誘拐Ⅲ

コロンビアでゲリラに誘拐され密林の山岳地帯で監禁される武富克彦!監禁生活が長引く中、下痢で体力を消耗し朝晩は山の寒さに震えあがる。敵はゲリラだけではない!銃撃戦、空爆、マラリアと何度も命の危機に直面しながら困難な身代金交渉を進める。ゲリラの少年兵との友情が芽生える中で凶弾が彼を襲う!果たして武富は生きて日本に帰れるのか?!



2019年12月23日(月曜日)、誘拐から7日目。


この日から私の解放交渉が始まった。


午前9時ちょうどにエンカルナシオンがカリの自宅に電話を入れた。すぐにツボイ君が出て、私に代わった。


「武富さん、お元気ですか?ガウラ(拉致対策警察隊)にも届けました。今回の誘拐事件は大きなニュースになっています。日本政府はコロンビア政府に人命優先で善処するよう要請しました」


どうも、私が思っていた以上に事件の報道が過熱しているようだ。対応を間違えれば、日本とコロンビアの国際問題にも発展しかねない。


ツボイ君によると、エンカルナシオンは解放交渉の条件として、


・今後の交渉は携帯電話ではなく、無線機を用いて行なうこと。

・無線機は家族側が2台用意すること。

・うち1台をゲリラ側が指定した方法で引き渡すこと。


を要求してきたという。スマホで通話していると、逆探知で居場所を突き止められる恐れがあるからだ。


「それと、奥様が日本から来られました。今、代わります」

「えっ?」

「もしもし?もしもし?」

妻・知華子の声だった。

「もしもし?今、どこにいるんだ?」

「カリの自宅です」

「どうしてコロンビアに来たんだ?私に何かあったら日本に戻って知らん顔しろと言っておいたじゃないか。私は離婚し、独り者ということになっている。子供もいないし、親兄弟もみんな死んでしまったと言ってあるんだ」


私は一気にまくし立てた。


「早く日本に帰るんだ。新潟の実家に戻って外に出るな。電話にも出るな。誰が来ても知らぬ存ぜぬで通すんだ」


そこまで日本語で早口で喋ると、エンカルナシオンが私の手からスマホを取り上げた。


言い終わってから、少し言い過ぎたと思い、反省した。はるばる新潟の実家からコロンビアに駆けつけてきた知華子に気の毒なことをした、と思った。


しかし、ゲリラは私に妻がいると知れば、妻の実家に身代金を要求するかもしれない。金は取れそうなところから取る。だから、なるべく金のニオイをさせてはいけないのだ。交渉術の常識だった。


最初の交渉はこれだけで終わった。知華子との通話時間は30秒もなかったに違いない。


エンカルナシオンはスマホの電源を切った。ガウラに電話を傍受されるのを警戒しているのだ。


「今のは奥さんか?」


エンカルナシオンが鋭い視線を向けた。


「違う。知り合いの女性だ。妻とは別れたと言ったじゃないか。私は年金生活者で、ドルなんて持っていない。コロンビアの銀行に5000万ペソ(約150万円)の預金があるのと、パルミラに1ヘクタールの農場を持っているだけだ。それをすべてやるから解放してくれ」


と私は答えた。エンカルナシオンは微笑を浮かべ、


「まあ、いい。金の話は後にしよう」


と言った。最初の交渉は、たったこれだけだった。私は気落ちしてしまった。この調子では長期戦を覚悟しなければならない。



2019年12月24日(火曜日)、誘拐から8日目。


誘拐されてから1週間が経過した。


今日はクリスマス・イヴだ。キリスト教カトリックのコロンビアではクリスマスは特別な日である。


私はボゴタのボリーバル広場の巨大なクリスマス・ツリーを思い出した。コロンビア人はクリスマスの1ヵ月以上も前からクリスマスの準備に大童だ。


ゲリラはクリスマスをどのように過ごすのか興味があった。が、リカルドに訊くと、特に何もしないという。


「クリスマスは祝いません。大晦日にみんなで踊るだけです」


ゲリラはマルクス主義の無神論者が多いからクリスマスを祝うことをしないのだろうか。


ジャッキーや女性兵士は十字架のネックレスを首からぶら下げているが、アクセサリー感覚なのだろう。宗教に無関心なだけなのかもしれない。


朝食後、ケブラーダ・エル・ボリト川で水浴びと洗濯をしていると、ゲリラたちが一頭の牛を連れてきた。痩せて背中にコブのある牛だ。どこかの農家から勝手に「拝借」してきたらしい。


エルナンが自動小銃の銃口を牛の眉間に向けた。


「ダ、ダーン!!」


空気を切り裂く凄まじい銃声が響いた。私は思わず身をすくめた。


ゲリラたちは河原で手早く射殺した牛の解体を始めた。皮を剥ぎ、肉を切り分ける。肉は川の上のキャンプに運び上げ、炊事場の隣に竹で作った食料貯蔵庫にぶら下げた。


さっそく昼食は焼肉が出た。ゲリラにとって肉は滅多に食べられないご馳走である。


ゴムのように堅い肉だったが、久しぶりに栄養のあるものを食べられた気がして、少し元気が湧いた。



2019年12月25日(水曜日)、誘拐から9日目。


12月だというのに毎日のように雨が降ったり止んだりしている。


熱帯でも雨が降ると急に気温が下がる。山の中の朝晩は身震いするほど寒くなることもある。


コロンビア西部は南北に1200キロメートルも延びるアンデス山脈が太平洋からの温かく湿った風を遮るため、太平洋岸に大雨をもたらす。年間降水量は8000ミリにも達する。


カリ市の標高は955メートル。熱帯のティエラ・カリエンテ(Tierra caliente)に属し、年間降水量は1500~2000ミリ。年間平均気温は24℃以上で温暖であり、農業に適した環境で、米や大豆、バナナ、サトウキビなどが栽培されている。


標高900~2000メートルがティエラ・テンプラーダ(Tierra templada)と呼ばれ、年間降水量は1500~3000ミリ。年間平均気温は17~24℃。コーヒー豆の栽培は主にこの地域で行なわれる。


標高2000~3000メートルまでがティエラ・フリア(Tierra fría) となり、雲霧林(クラウド・フォレスト)が存在し、年間平均気温は12~26℃で、国土の15%はこの気候である。


標高3000~4500メートルまでがパラモ(páramos)となり、木の生えない草原地帯が広がる。パラモはコロンビア、ベネズエラ、エクアドルの赤道アンデスに固有の環境区分帯で、寒冷で湿潤な高地部を指す。


標高4500メートルが雪線となり、ティエラ・エラーダ(Tierra errada)という万年雪に覆われた世界となる。


私がいるのはカリからかなり南下したところの山の上だ。標高は1700メートルほどあるのではないか。


毎日のように濃い霧が発生する。湿度は80%以上あるだろう。ジメジメして肌寒い環境は老齢の身にこたえる。


ゲリラが牛を一頭つぶしたので食事は良くなった。朝昼晩と三食、牛肉を煮たり焼いたりしたものが出る。栄養状態は改善されたが、困ったことに私は下痢になってしまった。


消化不良か。水が悪いのか。それとも監禁生活のストレスなのか。1日に何度もトイレに行くので、そのうち尻が擦り切れて痛くなってきた。


困ったことになったと思った。こんな山の中には病院もないし、医者もいない。風邪を引いてこじらせたら厄介なことになる。


ドクトル(医師)と呼ばれるゲリラが1人いるだけで、彼が持っているのは胃薬とアスピリンだけだった。


私は炊事場から炭を少しもらって食べた。腹痛や下痢は炭を食べると治る、という話を思い出したのだ。


教員時代に海外旅行でタイに行ったことがある。タイのような暑い国では食中毒が付き物だ。タイでは下痢になると炭を飲む習慣があるという。


「炭なんか食べて大丈夫なのか?」と思うかもしれないが、炭は腸壁を通過できず、人体に吸収されないので無害だ。むしろ、炭の吸着力が体内の毒素を吸収し、体外に排出する効果がある。


下痢止めで有名な「正露丸」にも炭が使われている。黒い丸薬の正体は炭なのだ。


こんな山の中では病気になっても自分で治すしかないのである。



2019年12月26日(木曜日)、誘拐から10日目。


相変わらず天気は悪い。朝から濃い霧が山をすっぽりと覆ってしまう。晴れ間はほんのわずかだ。


どこからともなく蝶が飛んでくる。鮮やかなコバルトブルーの翅を広げ、花の蜜を吸うために降りてくるのだ。


コロンビアは自然の宝庫だ。多種多様な動植物に恵まれ、近年はエコ・ツーリズムも盛んだ。


特に鳥類の種類は世界で最も豊富な国である。種数は約1800種。固有種は約60種に上る。


山の中ではハチドリやスズメのような野鳥をよく目にするが、中でもハチドリの生態は興味深い。


花の蜜を主食とするハチドリは、ホバリング飛行で空中で静止しながら、花の中に細長い嘴を突っ込み、蜜を吸う。


ブンブンという羽音が蜂に似ていることからハチドリ(蜂鳥)と名付けられた。


Wikipediaによると、ハチドリは鳥類の中で最も体が小さく、体重はわずか2~20グラムほど。毎秒約55回、最高で約80回の高速で羽ばたくという。


驚くべきはその代謝である。昆虫を除けば、ホバリングや高速飛行中の翼の高速な羽ばたきを維持するために、ハチドリは全動物中で最も活発な代謝を行なう。


少し長くなるが、引用してみよう。



心拍数は毎分1260回に届き、アオノドハチドリの測定では、安静時でも呼吸数が毎分250回に及ぶ。ハチドリの飛行中における筋組織の酸素の消費量は、人間の優秀なアスリートのそれの約10倍にもなる。高エネルギーを必要とするホバリング飛行の為に、摂取した糖を燃料に活用するハチドリの能力は、脊椎動物の中でもまれで、摂取した糖によって代謝を100%増強することができる(対して、アスリートは30%にしか達しない)。


ハチドリは、新たに摂取した糖を30~45分以内に燃料として消費できる。これらのデータは、ハチドリが飛翔筋内部で効率よく糖を酸化させることで、大きな代謝の要求を満たすことを示している。ハチドリは新たに摂取した糖を飛行の燃料として直ちに利用できるため、夜間空腹時や渡り時の維持のための脂肪以外のエネルギーを体に蓄える必要がない。


ハチドリの代謝の研究は、メキシコ湾の800キロを中継せずに渡るノドアカハチドリの秘密とも関係している。ノドアカハチドリは、他の鳥と同じように、渡りの準備として脂肪を蓄え、その体重が100%も増加する。この脂肪分によって海上での継続飛行を可能にしている。


飛行安定性にも優れ、風洞実験で人工的に乱気流を発生させた状態でも、ハチドリは給餌器の周りで頭の位置と方向を維持してホバリングできる。横からの突風が吹いても、扇状に広げた尾翼の面積と方向を様々に変化させ、主翼のストローク角の振幅を増やすことで補うことができる。


ホバリングの最中、ハチドリの視覚システムは、捕食者やライバルによって生まれた視野の変化と、狙っている虫や花に向かって木々をすり抜ける自身の動きによって生まれる視野の変化を別々に認識できる。自然界の複雑な背景のなかで、ハチドリは視覚情報と位置情報を高速に処理することで、正確なホバリングができる。


腎機能も、状況によって激しく変化するハチドリの代謝を満たしている。 日中、蜜を摂取するハチドリは、体重の5倍にも及ぶ水分を摂取するため、ハチドリの腎臓は、水分過多を避けるため、腎糸球体の処理速度を消費に合わせて適切に調節し、水を処理する。対して、夜間の昏睡時などの水分が欠乏するときには、処理をやめて体内水分維持をおこなう。


ハチドリの腎臓は、ナトリウムや塩素が偏った蜜を摂取したとしても、電解質の濃度を調節できるユニークな機能を持つ。ハチドリの腎臓や腎糸球体の構造が、様々なミネラルをもつ花の蜜に特化していることがわかる。アンナハチドリの腎臓に関する形態学的研究では、ネフロンに近接する高密度の毛細血管によって、水と電解質を正確に制御していることが判明している。


夜や食事を取らない時には、冬眠のように深い睡眠(昏睡:Torporという)をすることで、備蓄しているエネルギーが危機的に欠乏する前に代謝を低下させてそれを防ぐ。夜間の睡眠時(Torpor時)には、体温が40度から18度まで低下し、心拍と呼吸数は劇的に遅くなる(日中には1000を超える心拍数が50~180にまで低下する)。


睡眠時(Torpor時)は、グルコースや水分、養分などの損失を押さえるために腎機能も低下させる。しかし、体重は睡眠時(Torpor時)にも毎時0.04グラムずつ低下するため、毎晩体重の10%に相当する体重を失っている。 睡眠から覚醒する際には、血中ホルモンのコルチコステロンがひとつのシグナルになる。


Torporの時間は、ハチドリの個体によって様々であり、なわばりを持つかどうかにも左右され、縄張りを持たない下位の個体は長いTorpor時間を持つことが知られている。


ハチドリは、急速な代謝をするが、寿命は長い。孵化から巣立ちまでの無防備な期間を含む最初の1年で死ぬものも多いが、この期間を生き残れば10年以上生きることもある。よく知られている北米種は平均寿命が3~5年と予想される。対して哺乳類の最小の種であるチビトガリネズミは2年以上生きるものは稀である。


野生の寿命の最長記録は、フトオハチドリのメスで、1歳以降に識別足環がつけられ、その11年後に同じ足環の個体が捕獲されていることから、少なくとも12歳以上であることが確認された。その他の、推定を含む寿命の記録は、フトオハチドリ同等サイズのノドクロハチドリのメスの10歳1ヵ月、アカハシエメラルドハチドリの11歳2ヵ月などがある。



木漏れ日の下を色鮮やかな蝶やハチドリが舞い、花の蜜を吸う様は見ていて心楽しく、まるで地上の楽園に来たような錯覚をもたらす。


ゲリラの人質としてではなく、野山の散策で来ていたらさぞかし楽しいのに、と思った。



2019年12月27日(金曜日)、誘拐から11日目。


相変わらず天気は悪く、腹の具合も良くない。


前日、エンカルナシオンが移動を告げた。


「明日の朝、7時にここを出る。5時半に起きて準備をしておくように」


いつもより30分早く起床し、テントを片付け、毛布、カーペット、衣類などをリュックに詰め込んだ。


早めの朝食を済ませ、7時に出発。今日も濃霧で視界が悪い。


標高の高い山岳地帯なのに赤道に近いので熱帯性の植物が生い茂る。不思議な光景だ。竹もびっしり生えているが、日本の竹より細長い。


枯れ葉に埋もれた狭い山道を進む。足場は濡れていて滑りやすい。目もくらむような急斜面なので、転ばないように慎重に歩く。


木の枝が絡まり合いながら広がっていて、まるで緑のトンネルを行くようだ。無数のツタが垂れ下がっていて、手でかき分けるようにして進んでいく。


2時間ほど歩き続け、鬱蒼と樹木が茂る山の頂上付近に出た。ここが次の宿営地だった。


ゲリラたちは1週間ごとに宿営地を転々と移動していた。コロンビア政府軍に居場所を突き止められないようにするためだ。


ただ、水場が近くにないと困るので、必ず川の近くにキャンプを張るようにしていた。


つまり、ケブラーダ・エル・ボリト川の上流をうろうろと歩き回っているだけなのだ。


ケブラーダ・エル・ボリト川はパルミラ南東約16キロの山岳を水源とし、北西を蛇行しながらアヤクーチョ、ラ・ブイトレラ、アグアクララの町を流れて南西に下り、そこでボロ川と呼ばれるようになる。


ボロ川はパルミラの南約7キロのマドレビエハ近くでボロ・アスール川と合流している。


ケブラーダ・エル・ボリト川の川幅は狭く、流れもゆったりした小川である。河原は大小無数の石ころが転がっているが、歩けないことはない。川沿いに歩いて行けば人里に出られるのではないか……?


