかモーツアルトみたいな服ばっかりだね? 俺には似合わないし、サイズも合わないよ」


 

 係長は小太りで短足、背も低く頭もハゲていた。



 「そういえば、思えばなんでも叶うと言っていたな?

 まさか自分の体形まで変われるわけはないよなあ?」



 小川係長は姿見の前に立つと、トム・クルーズの自分を想い浮かべた。

 トムは係長と同じ、59歳だった。

 するとあら不思議、鏡に映る係長はみるみる身長が高くなり、髪は金髪でフサフサ、鼻はスッと高くなり、瞳はブルー・オーシャンのようになってトム・クルーズに変身を遂げたのだった。

 狂喜するメイドたちは絶叫し、係長に抱き付いた。



 「キャー! 男爵様ー! トムー!」


 係長は中世の貴族の衣装に着替えると、ダイニングルームの長ーいテーブルについた。

 まるでベルサイユの鏡の間のような大きなシャンデリアが幾つも吊るされ、たくさんの美女たちに囲まれている。



 「小川係長男爵様、食べたい物を想い浮かべてみて下さい、それがテーブルの上に並びますから」


 係長はご馳走を思い浮かべた。

 テーブルには日清のシーフードヌードル、明星一平ちゃん、永谷園の鮭茶漬けに大塚食品のボンカレーゴールド。

 そして新橋の『源五郎』、「ちょい飲みセット」に富士そばのコロッケ蕎麦が並んだ。

 係長はフランス料理も懐石料理も食べたことがなかったので、想い浮かべることが出来なかったのだ。



 「何これ? ワンちゃんの餌? それともゴミ?」

 「男爵様、せめてミシュランの三ツ星のお料理を思い浮かべてみて下さいよ、これは食べ物ではありません」

 「そんなことはないよ、食べてご覧よ、美味しいんだから!(作者も好きである)」



 係長は美味しそうにそれを食べた。

 だが、彼女たちは誰もそれに手をつけようとはしなかった。



 「あれれ、なんでみんな食べないの?」

 「これはわたくしたちのお口に合いません。男爵様だけどうぞ」

 「こんな贅沢はないよ、勿体ない」



 係長は美味しそうにそばつゆをたっぷり吸ったコロッケを齧った。




 食事が終わると今度は風呂である。

 係長は驚いた。

 風呂は50mプールで、お湯はなんと! ドンペリのシャンパンのお湯だったからだ。



 「これ、プールじゃないの? しかもお湯がドンペリって・・・」

 「小さなお風呂で申し訳ございません。お湯は42度のドンペリですので、そのままお飲みいただいても結構です。

 これがホントの「炭酸温泉」でございます。

 では、お体を洗って差し上げますね?」


 係長に群がる美女たち。



 「うわーっ、男爵さまー! 凄く大きなおチンチン、お馬さんみたいー! ステキ!」



 本当の小川係長は仮性包茎でボークビッツのような租チンだったが、なにしろトム・クルーズである。係長は自信に満ち溢れ、彼女たちの前に仁王立ちした。

 いつも温泉ではチンチンをタオルで厳重に隠しているのにである。



 泡だらけの係長は、まるでソープランドにいるようだった。

 しかもたくさんの美女にゴシゴシ、パックンチョである。



 「ダメダメ、そんなことされたら出ちゃうよー!」

 「遠慮なさらずお口にどうぞ」



 係長は恥ずかしいやら嬉しいやらで大変だった。

 正に酒池肉林である。


 係長はドンペリのプールにダイブすると、そのままドンペリのお湯を飲んでみた。



 「マイケル・ジャクソンの家のプールの水はエビアンだと聞いたことがあるが、この王宮ではドンペリの風呂かあ。

 ああ、癒されるー、このお湯、全部飲んじゃおうかなー」



 ご機嫌な係長。さて、いよいよナイトタイムである。係長のあそこは既にビンビンになっていた。

 本当はさっき不覚にも、美女のお口に1回だけ出ていたにもかかわらずである。

 小川係長は早漏だった。



 係長は女好きだった。



 「こちらが寝室でございます」


 

