誘拐Ⅳ
誘拐から2年。再びコロンビアをめざす武富克彦。だが、誘拐犯の魔の手は彼の背後に迫っていた!武富の壮絶な監禁生活が始まる!
私は南米コロンビアの太平洋岸にあるバジェ・デル・カウカ県の県都サンティアゴ・デ・カリ市北東部のカジェ62通りに面した住宅街のアパートに部屋を借りて暮らしていた。
そして、そこから北東に約25キロメートル離れたパルミラ市郊外のバリオ・エル・パライソに約1ヘクタールの土地を購入し、「Granja Taketomi(タケトミ農場)」と名付け、アボカドを栽培していた。
農場の管理はコロンビア人のアレハンドロ・ディアスさんとマリアさんの夫妻に任せ、私は週1回、カリ市の自宅から農場に通っていた。
2019年12月17日(火曜日)、私はいつものようにカリの自宅からタクシーでパルミラの農場に向かい、そこで3人組の誘拐犯に誘拐されてしまった。
それから翌年1月27日(月曜日)に解放されるまでの42日間、私はカリ郊外の山岳地帯で15人のゲリラと寝食を共にしながら壮絶な監禁生活を送った。
銃撃戦、空爆、マラリアと何度も生命の危機に直面しながら過酷な環境を生き延び、無事生還を果たした。
その経緯は前作『誘拐』にまとめた。帰国から半年で書き上げた渾身の力作だったが、私の書いた本はまったく売れなかった。
それから2年。
私は再びコロンビアに戻り、農場を再開するため、単身、故郷・佐賀県を離れた。
家族は私のコロンビア行きに強く反対した。また誘拐されたらどうするのか。今度こそ命はないかもしれない。
年齢的にも体力的にも長旅はきつくなっている。日本からコロンビアは飛行機で丸1日以上かかる。長時間座席に拘束されるのは辛い。
が、とにかく、自分の目で農場がどうなっているのか確かめたい、という思いが日に日に募る一方で、居ても立っても居られなくなってきた。
このまま日本にいても、あと10年も生きられないかもしれない。どうせ先の短い人生だ。死ぬ前に一度、自分の農場を見てきたいと思った。
農場の管理を任せていたコロンビア人のアレハンドロ・ディアスさんとマリアさんの夫妻は、私が誘拐されている間に消息を絶った。現在も行方不明のままだ。
農場は荒れ放題だろう。カリ市在住の日系二世アルベルト・ツボイ君に頼み、農場の様子を時々見てもらっていたが、何としても自分の目で見たいという思いがあった。
誘拐から2年。
私を誘拐した犯人の一部は逮捕され、あるいは射殺されたが、残党はいまだ行方知れずのままだ。コロンビアに戻れば再び誘拐されることは覚悟の上だった。
「もし、私が再び誘拐されるようなことがあれば、その時は私を見殺しにしていい。身代金なんか払うな。私は離婚し、妻も子供もいないということにしておく。親兄弟もみんな死んでしまったということにしてあるんだ。だから、あんたは新潟の実家に戻って、知らん顔していればいい」
出国前、私は妻の知華子にそう伝えておいた。いわば私の“遺言”だった。
2022年1月下旬、私は成田国際空港からデルタ航空で米国ジョージア州アトランタを経由し、コロンビアの首都ボゴタに向かった。
ボゴタはアンデス山中の海抜2640メートルの盆地に広がる人口800万人の大都市だ。
酸素は平地の4分の3しかなく、慣れない者は軽い高山病(ソローチェ)になる。
これほどの高地にありながら赤道直下に位置するため、年間を通じて温暖であり、年中春か秋のような気候で「常春の都」と呼ばれる。
しばらく来ないうちにボゴタの街は近代的な高層ビルが増え、ピカピカの新車が走り回り、道行く人々はおしゃれで活気に満ちあふれていた。
私が初めてコロンビアに来た時、ボゴタの道路事情は悪く、道は穴だらけで雨が降ると冠水し、日本ではとうの昔に絶滅したボンネット型のバスやトラック、汚い乗用車が真っ黒な排気ガスを吐き散らしながら砂埃を舞い上げて走っていた。
それから四半世紀の年月を経て、コロンビアは見違えるように変わった。
近年の治安改善でコロンビアはラテンアメリカ諸国では最も高い経済成長率を誇り、日本人から見れば羨ましいほどの発展を遂げている。
バブル崩壊後の日本は30年も経済成長が止まってしまい、追い打ちをかけるように少子高齢化で国力が衰退の一途をたどっている。
コロンビアから日本に戻ると日本人がどんどん貧しくなっていることに気付く。
どこへ行っても高齢者ばかりで若者が少ない。人も街も活気がなく、人々の恰好もみすぼらしく、安っぽい軽自動車ばかり目につく。高級車が我が物顔で走り回るコロンビアと対照的だ。
コロンビアは若い国だ。パワフルでエネルギッシュな若者の国にいると、高齢者の私もなんだか不思議と元気がみなぎってくる。
ボゴタからカリに直行することは避けた。しばらくボゴタ市内のホテルに滞在し、カリのツボイ君と連絡を取りながら、日程を調整した。
ツボイ君の父親・坪井正男氏は岡山県岡山市の出身。50年以上前、蘭の花(コロンビアの国花)に魅せられてコロンビアに移住し、カリ近郊のパルミラで蘭を栽培している。
ツボイ君はコロンビア・ボゴタのロス・アンデス大学を卒業後、コロンビア人女性と結婚し、3人の子供がいる。日本語と英語とスペイン語が堪能で、中国語とフランス語もある程度話せる。コロンビアの数少ない日本語通訳として引っ張りだこだ。
2014年7月、日本の首相として初めてコロンビアを訪問した阿部真三内閣総理大臣とフアン・マヌエル・サントス大統領(当時)の会談で見事に通訳をこなした。
私が2011年に2期8年務めた佐賀県議会議員を辞職し、コロンビアに移住してからツボイ君には事あるごとに世話になってきている。
前回の誘拐事件でも私の解放交渉に尽力してくれた。いわば私の“命の恩人”だ。
そのツボイ君曰く、
「武富さんの事件は当時、大きく報道されましたが、あれから2年経って今はカリでもほとんど話題にならなくなっています。私もそれとなく注意していますが、不審な人物がいるとの情報はありません。武富さんが単独行動を取らない限り、再び誘拐される心配はほとんどないのではないでしょうか……?」
無論、警戒し過ぎるということはない。前回の誘拐で私は身代金を払っていない。誘拐犯にとって私は“裏切り者”なのだ。
「誘拐犯の仲間に見つかったら、殺されるということもありうるだろうね」
「その可能性もなくはないですが、向こうだっていつまでも武富さんのことに関わっていられるほど暇じゃないですからね。気を付けていればもう大丈夫なんじゃないですか?」
正直、私も警戒心が緩んでいた。日本で過ごした2年という歳月は“平和ボケ”するには十分な時間だったのである。
それでも私は念のため、カリ市内の自宅アパートには行かず、市内の比較的安全と思われるホテルに部屋を取り、なるべく部屋から出ないようにした。
コロンビアでは安全の見極めが非常に難しい。
一見、拍子抜けするほど平和そうに見えるので、つい油断してしまう。
日本から初めてコロンビアを訪れる人は口を揃えて、
「治安の悪い危険な国だと聞いていたが、みんな親切で町もきれいなので驚いた」
という。
だが、首都ボゴタの中心部でも爆弾テロが起きるし、比較的安全と言われている場所でも強盗に襲われたり、誘拐されることもある。
どこからどこまでが安全かの線引きが難しいのだ。
一般的にコロンビアではセントロ(旧市街)より北(ノルテ)に行くほど安全で、南(スール)に行くほど危険と言われるが、最近はノルテの高級住宅街でも強盗が増えているので、この区分はあまりアテにならないようだ。
表通りから一歩裏通りに入ったところで強盗に襲われた者もいる。
人通りの多い明るい場所でも集団で取り囲まれ、ナイフを突きつけられて財布やスマホを奪われることもある。
一方、危険なスラム街を一人で歩いていて無事に済む者もいる。
インターネットが普及し、ブログなどでコロンビアの旅情報を掲載する者も増えているが、
「ボゴタでホームレスの一団を挑発したら追いかけられた」
とか、
「カルタヘナで強盗に襲われて返り討ちにし、ボコボコにしてやった」
などと自らの危険体験を“自慢”する者もいる。
「みんな危ない危ないと言ってるけど、自分は何ともなかった」
という情報を鵜呑みにし、危険地帯に足を踏み入れて事件に巻き込まれる者もいる。
2016年11月22日、コロンビア第2の都市であるアンティオキア県の県都メデジン市で日本人大学生が強盗に襲われ、射殺されるという事件が起きた。
強盗に奪われたノートパソコンを取り戻そうとして犯人を執拗に追跡し、共犯者にピストルで撃たれたのだ。
海外に出て気が大きくなっていたのかもしれないが、武術の心得もない素人が丸腰で武装した犯人に立ち向かおうとするのは“自殺行為”だ。
そんな無謀なことをしなければ命は助かっていたのかもしれない、と思うと残念でならない。
私はどこへ行くにも目立たない地味な服装をし、いつ強盗に襲われてもすぐに出せるよう少額の現金を持ち歩き、スマホや腕時計など金目のものは持ち歩かず、パスポートは盗難や紛失に備えてコピーを持っていた。
夜道や裏通りは歩かず、なるべく単独行動は避け、わずかな移動にもタクシーを使い、流しのタクシーは拾わず、やむを得ず一人で歩くときは脇目も振らずにサッサと早足で歩くようにしていた。
海外で日本人は非常に目立つ。集団でのろのろと移動しているからだ。高価なスマホやノートパソコンを持ってのんびり歩いていれば、
「どうぞ遠慮なく私を襲ってくれ」
と悪人にアピールしているようなものだ。
ツボイ君は忙しい仕事の合間を縫って情報を集めたり、必要な物資を調達してくれた。
今回のコロンビア滞在中にやっておくべきことは山ほどあった。
出来れば現地で共同経営者を探し、信頼できる人物に農場の管理を任せたかった。
私の夢はコロンビア産アボカドを日本に輸出し、雇用を創出して貧困を軽減し、貧しさからゲリラに走る若者を救い出してやりたい、ということだ。
コロンビアを長年苦しめてきたLa Violencia(政治社会的暴力)の根底にあるのは貧困だ。貧困の解消なくして恒久的な平和はありえない。
2008年から11年に及ぶ交渉を経て、2019年7月31日、コロンビア産アボカドの対日輸出が解禁された。
