誘拐Ⅱ

かつて「世界で最も危険な国」と呼ばれた南米コロンビア。世界的なコーヒー豆の産地である同国は麻薬コカインの一大供給地帯でもある。政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦は50年以上にも及び、毎年3万人が殺害され3千人が誘拐される世界最悪の治安!だが、一度でも訪れた人は誰もが好きになるという。知られざる不思議な国の魅力!



そもそも、コロンビアという国は何故、戦乱が絶えず、治安が悪いのか。


その歴史をひもとかねばなるまい。


まず、コロンビアという国がどこにあるか知らない人のために解説しよう。


世界地図を広げてほしい。南アメリカ大陸の一番上、南米の玄関に当たるところにあるのがコロンビアだ。正式名称はコロンビア共和国。北にパナマ、南にエクアドルとペルー、ブラジル、東にベネズエラと隣り合っている。


面積は約113万平方キロメートル。日本の3倍強。人口は約5千万人で、日本の3分の1ほど。中南米ではブラジルとメキシコに次ぐ多さだ。人口の6割がメスティーソ(白人とインディオの混血)で、白人、先住民、黒人、アラブ系、東洋人もいる。


国土の中央部をアンデス山脈が走り、マグダレーナ川という大きな川が南北を真っ二つに割るように流れている。東にカリブ海、西に太平洋が広がり、南はアマゾンの熱帯雨林だ。人が住み着いているのはほとんどがアンデスの高原であり、国土の東半分を占める広大なリャノ(湿地帯)は無人である。


コロンビアは世界中の気候を持つ国と言われる。起伏に富んだ地形が熱帯、温帯、冷帯の様々な気候をもたらす。


同じコロンビアでも首都ボゴタは標高2600メートルの高原にあり、富士山の7合目くらいの高さだ。ゆえに赤道直下にありながら年中涼しく春か秋のような気候である。


一方、カリブ海に面した港湾都市カルタヘナは常夏である。新鮮な魚介類やトロピカル・フルーツがふんだんに手に入る。


アンデスの山岳地帯は寒くて雪も降るが、アマゾンの熱帯雨林は高温多湿で、カリブ海に突き出たラ・グアヒーラ半島は砂漠地帯であり、太平洋沿岸のチョコ県は年間降水量が8千ミリにも達し、世界で最も雨の多い土地である。


国民の9割はキリスト教徒である。1991年までカトリックが国教の地位を占め、国家と宗教が密接につながっていたが、近年は世俗化が進み、国民の6割はさほど熱心に宗教を信仰していないという。


公用語はスペイン語である。コロンビアのスペイン語はスペインのアンダルシア地方の「正統派スペイン語」とされ、最も発音の正しい美しいスペイン語と言われる。そのため、スペイン語を学ぶためにわざわざコロンビアに留学する者もいるほどだ。


コロンビアという国名の由来はアメリカ大陸の発見者クリストファー・コロンブス(1451?~1506)にちなんでいる。


この名称を初めて用いたのはベネズエラの革命家フランシスコ・デ・ミランダ(1750~1816)であり、ミランダは北米から南米のスペイン・ポルトガル植民地を統合し「コロンビア」という単独国家として独立させる、という壮大な構想を描いていたとされる。


ちなみにアメリカにもコロンビアという地名は沢山あるが、そちらのコロンビアは「Columbia」である。国としてのコロンビアは「Colombia」なのでスペルの違いに注意されたい。



コロンビアの歴史は古く、今から1万2千年ほど前に北アメリカ大陸から中米を経由してモンゴロイド系のグループが現在のコロンビアに入り、一部は定着し、他は南下していったとみられている。


同じモンゴロイドの日本人と南米の先住民は2万1千年~1万4千年前に共通の祖先から分岐したという遺伝子研究の結果が報告されている。


九州の縄文人が今のエクアドル沿岸に流れ着き、縄文土器の文化を伝えたと言われる。


宮崎県の跡江貝塚遺跡からエクアドルのバルディビア土器に酷似した土器が出土しており、今から7000年前に日本と南米が交易していたという説もある。


紀元前2000年ごろ、インドネシア系の部族が太平洋を渡り、コロンビア太平洋岸のチョコ県(現在のパナマ国境地帯)に住み着いた。


紀元前1200年ごろ、メソアメリカ(メキシコや中米北部)系の部族がコロンビアに入り、トウモロコシの栽培技術や古墳式埋葬などの文化をもたらした。


紀元前500年ごろ、再びメソアメリカ人が移住。その直後にチブチャ族が中米のホンジュラスやニカラグアからコロンビアに入った。


チブチャ族の後、ブラジルやパラグアイからアラワク族が入る。


紀元前1000年ごろ、カリブ諸島からやってきたカリブ族がコロンビアの大西洋沿岸地域に移り住んだ。


獰猛なカリブ族は沿岸の低地に住んでいたチブチャ族を排除し、カリブ族に追われたチブチャ族はアンデスの高原地帯に移動した。


スペインによる侵略と征服が始まる前の15世紀ごろ、コロンビア南部にペルーやボリビアからケチュア語を話すアイマラ族が入植した。


コロンビアの先住民はチブチャ族、カリブ族、アラワク族、グアラニー族など88の部族、200を数える言語集団がいるとされる。


最大の部族はチブチャ族であり、彼らはペルーのインカ帝国にも匹敵する高度な文明を持ち、カシーケ(首長)を基盤とするゆるやかな連合国家を築いていた。


現在のコロンビアに初めて上陸したヨーロッパ人はスペイン人アロンソ・デ・オヘーダであり、1525年にカリブ海沿岸のサンタマルタに最初の植民地を建設した。


スペインの入植者たちは勇猛果敢なカリブ族を虐殺しながら沿岸部を平定し、奥地に「エル・ドラード(黄金の王)」がいるとの噂を耳にする。


1536年、スペインの征服者(コンキスタドール)ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(1496?~1579)は約600人の兵を率い、コロンビアを南北に縦断する大河マグダレーナ川を遡り、「黄金の王」が住むとされるコロンビア中部のアンデス高原を目指した。


苦心惨憺の末、マグダレーナ川を遡上したゴンサロの一行はサバナ・デ・ボゴタ(ボゴタ平原)に到達する。


当時、この地に住んでいた先住民はチブチャ系のムイスカ族であり、ムイスカ族の都バカタが栄えていた。


ムイスカ族はボゴタの北57キロに位置するグアタビータ湖で年に二回、父なる太陽と母なる水に感謝の供物を捧げる儀式を行なっていた。


全身に金粉を塗りつけた祭司が筏に乗って湖に漕ぎ出し、黄金の細工物やエメラルドなどの宝石とともに湖に飛び込むのだ。


この壮麗な儀式が「コロンビアの黄金郷伝説」として広まったのである。


ゴンサロの軍は1538年8月6日、ムイスカ軍を攻め滅ぼして、ここにサンタフェ・デ・ボゴタを築いた。これが現在の首都ボゴタ(ボゴタはバカタが訛ったもの)である。


こうしてコロンビアはスペインの植民地となったわけだが、スペイン人による虐殺と天然痘などの疫病の流行、鉱山や農園での酷使により、16世紀当時、コロンビアに600万人いたインディオは17世紀には50万人にまで激減してしまった。


スペイン人が行なった数々の残虐行為を告発し続けたカトリック司祭のバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484~1566)が著書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で、


「大勢のスペイン人がインディアス各地からこの新グラナダ王国(筆者注・現在のコロンビア)に蝟集したが、彼らの多くは邪悪かつ残忍な人物で、とくに、人を殺し、血を流すことにかけては札付きの連中であった。(中略)したがって、彼らがこの新グラナダ王国で行なった悪魔のような振る舞いはその内容も量も、じつに凄まじく、また、そのときの状況や特徴からして、あまりにも醜悪かつ由々しいものであったので、それまでに彼ら自身が、またほかのスペイン人が別の地方で行ない、犯してきたじつに多くの、いや、すべての非道な所業をはるかに凌いでいた」


と述べているように、スペインの征服者は特にコロンビアで酷い悪さをしたようである。


どうも、コロンビアにやってきたスペイン人は、殺人鬼や強姦魔のような凶暴な人物が多かったようである。それは、この時代のヨーロッパは戦乱が絶えず、傭兵として各地を転戦していた猛者が多かったからであろう。


コロンブスがサン・サルバドル島(現在のバハマ諸島)にたどり着いた後、スペインによる中南米の征服と植民地化が始まったが、10万人のインディオがわずか220人のスペイン人によって「全員殺された」という記録も残っている。


南米の先住民は鉄も馬も車輪も持っていなかった。犬すら知らなかったのである。無論、銃も大砲も見たことはなく、武器と言えるものは粗末な弓矢と棍棒くらいのものだった。


インディオたちは鉄製の盾や鎧に身を固め、剣や槍や火縄銃で武装し、馬にまたがり猛犬をけしかけながら襲撃してくるスペイン人を見て震え上がり、為す術もなく逃げ惑い、片っ端から殺されていくしかなかったのである。