少し下流に行けばホテルやレストランもある。この一帯は自然保護公園になっていて、観光客も訪れる場所なのだ。


逃げようと思えば逃げられないこともない。脱走の考えが私の脳裏に浮かんできた。



2019年12月28日(土曜日)、誘拐から12日目。


朝食後、日課の水浴びと洗濯に出かける。私は前日から考えていた計画を実行に移した。


ここはケブラーダ・エル・ボリト川の上流だ。川の水源は小さな池になっていて、滝となって岩場を清流が流れている。


尖った岩が並び、足場は良くない。ツルツルと滑りやすいので、私はゲリラから借りたゴム長靴を履いていた。


適当な場所を探し、軍服を脱いでパンツ一枚になり、石鹸で手早く体を洗う。全身を泡だらけにしてから、アルミの洗面器で川の水を汲み、洗い流す。


バスタオルを腰に巻き、下着を取り替える。それから川の浅瀬で衣類を洗濯するのだ。


洗ったものを洗面器に入れ、キャンプに戻って干す。天気が悪い日は生乾きになる。昼の晴れ間は貴重だった。


水浴びは男女別々なのだが、この日は朝から天気が悪く、ジャッキー、アンナ、デルシーの3人の女性ゲリラが待ち切れないようにやってきて軍服を脱ぎ始めた。私は目のやり場に困った。


3人はパンツ一枚になって、子供のように川べりではしゃいでいる。お互いに冷たい水を掛け合って楽しそうだ。


男性兵士たちはニヤニヤしながら見ている。女性たちは男性たちに水をかけて騒ぎ出した。


「No me mires!(見ないでよ!)」


私も盛大な水しぶきを浴びた。童心に返ったつもりで私も水遊びに参加した。


ジャッキーが背中を見せて日本語で私に言った。


「アラッテクダサイ」


私は耳を疑った。相手はうら若き乙女だ。70過ぎの日本人男性なら襲われることもないと思ったのか。私も甘く見られたものだ。


仕方なくジャッキーの背中を流してやった。他の女性兵士もやってきて「Lavar(洗って)」とねだる。それを見た男性兵士たちが囃し立てた。


「Es una buena pareja!(お似合いのカップルだぜ!)」


こんな山の中でゲリラたちは禁欲的な生活を強いられている。娯楽と呼べるようなものは何もない。年頃の男女が何の楽しみもない共同生活を送っているのだ。


彼らの性処理はどうなっているのか。自慰で済ませるのか。連日の強行軍で疲れていて、そっちの欲は湧かないのだろうか。


男女ゲリラが水を掛け合ってふざけているのは微笑ましい光景だった。彼らも軍服を着て銃を持っていなければ、どこにでもいる普通の青年なのだ。


私はそっと水遊びの輪から離れた。今日はやらねばならない重要なことがある。脱走の下見だ。


大小無数の石が転がっている河原を歩いてみる。足場は悪いが、このまま歩いて下流に行けないことはない。霧が出ると視界が悪くなり危険だ。夜は論外である。脱走のチャンスは晴れた日中に限られる。


そんなことを考えつつ、しばらく行くと、背後からリカルドに呼び止められた。


「セニョール。お願いだから戻ってください。あなたが逃げるとぼくが怒られるんです」


リカルドは目に涙を浮かべてそう言った。


「悪かった。逃げるつもりじゃなかったんだ。戻るよ」


リカルドはゲリラ以外に居場所のない少年だ。私が脱走すれば、後でどんなひどい目に遭うか分からない。


ゲリラは人質が逃げれば容赦なく射殺するよう上官に命じられている。リカルドは私を撃ってもいいのに、私に自動小銃の銃口を向けようとはしなかった。


なんだか、体中から気力が抜け落ちてしまった。私はトボトボと元来た道を引き返した。


キャンプに戻ればリカルドが私のことをエンカルナシオンに告げて、私も何らかの罰を受けるかと思ったが、何もなかった。リカルドは黙っていてくれたのだ。


脱走は断念せざるを得なかった。たとえ逃げられたとしても、すぐにゲリラたちに追いつかれてしまうだろう。川底は浅く、飛び込んで泳ぐわけにもいかない。こうして私の脱走計画は夢と消えた。



2019年12月29日(日曜日)、誘拐から13日目。


体のかゆみで目が覚めた。


服を脱いでみると足の付け根から下腹部にかけて赤いブツブツが広がっている。


山の中だからヤブ蚊がひどい。が、蚊帳の中で寝ているので、蚊に刺されたのではなさそうだ。すると、この湿疹は何が原因なのだろう。


タオルを水で濡らして患部を冷やしてみた。ドクトルが「かゆみ止め」を持っていたので塗ってみたが、しばらくするとかゆみがぶり返してくる。


蕁麻疹なら抗ヒスタミン剤を飲めば治るだろうが、こんな山の中では医薬品も容易に手に入らない。


そこで一か八か、民間療法をやってみることにした。自分の尿を飲むのである。


一般的に尿は不潔なものという認識だが、尿の正体は腎臓で濾過された血液である。


尿は95%が水、2%が尿素、残りがミネラル、塩、ホルモン、酵素だ。尿には4000種以上の物質が含まれており、健康な人間の尿は無菌状態である。


尿にはナトリウム、カリウム、マグネシウムなどのミネラルが微量ながら含まれている。


また、血栓を溶かす効果がある酵素ウロキナーゼや造血ホルモンのエリスロポエチンも微量だが含まれている。


これらが尿中に含まれる割合は極めて微量で、飲尿による科学的な効果は解明されていない。


しかし、ワルダイエル扁桃リンパ輪と呼ばれる白血球造血巣があり鼻や口から入ってくる病原菌や、腎臓で濾過された血液に含まれる不要な成分を多く含んだ尿の臭いを識別し、これを消化するマクロファージや産生される免疫グロブリンAが活性化する免疫機構が作られるとの見方もある。


医療法人「愛香会・奥山医院」によると、飲尿療法には、


・栄養物質の再吸収と再利用

・ホルモンの再吸収

・酵素の再吸収

・尿素の再吸収

・免疫系の賦活作用

・病原菌やウイルス、癌細胞への破壊作用

・尿の波動に転写された個人情報と病気の根源情報の利用(?)


等の効果があり、自然治癒力と免疫力を高めるという。


脳疾患、呼吸器疾患、消化器疾患、腸症候群、循環器疾患、肝臓疾患、アレルギー疾患、泌尿器疾患、整形外科疾患、様々な癌と筋腫、膠原病、精神疾患、内分泌疾患、細菌性疾患、老化、眼科疾患、婦人科疾患、歯科疾患、耳鼻科疾患、皮膚科疾患、原因不明の震え、痛み、異常感覚、ニキビ、抜け毛、白斑、むくみ、めまいなどに効果があるという。


「溺れる者は藁をもつかむ」の気分だった。出始めは捨てて、アルミの食器に尿を取り、まず一口含んでみた。


尿を飲むのは人生初体験だ。味は思ったほど悪くない。トウモロコシのような甘い味がする。これなら無理なく飲めそうだ。朝夕1日2回飲んでみよう。


夕方、もう一度尿を飲んでみる。私がアルミの食器に尿を出しているのをジャッキーに見られた。「オー!」という素っ頓狂な声を上げた。


「トミー、ダメよ!飲んじゃダメ!」


ジャッキーは最近、私を「トミー」と呼ぶようになった。私が背中を流してやったので親近感を覚えるようになったのか。私は構わず飲み干した。


エルナンが笑って言った。


「俺も怪我をしたときは自分の小便を傷口にかけて治すよ。ここには医者もいないし、薬もない。何があっても自分で治すしかないからな」


飲尿療法は効果があったのか、尿を飲み続けると、その後、蕁麻疹は出なくなった。



2019年12月30日(月曜日)、誘拐から14日目。


今年も残すところあと1日となった。


無神論者のゲリラたちはクリスマスを祝うことはしないが、大晦日だけは特別だ。この日だけはご馳走を食べ、歌って踊り、厳しい生活の憂さを忘れるのである。


ゲリラたちの日頃の食事は極めて質素だ。米、豆、芋、プラタノ(調理用バナナ)など炭水化物がメイン。それに時々、牛肉が出るくらいだ。


こんな食生活で毎日、水汲みなどの重労働だからゲリラに肥満はいない。太りようがないのである。


私は日本にいたときも、コロンビアに移住してからも、質実剛健な生活を心がけてきた。贅沢は性分に合わないのだ。だから、待遇に特に不満があるわけではなかった。


しがない年金生活者に過ぎない私は、国から支給される24万円の年金のうち15万円をコロンビアでの生活費(カリのアパートの家賃、人件費、食費、光熱費、水道代、雑費など)に充て、残りは妻に渡していた。


コロンビアの物価は決して安くない。コロンビアにはエストラート(階級)という社会保障制度があり、地区の住民を1~6に分ける。1~2は「貧困層」に定義され、税金は免除で公共料金も安い。3~4は「中間層」で、5~6は「富裕層」だ。


私のような外国人が暮らす地域は富裕層が多く、したがって物価も税金も公共料金も高い。家電製品などの贅沢品は日本より高いのだ。


富裕層の負担で貧困層の生活を支えるという仕組みだ。コロンビアは社会主義国なのか?と疑問に思うことさえある。


極力、生活費を切り詰め、なるべく外食はせず、自炊していた。日本食は食べられないこともないが、高くつく。「郷に入っては郷に従え」で、最初から現地に溶け込んだ生活を送っていた。


それでも、監禁生活が長引くにつれて、寿司やラーメンを食べたいと思うことはあった。食事の量はたっぷりしていて、味も悪くないのだが、監禁されているというストレスがわがままを呼び起こすのだろうか。


この日はゲリラたちが近隣の農家から食材を「調達」してきた。丸々と太った鶏を何羽も抱えてきた。足を縛って木に吊るし、大晦日に食べるのだ。


ゲリラたちの話によると、ゲリラは支配地域の農家や商店からバクーナ(みかじめ料)を取り立てているという。バクーナを払わないとお礼参りが恐ろしいので、ほとんどの農場主や商店主は払うという。


パルミラにゲリラはいないので、私はバクーナを要求されたことも払ったこともない。バクーナを払わないとゲリラに誘拐され、身代金を払うまで解放されないという話は聞いたことがある。


また、コロンビアでは商売敵をゲリラに売るということも耳にしていた。私をゲリラに売ったのも競合相手なのではないか、と思った。


私はパルミラにある1ヘクタールの農場で試験的にアボカドを栽培していただけだ。コロンビア産アボカドの日本への輸出が軌道に乗れば、さらに農地を広げて事業を拡大する考えもあった。が、それで一攫千金を夢見ていたわけではない。


日本とコロンビアの文化交流の架け橋になればいい、と思っていただけだ。この国で敵を作ろうとしたわけではないし、他人の恨みを買うような真似をした覚えはない。


なるべく競争相手を作らないように心がけてきたつもりだが、それでも私は「よそ者」として疎まれていたのだろうか。


最近はスマホ狙いの強盗も増えているので、外出時はスマホを持ち歩かず、金目のものは身に着けないようにしていた。パスポートはコピーを持ち、強盗に襲われた時、すぐに出せるよう少額の現金をズボンのポケットに入れ、身軽にしていたのである。


コロンビアでの生活は用心に越したことはない。夜道や人気のない裏通りは歩かず、なるべく目立たないように地味な暮らしをしてきた。それでも、誘拐犯の魔の手から逃れることはできなかったのだ。


2018年8月23日、コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケス(1928~2014)の孫娘で実業家のサンドラ・メリッサ・マルティネス・ガルシア(34)が誘拐された。


誘拐犯から身代金500万ドル(約5億6400万円)を要求する電話があり、誘拐から約4ヵ月後の12月17日、コロンビア北部マグダレーナ県シエラネバダ・デ・サンタマルタ市郊外で無事救出された。


この事件はコロンビアでいまだに誘拐ビジネスが横行しており、著名人も狙われるという事実を浮き彫りにした。


残念ながら、この国に「絶対安全な場所」など存在しないのである。


外務省と日本大使館が発表する「危険情報」を見れば、コロンビアのどこが危険で、犯罪のリスクが高いか分かるようになっている。


テロの標的になりやすい軍事基地や警察施設、ゲリラが活動しているベネズエラやエクアドル、パナマの国境地帯に近付かなければ、それほど怖がる必要はないのかもしれない。


だが、誘拐犯は一度ターゲットを決めたら対象者の行動様式や生活習慣を徹底的に調べ上げ、犯行に及ぶ。どんなに気を付けていても完全に防ぐことは不可能なのだ。


そして、もうひとつ気付いたことがある。


農家は大切な家畜をゲリラに勝手に持ち去られるのを迷惑に思っているはずだ。が、協力しなければ後でどんなひどい目に遭わされるか分からない。


つまり、この辺の住民はゲリラと裏でつながっているということだ。もし、私が脱走しても、すぐに彼らに情報が伝わり、追っ手が差し向けられるだろう。


うっかりどこかの家に助けを求めようものなら、ゲリラに通報されてしまうかもしれない。早まったことをしなくて本当に良かった、と胸をなで下ろした。


と同時に、コロンビア社会に深く根を張ったゲリラ問題に先が思いやられる気がした。和平なんて「絵に描いた餅」に過ぎないのではないか……?



2019年12月31日(火曜日)、誘拐から15日目。


この日は朝から騒々しかった。ゲリラたちお待ちかねの大晦日なのだ。


炊事当番のゲリラたちが昨日、農家から徴発してきた鶏を解体した。昼食は骨付き肉とふかしたジャガイモ。


コロンビアの鶏肉は美味しい。柔らかくて味わい深い。みんな骨までしゃぶりついて夢中で食べた。


昼食後、エンカルナシオンが長々と演説を打ち、15人のゲリラが1人ずつ自己紹介を始めた。これがゲリラにとっての「忘年会」なのかもしれない。


15名のゲリラは男性が隊長のエンカルナシオン、副隊長のエドゥアルド、私の世話係のリカルド、エルナン、オマル、アラン、サムエル、ネルソン、ロマーノ、エミリオ、マルコ、フィデルの12名。女性はジャッキー、アンナ、デルシーの3名だった。


30代以上はエンカルナシオンとエドゥアルドだけで、あとは10代から20代の若者ばかりだった。


ドクトル(医者)と呼ばれているオマルという兵士はアラブ系の彫りの深い顔立ち。コロンビアはシリアやレバノンからの移民が多いので、彼らの血が入っているのかもしれない。


コロンビアはスペイン語圏なのにネルソンという英語圏の名前が多い。かつての宗主国スペインの宿敵イギリスに人気があり、トラファルガー海戦でスペイン艦隊を打ち破ったイギリス海軍のホレーショ・ネルソン提督(1758~1805)にあやかるためだ。


私はゲリラたちに「セニョール」または「チーノ(中国人)」と呼ばれていたが、ジャッキーが「トミー」と呼ぶようになってから「トミー」の呼び方が定着した。


コロンビア人は日本と中国の区別がつかない者が多い。日本は中国の一部だと思っている。いつもラジオのニュースに熱心に耳を傾けているエルナンでさえ、


「東京は中国の首都だろ?」


という始末。今や世界中どこも中国人だらけだから、東洋人はすべてまとめて「チーノ」ということになるらしい。


私が「日本についてどう思うか?」と尋ねたところ、


「日本は汚職もなく、民度が高くて治安の良い国だ。コロンビアが資源に恵まれながらいつまでも発展しないのは、政治が腐敗していて、国民の民度が低いからだ」


という。誰しも自分の祖国を褒められて悪い気持ちはしない。が、少し買いかぶりすぎてはいないか?