私の事業がようやく軌道に乗り始めた矢先に、私は皮肉にも反政府武装勢力「コロンビア革命軍(Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia=FARC)」に誘拐されてしまったのである。
ここでコロンビアの地理と歴史について簡単に説明しておこう。
コロンビアは南アメリカ大陸の北部に位置する国で、国名はコロンビア共和国(Republic of Colombia)。
面積は約113万9000平方キロメートルで日本の3倍強。人口は約5000万人。
太平洋と大西洋に面する南米唯一の国であり、国土の中央を分断するように標高5000メートル級の長大なアンデス山脈が走っている。
日本では世界的なコーヒー豆の産地として知られ、エメラルドの産出量は世界一。
赤道直下の温暖な気候と豊富な日照量を活かし、近年はバラ、カーネーションなどの切り花の輸出も盛んだ。
金、銀、銅、ニッケル、鉄鉱石、石炭、石油などの地下資源も豊富であり、国情の安定で急速な開発が進められている。
2020年には首都ボゴタと太平洋岸を結ぶ南米最長の「ラ・リネア・トンネル」(全長8.6キロメートル)が開通し、内陸部と沿岸部の交通が容易になったことで今後の経済成長が期待されている。
スペイン人の到来前は先住民チブチャ族の国家が栄えていた。チブチャ人はペルーのインカ帝国に匹敵する高度な文明を持ち、特に金細工の加工技術は完成度が極めて高く、現在もその一部が国立黄金博物館に展示されている。チブチャ族の他、カリブ海沿岸のラ・グアヒーラ半島ではタイロナ人が組織化された都市計画、灌漑技術、軍隊を持ち、山岳部に住むチブチャ人との交易が盛んだった。
1538年、スペインのコンキスタドール(征服者)、ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダがチブチャ族のバカタ国を滅ぼし、ここに現在の首都ボゴタを建設。以降、ボゴタが南米大陸北部の要衝となる。
1571年、スペインはボゴタに副王を置き、ヌエバ・グラナダ(新しいグラナダの意)副王領を設置。エンコミエンダ制により白人入植者に先住民インディオの保護・教化と彼らの労働力を利用することを認める。事実上の奴隷制度であり、農場や鉱山での過酷な労働や疫病の流行で先住民の人口は激減。労働力不足を補うためアフリカ大陸から黒人奴隷を導入。
1781年、ソコロ地方(現在のサンタンデール県)でタバコ税などの重税に抗議するクリオーリョ(現地生まれの白人)を中心とするコムン(革命委員会)が結成され、「コムネーロスの反乱」が起きるが、ボゴタ副王フローレスは反乱の指導者ホセ・アントニオ・ガランをボゴタで四つ裂きの極刑に処し鎮圧。
19世紀に入るとナポレオン戦争で宗主国スペインがナポレオン・ボナパルト率いるフランス帝国軍に占領され、フランス傀儡のスペイン政府への服従を美としない植民地で独立運動が活発化する。
1810年7月20日、ヌエバ・グラナダ出身のクリオーリョ、アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)がボゴタ副王を追放し、クンディナマルカ共和国の独立を宣言。これがコロンビア独立記念日となる。
その後、カリブ海沿岸の港湾都市カルタヘナを中心とする連邦主義者と、ボゴタを中心とする中央集権派の対立に付け入る形で、1814年にはスペイン本国の王政復古で即位したフェルナンド7世が反動的政策を採り、本国から派遣されたパブロ・モリーリョ将軍率いる軍勢により独立派は徹底弾圧される。
ベネズエラ出身の革命家シモン・ボリーバル(1783~1830)と、ヌエバ・グラナダ出身の軍人で法律家のフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール(1792~1840)が共闘し、ベネズエラ領内から反撃を開始。1819年8月7日の「ボヤカの戦い」でスペイン軍に決定的な勝利を収め、コロンビアは「グラン・コロンビア(大コロンビア)」として独立を果たす。
しかし、中央集権派のボリーバルと連邦派のサンタンデールの政治的対立から1830年にはベネズエラ、エクアドルが分離し、コロンビアは「ヌエバ・グラナダ共和国」として再編成される。
ボリーバルとの政争に敗れたサンタンデールは国外追放されるが、ボリーバルの死後帰国し、初代大統領に就任。南米では珍しい議会制民主主義の原則が維持され、ボゴタは文化・学術が栄え「南米のアテネ」と呼ばれた。
その後も集権派(保守党)と連邦派(自由党)の対立と衝突が続き、政治的に不安定な状況が続く。他方、保護貿易による産業の振興が図られ、コーヒー栽培がコロンビアの基幹産業となる。
1899年、コーヒー価格の暴落からコーヒー農家を中心とする自由主義者による武装蜂起。保守党政権が弾圧し「千日戦争(グエラ・ミル)」発生。3年にわたる内戦で死者7万5千~15万人。
1903年、パナマ地峡がパナマ共和国として分離独立。パナマ運河の権益確保を狙うアメリカの政治的干渉が強まる。
この頃、コロンビアは政治的に安定し、米国資本の導入で経済開発が進む。ユナイテッド・フルーツ社が経営するバナナ農園で労働者の待遇改善を求める争議が多発。
1928年、カリブ海沿岸サンタマルタのバナナ農園でスト労働者の虐殺事件発生。事件を非難した自由党のホルヘ・エリエセル・ガイタン(1903~1948)がカリスマ的人気を博す。1932年、コロンビアはペルーとの戦争に勝利し、アマゾン地方のレティシアを領有。
1930年、総選挙で自由党が圧勝。以降、1946年まで自由党政権が続く。農地改革が実施されたが、自由党の左傾化を警戒する保守党右派は白色テロで対抗。46年には保守党穏健派が政権に返り咲き、政治社会的暴力(ラ・ビオレンシア)が激化する。
1948年、ボゴタでガイタン暗殺。ボゴタ暴動(ボゴターソ)発生。保守党政権は自由党員を徹底弾圧。1950年の朝鮮戦争でコロンビアは中南米で唯一援軍を派遣。保守党強硬派のゴメス政権に対し自由党左派と共産党は地方でゲリラ戦を展開。
1953年、陸軍のグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍による軍事クーデター。ゴメスを追放。ロハス政権は宥和政策を採り、自由党左派も停戦に応じるが、ロハスのポプリスモ(人民主義)政策は保守派の反発を招き、内戦が再燃。
1956年、ロハス政権に抗議した学生が虐殺される「牛の首輪虐殺事件」発生。57年、ロハス政権はデモとゼネストで退陣に追い込まれる。同年末、自由・保守両党は停戦と政権折半に合意。10年に及んだ内戦が終結。犠牲者は10万~20万人。
1959年、キューバ革命。コロンビアでも社会主義革命を目指す複数の左翼ゲリラ組織が結成される。
1964年、コロンビア最大の極左ゲリラ「コロンビア革命軍(FARC)」結成。政府軍の弾圧を逃れ、コロンビア南部のジャングルを拠点にゲリラ戦を展開。
1965年、キューバで訓練された学生がマルクス・レーニン主義の左翼ゲリラ「民族解放軍(ELN)」結成。66年、「解放の神学」を唱えたカミロ・トーレス神父がELNに参加し戦死。
1970年、総選挙で軍政時代の指導者ロハスが僅差で保守党候補に敗れる。支持者は不正選挙として暴動。民族主義者を中心に「4月19日運動(M19)」結成。都市ゲリラを展開。
1978年、自由党のトゥルバイ・アヤラ大統領がグアヒーラ半島でのマリンベラ(大麻)摘発を強化。麻薬密売業者はアンデス地方でのコカイン生産と密輸を開始。麻薬戦争始まる。
1985年、ボゴタで最高裁判所占拠事件発生。麻薬密輸組織「メデジン・カルテル」と政府治安部隊の衝突が激化。同年11月、アンデス山中のネバド・デル・ルイス火山が噴火。死者2万5千人。
1989年、ビルヒリオ・バルコ大統領が麻薬カルテルに宣戦布告。麻薬戦争激化。カルテルは無差別テロで対抗し内戦状態に突入。
1993年、メデジン・カルテル最高幹部パブロ・エスコバルがコロンビア治安部隊に射殺される。95年には「カリ・カルテル」幹部ロドリゲス兄弟も逮捕、壊滅。左翼ゲリラが麻薬ビジネスを引き継ぐ。
1999年、アンドレス・パストラーナ大統領が最大の左翼ゲリラFARCとの和平交渉を開始。米国はコロンビアのコカ生産を撲滅する「コロンビア計画」を開始。コロンビア内戦への介入強める。
2002年、和平交渉が決裂。同年就任したアルバロ・ウリベ大統領は「テロとの戦い」を推進。米軍の支援で左翼ゲリラ殲滅を図る。
2006年、ウリベ再選。07年からベネズエラのウーゴ・チャベス大統領の仲介で人質解放交渉開始。
2008年、コロンビア軍がエクアドル領内のFARC拠点を空爆。最高幹部ラウル・レイエスら殺害。ベネズエラとエクアドルが反発。アンデス危機に発展。
2010年、フアン・マヌエル・サントス大統領が就任。2012年からFARCとの和平交渉再開。
2016年、FARCが停戦と武装解除に合意。サントス大統領、ノーベル平和賞を受賞。
2017年、FARCが合法政党「人民革命代替勢力(FARC)」創設。翌年の総選挙で惨敗。和平に同意しないFARC分離派は武装闘争を継続。
2018年、和平反対派のイバン・ドゥケ大統領当選。
コロンビアの特徴は他のラテンアメリカ諸国と異なり、クーデターや独裁政権をほとんど経験せず、内戦の時代も一貫して議会制民主主義の原則が貫かれたことである。これは初代大統領サンタンデールの功績であるとされる。
「西半球で最も古い民主主義国家」と評される反面、自由党と保守党の二大政党制が19世紀半ばから150年以上も続き、他の政治勢力の政治参加が阻害されてきた。植民地時代から続く貧富の格差も大きく、民意が政治に反映されにくいことがゲリラ組織を生み出す要因となった。
長年の内戦の背景にあるのは貧困だ。産業構造を多角化し、教育と雇用創出に投資し、貧困問題を解消する必要がある。
コロンビアの歴史と政治・社会的背景の詳細については拙著『誘拐』を参照されたい。
2022年2月22日(火曜日)午前9時、私はカリ市西部の「マリオット・ホテル」の部屋を出た。