古今東西、戦争に虐殺とレイプは付き物だが、スペインが中南米の先住民に対して仕掛けた大量殺戮(ジェノサイド)は一方的な大虐殺であり、その規模や残忍性においてナチスのホロコースト(ユダヤ人虐殺)をはるかに凌ぐものであった。


1550年、スペインはコロンビアをヌエバ・グラナダ王国とし、ボゴタに総督を置いて統治を始めた。


グラナダ(Granada)はイベリア半島の南にあるスペインの地名。ザクロの産地であり、スペイン語で「ザクロ」の意味である。


ヌエバ・グラナダは「新しいグラナダ」という意味だが、この名称は植民地時代だけでなく、独立後の一時期も使われていた。


コロンビアは広大である。電話も自動車も飛行機も存在しなかった時代、日本の3倍強もある広い国土を支配するのは困難を極めた。


ボゴタの総督から各地に伝令を飛ばし、指示を与え、報告を得て新たに指示を出すのに何ヵ月かかるか分からない。そこでスペイン王室はもっと効率的な方法で植民地支配をスムーズに行なおうと考えた。


それが「エンコミエンダ制」である。エンコミエンダ制とは、スペインの入植者に現地のインディオをエンコメンダール(委託)し、彼らを保護・教化しながら労働力として利用してよいという制度だ。


インディオを保護するとは言っているが、実態は奴隷制度と変わらない。インディオたちは白人入植者に生殺与奪の権を握られ、生かすも殺すも白人次第となった。


コロンビアのインディオは好戦的なカリブ族が徹底的に虐殺され、ほぼ絶滅してしまったが、最大のチブチャ族は温和な性格だったため、彼らは征服者に抵抗することもなく、従順な奴隷として植民地体制に組み込まれていった。


インディオの人口が激減すると、アフリカ大陸から黒人奴隷が導入された。力持ちの彼らは鉱山や農園で酷使された。


彼らの末裔はアフロ・コロンビアーノ(アフリカ系コロンビア人)として人口の2割を占めており、彼らの多くは今もコロンビア社会の底辺に置かれ、貧困に苦しんでいる。


コロンビアの総人口の6割はメスティーソ(白人とインディオの混血)である。


コロンビアはコスタリカ、チリと並んで「世界3C美人国」と評されるが、美男美女が多いのは血塗られた歴史の思わぬ副産物と言えるかもしれない。



スペインによる支配は300年近くも続いたが、この間、コロンビアでは大きな事件はあまりなく、概ね平和だったようである。


奴隷の反乱もなく、彼らは嫌ならば逃亡という手段に訴えることもできた。温暖な土地なので、逃亡奴隷は人里離れた場所で自活できた。奴隷雇用主は奴隷の逃亡を防ぐため、奴隷の扱いには細心の注意を払ったようである。


18世紀も後半になると、アメリカ独立(1776年)やフランス革命(1789年)の影響もあり、次第に本国スペインからの独立を求める機運が盛り上がっていく。


その最初の動きが1781年に起きた「コムネーロスの乱」である。


ソコロ地方(現在のサンタンデール県)でタバコ税などの増税と物価高騰に苦しむクリオーリョ(現地生まれの白人)たちを中心とした増税反対一揆は、革命委員会(コムン)が結成され、一時は独立的動きを見せたが、スペイン本国政府が増税を撤回したため終息した。


やがて19世紀を迎え、ナポレオン戦争で宗主国スペインがナポレオン・ボナパルトの率いるフランスに侵略されると、スペイン支配下の南米植民地ではフランス傀儡の本国政府への忠誠を拒否し、コロンビアでも独立運動が活発化していく。


1810年7月20日、ヌエバ・グラナダの独立活動家アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)はボゴタ副王を追放し、スペインからの独立を宣言した。


しかし、独立と言っても「スペインの植民地政府からクリオーリョに実権が移った」だけであり、国としての方向性も統一性も定まらず、1811年11月11日にはカリブ海沿岸のカルタヘナがボゴタに続いて独立を宣言したが、統一された独立政府は存在しなかった。


何故、統一が取れなかったのか。原因は国造りの方針の違いにあった。集権主義(セントラリスモ)と連邦主義(フェデラリスモ)で分裂したのである。


連邦派は「コロンビアのような広大な国をひとつにまとめるのは不可能であり、アメリカのように地方分権を認め、中央政府は干渉すべきでない」と主張し、対する集権派は「スペインに対抗するため中央政府に強権を与え、コロンビアをひとつの国にまとめるべきだ。連邦制は時期尚早である」と唱えて譲らなかった。


新生国家の方針について揉めるうち、1811年にはボゴタで連邦派が「独立宣言」を出したことから集権派との間で内戦状態に突入し、1813年にナリーニョ将軍率いる集権派が勝利するものの、本国スペインではフェルナンド7世が復位し、植民地の独立を認めず、スペイン軍を送り込み徹底弾圧に乗り出した。


1810年の独立宣言からスペイン軍による再征服(レコンキスタ)までの6年間は「愚かな祖国の時代(パトリア・ボバ)」と呼ばれている。独立派が団結できず、スペインの侵略を許してしまったからだ。


この時、救世主が現われる。ベネズエラ出身の革命家シモン・ボリーバル(1783~1830)である。


ボリーバルは南米有数の大富豪の御曹司で、ヨーロッパに遊学後、祖国ベネズエラで1812年から独立戦争を戦っていたが、カルタヘナから上陸して電撃作戦でククタ(コロンビア北部の町)まで進撃し、ベネズエラに攻め込んでスペイン軍と一進一退の戦闘を続けていた。


1814年2月、ボゴタがスペイン軍の手に落ち、ボリーバルはカルタヘナに逃れ、ここを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したが、翌年6月にはカルタヘナで王党派の反乱が起こり、ボリーバルは敗れて命からがらイギリス領ジャマイカに逃亡した。


1816年5月、ボゴタがスペイン軍により再び占領されると、ボリーバルは当時世界唯一の黒人独立国家だったハイチのアレクサンドル・ペション大統領の力を借り、ベネズエラから反撃を開始する。


ペション大統領はボリーバルに南米を解放したあかつきには、黒人奴隷をすべて解放し自由の身にすることを条件に援助を受け入れた。


1817年から18年にかけ、ボリーバルはベネズエラでスペイン軍と奮戦したが、決定的な勝利を収めることができなかった。そこで彼は考えた。


これまでの戦いは、あくまでもスペイン政府と植民地のクリオーリョの戦いだった。同じ白人同士の戦いである。クリオーリョはペニンスラール(本国生まれの白人)から差別されており、積年の恨みがあり独立心は旺盛だったが、白人同士の戦いにメスティーソ(混血)やインディオ、黒人など下層民は無関心だった。


スペイン政府は懐柔策を採り、レコンキスタ後は植民地の奴隷を解放すると約束していたため、1815年頃までは下層民も本国政府を支持していたのである。


ところが、レコンキスタ後も何も起こらない。スペインに裏切られたと感じた下層民は一挙に反スペインに回った。チャンスだ。彼ら下層民を味方につけることが革命の近道だ。


ボリーバルは「独立後の奴隷解放」を約束し、奴隷たちを解放軍に取り込んだ。革命の原動力は富も権力も持たない無名の人民である。彼らを仲間に引き入れたことで独立戦争は形勢逆転、一気に戦局は独立派にとって優勢となった。


1819年からボリーバルはベネズエラを拠点にコロンビア解放戦争を推し進める。


ボリーバルの軍勢はベネズエラからアンデス山脈を乗り越え、厳しい寒さで多くの犠牲を払いながらもスペイン軍の奇襲に成功し、同年7月25日、バルガス沼の戦いで辛勝する。


そして、同年8月7日、ボゴタ郊外のボヤカ高原でスペイン軍に決定的な勝利を収め、コロンビアは完全独立を果たしたのである。


約10年に及んだ独立戦争では、当時のコロンビアの総人口(約130万人)の1割強に当たる約10万~15万人が死亡(成人男性の2人に1人が戦死)し、グエラ・ムエルテ(死戦)と呼ばれる激烈な戦闘が行なわれたのである。



現在のコロンビアの国旗は上から黄、青、赤の三色旗だが、黄色は黄金郷(エル・ドラード)伝説を、青は大西洋と太平洋を、赤は独立革命で流された血を意味する。


その後、ボリーバルはスペインの残存勢力を駆逐しながら南下し、エクアドル、ぺルー、ボリビア方面の解放に成功する。1825年に独立したボリビアは、ボリーバルの偉業をたたえ、その国名を「ボリビア」と命名した。


こうして南米諸国の独立に大きく貢献したボリーバルだが、独立後のこれらの国々は未熟であり、政治的な問題が山積みになっていた。


ボリーバルはこれら新興諸国が再びスペインに侵略されないよう、ひとつの大きな国にまとめて一致団結し、列強に対抗していく必要性があると考えていた。


ボリーバルはベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマ、ブラジルとペルーの一部を含む「大コロンビア」という巨大な国家を建設した。