「日本にも汚職はある。マナーを守らないモラルの低い人間もいるよ」


と答えたら、彼らは不思議そうな顔をしていた。


その後はラジカセを持ち出し、ボリュームをいっぱいに上げて「クンビア」というコロンビアの民謡に合わせ、みんなで踊る。私も参加することになった。


クンビアはコロンビアを南北に縦断する大河マグダレーナの下流域からカリブ海沿岸地方に伝わる伝統的な舞曲で、山岳地帯の「バンブーコ」と並ぶコロンビアを代表する民族音楽だ。


コロンビア人は踊りがうまいし、どこででも踊る。そういう国民性なのだろうが、心から楽しんで踊っているという印象を受ける。


戦乱が絶えず、治安の悪い国では、明日にはどうなっているかも分からない。今この瞬間を楽しんでおかなければ人生損だ、という考えもあるのかもしれない。


それが「幸福を感じる国民が多い」ことの大きな要因なのかもしれない。


ゲリラたちのパーティーは日が暮れるまで続き、私は腰が抜けるほど疲れてしまった。やれやれ、こんな山の中でゲリラたちと踊ることになろうとは……。とんだ「国際親善」だ。



2020年1月1日(水曜日)、誘拐から16日目。


年が明けた。いつもより早く起床したが、生憎の濃霧で初日の出は見られず、残念。


ゲリラたちと新年の挨拶を交わす。朝食前、ゲリラたちがコロンビアの国歌を斉唱した。コロンビア人は愛国心が強い。


コロンビア共和国の国歌(Himno Nacional de Colombia)は1886年、当時のコロンビア大統領ラファエル・ヌニェス(Rafael Núñez)により作詞、オレステ・シンディチ(Oreste Sindici)により作曲された。


歌詞はコーラス部分の最終行を2回歌い、最後にもう一度歌う。



コーラス

¡Oh gloria inmarcesible!(おお、不滅の栄光よ!)

¡Oh júbilo inmortal!(おお、不滅の喜びよ!)

En surcos de dolores(痛みの溝の中で)

El bien germina ya.(良きものは芽を出している)


1番

Cesó la horrible noche!(恐ろしい夜はもう終わりを告げ)

la libertad sublime(崇高な自由があまねく)

derrama las auroras

de su invencible luz.(あかつきの光の中で)

La humanidad entera,(すべての人類が)

que entre cadenas gime,(鎖につながれ唸る者が)

comprende las palabras(救いを見いだすのだ)

del que murió en la cruz.(十字架で死んだ人の言葉を)


2番

Independencia grita(独立との高き声が響き渡る)

el mundo americano;(このアメリカの世界に)

se baña en sangre de héroes(英雄の血に染まる)

la tierra de Colón.(このコロンブスの土地が)

Pero este gran principio:(我らの目標は)

"el rey no es soberano"(“王は主権者ではない”ということ)

resuena y los que sufren(苦しみを叫ぶすべての人々はその目標に)

bendicen su pasión.(情熱を見いだし祝福するだろう)



このあと11番まで続く長い国歌である。聴いているだけで勇気が湧いてくるような勇壮な曲だ。


ジャッキーが誇らしげに言った。


「コロンビアの国歌はアメリカの国歌『星条旗』、フランスの国歌『ラ・マルセイエーズ』と並ぶ世界三大国歌なのよ」


他国の「お国自慢」は見ていて微笑ましいものだ。どんな国にも素晴らしい文化があり、国を愛する人間がいる。グローバル化とか、世界に国境はなくなったとか言われても、国家という枠組みは人類が永遠に必要とするものなのだろう。


「トミー。日本の国歌を教えてください」


リカルドにせがまれ、私は『君が代』を独唱した。ゲリラたちは黙って耳を傾けていた。


「とても素敵な国歌ね」


とジャッキー。どうやらお世辞ではないらしい。


「トミー。ぼくに日本語を教えてください」


リカルドに頼まれ、私は彼の日本語教師を買って出ることにした。


「パードレ(父)、マドレ(母)はなんて言いますか?」

「パードレはオトウサン、マドレはオカアサンだね」

「エルマノ(兄)、ミ・エルマナ(姉)は?」

「エルマノはオニイサン、ミ・エルマナはオネエサンだ」

「Quiero ir a casa(家に帰りたい)は?」

「オウチニカエリタイ……」


何度も復唱させているうちに涙があふれそうになった。この子は捨てられても尚、親兄弟を慕い、家に帰ることを夢見ているのだ。


「リカルド。何か書くものはないかい?読み書きを教えてあげよう」


リカルドはタバコの空き箱を持ってきた。箱を分解し、裏の白地にボールペンでひらがなとカタカナを書き込んだ。


「ほら、君の名前はり、か、る、ど、だ。カタカナだとリ、カ、ル、ド、だよ」


私は教員時代に戻った感じで日本語を教えてやった。リカルドは生まれて初めて接する日本語を熱心に習得しようとしていた。


「ぼく、いつか日本に行きたいです。日本語でなんて言いますか?」

「ニホンニイキタイデス、だ」

「ニ、ホ、ン、ニ、イ、キ、タ、イ、デ、ス……」

「上出来だ。うまいぞ」


銃を持つことしか知らない少年の目が生き生きと輝いてくるのが分かった。この子を何としてもゲリラから救い出してやりたい、と思った。


「リカルド。私の農場に来てみないか?住み込みで給料は90万ペソ(約2万9千円)払うよ」


コロンビアの最低賃金82万ペソ(約2万7千円)より高い。住み込みだから家賃も食費も交通費もかからない。


「私の農場ではパルタ(アボカド)を作っているんだ。コロンビアのパルタを日本に輸出するんだよ。いつか君を日本に連れて行ってあげよう」


コロンビアの国防費は対GDP(国内総生産)比で5%を占める。左翼ゲリラや麻薬カルテル対策の治安維持費が経済成長の重い足枷になっているのだ。


コロンビアを平和で豊かな国にするには、ゲリラ組織を解体し、国防予算を削減して、教育や雇用創出に回す必要がある。



2020年1月2日(木曜日)、誘拐から17日目。


日本はまだ正月気分だが、ゲリラたちに正月は関係なかった。この日はいつもより早く起床し、荷物をまとめ、朝食後、ただちにキャンプを移動する。


武器やテントを詰め込んだ重たいリュックを担ぎ、険しい山岳地帯を黙々と歩き続ける。粗衣粗食で給料もボーナスも出ず、年中無休でこんなことを繰り返しているのだ。


朝食にはプラタノを小さく切ったスープが出た。シラントロという香草を刻んで浮かべており、なかなか美味しい。


「日本では毎年、年の初めに雑煮を食べるんだ」

「ゾウニ?雑煮って何ですか?」

リカルドは目を丸くしている。

「モチを入れたスープだよ。餅はアロス(米)で作ったパステル(ケーキ)みたいなものだね」


雑煮は全国地域ごとに特色のある食べ物だが、私の郷里・佐賀県ではスルメイカで出汁を取り、レンコン、白菜、人参など色々な野菜を入れ、鶏肉と丸餅を入れる。


佐賀は北海道に次いで全国2位のモチ米生産地であり、九州随一の米どころでもある。私の実家もモチ米を作っており、炊いても固くならない「ひよくもち」という品種を生産している。「ひよくもち」は九州の肥沃な土地の意味だ。


佐賀県唐津市の呼子町は古くから港町として栄え、「呼子の朝市」では玄界灘で獲れた新鮮な魚介類が並ぶ。とりわけイカが有名である。甘めの刺身醤油で食べるイカ刺しは絶品だ。


そんな話をリカルドに聞かせていると望郷の念に駆られた。日本にいる家族は今頃、どのような気持ちで正月を迎えているのだろう。



2020年1月3日(金曜日)、誘拐から18日目。


昨夜は夢を見た。体が疲れているので夜は早く眠り、夢を見てもほとんど覚えていないのだが、鮮明に覚えているのは印象が強烈だったからに違いない。


私は妻の知華子と宮崎県日南市の鵜戸神宮にいた。日向灘に面した断崖の中腹に東西38メートル、南北29メートル、高さ8.5メートルの岩窟があり、本殿が鎮座している。


参拝するには断崖に沿って石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」となっている。


非常に歴史の古い神社であり、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主催神を産むための産屋を建てた場所という。その縁で崇神天皇の御代に、


・日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

・大日孁貴(おおひるめのむち)(天照大御神)

・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)

・彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)

・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)

・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)


以上6柱の神を「六所権現」として創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建し、鵜戸神宮と称したと言われる。


また、延歴元年(782年)、光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも言われている。


平安時代以来、海中にそびえる奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。


新潟出身の知華子とは大学で知り合った。2年の交際期間を経て、プロポーズした。新婚旅行は車で九州を一周した。その途中、鵜戸神宮に立ち寄ったのだ。


本殿前に「亀石」という霊石がある。豊玉姫が海神宮(わたつみのみや)から訪れる際、乗っていた亀が石に化けたと伝えられる。石の頂に枡形の穴があることから「枡形岩」とも呼ばれる。


この穴に男性は左手、女性は右手で願いを込めた「運玉」を投げ入れることで願いが叶うと言われる。


かつては賽銭を投げ入れていたが、子供が拾い集めるので問題になり、昭和29年(1954年)から鵜戸小学校の児童が作る「運玉」が使われるようになった。


運玉は粘土を固めて「運」の字を押し、素焼きにしたものだ。投げてみると、簡単なようでいて、なかなか難しい。


私は運玉を投げ入れ、見事に一発で穴に入った。知華子は何度やっても入らない。そんな夢だった。


新婚旅行で訪れたのは、もう50年も昔の話である。その時、運玉が入ったかどうかは覚えていない。


しかし、縁起の良い夢だと思った。なんだか、体に力がみなぎるのを感じた。今はただ、一日でも早く解放され、知華子と再会することを願うばかりだ。



2020年1月4日(土曜日)、誘拐から19日目。


天候不順が続き、熱帯の山の中でも朝晩は震えるほど寒い。


年末から風邪気味で咳をしていた。昨日から微熱があり、体の節々が痛む。どうやら本格的に風邪を引いてしまったようだ。


そこで水浴びをやめ、毛布をかぶってテントで寝ることにした。軍服の下に私服を着て厚着をし、ジャッキーから毛布をもう一枚借りてくるまった。たくさん汗をかいて治してしまうのだ。


相変わらず腹の調子が悪い。下痢が続く。炭を食べたり、尿を飲んだりしているが、老齢の身に監禁生活は堪える。早く解放交渉を進めなければならないが、さて、どうなることやら……。



2020年1月5日(日曜日)、誘拐から20日目。


汗びっしょりで目が覚めた。風邪は治ったようだが、今度は両膝が痛い。我慢していたが、痛みは次第にひどくなってきた。


神経痛かもしれない。以前から体を冷やすと膝が痛むことがあった。よし、これも温めて治そう。


空のペットボトルに湯を入れてもらい、寝るとき膝の間に挟むことにした。なるべく体を温め、自然治癒力を上げるしかない。


こんな山の中には病院も薬局もない。何があっても自分の体は自分で守るしかないのだ。


天気が悪く、濡れた服が乾かないので、たき火をして乾かす。日没後は火を使うことが禁じられている。政府軍に居場所を明かすようなものだからだ。


私が「トマテ(トマト)が好きだ」と言ったら、リカルドが毎日、食後にトマトを持ってきてくれる。どこかの農家から無断で拝借してくるのだろう。


単調な食生活では栄養が偏ってしまう。リカルドが持ってくるトマトは貴重な栄養源だった。


コロンビアでは、どこに行っても生野菜が出てくるが、海外では衛生状態の良好な国なので、私は一度もお腹を壊したことがない。水道水も飲んでいるが平気だった。


下痢や蕁麻疹など体の不調は、監禁生活によるストレスが原因なのかもしれない。



2020年1月6日(月曜日)、誘拐から21日目。


山の中で白いセタ(キノコ)を見つけた。傘を開いたように木の根元に沢山生えている。毒キノコかもしれないので、食べようとは思わないが……。


私が子供の頃、松露という食べ物があった。松の木の根元に生えるキノコの一種だ。


形は梅干しのようで、表面にひげのようなものが生えている。初めは白いが、時間とともに褐色になり、地面から掘り出したり、傷つけると淡紅色になる。


中はスポンジのようになっている。乳のような匂いで、サクサクした食感と粘り気がある不思議な食べ物だ。


佐賀では唐津の「虹の松原」で採れるらしく、老婆が売りに来ていた。味噌汁の実にして食べた覚えがある。


大人になってからは見たことも食べたこともないので、今は絶滅してしまったかもしれない。遠い昔の記憶に残るのみだ。


この日の昼食はスープだった。小さな沢蟹をジャガイモと煮込んである。リカルドに訊くと、ケブラーダ・エル・ボリト川で獲れるらしい。


沢蟹の甲羅は柔らかく、そのままバリバリと食べる。卵が入っていて美味しい。ここに来てから一番おいしいものに感じられた。


監禁生活が長引いてくると、食べ物のことばかり考えていることに気付く。日本で当たり前のように食べていたものが無性に食べたくなってくるのだ。


我ながら浅ましいと思うが、食べることと寝ること以外、何の楽しみもないのだから仕方ない。



2020年1月7日(火曜日)、誘拐から22日目。


朝食後、水浴びと洗濯をしていると、リカルドがやってきて言った。


「日本人のセニョール・ツボイと無線がつながったそうです。すぐに来てください」


私は急いでキャンプに戻った。エンカルナシオンがいるテントの中に無線機が置かれている。私はマイクを握った。


「もしもし、ツボイです。奥様もいます。武富さんが誘拐されてしまったために、コロンビアの銀行にある5000万ペソの預金が差し押さえられてしまった。そこで、パルミラの農場を担保にして、銀行からお金を借りるということで、ゲリラとの交渉を進めています。がんばってください。今、奥様と代わります」

「もしもし、知華子です。お元気ですか?」

「元気なもんか。下痢が続いて、すっかり痩せてしまったよ。いつ帰れるか分からん。あんたは早く日本に帰りなさい。生きてここから出られたら、私から連絡するよ」

冷たく突き放すように言って、私は交信を終えた。


誘拐は長期化するかもしれない。今は何らの期待も持たせてはいけない。交渉がうまくいかなければ、最悪の事態もありうるのだ。


知華子はゲリラの指示に従い、無線機を買ってゲリラに送り届けた。ゲリラから連絡があり、第2回目の交渉の日時と無線の周波数を伝えられた。


解放交渉を有利に進めるため、ツボイ君は私の銀行口座が差し押さえられたと嘘を言ったらしい。誰の入れ知恵だろう。だが、良い考えだと思った。金があると思わせれば、どこまで搾り取られるか分からない。


パルミラのバリオ・エル・パライソにある私の農場を担保に、コロンビアの銀行から金を借りる。それを私の身代金として支払う、という。


問題は金額だ。エンカルナシオンは30億ペソ(約9500万円)を要求している。そんな大金はとても払えない。どこまで金額を引き下げられるかが解放交渉のツボだ。


「私の農場を担保に金を借りるとしても、30億ペソは無理だ。3億5千万ペソ(約1100万円)でどうだ?」

私は自分からエンカルナシオンに持ちかけた。

「ノー。30億ペソだ」

「4億ペソ」

「ノー」

「4億5千万ペソ」

「ノー、ノー。トレス・ミル・ミロネス(30億)」

「5億ペソ(約1600万円)。5億で手を打とうじゃないか」

エンカルナシオンは考えているようだった。彼としても、本当に30億ペソもの大金を取れるとは思っていないはずだ。


「セニョール。そう簡単に事は運ばんよ。カリのヘフェ(ボス)と話を決めなくちゃならん。私の一存で決められることではないんだ」


エンカルナシオンの話では、ゲリラはフレンテ(戦線)という小規模の部隊がそれぞれ独立して活動している。各戦線が麻薬や誘拐、恐喝などで稼いだ金を上層部に上納する。その成績で戦線の司令官は出世もするし、降格などの処分もある。


身代金の金額も最終的には上層部が決めることなので、戦線の司令官が勝手に決められないのだという。


より多くの上納金を納めた司令官はボーナスをもらえる。金塊だ。ゲリラは麻薬や誘拐の売り上げを金塊に変えて隠匿している。FARCは解散したと言っても、途方もない資産を隠し持っているのだ。


課せられたノルマを満たせない司令官は金塊を没収される。賞罰をうまく使い分けて組織を動かしているのだ。ゲリラも上司の顔色を気にしながら仕事に追われるサラリーマンと同じだった。


「カリのヘフェに伝えてくれないか。私はペンシオニスタ(年金生活者)でドルは持っていない。銀行の預金は差し押さえられ、財産と言えるものはパルミラの農場だけだ。農場を担保に5億ペソを借りてゲリラに寄付するから、早く私を解放してくれ」