マリオット・ホテルはカリの高級ホテルで、8ノルテ通りに面し、周辺は政府機関の建物やショッピングモールが立ち並び、カリでは比較的治安の良い場所である。
私はサングラスとマスクをし、ツボイ君がタクシーで来るのを待った。
コロンビアのタクシーは黄色い韓国製の小型車だ。車体の厚みは日本車の半分くらいしかない。
つい日本車のつもりでドアを強く閉めると車体が大きく揺れた。まるで地震のようだ。タクシーの運転手が驚いて振り向いた。
「No te preocupes(心配ないよ)」
ツボイ君が運転手に言った。コロンビアのタクシー運転手は自分の車をとても大切にしている。私は軽く詫びた。
「ボゴタでタクシーを拾ったら途中で雨が降ってきましてね、目的地に着く前に降ろされちゃったことがあります。理由を訊いたら、車が雨で濡れるのが嫌だって言うんです。あれには参りましたよ」
とツボイ君が笑った。
この日はパルミラのバリオ・エル・パライソにある私の農場を視察する予定だった。
コロンビアを離れて2年あまり。農場は手つかずの状態で放置されていたので、雑草が生い茂り、アボカドの木が長く伸びた草に埋もれるようになっていた。
「まずは草を刈らないと。アボカドの木は枯れていないようだから、人を雇って草を刈らせよう」
ひどいヤブ蚊にうんざりしながら管理人夫妻が使っていた住居に回ってみたが、泥棒に荒らされた様子もない。
思っていたよりも状態が良いので一安心し、石造りの正門の前に待たせておいたタクシーに戻ろうとした、その時だった。
一台の赤い無蓋のジープが走ってきて、中から男たちが飛び降りてきた。
「手を上げろ!警察だ!」
男の手に銃が握られているのが見えて私はゾッとした。
「伏せろ!伏せろ!動くと撃つぞ!」
私は思わず両手を上げた。万歳をするような形で手を上げると、回転式の拳銃を頭に突きつけられた。
そのまま地面に押し倒され、乱暴に両手を頭の後ろにねじ上げられた。頭を傾けるとツボイ君も地面に突っ伏しているのが見えた。
「doloroso!(痛い!)」
と叫んだ。男たちは容赦なく私を地面に押さえつけ、背中に馬乗りになった。息苦しく、やめてくれるように懇願した。
「私は外国人で高齢者だぞ。私が何をしたんだ?放してくれ」
「黙れ!黙らないと殺すぞ!」
肥満体の男が膝頭で私の肩のあたりを強く押さえつける。あまりの痛さに悲鳴を上げた。
本物の警察官なら理由もなくこんな乱暴な真似はしないはずだ。コロンビアの警察官は親切で真面目だ。警官を装った誘拐犯だ、と私は直感した。
男たちは私を引きずるようにして立たせると、ジープの後部座席に押し込んだ。太った男が私の背中を踏みつけ、頭に銃を押しつけた。
「少しでも動いたら撃つぞ」
と言うので、私は息苦しさを我慢するしかなかった。
ジープは猛スピードで走り出した。非常に乱暴な運転だ。私は何度も頭をジープの床や座席にぶつけた。ジープは激しくバウンドしながら走っていく。
どこをどう走ったのかは分からないが、ジープのタイヤが砂利を噛む音が聞こえた。
舗装道路が途切れ、砂利道の悪路を突っ走っているらしい。
前日降った雨で道路は所々が冠水していた。水たまりに突っ込むたびに盛大な水しぶきを上げて私も頭から泥水をかぶった。
パルミラ周辺は広大なサトウキビ畑が広がり、赤茶けた瓦屋根の質素な家屋が立ち並んでいる。
未舗装の道路も多く、大小無数の石ころや捨てられたゴミが散らばっている。乾いた通りに出ると猛烈な砂塵が舞い上がり、息が詰まりそうになった。
この辺は馬も重要な交通手段だ。時折、馬車とすれ違うのか小石を蹴る馬蹄の音が聞こえた。
どのくらい走っただろうか。
生きた心地もしない過酷なドライブが終わると、私はまるで荷物のように首根っこと腰のベルトをつかまれてジープから引きずり降ろされた。
かなりの落差があるところを放り投げられるように降ろされたので、私は思わずよろめいて頭から砂利の中に突っ込んでしまった。
口の中から砂混じりの唾を吐き出すと、腹を出っ張らせた赤いTシャツの男が私に右手を差し出した。
男は私の腕をつかんで強引に引き起こすと、笑いながら私の体を叩いて砂を落としながら早口で何か言った。
男のスペイン語が聞き取れないので耳に手を当てると、男は私の肩をポンポンと叩きながら「こっちだ」という。
そこは農家らしい平屋建ての民家だった。周囲は見渡す限りのサトウキビ畑。砂利道を黒い牛と痩せた犬がのんびり歩いている。
家屋の周辺はゴミだらけだった。足場があまりにも悪く、私はよろめいて転びそうになった。
家の中は真っ暗だった。私は怯んだが、男たちは銃を持っている。いきなりズドンとやられたらたまらない。
私は奥の部屋に案内された。そこは寝室のようで粗末なベッドが置かれている。窓は外から板が打ち付けてあり、照明器具はない。暗くてカビ臭く、入るのをためらったが、太った男に背中を押されてベッドの上に転がった。
すぐに男たちが私の靴を脱がし、裸足にすると足首に鎖を巻き付けた。鎖の一端はベッドのフレームにつながれてあった。
男たちが出ていくと部屋は闇に包まれた。扉を施錠する音がして、男たちの足音が遠のいていった。
私は暗闇の中でベッドに身を横たえていた。
周到に準備をし、十分に注意していたのに再び誘拐されてしまったのだ。
その衝撃が時間とともに重く私の心にのしかかってきた。
何時間も放っておかれて、このまま誰も来なかったら私はこんなところで餓死してしまうのではないか、と思い、急にゾッとするような恐怖に襲われた。
誘拐犯の目的は何か。金か。政治的な取引か。それとも、私を殺して臓器を売り飛ばそうというのか……?
私は前回の誘拐で身代金を払っていない。金は取れそうにもないと判断すれば、誘拐犯は容赦なく私の頭に銃弾を撃ち込むだろう。
日本を出る前、私は家族に私が誘拐されても身代金は払うな、交渉にも応じるな、私が殺されても運命だと思って諦めてくれ、と言い残してきた。
だから、二度目の誘拐は助からないかもしれない、と覚悟を決めていた。
コロンビアで長年、エメラルド取引のビジネスをしている日本人が言っていた。
「コロンビアで誘拐される人はルーザー(敗者)なんです。誘拐されるのは本人の自己防衛が甘いから。ちゃんとボディガードを雇って、どこへ行くにも装甲車みたいな防弾車に乗って自衛しているお金持ちは誘拐なんかされません。誘拐犯は本人ではなく、家族を狙います。コロンビアの金持ちは家族を海外に逃がしている。私も妻子をアメリカに逃がしています。だから、私は誘拐されません。コロンビアのビジネスは命がけの真剣勝負です。誘拐されたら負け。その時点でゲームオーバーです。私は最初から負けない自信がある。誘拐されないという自信があるからです」
彼に言わせれば、二度も誘拐された私は完全な“負け犬”なのだろう。
覚悟はしていたことだが、私はがっくりと気落ちしてしまった。
どのくらい時間が経っただろうか。
急に部屋のドアが開いて、懐中電灯のまぶしい光が差し込んできた。暗闇に慣れた私は思わず両手で顔を覆った。
「メシだ。食えよ」
小柄な男が紙袋を放り投げた。中に入っていたのはエンパナーダというコロンビアではどこでも売られている挽肉入りのパイだった。
男はミネラルウォーターの入ったペットボトルと金属製のバケツを置いていった。バケツはトイレ代わりらしい。
ボソボソとエンパナーダを食べ、水を飲むと、再びドアが開いて男たちが入ってきた。
食事を持ってきた少年のように背の低いのと、私を拉致した小太り、ジープを運転していた背の高い男だった。
後に分かることだが、背の低いのはエル・ニーニョ(子供)、太っているのはエル・ゴルド(太っちょ)、背の高いのはエル・アルト(高い)というニックネームで呼ばれていた。
私は吹き出しそうになった。よし、これからはチビ、デブ、ノッポの仇名で呼ぶことにしよう。
デブが言った。
「お前の家の電話番号を教えろ」
来たか。私の家族に身代金を要求するつもりらしい。
「私は家族はいないんだ」
「結婚はしていないのか?」
「ああ」
「お前、どこに住んでいるんだ?」
「決まった住所はない。ぶらぶらと一人旅をしている」
「お前、日本から相当金を持ってきたらしいな?」
「金なんか持ってない。年金暮らしの貧乏人だよ」
「嘘をつけ。金もないのに五つ星ホテルに泊まれるか」
どうやら、誘拐犯は私の行動履歴を調べ上げているらしい。行きずりの強盗などではなく、計画的な犯行だろう。
「私が金を持っていると誰から聞いたんだ?」
「カリじゃ有名だよ。金持ちのハポネス(日本人)が誘拐されたのを知らない奴はいない。そいつがのこのこコロンビアに戻ってきたというので待っていたんだ」
デブは笑って言った。
これは後に分かることだが、今回、私を誘拐したのは左翼ゲリラのFARC(コロンビア革命軍)分離派ではなく、一般の犯罪者集団であった。
コロンビアではゲリラ組織が解散しても、その残党が大小無数の犯罪組織を再結成し、違法なビジネスに手を染める。
極左ゲリラに対抗して結成された極右の民兵組織「コロンビア統一自衛軍(AUC)」の残党が結成した「コロンビア・ガイタン主義自警団(AGC)」などのバクリム(犯罪組織)が暗躍し、誘拐や麻薬密売を主な資金源としている。
AGCは「クラン・デル・ゴルフォ(湾岸クラン)」、または「ロス・ウラベーニョス」とも呼ばれ、メキシコの麻薬組織「シナロア・カルテル」と密接な協力関係にあるとされる。
単純に金目当ての連中だと知って、私は少しホッとした。ゲリラなら容赦なく私を殺していただろう。
ふと、ツボイ君がどうなったのか気になった。
「私と一緒にいた日本人はどうした?」
「あいつは見逃してやった。お前が誘拐されたことをお前の家族に知らせに行く。そしてな、お前の家族に言ってやるんだ。楽に殺してやると思うな。生きたまま皮を剥いでやろうか?指を切るときの悲鳴を聞かせてやろうか?ってな……」
デブは脅しで言っているのではないらしい。残忍冷酷なことを平気でやる男なのだろう。
「私は独り者だ。親兄弟もみんな死んでしまった。天涯孤独の気楽な身の上さ。一体、誰に身代金を要求するんだ?」
二度目の誘拐なので度胸が据わったのか、私は自分でも驚くほど落ち着いていた。