ボリーバルは大コロンビアの初代大統領に就任した。副大統領は彼の右腕と言われたヌエバ・グラナダ出身の軍人で法律家のフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール(1792~1840)である。


ボリーバルは国力を強化するために中央集権的な政治を目指した。しかし、副大統領のサンタンデールは中央集権に反対し、あくまでも連邦制国家を目指すべきだと主張した。


独立前からくすぶっていた集権派と連邦派の対立に再び火がついたのである。


ボリーバルの政治思想は、


・イギリス型の立憲君主制はスペインが中南米を再征服するきっかけになりうるので採らず、アメリカ型の共和政が望ましい

・が、米国型の連邦制は国情の違いから適当ではなく、強力な中央集権制が必要

・大統領には強い権限を与え、終身制が望ましい

・社会秩序を維持するためカトリック教会を保護する必要がある

・列強の干渉から独立を維持するため、ラテンアメリカ諸国を統合する


一方、サンタンデールの政治思想は、


・政治体制としては共和政を支持

・が、中央政府の権限はできるだけ小さい方が望ましく、地方政府に権限を与える連邦制が望ましい

・大統領に強い権限を与えることに反対し、任期は4年で再選を認めない

・信教の自由を認め、カトリック教会の権限を制限し、自由主義的な教育を実施する


この中央集権派(ボリーバル派)と連邦派(サンタンデール派)の対立が後々まで尾を引くことになる。コロンビアは広大な国土に多様な環境を持つ国だ。ゆえに昔からそれぞれの地域ごとの独自性が強く、南米で最も地域主義の強い国である。


たとえば、コロンビア西部のアンティオキア地方の人間は、自分たちがコロンビア人である以前にアンティオケーノ(アンティオキア人)であるという自負が強い。


後にコロンビアはイギリス、そしてアメリカに経済的に従属し、経済の実権はほとんど外資に握られてしまうことになるのだが、アンティオキア地方だけはアンティオケーノのみによって運営されていくことになる。


この対立の背景には、地域主義の他にも複雑な問題が絡み合っていた。


独立したとは言っても、スペインの本国政府から植民地の白人支配層に権限が委譲されただけである。


ほとんどの土地は大地主やカトリック教会が独占し、大多数の国民は独立前からの貧困の中に置き去りにされていた。


平等主義者であり、ハイチのペション大統領とも約束したボリーバルは、独立後に奴隷制を廃止し、独立戦争で功績のあった奴隷たちに土地を分配しようとしたが、白人支配層の抵抗に直面してしまう。


彼らは独立によって手に入れた権力を手放すつもりなどなかったし、改革によって自分たちの財産を失うことなど望んではいなかった。


大地主たちはボリーバルの強権的な改革に反発し、連邦主義を唱え、集権派との対立は激化する一方だった。


さらに、ボリーバルの祖国ベネズエラでは独立戦争で功績のあったホセ・アントニオ・パエス将軍が実権を握っていたが、パエスはボリーバルの奴隷解放に反対してベネズエラの大コロンビアからの分離を画策する。


ボリーバルが留守中の大コロンビアでは、副大統領のサンタンデールが政務を執り、はるか南の戦場でスペイン軍と戦うボリーバルを支援していたが、パエスは兵力の増派を拒否し、ボゴタの中央政府に公然と反旗を翻したのである。


1826年末、大コロンビアに帰国したボリーバルはサンタンデールとパエスの調停に乗り出すが、彼がパエスに恩赦を与えたことでサンタンデールとの関係が悪化。


1828年4月、ベネズエラ国境に近いコロンビア北部のオカーニャで開催された憲法制定会議では、大コロンビアの維持と中央集権制の強化をめざすボリーバルの意向とは裏腹に連邦派が勢力を増し、両派の対立は一層激化する。


同年8月27日、ボリーバルは事実上のクーデターで終身大統領に就任。サンタンデールは副大統領職を解任され、駐米大使に任命された。


その1ヵ月後の9月25日、ボゴタ中心部のサンカルロス宮殿(現在のコロンビア外務省)で、反ボリーバル派のペドロ・カルーホ少佐らによるボリーバル暗殺未遂事件が発生。


ボリーバルは愛人のマヌエラ・サエンスの機転で辛くも難を逃れ、橋の下で寒さに震えながら一夜を明かした。


この事件で14人が処刑され、事件への関与を疑われたサンタンデールも死刑を宣告されるが、彼が暗殺計画に参加した証拠はなく、むしろボリーバルの暗殺に反対していたことが判明したため、ボリーバルは恩赦を与え、国外追放に減刑した。


しかし、その後も状況は安定せず、エクアドルのキト地方を巡るコロンビアとペルーの対立も激化し、ベネズエラが大コロンビアからの分離独立を宣言するなど、もはやボリーバルのカリスマ性と独裁をもってしても混乱の収拾は不可能となった。


彼の後継者と目されていた同じベネズエラ出身の軍人アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍は、エクアドル大統領就任のためコロンビアからエクアドルに向かう途中で暗殺者の凶弾に倒れた。


ボリーバルの跡を継いだラファエル・ウルダネータ将軍も連邦派との戦いに敗れ、大コロンビアは急速に崩壊に向かった。


すべての努力が水泡に帰したことを悟ったボリーバルは大統領を辞任し、失意のうちにヨーロッパへ向けて旅立とうとする。


が、その矢先に立ち寄ったカリブ海沿岸のサンタマルタで腸チフスが悪化し、療養先のサン・ペドロ・アレハンドリーノ農場で世を去った。


1830年12月17日のことである。


南米解放に生涯を捧げた男のあまりにも寂しい最期であった。大富豪だったボリーバルも、独立運動のために全財産を使い果たし、すでに無一文になっていた。


死の間際、ボリーバルはこう言い残したという。


「ラテンアメリカには独裁か無政府状態しかないのではないか」

「我々が幸福になることは永遠にないだろう」

「この世には偉大な3人の馬鹿がいる。イエス・キリストとドン・キホーテとこの私だ」

「一体どうやったらこの迷宮から脱け出せるんだ!」



ボリーバルの死後、大コロンビアは求心力を失い、1830年にはベネズエラとエクアドルが離脱し、南米北部に存在した巨大国家は消滅。残存部がヌエバ・グラナダ共和国(現在のコロンビア共和国)として再独立した。


1832年には国外追放中のサンタンデールが亡命先から帰国し、ヌエバ・グラナダの初代大統領に就任。サンタンデールは保護貿易により経済を発展させ、奴隷貿易を廃止し、教育制度を改革するなど自由主義的な政策を行なった。


サンタンデールは大統領の任期を4年で再選を認めず、自らも一期限りで大統領を退任し、後継者に指名したホセ・マリア・オバンドが選挙で敗れてもクーデターが起きず、対立候補のホセ・イグナシオ・デ・マルケスが大統領に就任した。


19世紀の南米で平和的な選挙と政権交代が行なわれたことは極めて異例のことである。


1835年にはコーヒー豆の輸出も始まり、コーヒー栽培がコロンビア経済を支える重要な産業となる。


コロンビアでコーヒー豆の栽培が始まったのは1732年。隣国ベネズエラから持ち込まれた苗木がオリノコ川流域に広まり、やがてコロンビア全土に広まっていった。


当初はコーヒー農家が各自勝手に作っていたが、品質を統一するため、1927年に国立コーヒー生産者連合(FNC)が設立され、現在ではコロンビアのコーヒー生産・輸出はすべてFNCを通して行なわれることになっている。


1849年、コーヒー農家や小規模事業主、新興財閥を中心に自由党が結成されると、これに対抗する形で大地主やカトリック教会などの支配層を中心に保守党が結成された。


以降、コロンビアは自由・保守両党の二大政党制が2002年まで150年以上も続くことになる。


コロンビアの新生国家としての苦悩ぶりはその国名の変遷ぶりを見ても分かる。


「大コロンビア」として出発した後、1830年に大コロンビアは崩壊。1831年には植民地時代の名称に戻し「ヌエバ・グラナダ共和国」となる。1858年には「グラナダ連合」となり、1863年には「コロンビア合衆国」と改名。1886年にようやく現在の「コロンビア共和国」となった。


大コロンビア崩壊後のコロンビアは保守党(ボリーバル派)と自由党(サンタンデール派)の対立から絶え間ない内戦が繰り返された。


1849年から53年まで自由党のホセ・イラリオ・ロペス大統領が政権を握った。ロペス政権はイエズス会を追放し、教会の財産を没収して政教分離を図り、自由主義的な政策を採った。


1854年に大統領に就任したホセ・マリア・メロ将軍は、保護貿易を求める国内の手工業者を支持基盤としていたが、57年に保守党のマリアーノ・オスピーナ・ロドリゲスが大統領に就任すると、ロドリゲスは保護貿易を廃止し、自由貿易を導入した。