「いいだろう。ヘフェに伝えておくよ」

「頼むよ。私はビエホ(老人)で、体も衰えている。こんな山の中ではいつ死んでしまうか分からない。私が死んでしまったらレスカテ(身代金)は1ペソも取れないんだぞ」

私の訴えが功を奏したのか、エンカルナシオンは手紙を書くよう勧めてきた。

「ヘフェにペティシオン(上申書)を書くといい。あんたが早く帰れるように私も協力するよ」


与えられた紙に私は上申書を書いた。ジャッキーに頼んでスペイン語に直してもらった。


「Al jefe de Santiago de Cali.Soy pensionista en Japón.Es anciano y débil.Donar a la granja de Palmyra tomando prestado dinero como garantía.Así que sácalo de aquí temprano.Katsuhiko Taketomi」


「サンティアゴ・デ・カリのヘフェ殿。私は日本の年金生活者です。高齢者で体も弱っています。パルミラの農場を担保に金を借りて寄付します。ですから、早くここから出してください。武富克彦」


これで効果はあるだろうか。辛抱強く結果を待つしかない。



2020年1月8日(水曜日)、誘拐から23日目。


この日は朝食後に荷物をまとめて移動。相変わらず天気が悪く、晴れたと思えば曇り、冷たい雨が降ってくる。


山道を歩いていると、急にヘリコプターの爆音が聞こえてきた。空を見上げると、雲の切れ間から1機の黒いヘリが飛んでくるのが見えた。


コロンビア政府軍のUH-60 ブラックホークだ。米国シコルスキー・エアクラフト社製の軍用ヘリで、コロンビアは1987年から対ゲリラ戦用に導入している。


コロンビア空軍は2008年時点でUH-60A/Lを32機、AH-60L Arpia IIIを1機、コロンビア陸軍はUH-60A/Lを34機、コロンビア国家警察は2010年時点で7機を保有している。


コロンビア空軍が使用するAH-60L Arpía IIIはレーダー、小型ロケット弾、機関銃などの武装を施しており、シコルスキー社とコロンビア空軍の共同開発でエルビット・システムズ社により製造されている。


ヘリが私を捜しているのは明白だった。移動中のゲリラの群れを見つけ、急降下して近付いてくる。まるで巨大なカラスのようだ。


撃たれるかもしれない、と思い、私は草むらに伏せた。ゲリラたちはヘリめがけ自動小銃を発砲し始めた。耳をつんざく銃声が響き渡る。私は肝を冷やした。


ヘリの装甲は複合素材で頑丈に作られており、ビクともしない。上空を大きく旋回し、やがて飛び去った。


ところが、これだけでは終わらなかった。


しばらくして、今度は飛行機の爆音が聞こえてきた。曇り空を見上げるが、どこにも機影は見当たらない。


ブーンという鈍いエンジン音。ジェット機ではなく、プロペラ機だ。豆粒のような黒い機体が頭上高くに見えた。


「ドーン」


腹にズシリと衝撃が伝わった。花火大会を10倍大きくしたような爆発音だ。何が起きたのか分からなかったが、はるか山の頂から灰色のキノコ雲が上がった。


なんということだ。コロンビア軍が空爆を仕掛けてきたのだ。


爆弾を落とした飛行機はコロンビア空軍のエンブラエル EMB-314だろう。ブラジルのエンブラル社が開発したターボプロップ単発の軽攻撃機で「スーパー・ツカノ」とも呼ばれる。


コロンビア空軍は2005年12月、25機を発注。2006年から運用しており、2008年3月1日、エクアドルでのFARC幹部殺害作戦に使用された。


ゲリラたちは高空を飛ぶ攻撃機に向けて銃を乱射している。私は生きた心地もしなかった。


空爆は人質を解放させるための軍事的圧力か。それにしても、ずいぶんと手荒なことをするものだ。


政府軍にとっては人質の救出よりもゲリラの殲滅が優先なのかもしれない。こんなところで銃撃戦に巻き込まれたら最悪だ。さすがの私も心細くなった。



2020年1月9日(木曜日)、誘拐から24日目。


朝食後、エルナンがラジオを持ってきて言った。


「トミー。あんたのことがニュースになってる」


日本製のポータブル・ラジオに耳を傾けると、カリのラジオ局が私の情報提供を呼びかけていた。


「ハポネス(日本人)のカツヒコ・タケトミが誘拐されてから3週間が過ぎました。情報を知っている方がいたらガウラ(拉致対策警察隊)に知らせてください。電話番号は165……」


昨日のヘリは私を捜していたに違いない。どうも、国を挙げての救出騒ぎになっているようだ。


近年、コロンビア政府は「治安の悪い国」という汚名を返上するため、治安改善をアピールし、外国からの投資や観光客を積極的に呼び込んでいる。


その中で起きた日本人誘拐事件はコロンビア政府の顔に泥を塗るようなものだ。何が何でも私を救出するという政府の意気込みが感じられた。


日本政府は「人命尊重」の建前を崩さず、コロンビア政府に武力による人質救出作戦をしないよう求めた。


しかし、コロンビア政府はあくまでも「テロリストとの取引は認めない」立場である。身代金の支払いによる解決は認めないだろう。


ツボイ君や日本大使館の藤本氏が水面下で私の解放交渉を進めてくれているが、コロンビア政府が交渉を妨害する可能性もある。よほどうまくやらなければならない。


解放への希望が見えてくると同時に焦燥感も募る。心を落ち着かせ、あくまでも冷静に慎重に事を運ばなければ……。



2020年1月10日(金曜日)、誘拐から25日目。


朝食後、水浴びと洗濯をしているとリカルドが飛んできて言った。


「トミー。大変です。エドゥアルドがあなたを殺そうと言ってます」


さすがの私も青くなった。一体、どういうことなのか?


「さっきエドゥアルドがエンカルナシオンと話しているのを聞いたのです。あの日本人から金は取れそうにないし、政府軍に居場所を知られてしまったかもしれない。いっそのこと殺してしまったらどうかと……」


私はすぐにエンカルナシオンと直談判した。


「私を殺せば君たちも全滅だぞ。あの爆撃を見ただろう?政府軍は私を早く解放するよう圧力をかけているんだ」


私は必死だった。なんとかゲリラたちを説得して、私を殺すことの不利益を悟らせねばなるまい。


「私の農場を担保にコロンビアの銀行から金を借りる。5億ペソなら何とかなるだろう。パルミラの農場で私と身代金を交換しよう。あそこなら警察も来ないはずだ」


エンカルナシオンは腕組みをして考えているようだったが、彼も私を殺すことには乗り気でないらしい。


「セニョール。我々ゲリラは無闇に人を殺したりしない。我々はパラミリターレス(左翼ゲリラと敵対する極右の民兵組織)とは違う。だが、今はあんたを帰すわけにはいかない。あんたが早く帰れるようにできるだけのことはするつもりだ」


私はホッと胸をなで下ろした。リカルドが教えてくれなければ私の命もそれっきりになっていたかもしれない。私の命は天秤の上で大きく揺れていた。



2020年1月11日(土曜日)、誘拐から26日目。


私の訴えが功を奏したのか、ゲリラが私に危害を加えることはなかった。が、一刻も早く解放交渉を進めなければならない。すでに誘拐から3週間が過ぎている。私も焦りを感じていた。


リカルドに礼を言うと、彼は意外なことを言った。


「エンカルナシオンもかわいそうな人なんです。彼はパラミリターレスに家族を殺されたんです」


リカルドの話によると、エンカルナシオンはパナマと国境を接するチョコ県の出身。チョコ県はアフリカ系住民が多く、コロンビアで最も貧しい地域だ。


エンカルナシオンは漁師をしていた。妻と4人の子供がいたという。貧しいが、幸せな生活を営んでいた。ところが、そんなささやかな幸福はある日突然、無残な形で奪われてしまう。


エンカルナシオンの住む村にパラミリターレスが現われ、彼の妻子を含む村人たちを虐殺したのだという。「ゲリラに協力した」というのがその理由だった。


「パラミリターレスは本当に残酷な奴らです。生きたまま電動ノコギリで体をバラバラに切断して殺すのです」

「じゃあ、エンカルナシオンがゲリラになった理由は?」

「家族の復讐のためです。自分の家族を殺した奴を見つけるまで、ゲリラはやめないと言っています」


リカルドが言うには、パラミリターレスの目的はゲリラを一掃することだけではない。大企業や大地主の手先となり、貧しい農民を追い出し、彼らの土地を強奪することだという。


ゲリラもパラミリターレスも麻薬を資金源にしている。コカ栽培地を巡り、血で血を洗うような凄惨な殺し合いを繰り広げる。政治的な対立ではなく、土地を奪い、縄張りを広げるための戦いなのだ。


コロンビアは豊富な資源に恵まれた国だ。内戦の終息で資源の開発が急ピッチで進められている。その結果、土地を巡る争いはますます熾烈になっているのだ。


「政府軍の兵士も貧しい農民です。ぼくたちは貧しい者同士で戦い、殺し合っているんです」


コロンビアには徴兵制があり、18歳以上の男子は2年間の兵役義務がある。しかし、金持ちは税金で免除される。徴兵されてゲリラとの戦闘に赴くのも貧しい農家の若者なのだ。


が、それでもコロンビアでは徴兵制廃止論は盛り上がらない。スペインと戦い、祖国を解放した国軍を誇りに思い、入隊することを名誉と考える国民が多いからだ。


貧困が暴力を助長し、暴力が貧困を加速させるという悪循環。この負の連鎖をどこかで断ち切らない限り、この国に平和が訪れることはないだろう。


「リカルド。この国を変えることはできると思う?」


私は単刀直入に訊いてみた。彼は少し考え、達観したように言った。


「無理だと思います。ここはコロンビアだから。生まれた時からそうなっているんです」


そして、こう付け加えた。


「つらいかなんて聞かないで。同情されるのは嫌なんです。この世界では誰も守ってくれない。自分が強くなるしかないんです」


その日の夕暮れは息を呑むような光景だった。


山の頂に広がる白い雲海に黄金色の太陽が浮かび、雲が鮮やかな茜色に染まる。そして、山々の深い緑を吸い込んだ雲がエメラルドのように輝いた。


何と形容したらいいのか分からない。筆舌に尽くしがたいとはこのことだ。カメラを持っていたら迷わずシャッターを切るだろう。部屋の中にいつまでも飾っておきたいような夕景だった。


「リカルド。Colombia es un país maravilloso.(コロンビアは素晴らしい国だよ)」


私はボゴタの日本人学校で教員を務めていた頃、生徒を連れて修学旅行で訪れたアマゾンのレティシアで見た夕焼けを思い出した。


コロンビア最南端の町レティシアは人口3万人の小さな町。コロンビア、ペルー、ブラジルの三ヵ国の国境が接し、雄大なアマゾン川とアマゾン熱帯雨林が広がる。


コロンビアは自然の宝庫である。皮肉にも長年の内戦で開発を免れ、手つかずの大自然が残されているのだ。


「君はこんなに素晴らしい国に生まれたんだ。君はかわいそうな人間なんかじゃない」


リカルドは黙って夕日を見つめていた。この少年が「この国に生まれてよかった」と思える日は来るのだろうか。



2020年1月12日(日曜日)、誘拐から27日目。


ゲリラたちの行動は感心するくらい規則正しい。毎週日曜日は食料が送り届けられる日だ。


早朝か夕方、山の中に2人組の男たちが登ってくる。彼らは私服姿なので近隣の農民なのだろう。いつも大きなリュックを担いでいた。


彼らは非常に用心深く、ゲリラのキャンプにまで入ってくることはしない。いつもキャンプからかなり離れた場所で口笛を吹く。それを合図にゲリラたちが荷物を受け取りに行く。


農民たちが運んでくる食料は1週間分あった。米、豆、パスタ、ジャガイモ、プラタノ、トウモロコシ粉、食塩、コーヒー豆などだ。肉や野菜はゲリラたちが時々、農家に「調達」に行くのだ。


食事は朝がアレパ(トウモロコシ粉のパン)にプラタノのスープ、昼と夕は米とフリホーレスという煮豆、それにパスタとジャガイモ。おかずは牛肉を煮たり焼いたりしたものが少し添えられるだけだ。


食料の受け取りの際に必要な物資をゲリラが「注文」し、翌週の日曜日に届けられるという仕組み。この時、エンカルナシオンがカリのヘフェに手紙を届けるというので、一緒に送ってもらった。


炊事当番のアランが言った。


「年が明けてから政府軍の捜索が厳しくなっている。これだけの食料を調達するのも大変なんだ」


食料を食い延ばさなければならないので、米に混ぜる豆やパスタの量が増えた。こんな山の中で食料が尽きればみんな飢えることになる。


先日のヘリの飛来と空爆。政府軍の包囲網は確実に狭まっているらしい。早く解放されればいいが、物資の補給が困難になれば私も困ったことになるのだ。



2020年1月13日(月曜日)、誘拐から28日目。


単調な食生活が続く。リカルドがケブラーダ・エル・ボリト川で沢蟹を捕まえてくる。大きな岩をひっくり返すと沢蟹がうじゃうじゃいるのだ。スープに入れると美味しい。


スペイン語で蟹は「カングレホ」という。コロンビアでも蟹は食べるが、私は子供の頃、母親の実家のある福岡県柳川市でよく蟹を食べさせられた。柳川では蟹を「ガネ」と呼んでいた。


母の実家は柳川の沖端のロッキュウ(漁師)だった。佐賀と柳川は目と鼻の先だ。年に何度か遊びに行くと、ガネやシャッパ(シャコ)を茹でたものを大皿に盛り上げて振る舞われた。


春先から初夏にかけての有明海の新鮮な魚介類はじつに美味しかった。


シャッパは「麦ジャッパ」と言って、春秋に獲れる子持ちのシャコが美味かった。そのシャコを殻ごと淡口醤油と生姜で煮る。イカゴやトンサンという小魚の煮付けもあった。


ワケというイソギンチャクも味噌汁に入れて食べた。柳川では「ワケノシンノス」と呼んでいた。シコシコした歯ごたえと磯の香りが口の中に広がった。


柳川では「口底」がご馳走だった。アカシタビラメのことである。醤油と味醂で甘辛く煮付けるとごはんのおかずに最適だった。


メカジャ(シャミセンガイ)という貝もよく食べた。厳密には貝類ではないが、普通の貝よりうまみがあり、味噌汁に入れたり、煮付けにしたりした。


有明海はムツゴロウが有名だが、祖母はワラスボという魚を「コブツキ」というふりかけにして食べさせてくれた。


ワラスボは見た目はエイリアンのようでグロテスクだが、ワラスボの肉を蒸して削ぎ取り、すり鉢でよく擂るのである。子供の頃はよく食べさせられたが、今や絶滅してしまった郷土料理だろう。


柳川ではワラスボを「ワラス」と言い、佐賀ではスボ、ジンキチ、ジンギチ、長崎ではドウキン、ドウキュウ、スボタロウと呼ぶ。


ムツゴロウは愛嬌のある魚だが、佐賀では蒲焼にして食べる。鰻の蒲焼よりも脂が強く、肉も柔らかい。


九州最大の河川である筑後川の河口で獲れるエツも美味しかった。エツは小骨の多い魚で食べにくいが、細かく包丁を入れ、煮付けにしたり、刺身にして酢味噌で食べた記憶がある。


エツは乱獲や乱開発で漁獲量が激減している。コロンビアと違い、日本の豊かな自然は過去のものになりつつある。


監禁生活が長引くにつれて、食べ物のことばかり頭に浮かぶ。しかし、少年時代に食べた郷土の味は、もはや日本に帰っても口にできないものばかりだ。



2020年1月14日(火曜日)、誘拐から29日目。


朝食後、荷物をまとめて移動。足がだるく、体が重い。寝ているとこむら返りを起こし、飛び上がるほど痛い。


熱い風呂に入りたい、としきりに思う。


ゲリラたちは1週間ごとに宿営地を転々と移動する。重たい武器やテント、食料、調理器具などをまとめ、数十キロにもなるリュックを担いで険しい山道を何時間も歩き続ける。


宿営地に着くとトイレの穴掘り、テントの設置、炊事場と食料貯蔵庫の構築など休む暇もない。


政府軍の空爆に備え、宿営地の周りに塹壕を掘るのも大変な作業だ。空爆を受けたら穴の中に転がり込む。爆風を和らげるためにジグザグに掘ってあった。


ゲリラたちの起床は毎朝5時で私は6時。朝食当番は4時起きなので、当番の兵士は前日から浮かない顔をしている。


食べることと寝ることしか楽しみのない生活。若い兵士は眠たい盛りだ。少しでも睡眠時間を削られることは苦痛なのだろう。


15人のゲリラは男12人と女3人。いずれも若者ばかりだから恋人ができるのは当然だが、妊娠や出産は固く禁じられている。


アランという青年とアンナという女性兵士は夫婦同然の仲だが、子供を持つことは許されていない。こんな山の中には医者もいないし、幼子を連れて厳しい野山での生活は無理だろう。