デブは腕組みをしてしばらく考えているようだったが、
「ジャパニーズ・ガバメント(日本政府)が払うだろう」
何故か英語を交えて言うので、このデブ、意外に教養があるのかもしれない。
スペイン語圏のコロンビアで、英語はまず通じない。英語を理解しているということは高等教育を受けたのか、それとも観光客相手の商売をしていたのか。
「へえ。で、一体いくら要求するつもりだ?」
「100万ドル(約1億円)だ」
私は吹き出した。
「100万ドルだって?無理だよ。いくら日本政府でも、こんな老いぼれにそんな大金は払わないさ」
もう日本は先進国ではないし、日本人は貧しくなってしまったのだ、と言おうかと思ったが、やめておいた。
「払わなけりゃ殺すまでさ。お前の耳を切り取って送りつけてやろうか?」
デブが折り畳みナイフの刃を出して言った。私は思わず身震いした。
部屋の中は息が詰まりそうなほど蒸し暑かったが、日が暮れると急に冷えて震えが止まらなくなるほど寒くなった。
私はベッドから降りて、そっと部屋の中を歩いてみた。
部屋は狭く、しかも足首を鎖でベッドに固定されているので、自由に歩き回ることはできない。
おまけに窓も照明もないので、まったくの暗闇だ。手探りで床を這い回り、それからベッドの上によじ登った。
床も壁もザラザラしたコンクリートだ。素手で穴を掘ったり、壁に穴を開けることはできない。
窓はベッドのかなり上にあり、固く閉ざされていてこちらも同じ。
扉の方まで這って行こうとしたが、鎖がピンと張って手が届かない。
つまり、私の自由な行動範囲はベッドからせいぜい半径2メートルくらいしかない、ということだ。両手を広げた長さプラス少しだけ。
この地下牢のような場所で、それから私は4ヵ月もの間、監禁されることになるのだった。
ベッドで寝ているとチビが入ってきた。
「起きろ。メシだ」
チビが持ってきたのはアレパ(トウモロコシ粉のパン)とソパ(スープ)だった。食欲はなかったが、何も食べなければ体力が弱ってしまう。機械的に手と口を動かし、喉に流し込んだ。
チビは私の世話役のようだった。それから日に二度、チビは私の部屋にやってきて食事を与え、トイレ代わりのバケツの中身を捨てに行った。
食事はアレパだったり、パタコン(プラタノという料理用バナナを潰して油で揚げたもの)だったり、ライスやフリホーレスという煮豆、ジャガイモやパスタのこともあった。
時には魚やチキンが添えられることもあったが、アルミの食器にライスとパスタがほんの少しだけのこともあった。
チビは一日に一度、金属製のバケツに水を汲んできた。その水で顔を洗い、歯を磨き、ボロボロのタオルを水に浸して体を拭くしかなかった。
時計がないので今が何時なのか分からない。
朝になると窓の隙間からわずかに光が漏れてきて、太陽が昇るにつれて部屋の中は耐えがたいほどの暑さになり、日が沈むと日中の猛暑が嘘のように冷え込んだ。
昼は蒸し風呂、夜は冷蔵庫のような環境は老齢の身にひどくこたえる。
一日中、何もすることがなかった。
汚い毛布にくるまってベッドで震えているか、暑さをしのぐためコンクリートの床の上に転がっているしかない。
身体の自由が拘束されているというのは想像以上に辛いものだ。
運動不足で足腰が鈍ってしまうと気力も体力も落ちる一方なので、私は少しでも体を動かすようにした。
裸足でベッドの周りを何時間も歩いたり、腹筋と腕立て伏せを毎日300回やるようにした。
前回の誘拐は険しい山岳地帯を連れ回され、銃撃戦に巻き込まれたり、マラリアで高熱を出して死にかけたり、体力的に非常に過酷な監禁生活だった。
それでも野山を歩き回り、日を浴びて、外の空気を吸えただけまだマシだったかもしれない。
穴蔵のようなところで自由に動くこともままならず、日光浴もできないのは精神的にかなりこたえる。
こんなところに閉じ込められるくらいなら、いっそのこと死んでしまおうかと思い、自殺を考えることもあった。
シャツを引き裂いてベッドのフレームに結び付け、それを首に巻き付けて床に転がれば死ねるかもしれないと思ったが、それは“最後の手段”に取っておくことにした。
とりあえず生きよう。生きてここから出ることを考えよう。自分で自分に言い聞かせた。
何もすることがないというのはとにかく辛い。
前回の誘拐では川で水浴びや洗濯をしたり、日記をつけたり、ゲリラの少年兵に日本語を教えてやったり、いろいろとやることがあったので退屈はしなかった。
だが、今回は暗くて狭い部屋に監禁され、日記や手紙を書くことも、本を読むことも許されない。
ほんのわずかにベッドの周囲を歩き回ることが許されているだけで、気晴らしになるようなものが何もないのだ。
チビは一日に二度、食事とトイレの世話をするだけで、デブやノッポが姿を現わすことは滅多になかった。
私の家族や日本政府に身代金を要求したのか、解放交渉はどこまで進んでいるのか、それすら分からないのだ。
ただ動物のように食って寝て、体を動かし、いつ終わるとも知れない孤独な監禁生活にじっと耐えるしかないのだった。
コロンビアは3月から5月、9月から11月にかけて雨季が訪れる。
雨季に入ると毎日のように雨が降る。雨が屋根を叩く音で目が覚めることもしばしばだった。
不快な湿気が加わると監禁生活はいよいよ耐えがたいものになった。
家が古いせいか雨漏りがする。バケツの排泄物の臭いで息が詰まりそうだった。
ジメジメした部屋にはラ・クカラーチャ(ゴキブリ)やCiempiés(ムカデ)などの害虫が這い回り、私の食べ残しを狙ってRata(ネズミ)も出没するようになった。
正直、このネズミには悩まされた。
寝ているとベッドに這い上がってくる。足の間をすり抜けていく。体を噛まれて感染症になると厄介だ。
コロンビアのゴキブリは日本のより大きい。私はゴキブリを見つけると手で叩き潰し、金属製のスプーンでムカデの頭を押さえて体を引きちぎった。
映画『パピヨン』で主演のスティーブ・マックイーンが南米ギアナの監獄でやったように虫を食べてみようか、と思った。
口に入れたが、どうしても呑み込めずに吐き出した。
監禁生活が長引くうちに、だんだんと心が荒んでくるのが自分でも分かった。
昔、読んだサバイバルの本を思い出した。
海で遭難して、水も食料もほとんど手に入らない大海原を何日も何週間も漂流し続け、それでも最終的には助かった人間がいる。
誘拐されて地下牢のようなところに何年も監禁され、それでも希望を見失わずに助け出された人間もいる。
彼らに共通していたのは“楽観的であること”だ。
今の地獄のような状況を悲観して絶望するのではなく、将来への明るい展望を持ち続けることだった。
ここを出たら何をしたいのか考えてみた。
日本に帰って、単調だが平和な余生を過ごすのもいい。
熱い風呂に入り、寿司やラーメンを食うのもいいだろう。
これまでに行ったところを再び訪れてみるのも悪くはない。
私は九州の田舎で教師をしていた頃から旅行が好きで、暇を見つけては国内外あちこちを旅してきた。
海外は台湾、香港、マカオ、シンガポール、マレーシア、タイ、オーストラリア、ドイツ、イタリア、バチカン、イギリス、ポルトガル、アメリカ、メキシコ、コロンビア、ペルー、ブラジルなどを旅した。
コロンビアは1993年から3年間、ボゴタの日本人学校に単身赴任し、この国の豊かな自然とフレンドリーな人たちに魅了された。
郷里の佐賀で県議を務めた後、2011年からコロンビアに移住し、アボカドを栽培して日本に輸出する計画に人生を賭けてきた。
二度の誘拐で私の夢は消えかかっているが、まだ命が失われたわけではない。
生きていれば何だってできるのだ。死なない限り問題はない。そう考えることにした。
ここを出たらコロンビアをあちこち旅してみたい。
スペイン統治時代の面影を色濃く残すボゴタのセントロをのんびり散策し、ボゴタ郊外モンセラーテの丘に登り、シパキラの洞窟で岩塩を舐め、先住民のロマンチックな伝説で知られる神秘的なグアタビータ湖やテケンダマの滝を見に行きたい。
カリブ海のカルタヘナでビールを飲み、ビーチでゆっくりと肌を日に焼くのもいい。
サンタマルタの海岸で素晴らしい夕景を眺めながら物思いにふけるのもいいだろう。
馬に揺られて南米最大の規模を誇るサン・アグスティン遺跡に行ってみたいし、メデジン郊外の奇岩「ラ・ピエドラ・デル・ペニョール」に登ってみたい。
コロンビアも日本と同じ火山国なので、温泉が沢山ある。プールのように広い温泉で泳いでみたい。
コロンビア最南端の町レティシアから小舟で大河アマゾンをどんぶらこどんぶらこ遡ってみるのも面白い。
途中、上陸した小島で、野生の小猿の群れに歓迎されるだろう。ほっぺたが落ちそうな甘くてみずみずしいマンゴーやパパイヤも食べてみたい。
そうした空想の世界に遊ぶだけでも人生は十分に楽しいものだ、ということを実感した。
誘拐から1ヵ月が過ぎ、2ヵ月が過ぎても私の監禁生活には何の変化もなかった。
髪も髭も爪も伸び放題。爪切りがないので伸びた爪を歯で食いちぎる。風呂に入れないので私の体は異臭を放っていた。
ある日、デブが久しぶりにやってきて、私を部屋から連れ出した。
窓にはカーテンが引かれて薄暗いが、部屋の隅に冷蔵庫が置かれている。キッチンのようだ。私は椅子に座らされ、両手にコロンビアの日刊紙「エル・ティエンポ」の新聞紙を持たされてポラロイドカメラで写真を撮られた。
「お前が生きているという証拠だ。プルーフ・オブ・ライフ(生存証明)だよ」
新聞の日付を見れば、少なくともその日まで私は生きていたということになる。
デブが何も教えてくれないので、交渉の進捗状況は分からないが、まだ私を殺すつもりはないらしい。
「人質は大事な商品だからな。簡単には殺さないさ」
とデブは言ったが、利用価値がなくなれば私は生き埋めにされるかもしれない。
たとえ身代金を支払っても、いろいろと知りすぎたと判断されれば、あっけなく頭を撃ち抜かれて殺されるかもしれないのだ。
「なあ、ひとつ、頼みがあるんだが」
と私はデブに頼んでみた。
「なんだ?」
「私が死んだら、私の妻に遺言を伝えてくれないか」
「お前、独り者だと言ってたじゃないか」
「元妻だよ。別れた女房に伝えてほしいんだ」