これによって外国資本が流れ込み、せっかく成長過程にあったコロンビアの工業基盤は壊滅してしまった。


ロドリゲスは教会の特権を復活させ、中央集権化を図り、自由主義者と対立したため、1861年にはカウカ県の自由主義者トマス・シプリアーノ・デ・モスケーラが反乱を起こし、同年7月、ボゴタを制圧してロドリゲスを追放した。


モスケーラは大統領に就任し、1863年には自由主義的な憲法「リオ・ネグロ憲法」を制定した。


リオ・ネグロ憲法は、教会権力の制限、言論・出版の自由、個人の最大限の自由が保障され、当時、世界で最も進歩的な自由主義憲法と評された。フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴー(1802~1885)は、この憲法を読んで「ここに天使の国がある!」と絶賛したと言われる。


この時、死刑制度も廃止された。西欧で最も早く死刑を廃止したポルトガル(1867年)よりも早い廃止であったが、1886年に復活し、1910年に再び廃止された。


モスケーラは教会の財産を没収し、商人や大地主に売却して国家財政の建て直しを図ったが、これにより大土地所有制が一気に進行し、教会の管理下にあった多くのインディオが小作人となるか、都市に出て労働者となるかを迫られた。


1867年には自由党がクーデターでモスケーラを追放したが、その後も政争は続き、19世紀末までに5回の内戦が起きた。


・1851年の乱

バジェ・デル・カウカ県の保守党地主が自由党に土地を奪われたことに対する反乱。死者千人。


・1854年の乱

軍縮に反対するメロ将軍の反乱。死者2千人。


・1860年の乱

モスケーラ将軍が起こした反乱。1862年まで続き死者6千人。


・1876年の乱

自由党の教育改革に反発した保守党の反乱。77年まで続き死者9千人。


・1885年の乱

自由党急進派による反乱。保守党の協力で鎮圧。死者3千人。



こうした政治的背景には、コロンビアが広大な国土(日本の3倍強)を持ち、険しいアンデス山脈によって国土が分断され、中央政府による統治が地方にまで及びにくかったという地理的要因がある。


これを補うべく「政党による支配」が国土の隅々にまで及んだ。


「コロンビアでは生まれたときにへその緒に政党の名前が書いてある」


という冗談がある。政党対立の激しさを皮肉ったものだ。


政権交代が行なわれるたびに中央から地方まですべてのポストが入れ替わる。与党は排他的に利益を独占し、野党は既得権益を失い、与党および党員に対する敵意・憎悪を募らせる。


選挙による平和的な政権交代が実現しても、中央はいざ知らず、地方では両党間の対立と衝突が発生し、これがviolencia(暴力)の土壌を育んできた。


国民は所属する政党で人生も左右されるという政治的宿命を背負わされたのである。


スペインの植民地時代から残るアシエンダ(荘園制)の下で、地主と小作人は主従関係で結ばれており、それが二大政党制にも強い影響を及ぼしたと考えられる。


また、スペインにはDerecho de traición política(政治的反逆の権利)という思想があり、これがコロンビアの政治風土にも内在していて、政治的な権利を勝ち取るためには暴力も正当化されるという風潮があるのかもしれない。


しかし、他の南米諸国とは異なり、軍事クーデターが繰り返されたり、独裁者が長期政権を維持するようなことはなかった。政情不安の時期でも議会制民主主義の原則は一貫して堅持されたのである。


コロンビアは「西半球で最も古い民主主義国家」と評される。これは初代大統領サンタンデールが法治主義を掲げ、専制政治を嫌ったことが原因であり、サンタンデール最大の功績にしてコロンビアの美徳とされる。


独立直後の1821年には「奴隷から生まれた子供を解放する」という奴隷解放令が出された。アメリカのエイブラハム・リンカーン大統領による奴隷解放宣言(1862年)より40年も早い。


1851年には国内2万人の奴隷全員が解放され、1852年1月には奴隷制そのものが全廃された。


1853年にはすべての成人男子に普通選挙が認められた。これは世界の憲政史上で最も古い国のひとつである。日本はまだ江戸時代だ。ペリーが浦賀に来航した年である。


1856年の普通選挙による初の大統領選の投票率は40%程度と推定され、広大な国土に少ない人口(1851年当時、男子人口108万8千人)、農村から投票所までの距離とアクセスの困難さを考えれば驚くべき数字である。


度重なる内戦にも関わらず、19世紀のコロンビアは南米で最も平和な国だった。


コロンビア研究者のデイビッド・ブッシュネルは、他のラテンアメリカ諸国と比較して、


「コロンビアの場合は政権獲得のために暴力の使用が一般的に欠如していることはすばらしいことである」


と評価しており、選挙戦に伴う暴力がコロンビアでは少なかったことを指摘している。


ブッシュネルは19世紀に起きたコロンビアの内戦について、


「仮に最大推計値をとって比較しても、19世紀のコロンビアにおけるすべての内戦は、アメリカの内戦(南北戦争)と比較して、絶対数においても相対数においても死者の発生が少ない」


と述べている(奴隷制を巡る南北の対立を発端とするアメリカ南北戦争の死者は約70万人)。


他のラテンアメリカ諸国と比較すると、たとえばベネズエラでは19世紀の25年間に11回、アルゼンチンは1868年までの10年間に117回もの反乱があった。


また、メキシコ、ペルー、ボリビアで長期の内戦があり、最も内戦が少なかったチリでさえ1829年、1851年、1859年、1891年に内戦があった。


1879年には国境の資源を巡りボリビア、ペルーとの間で「太平洋戦争」になり、チリは「戦争の国」と言われた。


これらの国々と比較しても、コロンビアは内戦の回数も犠牲者の人数も少なく、メキシコ革命(1910年)や第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦(1939~1945)の影響もなく、20世紀半ばまでは世界で最も平和な国のひとつであった。


社会学者のパウル・オキストによれば、16世紀から19世紀までの300年間、コロンビアでは政治的暴力はほとんど発生しておらず、世界で最も治安の良い国のひとつであったという。


1830年以降、内戦が起きていない期間の10万人あたりの殺人発生率は10人程度で極めて低い水準であった。


ホセ・マリア・サンペールの『コロンビア共和国の政治変革と社会状況』(1861年)によれば、


「田舎者にとっては、政府は神話的人格であるが、われわれの間で政府とは、ひとりで武器を持たず徒歩で配達する郵便夫が、偶然に山賊に出会ったような予期せぬ場面でその危険を取り払うために三色旗を振れば十分であるほど敬意を払われている存在である。警察はどこにも存在しないし、犯罪を抑圧する手段は極めて限られている。しかし、それにもかかわらずこじ開けて侵入する泥棒や人を欺くような人間は非常に稀であり、また、職業的な盗賊はここでは例外的で、さらに刑罰制度には重大な欠陥があるにもかかわらず再犯者はめったにいない」


とある。


コロンビアを旅行したアメリカ人イサック・ホルトンは著書『アンデス地方の20ヵ月』(1857年)で、


「生命に対する犯罪に関していえば、ヌエバ・グラナダ全土の殺人は、ニューヨーク市だけの殺人件数の五分の一にも達していないと思われる」


と記している。


カトリック司祭フェデリコ・アギラールによる1884年のコロンビアの犯罪統計と他国の比較検討では、チリ、メキシコ、ベネズエラ、エクアドル、スペイン、イタリアの殺人率はコロンビアよりも高く、


「コロンビアでは、チリにおける日常的な山賊、メキシコにおける恐ろしい追いはぎ、グアテマラにおけるかなり頻繁な泥棒の心配をしないで旅行できる」


とある。


中央政府の支配が地方に及ばず、治安維持に関わる国家権力が弱く、司法制度が十分に機能していなかったにも関わらず、19世紀のコロンビアは旅行者が安全に旅行できるほど治安の良い国だったことは特筆に値する。



1880年、自由党のラファエル・ヌニェスが大統領に就任し、行き過ぎた自由主義を改め、中央集権化を図る。


ヌニェス政権は反乱を鎮圧し、コーヒー輸出で外貨を稼ぎ、全土に鉄道網を敷設するなど民生にも力を入れた。しかし政情は安定せず、85年にはヌニェスが憲法を破棄し、自ら独裁者になってしまう。


86年には保守的な憲法が制定され、この憲法は1991年まで100年以上も維持された。ヌニェス政権は保守化と独裁化を強め、1890年代に入ると自由主義者による反乱が相次いだ。