アンナは毎日、腰まである長い黒髪を丹念にブラシで梳かし、紫色のゴムで結ぶと、左手に手鏡を持ち、まつげにマスカラを塗っている。爪には毒々しいほど赤いマニキュアを塗る。


こんなところでも化粧をしたいというのは女の本能なのか。彼女から興味深い話を聞いた。


アンナがゲリラに入ったのは13歳。日本ではまだ中学生だ。なぜゲリラに入ったのか。


「私は2歳で母親を亡くし、8歳でお金持ちの家に働きに出されたの。そこでの生活は辛かった。学校にも行かせてもらえず、毎日毎日、掃除と洗濯をさせられるだけ。寝るときもごはんを食べるときもずっとひとりぼっちだった」


コロンビアは階級社会だ。貧富の格差が激しく、人々は「どの階層に属しているか」を重視する。金持ちは貧乏人を差別し、貧乏人は金持ちへの反感を募らせ、それがゲリラの温床となる。


アンナは金持ち夫婦の子供たちとは初めから区別されて育った。着るものも食べるものも別々だった。何の教育も受けられず、読み書きもできないアンナだったが、年頃の女の子だ。アンナだっておめかしをしたい。


「12歳の時、主人家族が出かけた隙に、そっと爪にマニキュアを塗ってみたの。そしたら、それがバレてこっぴどく叱られたの。使用人のくせに生意気だって……。私はどこにも行けないし、きれいなお洋服を着ることもマニキュアを塗ることも許されないの?ただ、貧乏な家に生まれたというだけで……」


主人の家を飛び出したアンナはゲリラに拾われた。以来、ずっと命の危険と背中合わせの過酷な生活を送ってきた。


「君はアランと結婚して子供を産みたくないのか?」

「いつかこの国が平和になったら、山を下りて普通の生活がしたい。でも、今は無理よ。武器を捨てればパラミリターレスの連中に殺されるに決まってる」


コロンビア政府とFARCが和平合意を結んだ2016年11月以降、FARCの元兵士ら150人以上と左翼活動家500人が殺害された。犯人は政府が雇った殺し屋だというが、1人も捕まっていない。


FARCは多くの少年少女を戦場に駆り立ててきた。コロンビア検察によると、FARCに徴兵された少年兵は1975年から2014年までの39年間に1万1556人。うち男性が67%、女性が33%だった。


検察によると、FARCの少年兵徴兵の方法は説得が47%、詐欺が23%、強制が30%。少年兵の最年少は15歳とされているが、実際はアンナのように15歳以下の少年兵もいる。


そんなアンナにも夢があった。アメリカの洋楽が好きなのだという。


「こんな山の中ではラジオで音楽を聴くくらいしか楽しみがないからね。アメリカは嫌いだけど、アメリカの音楽は好きよ」

「アメリカのアーティストの誰が好き?」

「ホイットニー・ヒューストンとか、シンディ・ローパーとか。サラ・ブライトマンやベット・ミドラーも好きね」

「英語は分かるの?」

「英語は分からないけど、いつかアメリカに行ってみたいし、英語も勉強したい」


どこにでもいる普通の女の子という印象だ。彼女が銃を捨て、夢を叶える日は来るのだろうか。



2020年1月15日(水曜日)、誘拐から30日目。


朝、トイレに行こうとしたら、後ろからエルナンに呼び止められた。


「セニョール。No te muevas.(動くな)」


思わず足を止める。続いて数発の銃声。寿命が縮まる思いがした。


「セルピエンテ(蛇)だよ」


振り向くと、体長2メートルくらいの大蛇が転がっていた。茶褐色の地肌にダイヤ状の斑紋が並び、三角形の頭の脇に黄色い横線が走っている。


「テルシオペロだ。こいつにやられたら助からないぜ」


学名は「Bothrops asper」。クサリヘビ科ヤジリハブ属の毒蛇で、テルキオペレとも呼ばれる。日本ではチュウオウアメリカハブと呼ばれる。


その毒は非常に強烈で、主成分は出血毒。一瞬の毒の注入で致死量の毒を体内に撃ち込むため、ヤジリハブ(カイサカ)と並び、中南米では最も危険な毒蛇とされる。


性質は荒く、活動も機敏で、主に森林地帯に生息し、地上でも樹上でも活動する。夜行性で、日中は落ち葉や茂みの中で休む習性がある。


鼻のすぐ下にあるピット器官で獲物を見つけると、目にもとまらぬ速さで毒牙を獲物に突き刺し、一瞬で毒を撃ち込む。そして次の瞬間には元の体勢に戻って、次の攻撃に備えている。


食性は動物食で、哺乳類や鳥類、爬虫類、カエル等で、ムカデなどの節足動物を捕食することもある。


咬まれると死に至らずとも、その出血毒の作用で患部が壊死することもあるという。


私はゾッとした。知らずに踏みつけたり、用を足しているときに咬まれたりしたら、命はなかったかもしれない。こんな山の中には血清もないのだ。


エルナンは射殺したテルシオペロを持ち上げ、その毒牙を見せてくれた。牙の長さは2.5センチもある。オスよりメスの方が大きく、最大で体長は2.5メートル、体重は6キログラムにも達するという。


「こいつを踏んで死んだやつを知ってる。セニョールも気をつけるこった」


私は改めて自然に生きることの厳しさを実感した。コロンビアは素晴らしい自然環境に恵まれた国だが、森の中は危険がいっぱいなのだ。


「セニョール。こいつを食うかね?」


エルナンが笑って言った。海外旅行で行ったオーストラリアでココドゥリロ(鰐)の肉を食べたことはある。鶏肉のような淡泊な味だ。しかし、蛇は食う気がしない。私は黙って首を振った。


テルシオペロの死骸はエルナンが穴を掘って埋めた。


その後、エンカルナシオンが兵士たちを緊急招集。


「Cuidado con las serpientes.(蛇に気をつけろ)」


と訓示した。やはりゲリラも毒蛇は怖いのだ。こんなところで毒蛇に咬まれたら一巻の終わりだった。



2020年1月16日(木曜日)、誘拐から31日目。


午前中、ケブラーダ・エル・ボリト川で水浴びと洗濯を終えて自分のテントに戻ると、急にひどい悪寒が襲ってきた。歯の根が合わず、ガチガチと音を立てた。


頭から毛布をかぶったが、じっとしていられないほどの寒気だ。そのうち体中がガタガタと震え始めた。高熱の前兆だった。


2時間ほどすると、今度は暑くてたまらない。毛布を払いのけ、上着も脱いでしまった。突き刺されるような頭痛と下腹部に重苦しい鈍痛がある。


ドクトル(医者)と呼ばれているゲリラのオマルを呼んでもらい、体温計を借りてみて驚いた。なんと42度もあるのだ。風呂の温度ではないか。


「マラリアのようだね。生憎、特効薬のキニーネを持ってないんだ。しばらく熱が上がって震えが来るだろうが、とりあえず解熱剤を飲んで安静にしていることだ」


オマルが持っている医薬品は胃薬とアスピリンだけだった。アスピリンの錠剤を飲んで目を閉じた。私はこのままこんな山の中で死んでしまうのだろうか……。


マラリアは熱帯地方の風土病だ。マラリア原虫の感染症で、ハマダラカにより媒介される。高熱や頭痛、吐き気などの症状を呈する。悪性の場合は意識障害や腎不全などを起こし死に至る病気だ。


全世界では毎年、2億人以上が感染し、44万人以上が死亡している。南米ではコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ブラジル、ボリビア、パラグアイなどチリ、ウルグアイ、アルゼンチンを除くほとんどすべての地域で流行している。


発症すると40度の高熱に襲われるが、比較的短時間で熱は下がる。が、繰り返し激しい高熱に襲われ、2~3日の間隔を置いて次の発熱が起きる。


これは原虫が赤血球内で発育する時間が関係しており、48時間ごとに原虫が血中に出る際に赤血球を破壊するため、それと同時に発熱が起こる。


いったん熱が下がるために油断しやすいが、すぐに治療を始めないと重篤化することがある。一般的には3度目の高熱を出したときは非常に危険な状態とされる。


現時点では有効なワクチンが存在しない。コロンビアでは蚊に刺されないように注意していたが、とうとうやられてしまったのだ。


もう生きて祖国の土を踏むことはできないのか。私は高熱で朦朧とする意識の中で死を覚悟した。



2020年1月17日(金曜日)、誘拐から32日目。


朝になると熱は下がっていた。が、吐き気がして、とても朝食は喉を通らない。


午後になるとまた震えが来た。水ばかり飲み、トイレに行くのもやっとだ。


以前から高血圧に悩まされていた。ひどい息切れがする。このままでは私の命も長くはないだろう。


もうダメかと思ったが、リカルドがマラリアの特効薬キニーネを持ってきてくれた。


「近くの農家からキニーネを分けてもらってきました。これで良くなると思いますが、足りなかったら遠慮せずに言ってください」


リカルドは紙に包んだ白い錠剤を手渡した。私は決められた時間を守り、キニーネを飲むことにした。


キニーネは南米原産のキナの樹皮に含まれるアルカロイドだ。非常に苦い。


これで治らなければ諦めるしかない。



2020年1月18日(土曜日)、誘拐から33日目。


キニーネが効いたのか、どうやら熱は下がった。が、依然として食欲はなし。


何も食べないと体が持たないというので、リカルドが持ってきてくれたジャガイモのお粥のようなスープを少しずつ飲む。


ずっと寝てばかりでは体が鈍ってしまうので、なるべく体を動かすことにした。


病み上がりの体ではトイレに行くのも一苦労だが、何があろうと自分の体は自分で支えるしかない。人間は死ぬまで自分の力で生き抜くしかないのだ。


ともすれば弱気になる自分を自分で励ましながら、私は生きようと心に誓った。


生きて日本に帰り、ここでの体験を伝えなければならない。そして、できればリカルドのような少年をゲリラから救ってやりたかった。まだ死ぬわけにはいかないのだ。



2020年1月19日(日曜日)、誘拐から34日目。


夢を見た。私は妻・知華子の実家のある新潟県柏崎市にいた。


柏崎は平成19年(2007年)7月16日の新潟中越沖地震と東京電力・柏崎刈羽原子力発電所で有名になったが、新潟は日本有数の米どころである。


知華子の実家も米農家だ。私は義父と新潟の地酒を酌み交わしていた。酒の肴は炊きたてのコシヒカリだった。ごはんに塩をかけたものを肴に熱燗の酒を飲むのである。


これが美味かった。さすがに新潟の米だ。米粒が光っている。米の甘みと塩気が地酒によく合う。米と酒の甘さが塩味を引き立てるのだ。


私も義父も夢中で飯を食べ、酒を飲む。もう何杯おかわりし、杯を重ねたか分からない。とうとう私はひっくり返ってしまった。


思えば、あんなにうまいものを呑み、食べたのは後にも先にもあの時だけだったような気がする。食材が良ければシンプルなものが一番うまいのだ。


義父は亡くなって久しいが、今も時々、米を肴に酒を飲んだことを思い出す。


そう言えば、越後の武将・上杉謙信(1530~1578)も塩を舐めながら酒を飲むのが好きだったという。


アルコールも塩分も健康に悪いのは確かだろうが、人間は飲み、食べなければ生きていけない。どんなに時代が変わっても、これだけは永久不変の真実なのだ。


体が「食べること」を欲している。食べることすなわち生きることだ。私の命が死を拒絶し、生きようとしているのだ。すっかり枯れてしまった私の体に生きる気力が湧いてくるのを感じた。



2020年1月20日(月曜日)、誘拐から35日目。


キニーネのおかげで熱はすっかり下がった。が、まだ体はだるく、力が入らない。


ろくなものを食べていないが、この日はキャンプを移動しなければならない。まだ無理はできないと思ったが、こんな山の中に置き去りにされたら死ぬしかない。


病み上がりの体に鞭打っての山歩きはきつかった。膝が痛む。我慢して歩いたが、どうにも耐えがたく、何度も立ち止まって荒い息を吐いた。


リカルドとジャッキーが私を抱きかかえるようにして支えてくれた。2人とも重たいリュックを担ぎながら私を支えて山道を行くのだ。その苦労は並大抵のものではない。


学生時代、私は山岳部に所属し、日本全国の山々に登った。母校・上智大学山岳部は昭和33年(1958年)3月、OBの飯塚揚一氏が北アルプスで遭難死した。


飯塚氏は学生たちのパーティーに遅れて出発し、燕山荘を経て大天井岳で追いつくつもりだったが、吹雪のためビバーク(不時泊)を余儀なくされた。


飯塚氏は3月17日と18日の記録を残して亡くなった。ビバーク地は登山ルートから外れており、発見が遅れたのだ。


遺族の手記が小冊子「山に祈る」にまとめられ、ダークダックスが清水脩氏に作詞作曲を依頼。合唱組曲『山に祈る』となった。


私は長野県と岐阜県の県境にまたがる乗鞍岳(標高3026メートル)に登った時のことを思い出した。


5月15日の山開き祭の直後、畳平から登った。5月にしては暑い日で、畳平から富士見岳、肩の小屋、蚕玉岳、剣ヶ峯までの険しい山道を登り、山頂の剣ヶ峯で左手に御嶽山(標高3067メートル)を望みながらリュックを下ろした。


その時、ザーッという音がして、背中から砂のようなものがこぼれ落ちた。よく見ると、足元に白い粉が散らばっている。指ですくって舐めてみると塩だった。


汗が蒸発して背中で塩になっていたのだ。人間の体にはこれほど多量の塩が含まれているのかと驚いた。


人体の塩分濃度は人体の水分量の約0.85%と言われる。人間の体重の約60%は水分なので、体重60キログラムの成人なら、体内に必要な塩分量は水分量(体重の6割=36キログラム)×塩分濃度で306グラムとなる。


年を取ってからの苦労に比べれば若い頃の苦労はなんでもない。若さは偉大だ、とつくづく思う。


そして、若さはあっという間に失われ、二度と戻ってくることはない。


私が老齢の身で過酷な監禁生活に耐えられたのは若い頃に体を鍛え抜いておいたおかげだと思う。丈夫な体に産んでくれた親に感謝しなければならない。



2020年1月21日(火曜日)、誘拐から36日目。


体が疲れ切っているのに不思議とよく夢を見る。俗に「夢は五臓の煩い」とも言われる。夢の中に久々に父が現われた。


私の父・克一は大正4年(1915年)生まれ。平成17年(2005年)に90歳で天寿を全うした。


が、その生涯は決して平坦な道のりではなかった。


父は昭和17年(1942年)、大日本帝国陸軍第56師団に召集され、ビルマ(現在のミャンマー)攻略戦に投入された。


第56師団は昭和15年(1940年)7月10日に創設され、福岡・佐賀・長崎出身者で編成されていた。


当初は久留米にいたが、太平洋戦争(1941~1945)の開戦に伴い、昭和16年(1941年)11月に動員され、第25軍に編入されマレー作戦に参加する予定だったが、17年3月から第15軍に属し、ビルマの戦いに従軍した。


17年5月からビルマ北東の中国・雲南省との国境警備を担当していたが、19年3月から中国軍の攻撃を受け始め、同年4月、北ビルマ防衛のため第33軍が創設されるとその指揮下に入った。


19年3月、日本軍は3個師団をもって連合軍の拠点であるインド・マニプール州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。18年から始まった連合軍の進撃を食い止め、蒋介石(1887~1975)率いる中国・国民党政権への援助を断ち切るのが目的だった。


いったんは連合軍の拠点の一つであるコヒマに進撃・制圧し、連合軍の補給路を遮断したかに見えたが、日本軍は前線への補給を維持できず、作戦は開始からわずか3ヵ月で失敗に終わった。