私は典型的な九州男児で、これまで妻の知華子に苦労ばかりさせてきた。
知華子とは大学で知り合い、卒業後に結婚した。
新潟出身の知華子は越後の雪のように色白で清楚で、万事に控えめで、九州の旧家に嫁ぐことにはためらいもあったようだが、いつも私を立てて支えてくれた。
知華子との間に3人の娘が生まれ、4人の孫もいる。知華子は今、新潟の実家で90歳を過ぎた母親の介護に追われている。
前回の誘拐で知華子ははるばる新潟から一人でコロンビアに駆けつけてきた。
そんな知華子に私は冷たい言葉をぶつけることしかできなかった。
そのことを今、私は猛烈に後悔しているのだ。
ただ一言でいい。感謝の言葉を伝えておきたかった。
「私の妻、いや、元妻に『ムーチャス・グラッシアス(どうもありがとう)』とだけ伝えてほしいんだ」
デブはゲラゲラ笑って、
「どこにいるかも分からんお前の女房に伝えろだと?自分で言えばいいじゃないか」
「私が死んだら伝えられないだろう」
「俺の知ったことか。こっちは金が手に入ればそれでいいんだ」
と歯牙にもかけない。
私はガッカリしたが、気を取り直して、
「あんたにも女房はいるんだろ?」
と話を振ってみた。
デブは凶悪な本性には似つかないような人の好さそうな笑顔を浮かべて、
「うん。ガキが7人もいるんで食わせていくのが大変さ」
という。
妻子がいるくせに誘拐した人質の家族を脅迫しているのだ。
「あんた、子供がいるのにこんなことをしているのか?足を洗うつもりはないのか?」
「うん。誘拐は危険も大きいが、当たれば金になるからな。こんなうまい商売は他にねえよ」
デブめ、いけしゃあしゃあと言ってのけるのだ。
コロンビアはかつて世界で最も誘拐の多い国だった。
2005年に中国に抜かれるまで年間3600人以上(実数はもっと多い)が誘拐され、資産家や大企業の幹部だけでなく、外国人もターゲットにされた。
コロンビア政府の発表によれば、1996年から2004年までの8年間に324人もの外国人が誘拐された。
日本の3倍強という広大な国土。軍や警察の力が及ぶ範囲は限られており、人質の監禁場所には困らない。誘拐が横行する土壌が整っているのだ。
だが、コロンビア政府の強硬な取り締まりと誘拐対策法(誘拐の被害者に身代金の支払いを禁じる法律)が効果を上げ、2002年に2882件も発生していた誘拐事件は2010年に282件と10分の1に激減した。
コロンビア軍・警察の捜査能力が格段に向上したこともあり、誘拐事件は年々減少傾向にあるが、それでも誘拐はコロンビアの“裏の産業”として今も厳然と存在するのだ。
非常にリスキーなビジネスではあるが、成功すれば一度に大金が転がり込んでくる。その魅力には抗えない。
無法者にとってはコカインの密輸に次ぐ重要な資金源であり、コロンビアの治安が劇的に改善された今もなお、この国は誘拐との“腐れ縁”を断ち切れずに苦しんでいる。
『人質の経済学』(ロレッタ・ナポリオーニ著、文藝春秋)によると、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後、米国で成立した「愛国者法」により、ドル取引のすべてを世界中の金融機関が米国政府に届け出ることが義務付けられた。
その結果、コロンビアの麻薬カルテルは北アフリカ経由でヨーロッパ諸国にコカインを密輸するルートを開拓。麻薬取引をドル決済からユーロ決済に切り替えた。
コロンビア産コカインの運搬を引き受けたイスラム原理主義過激派や地元の犯罪組織は、やがて足元の金脈に気付いた。誘拐ビジネスだ。
アフリカを訪れる無防備な白人観光客を狙い、彼らは誘拐に精を出すようになった。欧州各国の政府は水面下で誘拐犯と交渉し、誘拐犯は莫大な身代金を手に入れた。
潤沢な資金を元手にイスラム過激派は勢力を増長させ、北アフリカ諸国から内戦の続くイラク、シリア、イエメン、ソマリアなどに燎原の火の如く広がっていった。
2013年1月、アルジェリアのイナメナスで天然ガスプラントがイスラム武装勢力に襲撃され、日本人の人質10人が殺害された。
この事件を指揮していたとされるモフタール・ベルモフタールは「イスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構(AQIM)」を率いてコロンビアの麻薬カルテルと連携し、麻薬密輸と人質誘拐に勤しむ武器商人であった。
それから2年後の2015年1月、内戦下のシリアで日本人ジャーナリストの後藤健二さんと実業家の湯川遥菜さんが「イスラム国(ISIL)」に誘拐された。
誘拐犯は日本政府に身代金2億ドル(約230億円)を要求し、またヨルダンで拘束されている死刑囚の釈放を要求したが、いずれも拒否されたため2人の人質の首を切断して惨殺した。
報道によれば、ISILは過去1年間に41億円~53億円もの身代金を稼いだという。
外国人で最も価値が高いのはイタリア人で、イタリア政府は「イタリア国籍を有する者」が誘拐された場合、身代金の支払いに応じるため、誘拐されたイタリア人の生還率は高いらしい。
コロンビアの麻薬が海を越えてアフリカに渡り、新たな暴力が中東やアジアにまで拡大しているという事実。
日本人は遠く離れたコロンビアの国内紛争には無関心だが、コロンビアの問題はもはや一国だけの問題では済まされなくなっている。
麻薬と誘拐がもたらす暴力は世界規模で拡大し続けており、もはや日本人も無関係ではいられなくなっているのだ。
誘拐から3ヵ月が過ぎても一向に解放の兆しは見えてこなかった。
私は知る由もなかったが、誘拐犯は私の家族と日本政府に100万ドルの身代金を要求し、家族はボゴタの在コロンビア日本大使館を通じて水面下で解放交渉を続けていた。
コロンビア政府の姿勢は一貫していた。すなわち「身代金の支払いは断固認めない」である。
この国では誘拐犯に身代金を払うと、被害者も“加害者の共犯”とみなされ逮捕されてしまうのだ。
身代金が犯罪者やテロリストの資金源となり、新たな誘拐を誘発してしまう。
さらなる悲劇を防ぐために設けられた法律だが、一方で、この法律が誘拐を助長しているという見方もある。
被害者にしてみれば、一刻も早く家族を返してもらいたい。愛する家族を救うためなら何だってするだろう。法や秩序よりも家族の情愛を優先するのは誰もが同じだ。
交渉がうまくいかなかったり、治安当局の救出活動が失敗して人質が無残にも殺害されることはよくある。
誰だって危険を冒すよりも無難な解決を望みたい。ある意味、被害者に身代金を払うなというのは、「お前の家族が殺されるのを黙って見ていろ」というのと同じくらい残酷なことだ。
政府の介入を恐れ、ひそかに身代金を払って家族を取り戻せば、誘拐犯の“思う壺”なのだ。
闇から闇に葬られていく誘拐事件はかなりの数に上る。
誘拐犯は追い詰められた被害者家族の気持ちに付け込んでくる。脅したり、宥めたり、硬軟両様の巧みな話術で譲歩を引き出そうとする。
誘拐犯は人間の心理を熟知したプロフェッショナルだ。彼らの目的は純粋に金であり、人質は持ち駒のひとつに過ぎない。
誘拐はスリリングなゲームであり、神経をすり減らす心理戦であり、冷徹なビジネスである。家族や関係者は強制参加させられ、誰も途中退場を許されない。
誘拐は最も憎むべき卑劣な犯罪であると同時に、人間の飽くなき欲望に根ざした最も古く単純な商行為なのである。
前回の誘拐で私の解放に尽力してくださった在コロンビア日本大使の藤本太郎氏は2021年に退任され、日本に帰国されていた。
後任の荒井憲一大使はもっぱら“凡庸な人物”との評判であり、私は最初からあまり期待はしていなかった。
もっとも、誰が誘拐されたとしても、日本政府が100万ドルもの身代金を簡単に払うわけもなく、コロンビア政府も二度目の誘拐ということもあり神経を尖らせているようだった。
過去には人質の解放交渉に携わり、誘拐犯に身代金を受け渡した交渉人が「テロリストに協力した」という容疑で逮捕され、コロンビアの劣悪な刑務所に数週間も拘禁されたことがある。
前回の誘拐で私は身代金を払っていないが、うかつに身代金を払えば無事解放されても今度は私が投獄されかねないのだ。
長期の監禁で弱り切った私がコロンビアの監獄に入れられたら生きて出られる保証はない。
だが、ある日、食事を運んできたチビがこんなことを言うのだ。
「俺のアミーゴ(友達)に日本で泥棒をして捕まった奴がいるよ。そいつは日本の刑務所で日本語を覚えた。カンジ(漢字)ってやつを書けるんだ。そいつはコロンビアの刑務所にも入ってたけど、日本の刑務所は最悪だって言ってた。コロンビアの刑務所は自由があるけど、日本の刑務所は規制だらけで自由がない。だから、入るならコロンビアの刑務所の方がいいって、ね……」
コロンビアの刑務所は規則もゆるく、金さえあれば獄中でも不自由はしない。
看守を買収して酒やドラッグもやり放題だ。金持ちはホテルのような部屋で暮らすことも可能。
日本の刑務所はコロンビアの刑務所に比べれば自由度が低い。それでも「金がないから刑務所に入りたい」とわざと罪を犯して捕まる人間もいる。
どこにも居場所のない日本人にとって、日本の刑務所は“三食昼寝付きの国営ホテル”のようなものだ。
そんなことを話したらチビは目を丸くして、
「コロンビアではそんなことはありえないよ。金のない奴は悲惨だ。みんなにケツを掘られて殺される。レイプをした奴と子供を殺した奴は生きて出られない。みんなシャバに家族がいるからね。自分の娘がやられたらと考えると許せないんだ。俺たちはファミリア(家族)を大切にする。仲間は裏切らない。裏切り者は必ず殺す」
とまくし立てた。
コロンビア人は家族愛が強い。平気で人を殺すような血も涙もない悪人でも、自分の愛する家族や友人のためなら命も惜しまないような侠気がある。昔の任侠映画のようだ。
一方、世界で最も治安の良い国であるはずの日本では家族間の殺人が絶えない。親が子供を虐待死させ、子供が老いた親を殺す。日本の殺人事件の半数は親族間で起きているとの説もある。
平和で不幸な日本人と、貧しくても幸せなコロンビア人。
コロンビアで二度も誘拐されながら、それでも私がこの国を去りがたいのは何故だろう……?