1898年にはマニュエル・アントニオ・サンクレメンテが大統領に就任したが、病弱のため実際の執務は出来ず、副大統領のホセ・マヌエル・マロキンに任せっきりだった。


1899年、コーヒー豆の国際相場が暴落。コロンビア経済は一気に奈落の底に突き落とされる。


この経済危機に対し、当時の保守党政権は何ら有効な対策を打てず、関税収益の不足分を補うため不換紙幣を乱発した。


金本位制を採る当時の世界経済で、不換紙幣を増刷するのは自殺行為以外の何物でもなく、コロンビア経済はたちまち猛烈なインフレーションの進行で壊滅してしまった。


自由党の支持基盤であるコーヒー農家は各地で反乱を起こし、同年10月18日、自由党急進派のラファエル・ウリベ・ウリベ将軍、ベンハミン・エレーラ将軍、フスト・ドゥラン将軍が蜂起し、コロンビアは3年間にわたる内戦に突入した。


この内戦は「千日戦争」と呼ばれた。自由党はゲリラ戦で抵抗し、3年に及んだ戦闘による死者は民間人も含めて7万5千人とも15万人とも言われる。


同じ頃、アメリカ政府はパナマ地峡に運河を作り、その権益を独占したいと考えていた。パナマは今でこそ独立国家だが、当時はコロンビアの一州に過ぎなかった。


アメリカはパナマを狙っていたが、コロンビアが内戦状態ではどうにもならない。そこで、コロンビア政府に働きかけて早く内戦を終わらせるため、自国民を保護するという名目でコロンビアに軍艦を送り、海兵隊を上陸させて圧力をかけた。


1902年11月21日、内戦は終結した。和平協定の調印は米艦ウィスコンシンの中で行なわれた。


1903年1月22日、コロンビア政府はアメリカ政府との間で「ヘイ・エラン条約」を結ばされる。これは1千万ドルの和解金と年間25万ドルの使用料で100年間のパナマ運河使用権を認め、条約更新の優先権は米国側にあり、コロンビアは米国以外の国に譲渡できないという屈辱的な内容であった。


同年8月12日、コロンビア議会はパナマ運河条約の批准を否決。


3年に及ぶ内戦でコロンビアの国土は荒廃していた。その混乱に乗じる形でアメリカはパナマに出兵し、パナマ地方の反乱を支援して、1903年11月3日、パナマを独立させてしまった。


1904年に大統領に就任した保守党のラファエル・レイエスは、国内経済を建て直すため、再び保護貿易政策を採り、国内開発に力を注いだ。


その後、アメリカとの緊張関係は続いたが、1914年4月6日、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領がコロンビア政府に「遺憾の意」を表明することで和解。


1922年3月1日、コロンビアは2500万ドルの賠償金と引き換えにパナマの独立を承認した。


アメリカとの関係修復後、コロンビアにはアメリカから多額の資金が流れ込み、経済成長が続いた。こうして「飴と鞭」で他国を支配してしまうのがアメリカの常套手段だ。


しかし、外資導入で潤ったのは富裕層だけだった。多くのコロンビア人は独立前と何ら変わらない貧困の中に置き去りにされていたのである。経済成長の恩恵を受けられない貧困層の不満が高まっていった。



1928年12月6日、北部のシエナガにある米国ユナイテッド・フルーツ社のバナナ農園で労働者が大規模なストライキを行なった。これはコロンビア史上最大の規模に発展し、労働者らは待遇改善を要求して町の広場を占拠した。


このストを自由党左派と社会党、共産党が支援したことに恐れをなした保守党政権は、軍による武力弾圧を決定。シエナガの広場に集まったデモ隊に一斉射撃を浴びせた。


死者数は60人とも3000人とも言われているが、詳細は不明である。この時、政府の対応を国会で厳しく糾弾した人物がいる。弁護士出身のホルヘ・エリエセル・ガイタン(1903~1948)である。


自由党議員のガイタンはカリスマ的政治家だった。白人とインディオの混血だった彼はほとんど飲まず食べず寝ずに仕事に没頭し、よりよい生活を求めるコロンビア国民のために全身全霊闘った。彼の演説はイタリア留学中に見た独裁者ベニート・ムッソリーニ(1883~1945)をモデルにしたと言われる。


スト弾圧で評価を下げた保守党は1930年の選挙で大敗し、エンリケ・オラヤ・エレーラの自由党政権が誕生した。


オラヤ・エレーラ政権は労働者保護政策を採り、一定の改革には成功した。1932年にはアマゾン地方のレティシアの領有を巡る隣国ペルーとの戦争に勝利し、パナマ問題以来の外交的雪辱を晴らすことにも成功した。


その後、自由党政権は1946年まで16年間続くことになる。自由党政権下で農地改革も行なわれた。この間、ガイタンは短い間だがボゴタ市長に就任し、いくつかの社会開発計画を実施した。


46年の選挙では自由党の分裂に乗じて保守党が政権を奪回し、マリアーノ・オスピーナ・ペレスの保守党政権が16年ぶりに復活した。この時、ガイタンは36万票を獲得し第3位につけている。


これを機に保守党を支持する大地主たちは自由党時代に失った土地を取り戻そうと暴力的手段に訴える。


コントラチェスマ(窮民制圧隊)という私兵集団を結成し、自由党員に対するテロを繰り広げた。これに対抗して自由党員も自警団を結成。コロンビアは内戦状態に突入していく。


ガイタンは保守党政権による暴力にあくまでも平和的手段で戦おうとした。ガイタンは自由党員によるデモを行ない、保守党の暴力に抗議した。


ガイタンは演説で、


「我々は政治的要求を掲げているのではなく、ただ自由と平和を求めているだけなのだ」


と語った。


1948年4月9日、ガイタンはボゴタ中心部の路上を歩いていた。エル・ティエンポ新聞社で行なわれる予定だったキューバの学生たちとの対談に出席するためである。この学生の顔触れには、後のキューバ革命の指導者フィデル・カストロ・ルス(1926~2016)の姿も含まれていた。


ちょうど同じ頃、ボゴタでは米州機構(OAS)の総会が行なわれていた。総会では共産主義の侵略に対抗するため、中南米のいかなる国に対する攻撃もアメリカに対する攻撃とみなし、共同で反撃するという反共軍事同盟の「ボゴタ憲章」が採択された。


午後1時5分ごろ、ガイタンはヒメネス・デ・ケサーダ通りと7番通りの交差点で突然、1人の男に拳銃で4発撃たれた。


ガイタンはただちに病院に運ばれ手当てを受けたが、そのまま意識が回復することなく息を引き取った。


犯人はフアン・ロア・シエラという精神病歴のある27歳の青年だった。激怒した民衆は彼を捕らえるとリンチにかけ、その場で殴り殺し、さらに死体を引きずり回した。


興奮の極みに達した群衆は口々に、


「革命だ!革命が始まった!」


と叫びながら、警察署を襲い武器を略奪し、カーサ・デ・ナリーニョ(大統領官邸)を目指した。


銃撃戦が始まった。町のあちこちから煙が上がり、銃声が空にこだました。暴動は市民革命の様相を呈した。暴徒の群れにはカストロの姿も含まれていた。


ガイタン暗殺の報は瞬く間に全土に広がり、暴動は各地に飛び火した。


市民軍はボゴタ市外に架かる橋を切り落とし、軍隊の侵入を阻止した。戦闘は夜に入っても続き、カストロは市民兵とともにボゴタ市内のモンセラーテ山中で夜を明かした。


このガイタン暗殺とボゴタ暴動を契機にコロンビアは現在まで続く暗黒の時代に突入するのである。以後の10年間は「ラ・ビオレンシア(暴力)」の時代と呼ばれる。



ボゴタで開催中のOAS総会は中止となった。出席者のマーシャル米国務長官は、


「暴動は共産主義者の仕業だ」


と決め付けた。


オスピーナ政権は「武器を引き渡した者は罪を問わない」と約束したが、地方から軍が到着するのを待ち、徹底的な弾圧に乗り出す。


カストロは仲間のほとんどを殺され、命からがら飛行機に忍び込んでボゴタからの脱出に成功した。後に彼は祖国キューバで革命を起こすことになるが、それは10年後の話である。


ガイタンがなぜ暗殺されたのか、暗殺を命じたのは誰なのか、今も謎に包まれている。次の選挙で当選確実と言われたガイタンが殺されたことで、コロンビアはあまりにも大きな代償を支払うことになる。


オスピーナは閣内から自由党員を締め出し、保守党超強硬派のローレアノ・ゴメスが実権を握る。


1950年に大統領に就任したゴメスは超反動的な政策を採り、2年間で5万人の自由党員を処刑し、多くの自由党員が合法闘争を放棄してゲリラ戦に入った。コロンビアは19世紀以来の血で血を洗う内戦に突入する。


これを「ローレアノ戦争(第一次ビオレンシア)」という。


また、この不安定な時期にも関わらず、コロンビアは朝鮮戦争に陸軍の1個大隊を派遣した。これに反対したコロンビア共産党書記長マヌエル・マルランダは警察に逮捕され、警察署で拷問の末に虐殺された。


マルランダの部下だった共産党活動家ペドロ・アントニオ・マリンは、彼の遺志を継いでゲリラ闘争に入った。マリンは自ら「マヌエル・マルランダ」を名乗り、後に誘拐と麻薬取引で悪名高い左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC)」を率いることになるのである。