 そこは100帖はあろうかというベッドルームだった。

 それはシモンズのベッドで埋めつくされていた。

 100人以上の素っ裸の美女たち。

 国籍はもちろん、若い女性から美熟女まで、たくさんのセクシー美女で溢れていた。



 「男爵さまー! どうぞ私を召し上がれー! 男爵様の赤ちゃんが欲しいのー!」

 「いえいえ、今夜のお夜伽はわたくしとご一緒に」



 半年に2度、パジャマの下だけを脱いで終了のオナニーに毛が生えたようなセックスしかしたことがない係長にとって、それはまさに夢のような出来事だった。



 「徳川の大奥みたいだ! よーし、やるぞー!」



 そんな係長ではあったが、いくらトム・クルーズといえども、59歳、たった1回でギブアップになってしまった。



 「えー、もうおしまいなのー? もっとしたいのにー、男爵様のイケずー!」

 「ゴメンなさい、もう勘弁して下さい」



 そうして王宮の初日はあっという間に過ぎて行った。

 小川係長は美女に囲まれ、ふかふかのシモンズのベッドでぐっすりと眠った。




第7話

 係長は朝のエッチを終えると、マイケルと同じ、エビアンの水のプールで素っ裸で泳いでいた。



 「ああいい気持ち、エビアンのプールは最高だよ」



 プールから上がると、メイドたちがタオルで身体を拭いてくれて、係長は服に着替えた。




 係長は朝食に納豆と卵かけご飯とたくあん、もやしと油揚げの味噌汁を思い浮かべた。



 「なんて贅沢なんだ! 納豆と卵が両方付くなんて!」

 「男爵様、お食事の後はいかがなさいますか?」

 「そうだなあー、今日は何をしようか? 何をしたらいいと思う?」

 「この王宮ではなんでも思いのままです。

 あちらの世界ではお金が必要ですが、この王宮ではお金は不要なのです。

 お金がなくてもすべてが叶うのですから。

 ここは想念の世界なのです」

 「本当にここは天国だよ。パラダイスだ。

 私なんかどんなに働いても手取り月295,329円だよ。ボーナスは全部女房に貯金されちゃうし、3LDKの小さな家しか買えない。

 しかも70歳まで払い続けるんだよ? クルマだって中古の軽自動車だし。

 ポルシェなんか乗ったの初めてだよ」

 「どうして真赤なポルシェなんですか?」

 「百恵ちゃんの歌にあったからだよ。「真赤なポルシェ」って歌詞がね?」

 「それだけで?」

 「そう、それだけ。

 あちらの世界ではすべてがお金なんだ。何もかも」

 「お金だけが人生じゃない」なんて言う人もいるけど、お金があると何でも買えちゃうし、何でも出来ちゃうんだ。

 だって偉いも偉くないも、人の価値はどれだけお金を持っているかで決まっちゃうんだから。

 愛だってお金で買うことが出来るんだ。

 「お金で愛は買えない」なんて言うけど、あんなの嘘。

 逆にお金がないと愛も消える」

 「男爵様、お金って何ですか?」

 「お金は魔法だよ、魔法の杖。だって何でも出来ちゃうんだもん」

 「では男爵様、もしもですよ、もしもお金があったらここの王宮へは来る必要はなかったのではありませんか?」

 「もちろんだよ。だって向こうにも何でもあるからね? お金さえあれば何でも手に入るんだから」

 「そうですか・・・」



 メイドのリンダは寂しそうに言った。


 「かわいそうな男爵様、お金は恐ろしい物でもあるのに」

 「僕はダメな人間だよ、お金もロクに集められなくてさ。

 今頃の時期になるとね? いろんなところで年末ジャンボ宝くじが発売されるんだけど、みんな買うんだよ。

 おじいさんもおばあさんも、サラリーマンも奥さんも。どうしてだと思う?」

 「お金が欲しいからですか?」

 「もちろんそうだよ、そして働きたくないんだろうね?

 1枚300円の宝くじを10枚買うと3,000円、となりのスーパーに行けば、家族4人ですき焼とか食べられるのにね?

 そして当たりもしない宝くじを買うんだ、滑稽だろう?」

 「私たちは働いたことがないのでわかりませんが、そんなに嫌ですか? 働くのって?」

 「リンダたちだって、こうして働らいているじゃないか?」


 するとリンダは笑って言った。


 「男爵様、これは労働ではありません、「ご奉仕」です。

 自分の尊敬する、愛するご主人様にお仕えし、ご主人様が笑顔になる。これは労働ではなく喜びです。

 喜びがないから苦役、労働になるのです」

 「リンダの言う通りかもしれないな?