米軍の支援を受けた中国軍に対し、第56師団はインパール作戦のために援軍を得られず孤立し、19年6月の「拉孟・騰越の戦い」で守備隊が玉砕し敗退。


19年10月、中国軍の総攻撃を受けてビルマを南下。国境を越えて隣国のタイに移動する中で終戦を迎えた。


悪名高いインパール作戦を指揮した陸軍中将・牟田口廉也(1888~1966)は佐賀出身である。


日本軍はインパール作戦をはじめとするビルマ戦で多くの将兵を失い、飢餓と病気で命を落とした将兵は16万人にも及んだ。


インパールからの撤退路は力尽きた将兵の遺骨が散乱し、「白骨街道」と呼ばれるほど酸鼻を極めたと言われる。


生前の父は戦争体験を語ろうとしなかった。思い出すのも辛いほどの壮絶な日々だったことは想像に難くない。


私が生まれる前、父はビルマの山奥で生死の境をさまよっていた。そして今、私はコロンビアの山奥で肉体と精神の極限に置かれている。


私は夢の中で父を追っていた。少年の私は嘉瀬川のほとりを父と歩いていた。


佐賀県中東部を流れる嘉瀬川は背振山地を源流とし、佐賀平野に入るまでは川上川とも呼ばれる。佐賀市の西端を流れ、有明海に注いでいる。


筑紫平野(佐賀平野)は古くから穀倉地帯として知られているが、平野部では周囲よりも川床の方が高くなる「天井川」となるため洪水が頻発する。


江戸時代、佐賀藩の成富茂安(1559~1634)が領内の治水工事に着手し、洪水時には河畔林の尼寺林(にいじりん)により土砂が振り落とされながら徐々に水があふれる仕組みになっている。


このため周囲の田畑は洪水でも荒れることなく、かえって土が増えて豊かになるため人々は「洪水を喜んだ」とも言われている。


父は私を置いてどんどん先に行ってしまう。私は置き去りにされるのではないかと心細くなり、必死で父の背中を追う。


すると父が振り向いて、「こっちに来るな」とでも言いたげな表情を浮かべる。


私はハッとなって目が覚めた。父はもうこの世にいない。父は私に「お前は私の後についてくるな」と言っていたのかもしれない。


お前はこの世にやり残したことがあるだろう。まだ死ぬのは早い。もう少し生きてみろ。夢の中で父に諭されたような気がした。



2020年1月22日(水曜日)、誘拐から37日目。


第3回目の交渉。無線がつながるとツボイ君から意外なことを知らされた。


「ツボイです。パルミラのバリオ・エル・パライソの武富さんの農場の管理人夫婦が行方不明になってしまいました」


パルミラにある1ヘクタールの農場はアレハンドロ・ディアスさんとマリアさんの夫婦に管理を任せていた。その2人が忽然と姿を消してしまったというのだ。


「農場を担保にコロンビアの銀行からお金を借りるつもりだったのですが、この線は難しくなりました。そこで日本大使館の藤本さんと相談したところ、武富さんの農場を担保に5億ペソを日本大使館が融資するという形で話が進んでいます」


ツボイ君の話では、アレハンドロさん夫妻は私が誘拐されたために次は自分たちがゲリラに狙われることを恐れ、雲隠れしてしまったようだ。


ゲリラに狙われたが最後、彼らはどんな手段でも必ず誘拐する。この国では政府や警察の内部にもゲリラのスパイが潜んでいる。コロンビアに安全な場所はないに等しい。


ゲリラに狙われそうな経営者や実業家はアメリカなど海外に家族と資産を逃し、コロンビア国内を転々と移動しながら誘拐犯に居場所を知られないよう細心の注意を払っていると聞く。


ゲリラに誘拐されて全財産を失い、今も国外で亡命生活を余儀なくされているコロンビア人もいるのだ。和平が成立しても、ゲリラはコロンビアに暗い影を投げ落としていた。


アレハンドロさん夫妻が逃げるのも無理はないと思った。管理人がいないのではどうしようもない。もう農場は諦めるしかないのかもしれない。


農場を担保に銀行から金を借りるというのも、よく考えれば難しい。コロンビア政府は法律で身代金の支払いを禁じている。テロリストや犯罪者の資金源になってしまうからだ。この国では身代金を払えば誘拐の被害者も「加害者の共犯」とみなされ処罰されるのだ。


当然、銀行は貸し渋るだろう。警察に通報されれば私の解放に尽力してくれているツボイ君にも迷惑をかけることになるのだ。


ツボイ君の父親・坪井正男さんは岡山県岡山市の出身。今から50年以上前、蘭の花に魅せられてコロンビアに移住し、カリ郊外のパルミラで蘭の栽培を手掛けている。


カトレヤ(蘭)は中南米原産でコロンビアの国花だ。アンデス山脈などの標高100~1500メートルほどの森林地帯に産する。


コロンビアは温暖な気候と豊富な日照量を活かしたバラやカーネーションなど切り花の輸出が盛んだ。コロンビアのカーネーション生産量は世界1位であり、日本が輸入するカーネーションの7割はコロンビア産である。


「不動産担保融資は不動産の担保価値の評価などを行なうため、銀行の審査に時間がかかります。コロンビアの銀行は警察の監視も厳しいですし、融資までにかなりの時間がかかると思います。ですが、日本大使の藤本さんは話の分かる方で、5億ペソの融資を約束してくれました。もう少しの辛抱です。気を落とさず、がんばってください」

「どうもご足労をおかけしました。ありがとうございます。藤本大使にもよろしくお伝えください」


無線のマイクを握っているうちに涙があふれてきた。たったひとりでこんな山の中に取り残された気分で、孤独感と絶望感に身を焦がしていたが、私の解放のために水面下で多くの人々が努力してくれていたのだ。


私の身代金は外交機密費として払われるのか。内閣官房には高度の政治的配慮を要する問題に対処するための経費が「報償費」や「調査費」の名目で予算措置されていると聞く。これらの経費は内閣官房長官が預かり、その裁量で支出されるという。


外交機密費は外務省報償費と呼ばれ、全省庁で最も高く、毎年30億円近くが計上されている。2001年に外務省機密費流用事件が発覚。うち3分の1近くが秘密裏に内閣官房報償費に上納されている疑惑が浮上し、国会での議決を経ない上納は経費の流用を禁止した財政法に違反すると指摘されている。


藤本氏は昭和27年(1952年)2月15日生まれ。熊本県熊本市出身。昭和51年(1976年)東大法学部を卒業後、大蔵省(現・財務省)に入省。


昭和56年(1981年)から3年間、在アルゼンチン日本国大使館二等書記官を務めた後、名古屋国税局長、主計局次長を務め、平成17年(2005年)6月、関税局長。平成22年(2010年)7月、理財局長に就任。平成24年(2012年)7月、国税庁長官に就任し、平成25年(2013年)7月に財務省を退官後、独立行政法人「都市再生機構」理事長代理に就任した。


平成29年(2017年)から在コロンビア日本国特命全権大使として赴任していた。


財務官僚としての人脈を活かし、見ず知らずの私のために奔走してくれているのだ、と思うと頭が下がる思いがした。



2020年1月23日(木曜日)、誘拐から38日目。


歩きすぎて足の裏にいくつもマメができた。歩くと痛むので自分で処置する。


エルナンから針とライターを借りる。針先をライターの火で消毒し、マメに穴を開ける。たまった水を押し出し、患部を石鹸水で洗う。


無理しすぎたのか膝と腰が痛む。人間、年を取れば年相応にガタが出てくる。モノは修理すれば直るが、人間の体は修理が効かない。失った若さは二度と戻らないのだ。


私も今年で72だ。この歳でこんなに辛い思いをするとは思わなかった。人生、一寸先は闇とはよく言ったものだ。


誘拐からすでに1ヵ月が経過した。解放交渉は大詰めを迎えているが、最後まで気が抜けない。この1ヵ月間は色々なことがあった。まるで一生分の出来事が一度に起きたかのようだ。めまぐるしい日々。こんな体験は後にも先にもこの時だけだろう。そう願いたい。


父は若い頃、ビルマの山奥で地獄を見たはずだ。それに比べれば今の私はまだ恵まれている。そう思って耐えることにした。が、それでも心が折れそうになる。


人生は苦しいことや辛いことが多すぎる。嬉しいことや楽しいことなんて一瞬だ。苦痛はいつまでも長く続く。この世に生まれてきても苦しいことばかりだ。


私には3人の娘と4人の孫がいる。日本は今、少子高齢化で苦しんでいるが、孫たちには結婚して子供を作れ、などと無責任なことはとても言えない。


生まれても苦しむだけなら最初から生まれない方がいい。それでは人類は滅亡の一途をたどるだけだ。が、まだ生まれてこない命にわざわざ苦しみを背負わせる必要はない。


一方で、こうも考える。せっかく生まれてきたのだから、とことんまで人生を生き抜かなければ損だ。たとえ、苦しいだけの人生だとしても……。


苦あれば楽あり。苦しみがあるからこそ楽しさもひとしおになる。苦しみのない人生なんて無味乾燥でつまらないだけだ。


日本は平和で豊かな国だが、平和すぎて生きているという実感も湧かない。世界有数の治安の良さを誇りながら、人々は生気を失い、死んだように生きているだけだ。自殺や過労死も多く、幸せそうな人間は少ない。


日本とコロンビア、どちらが良いか論じるつもりはない。どの国にも良い面も悪い面もある。


安全を追い求めてリスクの少ない道を選んでも、得られるものはたかが知れている。リスクのない人生などあり得ない。


日本の若者は否応なしにリスクだらけの人生が待っている。彼らには同情するし、嫉妬もする。彼らには私にはない「若さ」があるのだ。疲れを知らない肉体。貪欲に知識や経験を吸収する頭脳……。


江戸時代、鎖国の禁を破れば死罪だった。今の日本の若者はパスポートさえあればどこへでも行ける。彼らは江戸時代の日本人よりはるかに恵まれているのだ。


願わくば、リスクを承知で危険な世界にどんどん出て行ってほしいと思う。若いうちの苦労なんて、年を取ってからの苦労に比べれば何でもないのだから……。



2020年1月24日(金曜日)、誘拐から39日目。


体はクタクタに疲れているのに眠れない。寝ても夜中に目が覚めてしまう。


山の中の朝晩は冷える。一晩に5回もトイレに行く。明かりは小さなランプだけ。


危ないので空のペットボトルを何本もテントに用意しておき、中に用を足して、朝になってから捨てに行くことにした。


監禁生活が長引くにつれてストレスが相当にたまっているのだろう。不眠症は体力を消耗する。十分な睡眠時間を確保できないのは辛い。


マラリアで寝込んでから水浴びをしていないので、今日は眠いのを我慢してケブラーダ・エル・ボリト川に行く。


服を脱ぐと肋骨が浮いている。腕の静脈が透けて見える。すっかり痩せてしまった。何をするのもひどく疲れる。休み休み体を洗い、衣服を洗濯した。


その間、リカルドもエルナンもずっと待っていてくれた。いや、待っているのではない。私が逃げないように見張っていただけだ。そんなことも分からないほど疲れ切っているのか……。


久々に頭を洗ってさっぱりした。ずっと散髪していないので、アランに散髪を頼んだ。ゲリラたちの散髪は彼が担当していた。


アランは私の首にタオルを巻き、ハサミを器用に操る。10分ほどで散髪は終わった。彼の内縁の妻・アンナが手鏡を持ってきた。プロのようにはいかないが、なかなかうまく仕上がっている。


「アランは美容師になるのが夢なのよ」


アンナが得意げに言った。この夫婦が平和に暮らせる日は訪れるのだろうか。


午後は昼寝をした。昼寝をすると夜眠れなくなるかもしれないが、眠れなくてもできるだけ体を休めなければならない。


ウトウトしていると夢を見た。知華子と見覚えのある山に登っている。ボゴタ近郊のモンセラーテの丘だ。


コロンビア人は「丘」と呼んでいるが、頂上は標高3000メートルを超えている。どう見ても山なのだが、ボゴタが2600メートルのアンデスの高地なのでそうなってしまうのだ。


頂上には「願いの泉」という奇妙な井戸がある。石井戸の上に鉄の輪があり、後ろ向きでコインを投げて輪の中に入ると願いが叶うという。


ボゴタの日本人学校に赴任していた頃、ここは何度も訪れたが、一度も入ったことはない。難易度は高い。が、夢の中で私は一発でコインを入れた。続いて、知華子も一度でコインを投げ入れてみせた。


初夢で見た鵜戸神宮の「運玉」と言い、幸先のよい夢だ。正夢になってくれることを祈るしかない。


そう言えば、モンセラーテの丘で落とし物をして、親切な少女に拾ってもらったことがあったっけ。コロンビア人は基本的に親切で人懐こい。私がこの国を去りがたいのはそのせいだ。


コロンビアは不思議な国だ。救いようのない悪人がいる一方で、天使のような善人もいる。獰猛な征服者スペインの血と温順なインディオの血。禁欲的なカトリックの戒律と欲望に忠実なラテン系の国民性。上流階級は肌の白さに異常にこだわり、自らのルーツを母なるスペインに求めながら、底辺の人民は革命を夢見て終わりのない殺し合いを続ける。勤勉と堕落。成長と衰退。天国と地獄が同居する国。ラテンアメリカが抱える矛盾を凝縮したような国……。


一日も早く日本に帰りたいと願う反面、コロンビアを離れたくないという気持ちも募る一方だった。



2020年1月25日(土曜日)、誘拐から40日目。


第4回目の交渉。ツボイ君と無線がつながった。


「武富さんの農場を担保にボゴタの日本大使館から5億ペソ(約1100万円)を借りることができました。パルミラの農場で、武富さんと引き換えに5億ペソを渡すということで、ゲリラと話を進めています」


エンカルナシオンによると、カリのヘフェも5億ペソで合意したらしい。当初の要求額は30億ペソ(約9500万円)だったから、6分の1に引き下げたことになる。


「武富さんが日本のペンシオニスタ(年金生活者)で裕福ではないこと、高齢で健康上の問題があることを根気よく説き続けて、なんとかゲリラを説得することができました。あともう少しの辛抱です。がんばってください」

「どうもありがとうございました。心から感謝します。このご恩は一生忘れません」


不覚にも涙があふれそうになった。一時は生きて帰ることを諦めかけたのだ。希望と絶望の間を行ったり来たりの1ヵ月だった。この辛さは経験した者でなければ分からないだろう。


しかし、最後の瞬間まで気は抜けない。どこでどのような邪魔が入るか分からないのだ。もし、パルミラの農場にコロンビア警察が張り込んでいたら、交渉は決裂。たちまち私の命も風前の灯火だ。


無事、日本に帰国できたら、まずは先祖の墓参りをしなければならない。私が何度も危難に臨みながらここまで生き永らえたのもご先祖のご加護があったからだ。ドライな現代人は非科学的なことを冷笑するが、いつの時代も人間は目に見えない不思議な縁に結ばれているのだ。


日本に帰ってからのことを考えると気が重くなった。マスコミは佐賀の私の実家や新潟の知華子の実家にも押し寄せるだろう。インターネットを中心にバッシングの嵐が巻き起こるかもしれない。


日本人は他人の不幸が大好きだ。引退後の第二の人生を南米で優雅に暮らす年金生活者が誘拐されたなんて、格好の餌食だろう。そんな危ない国に行ったやつが悪い。好きで危険な国に行く者を税金で助けてやる必要はない。そんな論調で、ここぞとばかりに叩かれるだろう。


今回の事件は私の不注意が原因だ。コロンビアでの生活は常に危険と背中合わせという認識で安全面には十分に注意を払ってきたつもりだった。が、惰性で暮らしているうちにどこかに気のゆるみがあったことは否めない。


かつてコロンビアは世界一危険な国だった。1991年の10万人当たりの殺人発生率は86人で世界最悪だったが、2017年は25人にまで低下した。今は気をつけていればそれほど危険ではない。


マスコミはセンセーショナルな記事を書いた方が売れる。「コロンビアの治安は良くなった」というニュースよりも、コロンビアで日本人が殺された、誘拐されたというニュースを針小棒大に伝える。だから、コロンビアという国の実情が日本で正しく報道されることがない。