自由党の反乱は次第に自由党系農民の大土地所有制反対闘争に変質していった。52年、ゴメスは恒久的な独裁体制の確立を目指し、スペインのフランコ体制をモデルにしたファシズム憲法を制定した。言論の自由はなくなり、新聞は検閲され、反体制派は容赦なく投獄された。


ゴメスはチュラビスタと呼ばれる保守系農民を使って自由党系農民を根絶やしにしようとした。地方では虐殺が行なわれ、自由党ゲリラの抵抗もまた激しさを増していった。


やがてゴメスの独裁が保守党内部や支配階層にも受け入れがたいものになっていくと、保守党穏健派と自由党は水面下でゴメス政権打倒のため軍部に介入を要請した。


これに応じて朝鮮戦争の英雄である陸軍のグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が軍事クーデターを起こす。1953年6月14日のことである。


無血クーデターでゴメスは解任され国外追放となった。ロハス将軍は軍事政権を樹立し、内戦に参加する自由党員に恩赦を与えた。これに応じて自由党員の多くが投降し、いったん内戦は終息に向かった。


コロンビアで軍事政権が誕生したのは、この時を含め、わずか3回だけである。他の中南米諸国では当たり前に繰り返されたクーデターや独裁も、コロンビアではほとんど起こらないのだ。


初代大統領サンタンデールが独裁を嫌い、法治主義を掲げ、民主的な政治体制を築いたことがその要因である。


ロハスは「社会復帰救済局」を設置し、娘のマリア・エウヘニア・ロハス・デ・モレーノ・ディアスを局長に就任させ、農地改革を行なおうとした。一方で、大地主の要請に応じて、農民に占拠された土地を取り戻すため、地方に軍を派遣した。


ロハスはアルゼンチンのフアン・ペロン大統領を真似て、自らの支持基盤を自由・保守という伝統的な二大政党ではなく民衆に置こうと考え、ポプリスモ(大衆迎合政策)を採った。しかしこの政策は民衆の支持を得るより早く支配層の造反を招くことになる。


1955年6月、ロハスはゴメス政権のためにテロを行なっていた者たちに恩赦を与えた。「ゴメシスタ」と呼ばれたテロリストたちは釈放されるやただちに罪のない農民たちを虐殺し始めた。


こういう曖昧な態度がロハスの首を絞めた。ゴメシスタの蛮行に対して自由党系農民たちは再び武装し、ロハスも武装農民の弾圧に乗り出す。こうして「ビジャリカ戦争(第二次ビオレンシア)」と呼ばれる内戦が再燃する。


ロハス政権は労働者保護政策を採り、労働者保護法を制定するなど良いこともしたのだが、こうした民衆寄りの政策は支配層の反発を招き、孤立したロハスは独裁傾向を強めていった。


1956年2月5日、ボゴタでロハス独裁に抗議のデモを行なっていた市民・学生が警官隊と衝突し、多数のデモ参加者が虐殺されるという「牛の首輪虐殺事件」が起こった。


ロハスは憲法を改正して長期独裁を図ったが、その頃、スペインに亡命中の保守党ゴメス前大統領と自由党は「国民戦線(フレンテ・ナシオナル)」の密約を取り交わす。


その内容は自由党と保守党が合意して内戦を終わらせ、以降は自由・保守両党から4年ごとに交代で大統領を選出し、国会の議席も両党で公平に折半するというものである。


1957年になるとロハスは反対派を徹底的に弾圧し始め、国民戦線の密談に参加したとして保守党党首ギジェルモ・レオン・バレンシアを逮捕した。これは学生や労働者の反感を招き、それまでロハスを支えていた民衆も「反ロハス」に回ってしまう。


これを好機と見た自由・保守両党は大規模なゼネストを組織し、抗議デモを行なった。教会や軍部もロハス不支持に回り、支持母体である軍部からも見放されたロハスは57年5月10日、大統領を辞任しスペインに亡命した。


結局、ロハスの独裁も4年足らずで終わった。


57年11月、自由・保守両党は国民戦線協定に合意し、10年に及んだラ・ビオレンシアの時代に終止符を打った。この10年間の犠牲者は10万人とも20万人とも言われる。


しかし、その後もコロンビアに平和は訪れなかった。自由党を支持して戦っていた農民たちは、約束された土地も得られず、ただ政争の道具に利用されてあっさりと切り捨てられたのである。


寡頭体制はビクともせず、二大政党による政権交替が続いていくだけ。結局、いたずらに血を流しただけで、革命も何も起こらなかった。残されたものはおびただしい死と破壊だけだったのである。



10年に及んだラ・ビオレンシアの終結後もコロンビアに平和が訪れることはなかった。


1958年5月4日、国民戦線協定に基づく選挙の結果、自由党のアルベルト・ジェラス・カマルゴが大統領に選出された。


しかし、国民戦線に反対する自由党左派や共産党は武装闘争を継続し、恩赦にも関わらず武装解除を拒否した自由党系農民たちは山間部に「自治共和国」を形成して中央政府に対抗した。


1959年1月1日、キューバでカストロの率いる革命が成功すると、共産党の指導の下、農民たちはゲリラ闘争を始める。


同年9月、アメリカのドワイト・アイゼンハワー大統領はコロンビアに特別調査団を派遣し、コロンビアの共産化を阻止すべく内政干渉を強めていく。


ジェラス政権は1961年、「進歩のための同盟」を発効し、10年間に200億ドルを投じて国民所得を2.5%引き上げ、生活水準を上昇させて貧困を減らす、という計画を実行に移した。


ここで農地改革も行なわれたが、地主のサボタージュによりほとんど実効を上げることはなく、有名無実化した。


またアメリカに追随する形で社会主義国となったキューバと断交するなど、親米反共路線を強め、米国の援助で国内の共産主義勢力を徹底的に弾圧した。


一方で共産ゲリラは着実に勢力を伸ばし、コロンビア中部のビオタ、スマパスなどの高原に「解放区」を作り、キューバ型の革命を目指した。


1962年2月、アメリカ陸軍のウイリアム・ヤーバラ将軍がコロンビアを訪れ、コロンビア国軍のアルベルト・ルイス将軍とともに「共産主義に対抗するための戦略」として「ラザロ計画」を策定した。


この計画は、共産ゲリラの脅威に対抗するため、市民を訓練して民兵を組織し、ゲリラと戦わせるというもので、1968年、ギジェルモ・レオン・バレンシア大統領によって合法化された。


アメリカの援助で近代化されたコロンビア政府軍は、共産ゲリラの解放区を攻撃し、次々に陥落させていった。農民たちは土地を追われ、さらに奥地の人の住んでいない地域に逃れた。


政府軍は無差別爆撃と農民虐殺を繰り返しながらゲリラを追い詰めた。住む場所を失った農民たちは南部のメタ、カケタ県のジャングルに逃げ込み、そこを開拓して「独立共和国」を作った。


しかし、それらの土地も政府軍に奪われ、農民たちが切り開いた土地は大地主の手に渡った。


1964年5月27日、政府軍の弾圧に追われた農民たちは、もはや残された手段は政府に対し全面戦争を仕掛けるしかないと判断。ここに50年以上に及ぶ内戦を戦うことになる反政府ゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC)」が結成されたのである。


FARCが結成されたのとほぼ同時期、キューバで革命思想の勉強と軍事教練を受けて帰ってきた学生たちが「民族解放軍(ELN)」を結成した。結成当初のメンバーはわずか18人だったという。


このFARCとELNがコロンビアの二大ゲリラとなり、今日まで武装闘争を続けていくことになる。


と言っても、コロンビアのゲリラが政府と対等に渡り合える存在になるのはもっと後年の話。この頃は弱小の反政府武装集団に過ぎず、ELNは政府軍に徹底的に叩かれて何度も壊滅状態に追い込まれている。


1967年4月にはコロンビア共産党マルクス・レーニン主義派(PCC-ML)の軍事部門として「人民解放軍(EPL)」が結成された。


中国の毛沢東主義を信奉するEPLは政府軍の弾圧で伸び悩み、1970年代後半には中国で鄧小平が実権を握り、改革開放路線を掲げて共産主義を放棄してしまったために孤立。


冷戦後の1991年3月、EPL主流派は政府に投降し、合法政党「EPL(希望・平和・自由)」に鞍替えして武装闘争を放棄したが、少数の残党は麻薬組織「ロス・ペルソス」を立ち上げて現在まで細々と活動を続けている。


政府の弾圧と資金不足に困り果てたゲリラたちは、軍資金調達の手段として金持ちを狙った誘拐事件を繰り返すようになる。コロンビアで誘拐が増え始めるのは1960年代後半からだ。


この頃は日本でも全国的に学園紛争が盛んな時代だった。フランスでは学生運動でシャルル・ド・ゴール大統領が辞任に追い込まれ、アメリカでも公民権運動やベトナム反戦運動が盛り上がっていた。