 僕は苦役をしていただけだったのかもしれない。

 定年まであと1年、私は私なりに頑張って真面目に働いたつもりだった。

 それなのに「さいたま」の深谷で、あのネギの深谷のヤマネコ・パッケージで段ボールを作れっていうんだよ、あんまりだよ、酷いよそんなの!」


 係長は泣いていた。

 リンダはFカップの胸に係長の顔を引き寄せ、ムギュと抱き締めた。


 「かわいそうな男爵様」



 小川係長は子供のように泣きじゃくったままだった。

 メイドたちもそんな係長を見て泣いた。

 



第8話

 王宮生活も3日目になると、小川係長は退屈になってきた。

 係長は真面目が取柄で、想像力、欲望が極めて少なかったからだ。

 会社や家族のために過ごしてきたので、自分のために何をしていいのかわからなかったからだ。

 実はそこにメフィストは惚れたのだった。

 係長の欲望は、大阿闍梨やローマ法王並みに少なかったからだ。



 「こんなに美しい魂を、私は今までに見たことがない。まるでヨハネのようだ」



 ビールは発泡酒、セックスも半年にたったの2回。ごちそうは卵かけご飯、服装は青木の19,800円のスーツを10年も着ており、私服はユニクロどころか「しまむら」で満足していた。

 そう、係長は「しまむらー」だったのだ。


 そもそも出世にも興味はなく、自分の部下に先を越されても悔しがるどころか、心から祝福し、我がことのように喜んでしまうような男だった。



 「綺麗なところだなあ、この王宮は」



 いつも青い空には虹がかかり、アルプスの雪解け水のような磨き抜かれた川が流れ、小鳥がさえずり、花々が咲き乱れていた。

 いつもポカポカの春のような気候で、とてもいい気持ちだった。




 リンダがやって来た。


 「小川男爵様、魔王様がお呼びです」


 


 広くて長い回廊を歩いていると、リンダが小声で言った。



 「魔王様はとても気難しいお方ですので、決して反論や口答えをしてはいけません。

 何を言われても「おっしゃる通りです」と答えて下さい。

 くれぐれもそれだけは御注意下さい」

 「もし、反論したらどうなるの?」

 「その場で食べられてしまいます」

 「た、食べられちゃうの!」



 係長は完全にビビってしまい、トムのおチンチンですら縮こっまってしまい、子ネズミのようになってしまった。





 小川係長はブルブル震えながら魔王の玉座の前にひれ伏した。


 魔王は身長40m、体重35,000トン、初代のウルトラマンと同じだった。

 顔はディズニーアニメの『美女と野獣』の野獣のように恐ろしかった。



 「おもてを上げよ」

 「ははーっ」

 「どうじゃな? わが王宮の住み心地は?」

 「は、はい、と、とても素晴らしいところでございます」

 「流石はメフィストが連れて来た男だけのことはある、お前は欲が少ないのう」

 「畏れ入ります」

 「人間の欲望というものは宇宙のように果てしないものじゃ。

 ひとつが望みが叶うとまたさらに新たな欲が湧き出てくる。

 人間とは罪が服を着て歩いているようなものじゃ。それゆえ殆どの人間は地獄へ落ちてゆく」

 「おっしゃる通りです」

 「お前はカネが好きか?」

 「はい、好きです」

 「いくら欲しい?」

 「住宅ローンが払えて、ご飯が食べられて、一週間に一度、『源五郎』の「ちょい飲みセット」が楽しめればいいので、手取りで月30万円があれば助かります」

 「10億とか100億なんていらんのか?」

 「じゅ、じゅうおく! トンでもありません! 私にはとても使い切れません! そんな大金、想像も出来ません!」


 魔王はため息を吐いた。


 「お前には欲がないのか?」

 「毎日を健康で楽しく過ごせればそれで十分しあわせです。

 ここに来て思いました。胃袋は拳大、カラダはひとつ。

 寝て畳一枚、座って半畳、靴も1足あればいいし、洋服も同じです。

 そしておオチンチンも1本、エッチも三日で1回がやっとです。

 こんなにたくさんの美女がいても、2、3人もいれば十分ですし、たくさんのごちそうもギャル曽根ではないので必要ありません。

 お風呂も足を伸ばせれば十分ですし、エビアンもドンペリもいりません。

 ポルシェも乘らせていただきましたが、あんなクルマではスーパーに買物にも行けません。

 傷でもつけられたらどうしようと心配してしまいます」

 「お前は、お前は本当にそう考えておるのか?」

 「はい」

 「人間はもっともっとと際限なく幸福を望む生き物じゃ。昨日よりも今日、今日よりも明日と、より幸せを望む、それが人間じゃ。

 そうじゃろう?」


 