コロンビアを知らない日本人が私の誘拐事件の報道を見れば、なんだかよく分からない怖い国だという印象を刷り込まれるだけだろう。この国を愛する者として、それはとても残念なことである。


生きて日本に帰れたら、ここでの体験談を発表しようと思う。コロンビアを貶めることも美化することもなく、知られざる南米の国の実態を多くの日本人に伝えなければならない。


私も高齢だ。残された時間は少ない。これが最後の大仕事になるだろう。



2020年1月26日(日曜日)、誘拐から41日目。


朝食後、荷物をまとめて移動する。急に風が強くなり、嵐が来たのかと思い、見上げるといきなりヘリが頭上に接近してきた。


危険を察知し、リュックを背負ったまま茂みに伏せた。鋭い銃声。銃弾が空気を切り裂く。突然始まった銃撃戦に私は頭を抱えてうずくまった。


政府軍のブラックホークが急襲してきたのだ。ヘリから機銃掃射を受け、ゲリラたちは自動小銃で応射する。激しい銃撃戦は数分間続いた。1時間にも思えるような長さだった。


混乱に紛れて逃げることも考えた。が、私は軍服を着ている。政府軍にゲリラと間違われて撃たれたらたまったものではない。


ヘリは急旋回して雲の中に消えた。政府軍を撃退したゲリラたちは歓声を上げている。豆が弾けるような銃声がいつまでも山間にこだました。私は生きた心地もしなかった。


政府軍はゲリラが人質を解放するまで軍事的圧力をかけ続けるつもりなのだろう。包囲網は確実に狭まっていた。


解放の兆しが見えてくると同時に不安も募る。日本政府はコロンビア政府に人命尊重を優先し、武力解決しないよう求めているが、それでは「テロに屈しない」という国際社会の原則が成り立たない。


コロンビア政府が軍事的解決を選択すれば流血の事態は避けられない。ゲリラのキャンプに特殊部隊が突入すれば、ゲリラは容赦なく私を射殺するだろう。


私を誘拐したFARC分離派は、コロンビア政府との和平に同調せず、FARC主流派から離脱したゲリラ組織だ。


FARC分離派は2018年4月、コロンビアの隣国エクアドルで日刊紙「エル・コメルシオ」の記者3人を誘拐した。


誘拐された新聞記者ハビエル・オルテガ、カメラマンのパウル・リーバス、運転手のエフライン・セガラの各氏は、コロンビア領内に連れ去られた後、殺害された。


この残虐非道な犯行はエクアドル政府がFARC分離派の資金源である麻薬密輸の取り締まりを強化したことへの“報復”とみられている。


エクアドルは2017年まで反米左派ラファエル・コレア大統領の国で、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領(故人)と親しく、南米の数少ない反米国家の一つだった。


コロンビアの左翼ゲリラにも同情的で、FARCに庇護を与えていたため、2008年3月1日、コロンビア軍がエクアドル領内のFARCキャンプを越境空爆し、FARCナンバー2のラウル・レイエスとその家族らを殺害した。


ところが、後任のレニン・モレーノ大統領は親米右派であり、政権内からコレア派を排除。反米路線から一転して親米国家に鞍替えした。


エクアドル政府は親米のコロンビア政府と共同で反米ゲリラの討伐作戦に着手し、追い詰められたFARC分離派はコロンビア・エクアドル国境地帯で民間人の誘拐や治安部隊への襲撃を繰り返していたのである。


エクアドル人記者誘拐殺害事件の黒幕はFARC分離派オリベル・シニステーラ戦線の司令官・通称グアチョ(本名ワルテル・パトリシオ・アリサラ・ベルナサ)とみられている。


グアチョは2018年12月21日、エクアドル国境近くでコロンビア政府軍の掃討作戦中に死亡した。


FARC分離派はエクアドルと国境を接するナリーニョ県やカウカ県で勢力を広げているが、2019年6月、バジェ・デル・カウカ県ハムンディ市郊外で建築家のカルロス・オッサを誘拐している。


コロンビア治安当局によると、「FARC分離派はバジェ・デル・カウカ県とカウカ県の麻薬密輸ルートを確保するための資金を必要としている」とのことだ。


建築家の誘拐と、半年後に起きた私の誘拐。FARC分離派にとって営利誘拐は重要な資金源なのだ。


コロンビア政府は和平に応じないFARC分離派に対して激しい武力攻撃を繰り広げている。和平を逆戻りさせないという政府の強い意思の表れだ。


広大なコロンビアの国土の隅々にまで法の支配を確立する。初代大統領サンタンデール以来、この国の指導者の最大の悲願だ。


コロンビアから暴力を一掃し、かつて世界で最も平和だった国に戻れる日は来るのだろうか。



2020年1月27日(月曜日)、誘拐から42日目。


朝食後、リカルドが来て、エンカルナシオンが私を呼んでいるというので行った。


「セニョール。5万ペソ(約1600円)貸すから、これでカリの自宅に行って身代金を持ってこい。あんたが1人で来るんだ」


急なことなので私は驚いた。身代金はパルミラの私の農場で私と交換することになっていた。


「私1人で行くのか?」

「そうだ。午後3時までに金を持ってラ・ブイトレラのマリア教会に来い。鐘が三つ並んでいる教会だ。すぐに分かる。あんた1人で金を持ってくれば、そこで解放してやる」

「本当か?」

「Acuerdo de los Hombres(紳士協定)だよ。再び誘拐して金を取ろうなんてことはしない。ただし、あんた1人で来るんだ。遅れたり、誰かを連れてきたら命はないぞ」


私は我が耳を疑った。が、エンカルナシオンは本気らしい。そこまで私を信用しているのか……?


しかし、よく考えてみれば、私を1人で行かせた方が安全なのだ。一緒に行けば途中で軍や警察に出会うかもしれない。パルミラの農場にも警察が張り込んでいるはずだ。昨日の政府軍の襲撃で、ゲリラたちも焦っているのだ。


「午後3時にラ・ブイトレラのマリア教会だな?」


私は手帳にメモした。カリの自宅からは約35キロある。車を飛ばせば1時間で行けるだろう。


誘拐された時に着ていた水色のシャツと白いズボンに着替え、靴を履いた。エンカルナシオンが言った。


「誰かセニョールを山の下まで送ってやれ」


いよいよゲリラたちとお別れだ。自分を誘拐し、監禁していた連中なのに、1ヵ月も寝食を共にし、苦楽を分かち合った仲だ。不覚にも涙がこぼれそうになった。


「長い間、ありがとう。ムーチャス・グラッシアス(どうもありがとう)」


15人のゲリラ1人1人と握手した。ジャッキーはハグをして別れを惜しんでくれた。


リカルドとエルナンの2人が私を送ってくれることになった。ゲリラたちは山の上から見送ってくれた。


ジャッキーはいつまでも手を振っていた。日本語で「サヨーナラー」という別れの言葉を贈ってくれた。


山道を30分ほど下り、砂利道に出た。リカルドが言った。


「この道をまっすぐ行くと、モンテカッシーノというレストランがあります。そこでタクシーを呼んでください。Ten cuidado.(気をつけて)」

「ありがとう。気が向いたら私の農場に来てください。いつでも雇ってあげますから」


私は自宅の電話番号をメモしてリカルドに渡した。2人のゲリラと握手して別れた。


私は砂利道を1人で歩いて行った。15分ほど歩くと見覚えのある白塗りの家屋が見えてきた。正門に「モンテカッシーノ」と書かれてある。


誘拐された時、ここを車で通った記憶があった。一見すると豪農の屋敷という感じだが、中は洒落たレストランになっている。


ところが、この日は休業中なのか誰もいない。門は固く閉ざされたままで、人がいる気配もない。


仕方ないのでさらに山道を下っていくと、道が二手に分かれた。向かって左側の公園のようなところに白いマリア像が建っている。


さて、どっちに行くべきか迷っていると、ちょうどそこに1台のバイクが通りかかった。


「カリに行きたいのですが、途中まで乗せていってもらえますか?」


頼むとバイクの若者は快く後ろに乗せてくれた。


若者の腰につかまって細く曲がりくねった道を走ること約10分。バイクはパルミラに通じる街道に出た。


アグアクララの町だ。街道沿いの「Hacienda Terranova」というホテルでタクシーを呼んでもらった。


パルミラの町を通り抜け、懐かしいサンティアゴ・デ・カリ市の自宅に着いたのは10時半ごろだった。


カリ市は1536年7月25日、スペイン人セバスチャン・デ・ベラルカサルにより創建された。南米で最も古い町のひとつである。


首都ボゴタ市、アンティオキア県の県都メデジン市に次いでコロンビアで3番目に人口の多い都市(約207万人、2005年)であり、コロンビア経済の中心地でもある。


「サルサの都」として知られるが、観光で訪れる外国人は少なく、コロンビア随一の観光地であるボリーバル県の県都カルタヘナ・デ・インディアス市に比べると、あまり目立たない地味な町である。


カジェ62通りでタクシーを降り、4階建てアパートの最上階の部屋のドアをノックした。


部屋にはツボイ君と秘書のアイーダがいた。2人とも幽霊を見るような顔つきで私を見ている。


「武富さん……?」


ツボイ君が信じられないような表情で私を穴の開くほど見つめている。無理もない。ついさっきまでゲリラに監禁されていたのだ。


「私です。武富です。ご迷惑をおかけしました」


私は頭を下げて言った。ようやく生きて帰れた、という実感が湧いてきた。



すぐにカリ市警察の警察官がパトカーでやってきた。


コロンビアの警察官は濃い緑色の軍服姿で軍人のようだ。カリのような暑い土地でも長袖の制服で、目立つ黄緑のジャケットを着けている。彼らの多くは親切で、日本の警察官より信頼できると思った。


やってきたのはカリ市警のディディエル・エストラーダ大佐とエンリー・ラミレス中尉の2人だった。私は事情聴取を受けた後、パトカーで自宅近くの「Ips Torres De Comfandi」という大きな病院に連れて行かれた。


健康診断を受け、すぐに検査の結果が出た。血圧は高いが、他は特に異常なし。誘拐前に65キログラムあった体重は7キロ減って58キロになっていた。


昼過ぎ、ボゴタから在コロンビア日本大使の藤本氏と佐々木翔太領事、清水俊次郎参事官の3人が病院に駆けつけてきてくれた。


初めてお会いした藤本氏は恰幅の良い小柄の男性で、一国の大使というよりは、日本の田舎で農業をしている好々爺といった感じだ。私は親しみを覚えた。


「では、ゲリラに身代金を払うという約束で解放されたんですね?」

「はい。午後3時までにラ・ブイトレラのマリア教会に5億ペソを持って行く約束です」

藤本氏の表情が険しくなった。

「いけませんね。コロンビアの法律で身代金の支払いは禁じられています。テロリストを利する行為として厳罰に処されることになっているのです。あなたが身代金を払えば、あなたが逮捕されてしまいます」

「それは困ります。私はコロンビアの法を犯すつもりはありません」

「今回、我々はパルミラの農場を担保に5億ペソをお貸しすることにしました。しかし、その5億ペソはパルミラの農場で、あなたと交換するという約束だったのです」

「おそらく、ゲリラは農場に警察が張り込むことを恐れて、私1人で身代金を取ってこさせることにしたのでしょう」

「で、あなた1人で行かれるおつもりですか?」

「行っても大丈夫でしょうか?」

「それは断言できません。あなたが再び拘束されるようなことになれば、大使の責任になります」

「では、私はどうすればいいのでしょうか?」

「約束の時間に来なければ、ゲリラはあなたの命を狙うかもしれませんね」


ゲリラの仲間は市民にも紛れ込んでいる。この病院にもゲリラのスパイが潜んでいるかもしれないのだ。まだ完全に自由の身になったわけではない。膝が震えていた。


「武富さん、カリは危険です。今すぐボゴタに行ってください。コロンビア警察に全面的な協力を要請します」


すぐに藤本氏が手配してくれた。カリ市警のパトカーに護衛され、私はカリ市北東部のカリ国際空港(アルフォンソ・ボニージャ・アラゴン空港)に向かった。


アビアンカ航空の国内線でボゴタのエル・ドラード国際空港に着いたのは夜。


ボゴタは雨で肌寒かった。空港近くのエンガティバ地区にある「Clínica Partenón」という近代的な私立病院に入院した。


病室に妻の知華子が来てくれた。去年9月以来、約4ヵ月ぶりの再会だった。


「苦労をかけたね」


とねぎらいの言葉をかけるのが精一杯だった。


カリの自宅は危険なので、知華子はボゴタ市内のホテルを転々と移動しながら、ツボイ君や藤本氏と相談を重ね、私の解放を辛抱強く待ち続けていたのだ。


その心労は並大抵のものではなかっただろう。



2020年1月28日(火曜日)。


病院に一泊し、この日は午前中、ボゴタのコロンビア国家警察本部でホルヘ・エルナンド・ニエト将軍(長官)から直々の聴取を受けた。


長官室で誘拐から解放までの経緯を語り、ツボイ君がスペイン語に翻訳し、ニエト将軍がパソコンに打ち込み、プリントアウトした。間違いのないことを確認し、署名する。


「セニョール・タケトミ。ゲリラに身代金を払わなかったのは賢明でした。もし、あなたがゲリラに5億ペソを持って行けば、コロンビア警察としてはあなたを誘拐の共犯とみなして逮捕しなければなりません」

ニエト将軍は厳かに言った。

「私はコロンビアの模範的な市民として、コロンビアの法律を守ります」

私はニエト将軍に尋ねた。

「ところで、あの後、ラ・ブイトレラのマリア教会には行かれましたか?」

「ただちにカリ市警の捜査員を差し向けましたが、誰もいませんでした」

「ゲリラは私が裏切ったと思っているでしょうね」

「コロンビア警察は今回の誘拐事件の捜査に全力を上げています。あなたの誘拐に関与した容疑者は懸賞金つきで全国に指名手配中です。必ず逮捕して裁判にかけます」

「私にできることがあれば何でも言ってください。この国から卑劣な誘拐犯罪を根絶してください。私は協力します」

ニエト将軍は満足げにうなずき、右手を差し出した。私たちは固い握手を交わした。


国家警察本部を出て、パトカーで在コロンビア日本大使公邸に移動。昼食は公邸で寿司と日本酒が出た。藤本氏がこれまでの苦労をねぎらってくださり、感謝の念に堪えなかった。


「武富さん、このお酒はね、佐賀の銘酒『鍋島』ですよ」

「これを、私のためにわざわざ……?」

「私も九州の人間だからね、酒にはちょっとうるさいんですよ」


九州と言えば日本酒より焼酎のイメージだが、佐賀は九州で最も日本酒が飲まれている県である。


と言うのも、佐賀藩第十代藩主・鍋島直正(1815~1871)が藩の財政再建のために酒造を奨励したためだ。最盛期には700もの蔵元があり、現在も佐賀県鹿島市の肥前浜宿には漆喰塗りの古い家屋が立ち並ぶ「酒蔵通り」がある。


佐賀の酒は濃酵甘口で味わい深く、中でも富久千代酒造の「鍋島 大吟醸」は2011年、世界的なワインコンテストであるIWC「SAKE部門」で頂点を極めた。


藤本氏は熊本県熊本市の出身。私が佐賀県出身なのを知って、はるばる日本から「鍋島」を取り寄せておいてくれたのだ。行き届いた心配りに頭の下がる思いだった。


久々に口にする酒は五臓六腑にしみわたる味だった。私は目頭が熱くなった。どうも、年を取ると涙腺がもろくなるようだ。



私の解放に尽力してくださった日本大使館の方々に謝意を述べ、ボゴタ市警のパトカーでエル・ドラード国際空港へ。佐々木領事が日本まで同行してくださることになり、ツボイ君と藤本氏と清水参事官に見送られて午後2時すぎ、アエロメヒコ航空機でコロンビアを離れた。


メキシコシティのベニート・フアレス国際空港を経由し、千葉県成田市の成田国際空港に到着したのは1月30日の早朝6時半。帰国手続きを済ませ、到着ロビーに出ると報道陣の猛烈なカメラのフラッシュの洗礼を浴びた。