それはコロンビアも同じだった。コロンビアでもキューバ革命の影響を受けた学生たちが学生運動に熱をあげた。ボゴタのサンタンデール大学のキャンパスの壁にはチェ・ゲバラの巨大な似顔絵が描かれ、大学構内の広場は「チェ広場」と改名された。


ただ、先進国と違ったのは当局が学生を物理的に抹殺してしまったことだ。政府は戒厳令を布告して学生運動を徹底弾圧し、学生活動家は秘密警察に連れ去られ二度と戻ってくることはなかった。


平和的なデモをやっただけで消されてしまうのではたまったものではない。学生たちは合法闘争を諦め、多くの活動家がゲリラへ走った。


「解放の神学」を掲げてゲリラ闘争に参加したカミロ・トーレス・レストレポ神父がその代表的存在だ。トーレスは教会から破門されるが、この状況を打破するには武装闘争しかないと確信していた。


ELNに参加したトーレス神父は1966年2月15日、サンタンデール県で政府軍パトロール隊の待ち伏せ攻撃の際、戦死した。彼自身は一発も撃たず誰一人殺していない。彼にとっては生まれて初めての戦闘であった。


結局、トーレスは革命家になれなかった。だが彼の死は世界中に衝撃と勇気を与えた。以後、トーレスに続く若者や聖職者が後を絶たなくなるのである。


政府軍の激しい弾圧にも関わらず、コロンビアのゲリラは半世紀にも及ぶ活動の歴史がある。他の南米諸国では武力で鎮圧されたり、冷戦後は衰退の一途をたどるだけだった。


しかし、コロンビアでは21世紀の現在に至るまでゲリラ組織が非常に強い影響力を保ち続けている。


日本が戦後平和になったのは農地改革を徹底的にやったからである。自分の土地を手にした農民は保守化し、共産主義革命などには見向きもしない。日本では共産主義者は浮いた存在となり、連合赤軍のような一部の過激派を国民はまったく支持しなかった。


ボリビアでも、カストロの盟友エルネスト・ゲバラがゲリラ闘争を展開したが、地元農民の支持を得られず孤立し、最後は政府軍に銃殺されてしまった。ボリビアは1952年の革命で一応、農地改革をしていた。農民は保守化してゲリラに靡かなかったのだ。


コロンビアでゲリラが強いのは、コロンビアが抱える絶望的な貧富の格差がある。コロンビアの貧困率は46%とラテンアメリカでも特に高い。


貧しさからゲリラに走る農民や若者は後を絶たない。いくら殺してもすぐに兵士が補充されてしまうのだ。米国の後ろ盾を受けたコロンビア政府が今日までゲリラを根絶できない理由である。



1970年の大統領選には亡命先のスペインから帰国したロハス将軍が「全国人民同盟(ANAPO)」から立候補し、国民戦線体制の政権たらい回しに飽きた国民の支持を集めた。


ところが、結果は保守党のミサエル・パストラーナ・ボレーロにわずか5万票の僅差で敗れる。ロハス陣営は不正選挙だとして抗議行動を起こした。


この時、保守党陣営はロハス当選を阻止すべく、なりふり構わぬ不正工作を行なった。ある村では、有権者数よりもはるかに多いパストラーナ票が見つかったという。とにかく投票箱に投票用紙を詰め込んだのだ。


抗議行動は全国に拡大した。さらに軍内部のロハス派によるクーデター計画も発覚する。政府は非常事態宣言を発令して強行突破を図った。


ロハスはクーデター関与を疑われ自宅軟禁となる。結局、ロハスは5年後に病死。


この不正選挙に対する抗議運動を契機としてANAPOのメンバーを中心に「4月19日運動(M19)」という反政府ゲリラが結成された。4月19日は不正選挙の行なわれた日である。


1974年、国民戦線体制は終了。コロンビアは普通選挙による民主主義国家となったが、自由・保守の二大政党制の壁は分厚く、寡頭体制には何の影響もなかった。


同年1月、M19はボゴタの博物館からシモン・ボリーバルの剣を盗み出し、「彼の遺志が反映されるまで返さない」と宣言する。


1979年1月にはボゴタの国防省にトンネルを掘り、5700丁の銃を盗み出すが、1ヵ月以内に武器は回収され、参加者のほとんどが逮捕された。


ここで、コロンビアの名誉のために付け加えておくと、コロンビアは本当に寡頭制の国なのか?という疑問がある。


「寡頭政治」という言葉はホルヘ・エリエセル・ガイタンが選挙戦で白人支配層を批判するために初めて用いた演説用語である。


独立以降の60名の歴代大統領中18名は軍人出身であり、いわゆる支配階級出身ではない大統領も多い。


例えば、保守党の支配階級的色彩の強かったマルコ・フィデル・スアレス大統領(任1918~1921)は洗濯屋の従業員であった母親の私生児であり、下層階級出身である。


また、自由党のベリサリオ・ベタンクール大統領(任1982~1986)はバスク系貧農の出身で、23人兄弟の末っ子で子供の頃は裸足で歩いていたため足の指が変形しており、無職だった頃は公園のベンチで寝ていたという逸話の持ち主である。


他にも保守党のカルロス・レストレポ大統領(任1910~1914)や、自由党のエドゥアルド・サントス大統領(任1938~1942)は中産階級出身である。


自由党のフリオ・セサール・トゥルバイ・アヤラ大統領(任1978~1982)は父親がレバノン移民であり、母親は農民であった。


このように上流階級に属さない大統領も珍しくなく、コロンビアでは「誰でも大統領になれる」という言い方が流行ったこともあるという。



さて、コロンビアと言えば麻薬だ。コロンビアが麻薬と切っても切れない関係になっていくのが1970年代である。


アメリカでは60年代から公民権運動の影響で自由化・世俗化が進んだことと、ベトナム戦争の泥沼化と敗北で世相は厭世的・享楽的・頽廃的になっていた。


世界の超大国アメリカがベトナムというアジアの小国に負けたのである。それがいかにアメリカ人のプライドを傷つけたか想像に余りある。


戦争に負けた後は麻薬が流行りやすい。日本も戦後は覚せい剤が大流行し、ヒロポン中毒者が急増した。アメリカでも70年代後半からコカイン中毒者が激増する。


アメリカの若者はもともとマリファナが大好きだった。マリファナの一大産地はメキシコだった。だが、メキシコでの取り締まりが厳しくなると、その産地はコロンビアのカリブ海沿岸に移った。


カリブ海に突き出たコロンビアのラ・グアヒーラ半島では、貧しい農民たちがこぞってマリファナを作った。ルポライターの竹中労(1930~1991)はコロンビアを取材した際、グアヒーラ半島ではひとつの山全体がマリファナ畑だったと証言している。


マリファナ産地がコロンビアに移ると、たちまち麻薬産業がコロンビアの重要な産業になっていった。マフィオーソ(マフィア)が麻薬取引を仕切り、警察は麻薬業者から袖の下をもらって腐敗し、機能しなくなった。


コロンビアで麻薬生産が急増した背景には、70年代からアジアやアフリカの新興諸国でコーヒー生産が始まったこともある。


これらの国々でコーヒー生産が手っ取り早い外貨稼ぎの手段として喧伝されるようになると、当然、コーヒーの国際価格は低下した。それまではコーヒー栽培で食べていけたコロンビアの農家は、もはやコーヒーだけでは食べていけなくなり、麻薬の生産に手を出すようになったのである。


そこにアメリカの麻薬ブームだ。これで麻薬の生産量が増えないわけがない。悪いことは重なるものである。


1978年に就任した自由党のフリオ・セサール・トゥルバイ・アヤラ大統領は、腐敗した警察に代わって軍隊を投入し、グアヒーラ半島でのマリファナ栽培を根絶しようとした。


だがその頃、すでにアメリカではマリファナ・ブームが終わり、コカイン・ブームの時代が到来していた。


アメリカ人はマリファナよりも刺激の強いコカインに乗り換えたのである。マリファナは抑制剤で気分を落ち着かせる効果があるが、コカインは興奮剤であり、気持ちを奮い立たせる効果がある。


日本では大麻が人気だが、コカインはあまり人気がない。これは日本人が抑制剤であるマリファナが好きで、興奮剤のコカインを好まないからだとも言われている。


アメリカで爆発的なコカイン・ブームが始まると、コロンビアのマフィオーソもマリファナからコカインに切り替えた。


コカインは南米アンデス山脈に自生するコカの木から作られる。


コカの葉を集めて細かく切り刻み、溶媒となる石油類に浸してよくかき混ぜ、麻薬成分を抽出する。これに希硫酸を加え、アルカリで中和し、上澄みを捨てて沈殿物を集め、乾燥させたものがコカ・ペーストと言い、コカインの原料となる。


コロンビアの貧しい農村では、農民たちがせっせとコカを育て、コカ・ペーストを作っている。どの農家の軒先でも農民がコカ・ペーストを火に当てて乾かすのに余念がない。乾いていないと質が悪く、高く売れないのである。