監禁生活が長期化する中、私は自分なりの“日課”を自分に課すことにしていた。
朝は起きたら散歩。足を鎖でつながれたままベッドの周りをぐるぐる何時間も歩き続ける。
それから体操と腹筋と腕立て伏せ。ろくなものを食べていないので息が切れる。
それでも体を動かさないとだるくなり、便秘になる。だから、嫌でも体を動かすようにしていた。
困ったのはベッドのマットレスにGarrapata(ダニ)が湧いてきたことだ。体中を喰われて痒い。たまらなく痒い。たまらず掻きむしっていると皮膚が破れて血と体液がにじんできた。
着替えもなければ体を洗うこともできない。マットレスを日に当てて干すこともできない。
チビに苦情を言っても「そのうち何とかする」と言って何もしてくれない。
チビ、デブ、ノッポの3人は別室でテレビを見ていることもあれば、昼間からアグアルディエンテ(サトウキビの蒸留酒。アルコール濃度が高い)を飲んで酔いつぶれていることもあった。
サッカーの試合をテレビ中継で観戦しながら歓声を上げたり、妙に静かになったかと思うとトランプで賭け事でもしているのか喧嘩になって声を荒げることもあった。
3人ともコカインを常用しており、手の甲に白い粉末を広げて鼻から吸っている。
ドラッグをキメながら酒を飲んでは怒鳴り合い、チビとデブがつかみ合ってノッポが止めに入ることもよくあった。
こんな連中だから私の方はほったらかしにされるばかりで、3人とも泥酔して眠り込んでしまったのか、いつまでたっても水も食事も運んでもらえないこともあった。
トイレ代わりのバケツは私の排泄物であふれ、耐えがたい悪臭を放っていた。
脱走の考えは常に脳裏にあった。
窓を壊して逃げられないかと悪戦苦闘し、金属製のスプーンの先端で窓を覆っている板を外そうとしたが、ビクともしなかった。
ベッドのフレームに固定されている鎖に口に含んだスープを垂らし、スープに含まれる塩分で鎖を錆びさせようと試みた。
だが、鎖は非常に頑丈で、とてもこの程度の思い付きでどうにかなるものではなかった。
3人の誘拐犯には何人かの仲間がいるようで、彼らは時々、馬や車でやってきては食料などを隠れ家に運んでくるようだった。
周囲はサトウキビ畑が広がるばかりの田園風景。不審な人物がやってくればたちどころに分かってしまう。
まさに誘拐犯にとっては“絶好の隠れ家”であった。
孤独で単調で空腹と体の痒みに耐える毎日が続いていると、日本での何でもないごく普通の日常生活がたまらなく恋しくなってくることもあった。
だが、家族の反対を押し切って、私が勝手に選んだ道なのだ。
こうなることは覚悟もしていたし、今更、泣き言を言ってみたところで始まらない。
人間は誰しも一人で生まれてきて、一人で死んでいく。
結局、何があっても誰も助けてくれないし、自分で何とかするしかない。
やれるだけのことをやって、それでもダメなら潔く諦めるしかないのだ。
「イサギヨクシヌカ……」
とつぶやいてから、今の自分の姿を鏡で見たら「イサギヨイ」などという言葉からは程遠い自分がいるのだ、と思い、涙があふれてきた。
誘拐から4ヵ月が過ぎた。
不眠が続き、下痢と便秘を繰り返し、体中をダニに喰われながら、ゴキブリやネズミと格闘しつつ、骨と皮ばかりの幽霊みたいになって私はまだ生きていた。
もうこんな生活がこの後もずっと続くくらいなら、いっそのこと一思いに殺してくれ、と叫びたくなることもあった。
一体、こんなひどい目に遭わなければならないほどの悪事を私はしたのだろうか。
天地神明に誓って言うが、私は七十余年の人生で、ただの一度も人の道に背くような真似をした覚えはない。
日本では、教え子に性的なイタズラをして懲戒免職される教員のニュースが話題に上るが、私は教師時代に生徒を殴ったり、わいせつ行為をしたこともない。
佐賀県議時代は汚職もせず、原発容認だったが、福島第一原発事故後は原発反対に転じ、地元・佐賀県の玄海原発の再稼働に反対している。
前世の因縁か。だとしたら、私は前世でよほど悪いことをしたに違いない。
だが、悪いことばかりでもなかった。
ダニに喰われる痒みで眠れないときは他の一切のことを忘れることができたし、ゴキブリやネズミを追い回している間は他の苦痛を一時的に忘れることができた。
前回の誘拐でもやったように私は“飲尿療法”もやってみた。
医者もいなければ薬も手に入らない環境では、自分の体は自分で治すしかない。
自分の尿を飲むのはあまり気持ちのいいものではなかったが、何もやらないよりはマシだろうと思って飲んだ。
空腹は神経を鋭敏にさせ、頭も体も軽くなったような気がした。
座禅を組んだり、スペイン語の単語を忘れないよう復唱したり、暗算で数学の難解な方程式を解こうとした。
ひとりでいる時間が長いとおのずと頭を使うようになり、学生時代に読んだ思想や哲学の本の内容を思い出そうとした。
人間は何もなくても何でもできるのだ。
囚われていても心は自由なのだ。
私は夢の中でどこへでも行けるし、誰もいなくても誰とでも会うことができる。
その意味で、今の私は“真の自由”を手に入れたのだとも言える。
2022年6月27日(月曜日)、誘拐から126日目。
その時は突然やってきた。
私はお腹を壊してしまい、数日前から下痢と微熱が続き、体調は最悪だった。
ベッドの上で汚い毛布にくるまり、やせ衰えた私の体から最後の一滴まで生き血を吸い上げていこうとするダニと孤独な戦いを続けていた。
私の血を吸って丸々と太った憎たらしいダニを指で押しつぶしていると、耳を聾するばかりの轟音。続いて男たちの怒号。激しい銃声。炸裂音……。
私は本能的に頭から毛布をかぶってベッドの下に転がり込んだ。
重く頑丈な扉が打ち破られ、閃光弾が投げ込まれた。目もくらむ強烈な光線と脳天を貫く衝撃波……。
ベッドの下で震えていると、男の太い腕が私の細い手首をつかんだ。
「我々はガウラ(人質解放統一行動グループ。Grupos de Acción Unificada por la Libertad Personal=GAULA)です。あなたは救出されました」
物々しいヘルメットと戦闘服に身を固め、スコープ付きアサルトライフルを携えた男が私の肩に手を乗せて言った。
ガウラは多発する誘拐事件に対処するため、1996年に創設されたコロンビア警察の特殊部隊である。
厳しい訓練を受けた精鋭集団であり、その作戦能力は各国の法執行機関から高く評価されており、誘拐が頻発するフィリピンから警察長官が視察に訪れている。
ガウラの隊員が私の足を4ヵ月も拘束していた鎖を工具で断ち切り、私を背負って運び出した。
濛々たる白煙が充満する室内から外に出ると、新鮮な空気が私の体を包み込み、私は深く息を吸い込んだ。
(助かった……助かったんだ……)
と思うと全身の力が抜け落ちて、思わず隊員の背中から滑り落ちそうになったが、ガウラの若い隊員はしっかりと私を支えて救急車まで運んでくれた。
私の二度目の誘拐劇は開幕も閉幕も「あっという間……」だった。
後に分かったことだが、私を誘拐したのは「ロス・カルボス(禿頭)」という誘拐専門の犯罪組織だった。
4ヵ月以上にわたる交渉で、誘拐犯は当初要求していた100万ドルの身代金を最終的に45万ドル(約4600万円)まで引き下げていた。
コロンビア警察は事件解決の糸口をつかみかねていたが、交渉が難航し、事件が膠着状態に陥る中、誘拐犯の携帯電話の微弱な電波から隠れ家を突き止めることに成功。
場所はパルミラ南部トゥリパネス・デ・ラ・イタリア地区の道路沿いの廃屋。
夜明けとともにガウラの一隊が隠れ家を急襲し、突入。銃撃戦で犯人の1人、通称エル・ゴルド(太っちょ)ことホセ・アルマンド・ロハス・ロドリゲス容疑者(36歳)を射殺。2人の容疑者を逮捕した。
エル・ゴルドは複数の誘拐や殺人に関与した疑いが持たれており、コロンビア国家警察が「最重要指名手配犯」として行方を追っていた凶悪犯の一人であった。
前回の誘拐から私は彼らに目をつけられていたのだろう。
コロンビアでは十分な誘拐対策をしていたつもりだったが、プロの誘拐犯の目を誤魔化すことはできなかったようだ。
私はカリ市内の病院で健康診断を受けた。
体重は48キログラムにまで落ちていたが、軽い脱水症状の他は特に異常なし。
皮膚疾患の薬を塗ってもらい、ビタミン剤の注射を打ってもらった。
ようやく自由になれたと実感する一方で、日本に帰ってからのことを思うと気が重くなった。売名のための狂言誘拐だと思われ、ネットでボロクソに叩かれるかもしれない。
病室にツボイ君が駆けつけてきてくれた。
「まずはシャワーを浴びてさっぱりして、髭を剃りたいな。君には二度も迷惑をかけてしまったね。なんてお礼を言えばいいのか……」
私が言葉を濁すと、
「まもなく奥様がボゴタから来られます。お礼は僕に言うんじゃなくて、はるばる日本から駆けつけてきた奥様に言ってあげてください」
「あいつ、あんなに言っておいたのに、懲りずにまたコロンビアに来たのか」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。もう次は来てくれないかもしれませんよ?」
「いや、いいんだ。ここで死ねるなら私は本望だよ」
と言うと、ツボイ君は目を丸くした。
私は髭に覆われた顔に満面の笑みを浮かべて言った。
「私はコロンビアが好きなんだ。何度誘拐されてもこの国が好きだよ。この国は私の人生の一部……いや、人生そのものだ。私はコロンビアという国と結婚したようなものだ。だから、もう、私は日本人じゃない。私はコロンビア人のカツヒコ・タケトミだよ」
解放後の私は一躍有名人だった。
コロンビアのテレビ局「カラコル・テレビシオン」の記者が病院に押し寄せ、マイクを向けられた私はツボイ君に通訳してもらいながら、こう言った。
「私の救出に尽力してくださったコロンビア政府と警察の方々、日本政府と関係者の方々に心から感謝します。救出作戦は完璧な成功でした。コマンド部隊がドアを爆破してなだれ込んできたとき、私はもうダメかと思いました。と言いますのも、誘拐犯たちは常に銃を持って私を監視していたからです。彼らは薬物中毒者でした。アルコールに酔って興奮し、発砲することもありました。彼らの気まぐれに私は殺されるのではないかと思いました。幸運なことに、彼らは酔いつぶれていました。銃撃戦はすぐに終わり、私はガウラの優秀な隊員に救い出されました。4ヵ月ぶりに外の空気を吸ったとき、『ああ、これで助かった』と思いました。この4ヵ月で10キロも痩せてしまった。半年を過ぎても解放されなければ自殺しようかと思いました。でも、踏みとどまったのは妻のおかげです。愛する妻と家族がいたからこそ、私は最後まで望みを捨てることはありませんでした。妻と日本の家族に心から感謝しています。そして、完全な奇襲により人質を奪還したガウラの隊員たちの勇気と健闘を祝福します。コロンビアの友人たちに永遠の友情と連帯を表明します……」