空港第2駐車場ビル3階の外務省成田分室でお世話になった方々に挨拶。


警察庁警備局国際テロリズム対策課から2時間半にわたり事情聴取を受けた。今回の事件は「国外犯」として佐賀県警と合同で捜査する方針という。


その後、成田エクスプレスで東京駅へ。中央線で国分寺市に住む長女夫婦の自宅に向かう。久々に熱い風呂に入り、夜は長女夫婦や小学生の孫たちとすき焼きで団欒の一時を過ごした。


31日は終日、長女夫婦の自宅でゆっくりと休養。近くを流れる野川を散策し、小金井市の貫井神社に参拝。夜は小金井の老舗うなぎ屋『田川』で鰻の蒲焼を食べる。生き返った心地がした。


2月1日、霞が関の外務省と永田町の総理大臣官邸を訪れ、河本太郎外務大臣と阿部真三内閣総理大臣にお礼の挨拶。首相官邸を訪れるのは初めて。


「このたびは大変、お世話になりました。感謝の言葉もございません」

初めてお会いする阿部総理はテレビや新聞で見るよりも若々しかった。

「武富さん、大変だったね。私もコロンビアは二度行きましたよ」

阿部総理は意外に気さくな方だった。外相時代に1回、総理になられてから1回、コロンビアを訪れている。

「コロンビアでのお仕事はどうでした?お話を聞かせてよ」

「ご心配をおかけしました。長くなるので、報告書にまとめたいと思います」

阿部総理は同席していた岸大悟内閣官房副長官に、

「武富さんは苦労されてるから、よく話を聞いて、力になってやってよ」

と言われた。私は胸が熱くなった。


その日は浜松町のホテルに泊まり、2月2日は朝5時に起床。モノレールで羽田空港。6時55分発の日本航空で福岡空港へ。機中の窓から富士山が見え、やっと日本に帰ってきたという実感が湧いた。


8時55分、福岡着。福岡市に住む次女の運転する車で佐賀市の自宅へ。マスコミ数社の取材を受ける。


2月3日は佐賀県庁舎と佐賀市役所を訪れ、佐賀県知事と佐賀市長に挨拶した。



ちなみに、佐賀とコロンビアは不思議な縁がある。


明治41年(1908年)5月25日、「日本コロンビア修好通商航海条約」調印により、日本とコロンビアの国交が開かれた。


この年、商用目的でコロンビアから来日したアントニオ・イスキエルド(1866~1922)に佐賀県出身の政治家・大隈重信(1838~1922)が庭師の川口友広を紹介し、川口ら3名(2名は氏名不詳)の日本人が初めてコロンビアに渡った。


イスキエルドは当時のコロンビア大統領ラファエル・レイエスから極東との交易の可能性について調査を命じられており、大隈は川口を推挙することでコロンビアとの外交関係を友好的に拡大したいと考えていた。


川口は日本で皇族の庭仕事をしていただけでなく、大隈重信の下でも働いていた経験があった。


川口は首都ボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口らのその後の消息は不明だが、ボゴタに川口の墓碑があるとの未確認情報もある。


初めて日本を訪れたコロンビア人は旅行家のニコラス・タンコ・アルメーロ(1830~1890)であり、国交樹立前の明治4年(1871年)11月のことであった。


キューバ系コロンビア人のアルメーロは裕福な資産家の息子で、日本の歴史、経済事情、風俗、日本人の宗教観などについて詳細に記した旅行記を出版している。


川口の次にコロンビアに渡った日本人は広島県竹原市出身の水野小次郎(1884~1960)である。


日露戦争(1904~1905)に従軍した水野は南米移住を決意し、当初はペルーに向かったが、当時、ペルーではコレラが流行しており、パナマに転住して理髪店や雑貨店を営んでいた。


ペルーでもらった頑固な胃病に悩まされていた水野は、コロンビア北部カリブ海沿岸のバランキージャ市近郊のウシアクリに「胃病に効く水が湧いている」という話を耳にし、コロンビア行きを決めた。


大正4年(1915年)、コロンビアに移住した水野はウシアクリの湧き水で胃病の症状が全快したため、故郷の広島から道工(どうこう)利雄と安達俊夫を呼び寄せた。


水野、道工、安達の3名はいずれもコロンビア人女性と結婚し、バランキージャで商売を始めた。


その後、キューバやペルーからの移住者や、広島から呼んだ者を合わせて13名が日系コロンビア人の源流となったのである。


ちなみに、道工利雄の次男・カオルは第二次世界大戦後、コロンビアのサッカー・ナショナルチームの主将を務め、朝鮮戦争(1950~1953)の際、中南米で唯一参戦したコロンビアの海軍士官に志願し、休暇を利用して父の祖国・日本を訪れている。


大正10年(1921年)に商社員の星野良治がボゴタに移住。星野は2年後の関東大震災で東京の本社が壊滅したため永住を決意。ローラ・トレドという現地女性と結婚し子供のホルヘ・ホシノは造園業者として成功し、昭和天皇崩御の際はビルヒリオ・バルコ大統領(当時)の代行で来日した。



これとは別に日本から集団で移住した日系人の一群がいる。


コロンビアの日系移民はペルー(1899年)やブラジル(1908年)と異なり、ロマンチックなエピソードを持つ点が特徴である。


大正11年(1922年)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)スペイン語学部に在学中の竹島雄三(1899~1970)が、コロンビアの作家ホルヘ・イサックの恋愛小説『マリア』を読んで感銘を受け、翻訳して雑誌『新青年』に連載した。


『マリア』はコロンビア西部太平洋岸バジェ・デル・カウカ県のアンデス山脈の麓にある大農場「アシエンダ・パライーソ(天国の荘)」を舞台にした青年エフラインと美少女マリアの悲恋物語である。


同じ頃、「海外植民学校」の夜学生だった島清、中村明、西国徳次、松尾太郎らが『マリア』を読み、小説の舞台となったバジェ平原に魅了された。


そして「南米雄飛会」を結成。大正12年(1923年)に農業実習生としてコロンビアに渡航し、サトウキビ農園でサトウキビの植え付け、管理、収穫、製糖等の作業に従事した。


1年後、島らはコロンビアでの研修報告書を拓務省(現・外務省)に提出した。


当時、アメリカでは日系移民を排斥する「移民法」が成立(1924年)し、日系人の多いブラジルやペルーでも排日運動が激化しており、拓務省は新たな移民受け入れ先を探していた。


拓務省は竹島雄三と農学者の巻島得寿にコロンビアの調査を命じ、大正15年(1925年)から約半年間の現地調査を実施した。


調査の結果、バジェ・デル・カウカ県のバジェ平原が日本人の移住先に最適であるとの結論に達し、昭和3年(1928年)、日本政府は約80ヘクタールの土地を購入して農業移民10家族を「試験移民」として入植させることを決定した。


竹島は「海外興業会社」の現地代理人に任命され、バジェ・デル・カウカ県に隣接するカウカ県コリント郡ハグアル村に約128ヘクタールの土地(うち32ヘクタールは竹島の個人所有)を購入した。


海外興業会社は移住者10家族の募集を開始したが、1家族あたり最低1600円の準備金(当時の3年分の生活費に相当)を条件としたため、応募は少なかったという。


昭和4年(1929年)10月、第一次移住者5家族(25人)が出発。


5家族中3家族は福岡県浮羽郡(現・久留米市、朝倉市)出身者であり、追加募集は福岡県で行なわれた。


昭和5年(1930年)、第二次移住者5家族(34人)が移住。


昭和10年(1935年)、第三次移住者14家族(100人)が移住。


合計24家族159人(うち148人が福岡出身)が集団移住した。


移住者は当初、陸稲を栽培したが、失敗。その後、ソバ、綿花、ユカ芋、ジュート麻等の栽培を試みたが、いずれもうまくいかず失敗した。


最終的に日本から持ち込んだウズラ豆の栽培に成功し、農機具を導入して入植から8年後の昭和12年(1937年)にはトラクター25台を所有、耕作面積は当初の2倍半の227ヘクタールに拡大した。


ハグアル移住地でのウズラ豆の収穫は1ヘクタールあたり12俵程度だったが、隣接するバジェ平原は肥沃な土地で30俵の収穫が見込めたため、次第に移住者は分散していった(ウズラ豆の連作障害を防ぐため農地更新が必要だった)。



一方、第二次世界大戦の影響はコロンビアの日系移民にも暗い影を投げ落とした。


ナチス・ドイツの台頭でアメリカ政府はナチス政権が米国本土攻撃の拠点として南米を利用する恐れがあり、ドイツの同盟国である日本の南米移民を“国家安全保障上の重大な脅威”とみなしたのである。


特にコロンビアは米国の生命線であるパナマ運河に近く、コロンビアの日系人がトラクターを所有し整地された耕地を保有していることから、これが滑走路に転用され、パナマ運河攻略の前線基地として利用される恐れがあると考え、連邦捜査局(FBI)は日本人移住地に徹底的な監視を行なった。


米国政府はコロンビアからドイツの影響力を排除するため、1919年に設立されたコロンビア・ドイツ合弁の民間航空会社「SCADTA」を米国の援助で創設した航空会社アビアンカに吸収合併させている。


第二次大戦勃発から約3ヵ月後、日本人移住者はコリント郡からの外出が禁止された。


昭和19年(1944年)5月30日、竹島雄三をリーダーとする日系人代表11名がクンディナマルカ県フサガスガの「敵国人収容所」にコロンビア在住のドイツ・イタリア人代表とともに軟禁された(収容所は老舗の「サバネタ・ホテル」が転用された)。


日本が連合国に降伏した昭和20年(1945年)9月6日、収容所に収容されていた日系人は全員解放され、農業移住者たちの分散も進んだ。


昭和25年(1950年)には日系移民の耕地面積は5千ヘクタールを突破し、農業の機械化や栽培技術の確立に成功した。


現在、コロンビアの日系人はバジェ・デル・カウカ県の県都サンティアゴ・デ・カリ市を中心に約1800人おり、ブラジルやペルーに比べると少ないが、農業以外にも医師・弁護士・実業家として活躍し、南米の日本人移民では最も成功したと言われている。


多くはコロンビア人と結婚し、コロンビア社会に同化していったため、二世、三世の日系コロンビア人は日本語を話せない者も多い。


なお、コロンビア日系人の先駆者となった竹島雄三は戦後、メタ県サン・マルティンに約60万坪の土地を購入し、小説『マリア』で主人公の住んだ館と同じ屋敷を建てて暮らし、昭和45年(1970年)に71歳で波乱の生涯を閉じた。



あとがき



帰国から半年が過ぎた。

私は42日に及んだ誘拐事件の「報告書」をまとめ、外務省に提出した。

報告書を書き上げてから、コロンビアのことをもっと多くの日本人に知ってもらいたい、と思うようになった。誰もが読めるような一冊の本にまとめたい、と思ったのだ。

コロンビアでお世話になった在コロンビア日本大使の藤本氏に相談したところ、

「コロンビアの実情は残念ながら日本ではまったくと言っていいほど知られていません。コロンビアについて日本の皆さんに正しく理解していただけるよう、是非とも本を書かれてください」

と激励され、膨大な資料を送っていただいた。

ここに改めて感謝の念を表したい。

私は寝食を忘れて執筆に没頭した。一冊の本も書いたことのない私が、どうにかそれらしいものを書き上げるまでに半年かかった。

知られざる国・コロンビアを日本の読者に正しく理解してもらいたい。コロンビアを貶めることも美化することもなく、この国の実態をなるべく多くの日本人に伝えたい。その一心で筆を執った。

その後、コロンビアでは大きな動きがあった。

コロンビア国家警察は2020年2月17日、バジェ・デル・カウカ県の県都サンティアゴ・デ・カリ市で、私の誘拐に関与した疑いで3名の容疑者を逮捕したと発表した。

逮捕者には左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC)」分離派第14戦線司令官・通称エンカルナシオンが含まれていた。

さらに3月13日、コロンビア陸軍第3師団は同県パルミラ市郊外の山岳地帯で、FARC分離派第14戦線の司令官・通称エドゥアルドを銃撃戦の末に射殺したと発表した。

エドゥアルドはエンカルナシオンの逮捕後、FARC分離派第14戦線を率いてコロンビア政府軍と戦闘を繰り返しながら、山中で逃避行を続けていたらしい。

これで一応、私の誘拐事件は解決したことになる。しかし、事件の真相はいまだ闇の中だ。

誰が何のために私の誘拐を計画したのか。裁判で明らかにされる日は来るのだろうか。

コロンビアでは誘拐は激減したが、今もゲリラに拘束されたままの人質がいる。

この人たちが全員、自由の身になるまで、私の誘拐事件は終わらないのだ。

コロンビアに残してきた農場のことがどうしても気にかかる。

あの後、管理人のアレハンドロさん夫妻は行方不明のまま。農場は荒れ放題だろう。

リカルドのような少年兵をゲリラから救い出すためにも、農場を再開したいという気持ちが強くある。

コロンビアに戻りたいのは山々だ。しかし、今は家族に強く止められている。

私がコロンビアに戻り、再び誘拐されれば家族や関係者に多大な迷惑をかけるだけでなく、日本とコロンビアの外交問題にも発展しかねない。

私はコロンビアという国が好きだ。その気持ちは今も変わらない。

コロンビアは旅人を魅了してやまない国だ。温暖な気候、豊富な資源、風光明媚な土地、勤勉で親切な国民性。この国には「一度でも訪れた者を捕らえて放さない」魅力がある。

一方で、大いなる矛盾を抱えた国でもある。一時期より国情は安定したが、衰えたとは言えゲリラ組織は健在であり、今後も予断を許さない状況である。

日本の未来も決して明るいものではない。この国の若者たちには厳しい現実が待っている。

いずれ日本の若者は好むと好まざるとに関わらず、言語も文化も民族も生活習慣も異なる異国の地に出て行くことになるだろう。

案外、日本にしがらみのない若い世代ほど海外で成功するのではないか。

彼らがコロンビアを平和で豊かな国にしてくれるかもしれない。今はその希望を未来に託すしかない。

私に残された時間は少ない。いつの日か再びコロンビアの土を踏むことを夢見ながら、なるべく長生きしようと努めている。

拙著が日本とコロンビアの将来に微力ながら貢献できれば望外の幸せである。


2020年夏 佐賀市の自宅で 武富克彦



※参考文献


『知られざるコロンビア-新大陸発見500年の軌跡』(藤本芳男著、サイマル出版会)

『暴力の子供たち―コロンビアの少年ギャング』(アロンソ・サラサール著、田村さと子訳、朝日新聞社)

『コロンビア内戦-ゲリラと麻薬と殺戮と』(伊高浩昭、論創社)

『私はコロンビア・ゲリラに二度誘拐された』(志村昭郎、講談社)

『サバイバー-池袋の路上から生還した人身取引被害者』(マルセーラ・ロアイサ著、常盤未央子、岩﨑由美子訳、ころから)

『ビオレンシアの政治社会史-若き国コロンビアの“悪魔払い”-』(寺澤辰麿、アジア経済研究所)

『黄金郷を求めて-日本人コロンビア移住史』(イネス・サンミゲル著、加藤薫編・訳、野田典子訳、神奈川大学出版会)

『コロンビアの素顔』(寺澤辰麿、かまくら春秋社)

『熱狂と幻滅 コロンビア和平の深層』(田村剛、朝日新聞出版)

『コロンビア商人がみた維新後の日本』(ニコラス・タンコ・アルメロ、寺澤辰麿訳、中央公論新社)



武富克彦氏は何故、命の危険を冒してまでコロンビアをめざすのでしょうか。

彼に云わせれば、

「だって、ゲリラの少年兵と約束したんです。いつかこの国が平和になったら、彼との約束をどうしても果たしたい」

コロンビアでアボカドを作り日本に輸出。雇用を創出し貧困からゲリラに走る若者を救いたい。

銃の扱い方と人の殺し方しか教えてもらえない少年兵を農場で雇い、彼を社会復帰させる。

それが武富さんの夢なのです。


リスク回避思考で日本人は冒険をしなくなりました。

世界で最も平和で豊かな国でありながら若者は自ら命を絶ち、誰もが幸せそうではありません。

いつまでも少年の心を忘れない冒険家・武富さんのような生き方にあこがれてしまいます。



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