 係長はリンダからあれほど注意されていたのについ、反論してしまった。

 小川係長は毅然と魔王に向かって言った。


 「私はそうは思いません。毎日を感謝して過ごせればそれでいいのが人間です」



 すると魔王は小川係長をひょいと摘まみ上げると、魔王の顔の前にぶら下げた。



 「お前、人間の分際でこのワシに反論するとはいい度胸じゃ」


 魔王はニヤリと笑った。

 係長は恐怖のあまり、オシッコを漏らしてしまった。



 「ひっ、た、食べないでえー!」




最終回

 その頃、地上ではてんやわんやの大騒ぎであった。

 病室にはみんなが集まっていたからだ。



 「もう今日で3日目ですが意識が戻りません。

 残念ですが、極めて危険な状態です」

 「どうして公園なんかに行ったの? あなた・・・」

 「パパ! 返事してよパパ・・・」

 「係長、部長が専務に掛け合ってくれて、「さいたま」のヤマネコ・パッケージへの出向は取止めになったんですよ!

 だから目を覚まして下さい!」

 「小川君、死んではダメだ! 戻って来い!」

 「死ンデハダメ! チンポ!」



 静枝と乃亜、飯島課長と部長、そしてヤマネコ運輸の社員たち、そして『源五郎』の店長とジュリアまでもが小川係長を見守っていた。



 「私が悪いんです、もう少しお小遣いを上げてあげれば良かった。

 貯金をしていたのは定年になったら家族で海外旅行をするためだったんです。 

 私たちの新婚旅行は熱海だったので、パリやベルリン、ローマとかに行きたかったんです。

 転勤だって、そんなに嫌なら私と娘もついて行くつもりでした。

 この家を処分して、そこがたとえ「さいたま」の深谷であろうとも、覚悟はしていたんです。

 それなのに、それなのに・・・」

 「パパごめんなさい、いつもテレビを独占して。

 今度はパパの好きな「笑点」と「サザエさん」でも我慢するから。 

 だからお願い、目を覚まして!」


 静枝と乃亜は抱きあって泣き崩れていた。




 一方、係長は魔王に食べられる寸前だった。



 「このワシに反論したのはお前が初めてじゃ。

 さぞや美味かろうて。

 では遠慮なく、いただきまーす!」

 「うわー、助けてー! 静枝! 乃亜っー!」


 係長は思わず女房と娘の名を叫んでしまった。




 

 すると今まで意識がなかった小川係長の目が突然開いた。 



 「あなた!あなた!」

 「パパ、パパッー!」

 「小川係長!」

 「よかったあ! わかりますか小川さん? あなたは助かったんですよ!」


 

 何やら周りが騒がしい。

 そこは沢山の人がいる病室だった。

 医師やナースの姿も見える。



 「あなたごめんなさい、これからはもっとあなたを大切にするわね?

 これからも親子三人で仲良く暮らしましょう。

 お小遣いも乃亜と同じ3万円にしますからね!」

 「パパの好きなテレビ、見てもいいよ!」

 「係長、ヤマネコ・パッケージにはもう行かなくても良くなりましたからね!」


 小川係長は何がなんだかわからなかったが、取り敢えずみんなにお礼を言った。



 「みんな、ありがとう」






 メフィストは魔王の前でオモチャ売場の子供のように床に寝っ転がり、手足をばたつかせて暴れていた。



 「魔王のバカバカバカバカ! せっかくの魂がー! ヤダヤダ絶対にヤダー!」

 「仕方あるまい、あいつは人間じゃない、使徒じゃ」

 「魔王があんな余計なこと言うからだよ! ああ、もったいないもったいない!

 ファウストより旨そうな魂だったのに!」

 「そのうちまたいい魂が見つかるはずじゃ」

 「無理無理無理無理、絶対に無理!」

 「ワシは久しぶりに楽しかったがのう。

 人間の中にも、ひたむきに感謝して生きている奴もおるんじゃなあ?」


 

 メフィストはようやくシルクハットを拾い上げ、立ち上がると言った。


 「人間どもがみな、小川のようになったら人間社会は天国になってしまう。 

 今のような地獄じゃないと私は困る」

 「安心しろメフィスト。そう簡単にはならんよ」



 メフィストはマントをひるがえし、ステッキを高々と上げて王宮を去って行った。



       

                              『パパさんの魂を悪魔が買いにやって来た』完



 


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【完結】パパさんの魂を悪魔が買いにやって来た(作品230824) 菊池昭仁 @landfall0810

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