台本を用意していたわけでもないのに、驚くほどスラスラと語っているうちに私は感極まって我にもなく泣き出してしまった。
警察は私が監禁されていた隠れ家からアサルトライフル、短機関銃(サブマシンガン)、ピストル、大量の弾薬と手榴弾を押収したと発表した。
私を誘拐した「ロス・カルボス」は2006年に解散した極右民兵組織「コロンビア統一自衛軍(AUC)」の元メンバーが結成した犯罪組織で、パルミラの隠れ家は人質の監禁場所であると同時に武器の隠匿場所でもあった。
もし、誘拐犯たちが手榴弾を爆発させていたら、他の爆弾も誘爆して、私は木っ端微塵に吹き飛ばされていただろう。
後日、コロンビアでの報道が日本のネットユーザーに揶揄され、私はその名前から“かつじい”と呼ばれていることを知った。
YouTubeには、
『かつじい、涙の記者会見』
と題する動画が掲載されたりした。
前回の誘拐はほとんど話題にならなかったのに、今度はまるで“お笑い芸人”のような扱い方をされているのに少し戸惑った。
解放直後の私は髪も髭も伸び放題。“落ち武者”さながらの姿が人々の笑いを誘ったのかもしれない。
さて、日本に帰国後、私はコロンビアに行けなくなってしまった。
外務大臣から旅券(パスポート)返納を命じられたのだ。
旅券法では、
「申請時に虚偽の記載があったときや旅券の記載事項の訂正をした場合、旅券名義人の命や財産保護のために渡航の中止が必要な場合、旅券名義人が渡航先において日本国民の一般的な信用または利益を著しく害し帰国させる必要がある場合、2年以上の刑罰につき訴追されている場合などにおいて、旅券法(昭和26年法律第267号)第19条に基づき外務大臣や領事官が旅券の名義人に対し、旅券の返納を命ずることができる」
と定められている。
「あなたはコロンビアで二度誘拐されました。今後、コロンビアの情勢が安定するまで、コロンビアへの渡航は中止してください」
というのだ。
私は地団太踏んで悔しがったが、パスポートを取り上げられてしまったのではどうにもならない。
再度のコロンビア行きは断念せざるを得なくなってしまった。
私に残された時間は少ない。
私にはまだやり残した仕事がある。
でも、ここいらが“潮時”なのかもしれない。
私がコロンビアに残してきた“夢”は誰かが継いでくれるのかもしれない。
私の夢はコロンビアに深く根を張り、やがて大きく成長していくかもしれない。
今は、その“希望”をまだ見ぬ未来に託すしかない。
2022年秋 佐賀市の自宅で 武富克彦
武富克彦
武富克彦(たけとみ かつひこ、1948年7月20日-2028年2月1日)は、日本の教育者、政治家、実業家。
来歴
佐賀県佐賀市出身。先祖は佐賀藩主鍋島家の家臣。佐賀藩士・武富武左衛門は島原の乱で首級38を挙げたという。父親は大東亜戦争でインパール作戦に従軍。母親は福岡県柳川市の漁師の娘。8人兄弟の長男として生まれる。佐賀市立勧興小学校、佐賀市立成章中学校、佐賀県立西高等学校、上智大学経済学部を卒業後、佐賀市の公立中学校で社会科の教師を務める。
1993年4月から1996年3月まで南米コロンビアの首都ボゴタの日本人学校に赴任。帰国後、佐賀市の公立小学校の校長を務めた。
2003年4月、佐賀県議会議員に佐賀市選挙区から立候補し当選。佐賀県議を2期8年務め、2011年、政界を引退。
引退後は南米コロンビアに移住し農場を経営。バジェ・デル・カウカ県でアボカドを栽培し日本に輸出。コロンビアの若者を貧困から救うプロジェクトを推進していたが、2019年12月17日、左翼ゲリラ「コロンビア革命軍(FARC)」分離派に誘拐され、2020年1月27日、解放。
2022年2月22日に再び誘拐され、同年6月27日、コロンビア治安部隊に救出された。
2028年2月1日、急性白血病により死去。満79歳没。墓所は佐賀市の寿慶寺。
人物
・妻は新潟県柏崎市出身(2025年9月死去)。3人の娘と4人の孫がいる。
・実家は農家で「ひよくもち」というもち米を栽培していた。佐賀県は北海道に次いで全国2位のもち米生産県である。
・日本酒を好み、特に佐賀の銘酒『鍋島』を愛飲していた。佐賀藩主・鍋島直正が酒造を奨励したこともあり、佐賀県は九州地方で最も日本酒が飲まれる地域である。
・「人間は生まれ変われる」という信念から死刑制度に反対していた。「被害者のことを考えれば死刑制度は残したまま、死刑を執行しないのが望ましい」と述べていた。
・佐賀県議時代は原子力発電容認派だったが、福島第一原子力発電所事故以降は原子力発電に懐疑的になり、地元・佐賀県の玄海原子力発電所の再稼働に批判的であった。
「少年の心を失わぬ冒険家」武富克彦さんの思い出
吉川和夫 元朝日新聞社サンパウロ支局長
令和5(2023)年8月15日、私は東京・千代田区紀尾井町の上智大学四谷キャンパスにいた。うだるような暑さの中、800人以上を収容できる10号館の講堂で武富克彦さんの講演会に出席した。武富さんにお会いするのはこれが初めてだった。南米コロンビアで二度誘拐されるという特異な体験をされた武富さんの第一印象は「明るく気さく」。上智大学は武富さんの母校。故郷・佐賀県の中学校で長年教職にあり、佐賀県議を2期務めた武富さんの話は面白く、海外で苦労されたこともあって人間的な魅力にあふれる方だった。
私はコロンビアに並々ならぬ思い入れがある。ブラジル・サンパウロ支局長だった1999年から2004年にかけて、私はコロンビア内戦の取材で同国を何度も訪れた。大統領選最中の02年5月、私は首都ボゴタから車で10時間以上、中部メタ県の山岳地帯に赴いた。中南米最大の反体制武装勢力「コロンビア革命軍(FARC)」幹部に取材を申し入れ、ようやく許可がおりたのだ。
FARCは01年2月、大手自動車部品メーカー「サカイ」の現地合弁会社「サカイ・シーメル」副社長・新井賢一さんを誘拐、監禁していた。
「ハポネス(日本人)に会わせてやる」
との申し出に私は緊張した。監禁中の新井さんに会わせるというのだ。車は政府軍の追跡を警戒して何度も道を変え、私は途中で目隠しをされた。
「新井さんですか?」
新井さんは黙ってうなずいた。場所は森の中。軍服姿の新井さんは小屋の中に座らされていた。背後にはAK小銃を構えた兵士たちが威圧するように並ぶ。会話はスペイン語以外禁止。新井さんはあまり流暢(りゅうちょう)ではないスペイン語で少しずつ話し始めた。身ぶり手ぶりを交え、ゲリラの兵士たちと食事など待遇について話し合っていた。
FARCはサカイと新井さんの家族に身代金2500万ドル(約27億円)を要求。FARC幹部は「戦争税だ。大企業は我々に支払う義務がある」と誘拐を正当化した。新井さんの解放交渉は長期に及び、この時点で誘拐からすでに1年あまりが経過していた。
「早く話し合いを進めてほしい。あと2年くらいかかるのかな……」
ぼそりとつぶやくように話す新井さん。ノートに「お伊勢さん」「大神宮」と書いて私に示した。伊勢神宮を信仰しているという。
それは必ず生きて日本に帰る、という新井さんの決意のように思われた。会見時間は約30分。私は後ろ髪をひかれる思いでキャンプを後にした。
それから約1年半後の03年11月24日、新井さんはボゴタ郊外の山中で遺体でみつかった。新井さんを監禁していたFARC部隊が国軍のパトロールに追い詰められ、新井さんを射殺して崖下に蹴落としたのだ。私は言葉を失った。
1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が続くコロンビア。武力衝突は第二次世界大戦後の混乱と政情不安からほぼ80年にもおよび、世界で最も長い紛争の1つにあげられる。かつて世界一殺人事件の多かった同国は誘拐と麻薬取引が横行し、「治安の悪い危険な国」という負のイメージが付きまとう。一方で温暖な気候、豊富な資源、親切で勤勉な国民性という意外な側面はあまり知られていない。
武富さんは九州の大自然でのびのびと育った。小学校の恩師・大竹七蔵先生にあこがれ、将来は教師になりたいという夢をめざして上京。大学では登山部に所属し全国の山に登った。南米に移住し、ブラジルで牛飼いになりたいと思ったのもこのころだ。
「アマゾンの密林を切りひらき、馬に乗って牛を追いながら暮らしたかった」
と笑う武富さん。しかし、九州の旧家の長男。大学を出れば実家を継がねばならない。夢は断念せざるを得なかった。
郷里で教師になった武富さんに思いがけないチャンスが訪れたのは約20年後。コロンビアの日本人学校に赴任したのだ。3年間の単身赴任中、治安の悪さとは裏腹に風光明媚な土地とフレンドリーな人々に魅了された。
世界的なコーヒーの産地、エメラルド、カーネーション、美男美女の里で知られるコロンビア。アボカドを栽培し日本に輸出、雇用を創出し貧困から暴力に走る若者たちを救いたい、という武富さんの壮大なプロジェクトが始まった。
「貧困が若者を暴力に追いやり、暴力が経済活動を停滞させ貧困を助長するという悪循環。この負の連鎖をどこかで断ち切らないといけない」
そう熱っぽく語る武富さんの夢は「自分を誘拐したゲリラの少年兵を農場で雇い、社会復帰させたい」ということだった。
コロンビアでは2016年、最大のゲリラ勢力だったFARCが停戦と武装解除に合意。長年の悲願だった和平の実現に向けて大きく動き出した。ゲリラ兵士の多くは武器を捨て、社会復帰の道を歩み始めた。
ところが、極左ゲリラと敵対する極右民兵が元兵士や左翼活動家をターゲットに暗殺を繰り返し、和平後の約5年間に少なくとも1280人が殺害された。テロや誘拐の犠牲者も殺し屋を雇い、元兵士の命を狙う。憎悪と復讐の連鎖はコロンビアに暗い影を投げ落としていた。
コロンビア政府はゲリラ兵士の保護に消極的だと批判され、業を煮やした元兵士の一部は活動再開を宣言。「FARC分離派」を名乗る武装集団が武富さんを農場から連れ去った。
2019年12月、最初の誘拐。1ヵ月あまりにわたる過酷な監禁生活で銃撃戦、空爆、マラリア(ハマダラカが媒介する感染症)と何度も生命の危機に直面し、農場を売って金を作るという約束で無事解放。しかし、誘拐犯の魔の手は再び武富さんを襲った。
農場再開をめざしてコロンビアに戻った直後の22年2月、2度目の誘拐。今度は金目当ての犯罪組織だった。4ヵ月に及ぶ監禁で体重は48㎏にまで落ちた。粗末な食事と不衛生な環境。何度も「殺されるのではないか」と思ったという。
治安部隊の突入で命からがら救出されたのもつかの間、日本政府に「危険だから」とパスポートを取り上げられてしまう。
「コロンビアに残してきた農場のことがどうしても頭から離れない」
帰国後、武富さんは手記を発表。自身の体験談の映像化に向けて奔走していた。なぜ、命の危険を冒してまでコロンビアをめざすのか。武富さんは言った。
「だって、ゲリラの少年兵と約束したんです。いつかこの国が平和になったら、彼との約束をどうしても果たしたい」
しかし、病魔は武富さんの寿命をむしばんでいた。令和9(2027)年秋ごろから体調を崩し、家の中でたびたび転んだ。一度転ぶとなかなか起き上がれず、同年12月11日、佐賀県医療センター好生館に入院。急性白血病と診断される。
気分のいいときは「すしが食べたい」と口にすることはあっても、固形物はほとんど受け付けず、死の4日前、1月28日に煮豆と煮魚を少し食べたのが最後の食事だった。
令和10(2028)年2月1日午後11時16分、死去。享年79。生家の近く、佐賀市の寿慶寺に眠る。
「いつまでも少年の心を失わない冒険家」。それが武富さんの印象だった。合掌。
執筆 吉川和夫(よしかわ・かずお)
1959年、大阪府生まれ。関西大学法学部卒。1982年、朝日新聞社に入社。札幌支局長、バンコク支局長、サンパウロ支局長などを歴任。現在、帝京大学客員教授。著書に『コロンビア内戦 愛と死と情熱と』(論創社)『チャベス革命 抑圧の500年とラテン民族の誇り』(朝日新聞出版)等。
父の思い出 小竹(旧姓・武富)千恵
私が高校卒業までの約20年間を過ごした佐賀の実家は見渡す限りの田園風景。目の前に有明海、嘉瀬川、背後に背振山地をのぞみ、大自然の恵みに囲まれて育った。
九州北部の佐賀県は近隣の福岡、長崎、熊本に比べて全国的な知名度は低い。が、筑紫平野(佐賀平野)の穀倉地帯が広がり、地震も津波も火山もなく、“台風銀座”と呼ばれる九州で唯一、台風が上陸したことのない県だ。災害大国の日本では比較的、安全な土地である。有明海と玄界灘の海の幸にも恵まれ、子どもがのびのびと育つには申し分のない環境といえるだろう。
父・克彦は中学校の教師。母も英語の教師という“教育熱心”な家庭に生まれた。しかし、子どものころの私は、お世辞にも“勉強熱心”とはいえず、男勝りのおてんば娘だった。大雨で増水した嘉瀬川に飛び込むのが好きだった。急流に流され、下手をすれば命にもかかわる危険な遊びだ。が、ジェットコースターに乗っているようで楽しい。これは父から教わった遊びだった。
少年時代の父もわんぱく小僧だった。祖母の実家・福岡県柳川市は佐賀市と九州最大の河川・筑後川を挟んで目と鼻の先。“水郷”で知られる北原白秋ゆかりの地は縦横無尽に運河が走り、父の子ども時代はうなぎやすっぽんがいくらでも獲れた。父は獲れたうなぎを鰻屋に売って小遣いにしていたという。
遊んでばかりだった父と小学校の恩師・大竹七蔵先生との出会いは4年生のころ。父は学校で図工の授業中、切り出し小刀で誤って指の付け根を傷つけてしまった。傷は深く、出血がひどい。大竹先生は白いワイシャツが血で汚れるのもいとわず、自分のハンカチで傷口の止血をした。
明治41(1908)年生まれの大竹先生は厳格で心の優しい方だった。「人間は自分ひとりで生きているのではない」「人の世話にならず、人の世話をしろ」「つねに世のため人のために生きろ」と教え子を諭した。父は大竹先生に感化され、中学に進学すると読書好きの勉強熱心な学生になった。
昔はどこの農家もそうであったように、私の実家でも牛や馬を飼っていた。父は馬に乗るのが上手だった。小さいころの私もよく馬に乗った。ある時、馬が突然倒れて、私は田んぼのあぜ道に転げ落ちた。父が飛んできて言った。「馬の背中に傷がある。馬は痛がっている。馬の気持ちにもならないと」。父は人間にも動物にも優しい人だった。
父は絵に描いたような“九州男児”だったが、母や私たちを心から愛していた。お酒が好きで晩酌を欠かさなかったが、飲んで乱れるということはなく、一合の日本酒をゆっくりと飲んだ。夜は9時に寝てしまい、毎朝判で押したように5時には起きる。質素な生活。ぜいたくは決してしないが、私たちが生活に困るようなことは一度もなかった。
父は昭和62(1987)年から3年間、福島県の会津若松の中学校に単身赴任した。磐梯山のふもと、猪苗代湖のほとりで自炊生活をしていた父は夏休み、私たちを招いてカレーライスをふるまってくれた。開けっぱなしの窓から砂が吹き込む。私たちは砂まみれのカレーを食べ、父が庭で育てたきゅうりでのどをうるおした。今となっていい思い出だ。
平成4(1992)年秋、父は初めての海外赴任が決まった。日本から遠く離れた南米コロンビアの首都ボゴタの日本人学校に赴任したのだ。
当時、コロンビアは麻薬戦争で世界最悪の治安。政府治安部隊と麻薬密売組織の戦闘で死者が出ない日はなく、日本でも凄惨な状況がニュースで伝えられていた。爆弾テロも日常茶飯事。まさに戦場である。赴任は命がけだ。家族はこぞって反対した。でも、父は言った。
「日本は平和だ。世界には戦争の中で暮らしている人もいる。自分だけが平和でいいのか。そこで暮らす人のために何かできるはずだ」
私たちの不安をよそに父は飄々と旅立った。学生時代から南米移住は父の“夢”だった。アマゾンの熱帯雨林を焼き払い、ライフル銃を手に馬を駆って牛を追いながら暮らす――。そんな野性的な生活を夢見ていた父は、生まれながらの“冒険家”だったのかもしれない。
平成7(1995)年夏、私たちは父の招きでコロンビアを訪れた。私にとっては生まれて初めての長旅。出発前夜は一睡もできず、成田から米国経由でボゴタの空港まで丸1日以上。死地に赴く覚悟で足を踏み入れたボゴタは、アンデスの盆地に広がる海抜2600mの高地。第一印象は“空気が薄く、薄暗い”だった。
自動小銃を構えた兵士。厳戒態勢のボゴタにはピリリと張り詰めた緊張感が漂う。ハリソン・フォードの映画ばりに今まさに現在進行形の戦争が行われている国、という実感。高地の酸素不足で寝てばかりの私だったが、コロンビアの朝食の定番、ホットチョコレートのチーズ添えはチョコの甘みとチーズの塩気がよくあって、とてもおいしかった。
近代的な高層ビルとスペイン統治時代の面影を色濃く残す歴史的な街並みが共存するボゴタ。治安の悪さとは裏腹に親切な人が多いのもこの国の特徴だ。温暖な気候、緑美しい風光明媚な景色は私を“夢の国”にいるような錯覚にいざなう。が、路上にたたずむインディヘンテ(ホームレス)や物乞いの姿が私を“過酷な現実”に引き戻す。
「コロンビアでは毎日、誰かが生きるために誰かを殺す。この人たちを救えるのは“教育”だけなんだ」と語る父。“教育の重要性”を私は身をもって思い知らされた。
この年、日本は年明け早々、阪神大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件。戦後50年という節目の年。日本の平和と経済的豊かさなんて、瞬時に失われるかもしれないという予感。父の「自分さえよければそれでいいのか」という言葉が私の心に重く響いた。
新世紀を迎えた平成12(2000)年、佐賀県と母の故郷・新潟県で陰惨な事件が相次ぐ。柏崎市で9年2ヵ月もの長期にわたり少女が監禁され、佐賀の少年が牛刀を手に高速バスを乗っ取り、乗客を殺害。日本人の“心”が壊れている――。そんな危機感が父を政治の道に向かわせた。
平成15(2003)年から佐賀県議を2期8年務めた父。超多忙の生活を支えた母。二人三脚で「人の世話にならず、人の世話に徹する」。そんな父母の背中をみながら、私たち三姉妹は無事に巣立った。
平成23(2011)年、政界を引退した父は長年あたためていた計画を実行に移す。コロンビアに移住し、農場を経営。アボカドを栽培し日本に輸出。雇用を創出し、貧困から暴力に走る若者たちを救いたい――。そんな壮大な事業を支えたのは母だ。なけなしの貯金を切り崩し、国から支給される年金でやりくりしながら、地球の裏側で父と母の“最後の大仕事”が始まった。
かつて世界最悪の誘拐大国と呼ばれたコロンビア。誘拐犯の魔の手は父にも迫った。革命ゲリラの残党が父を農場から連れ去った。無事解放され再起をかけてコロンビアに戻った直後、二度目の誘拐。この国では誘拐もビジネスだ。二度の誘拐で父はすっかりやせてしまい、母もめっきりと老け込んだ。
令和7(2025)年秋、母はすい臓がんで世を去った。父にとって母は最愛の妻、というよりも、苦楽を分かち合い、遠い異国の地で命をかけて戦った“戦友”だったのだろう。
母の死から2年半後、父も母の後を追うように逝った。最後まで父は言っていた。「ゲリラの少年兵との約束を果たしたい」。父の夢は、自分を拉致したゲリラの少年兵を農場で雇い、彼を社会復帰させることだった。それは、大竹先生(昭和60年没)が父に託した「世のため人のため」というバトンタッチだったのだ。
晩年の父は“日本の右傾化”を憂えていた。ゼノフォビア(外国人嫌悪)とエスノセントリズム(自民族優越主義)に毒されたレイシズム(差別主義)が蔓延し、自分さえよければそれでよい、とする“傲慢な日本人”が増えていることに心から危機感をつのらせていた。
日本は資源小国。輸入がなければ農業すらままならない。外国と仲良くやるしか日本の生き残る道はない。“戦前回帰”は亡国への近道――。残念ながら、父の危惧は的中しているようにもおもえる。
父と母が私に遺してくれたものは、かけがえのない“人生の財産”だった。武富克彦という父を、私は心から誇りにおもう。
令和十年三月吉日、脱稿
誘拐 土屋正裕 @tsuchiyamasahiro
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