コカイン業者が農民からコカ・ペーストを買い取りに来る。スプーンですくって火であぶってみてパチパチと爆ぜてしまうのは質が悪い。グツグツと煮えるのが上質である。


乾季は収穫量が少ないので業者の足も遠のく。コカ・ペーストの方が通貨より価値が高いので、住民はコカ・ペーストを通貨の代わりに使う。コカ・ペースト何グラムでコーヒー一杯、という感じである。


コカ・ペーストを酸で処理し、過マンガン酸カリウムで不純物を取り除き、濾過して純度を高めたものがコカインとなる。上質のコカインは純白の粉末で、これをストローで鼻から吸引して使用する。


アメリカで流通するクラックはコカイン塩酸塩と重曹を混ぜたもので、気化しやすいため喫煙で用いられる。


コカの葉それ自体に毒性はない。昔からアンデスの高地で暮らすインディオが高山病予防や疲労回復のために使ってきた。


アンデスへ行くと旅行者はコカ茶を振る舞われる。飲むとソローチェ(高山病)に効くという。アンデスの高地は酸素が薄く、慣れないと頭が重くなり、体がだるくなってくるのだ。


コカの葉をそのまま口に入れてガムのように噛むと頭痛や歯痛が治まるという。ボリビアではコカは合法であり、町の市場で袋詰めにされて売られている。


コカそのものに麻薬性はない。危険なのはコカインである。


コカインは強烈なアッパードラッグ(精神賦活剤)だ。どんな気弱な人間でも天にも舞い上がるような高揚感が得られ、自信過剰と万能感に支配される。


体のリミッターが解除され、異常な怪力や集中力を発揮し、とことんまで潜在能力を引き出す(ような気分になる)という。


効果の持続時間は非常に短く、わずか30分ほど。その後は無気力になり、何もできないほどの倦怠感に襲われるという。


それを紛らわすためにコカインの使用量は増え続ける。コカインの過剰摂取状態が続くことで脳神経に大きな負荷がかかり、中毒者は精神を病んでいく。


やがて、コカインを買うための金欲しさの犯罪に手を染めるようになる。肉体も精神もボロボロになり、社会復帰は極めて困難になる。


コカインの依存性について、動物実験の結果がある。サルの腕に注射針を取り付け、サルがレバーを押すたびにコカインが注入されるようにして実験したところ、サルは死ぬまでに6000回以上もレバーを押し続けたという。


ちなみにコカ・コーラには昔、コカインが入っていた。だから、コーラを飲み過ぎるとコカイン中毒になってしまった。今はコカインの代わりにカフェインを入れている。


記録によると、コロンビアで初めてコカイン生産が始まったのは1969年。それほど昔のことではない。


コロンビアでは先住民パエス族が細々とコカを育てているだけだった。マフィオーソは当初、彼らにコカを作らせていたが、そのうち需要に供給が追い付かなくなった。


そこで彼らはペルーやボリビアで生産されるコカの葉をコロンビアに運び、コロンビアでコカインに精製して、アメリカに密輸するという大規模なコカイン・ルートを築き上げた。


コカは乾燥した地域を好む。湿度の高いコロンビア産のコカインは質が悪い。最高級は乾燥地帯ボリビア産である。


だが、安物だけに手に入りやすい。そんなわけでコロンビア産コカインがアメリカで大流行したのである。



この時期にコカイン取引で急速に台頭した男がいる。世界最大の麻薬密売組織「メデジン・カルテル」の最高幹部パブロ・エスコバルである。


1949年12月1日、エスコバルはメデジン南東のリオネグロに生まれた。父親のアベルは畜産業者で12ヘクタールの土地と6頭の牛を所有し、母親のエルミルダは教師であり、エスコバルは7人兄弟の次男だった。


コロンビア西部アンティオキア県の県都・メデジンは標高1500メートルの盆地に広がる“花の都”であり、年間を通じて気候は温暖である。


少年時代のエスコバルは勉強とサッカーが好きな食いしん坊の肥満児だったという。が、17歳で学校を退学してからはマリンベラに溺れ、自動車泥棒や墓石の転売を繰り返すようになる。


「大物になりたいんだ」


というのが若きエスコバルの口癖だった。


やがて、エスコバルは町の不良少年を集めてギャングを作る。自分に従う者にはとことん尽くすが、いったん敵に回るとどこまでも容赦なく追及し徹底的に痛めつける主義の男だった。


最初にエスコバルが麻薬で捕まったのは1976年。18キログラムのコカインを所持していて逮捕された。彼を逮捕した警官は後に暗殺されている。


その頃からエスコバルはメデジン・カルテルを率いてアメリカのコカイン市場に殴り込みをかける。フロリダでは対立するアメリカン・マフィアを一掃し、全米のコカイン市場を独占してしまった。


メデジン・カルテルはペルーやボリビアからコカをコロンビアに運び、コカインに精製し、米国に密輸する国際的なネットワークを築き上げた。


1970年代後半、アメリカのコカイン・ブームでコロンビアがコカインの一大生産地帯と化していく中、コロンビア政府と対立し内戦を続ける反政府ゲリラにとって絶好のチャンスが訪れた。


コロンビア最大の左翼ゲリラFARCも、1980年代初頭までは勢力1千人ほどで、コロンビア南部のジャングルや山間部で細々とゲリラ活動を続けているに過ぎなかった。とても政権を取れるような勢力ではなく、革命など夢のまた夢だったのである。


メデジン・カルテルはFARCと同盟関係を結ぶことになる。つまり、カルテルが支配するコカ畑やコカイン精製工場、密輸ルートを警備してくれというのだ。そうすればカルテルがゲリラに「警護料」を支払う、というのである。用心棒になってくれというわけだ。


戦争というものはとにかく金がかかる。武器、弾薬、兵士に与える食料などの費用が嵩む。


それはゲリラも同じだ。国家が遂行する戦争なら増税するなり、国債を発行するなり、いくらでも手段はあるが、国家ではないゲリラが国家に戦争を仕掛けるには自分たちで軍資金を稼がねばならない。サウジアラビア出身の大富豪ウサーマ・ビン・ラーディン(1957~2011)のようなテロリストは例外中の例外だ。


そうなると軍資金を確保する手段は限られてくる。金を持っていそうな人間を誘拐してきて身代金をふんだくるか、麻薬を作って売って稼ぐか、である。


誘拐するにしても、金を持っている人間はどこにでも転がっているものではない。危険も付きまとう。人質を確保しておくための場所と人員が必要だ。


一方、麻薬を作る人間ならいくらでもいるのだ。貧しい農民は安い賃金でも喜んで働く。しかも、海を越えたアメリカには唸るほど金があって、麻薬を買ってくれる人間が掃いて捨てるほどいるのだ。


当初、ゲリラはこの申し出を断った。金は欲しいが、我々は共産主義者である。人民の味方である。尾羽打ち枯らしても性根までは腐っていない。麻薬に手を出すなど以ての外だ。


この頃はまだソビエト連邦も健在だったし、共産主義の思想も色あせていなかった。キューバのカストロ先輩も元気一杯だったし、ニカラグアではソモサ王朝を倒したサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の革命政府が出来たばかりだ。ゲリラたちの士気も高く、モラルの崩壊もまだ始まってはいなかった。



1980年2月27日、ボゴタのドミニカ共和国の大使館ではドミニカ独立記念日の祝賀パーティーが開かれていた。


そこへ武装した17名の男女が突如乱入してきた。銃声が響く。一瞬にしてパーティー会場は凍りついた。


M19のメンバーがドミニカ大使館を占拠したのである。アメリカやエジプトなど14ヵ国の大使ら52人が人質に取られた。


M19は政治犯の釈放を要求した。1996年12月17日に起きたペルーの日本大使公邸人質事件に酷似している。あの事件を起こした「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」はM19の弟分のようなゲリラ組織である。かつてはM19と共同でゲリラ作戦を行ない、勇名を馳せていた。MRTAはM19の戦略を模倣したのだ。


当初、M19はボゴタの在コロンビア日本大使館を狙っていたとされる。テロに弱腰な日本政府なら脅して金になると考えたのだろう。だが、当時の日本大使館は高層ビルの最上階にあり、長期の籠城には不向きと判断。平屋建てのドミニカ大使館に変更したという(当時の在コロンビア日本大使はパーティーに出席せず、難を逃れた)。


トゥルバイ大統領は当初、犯人側の要求を断固拒否した。しかし、国際人権団体アムネスティによりコロンビア政府による人権侵害の数々が暴かれてしまい、刑務所で政治犯が拷問や虐待を受けていることが暴露されると、政府の立場は苦しくなった。


事件発生から61日後の4月27日、犯人グループは政治犯の釈放と身代金250万ドルを勝ち取り、人質を連れてキューバに出国した。ハバナの空港で彼らは英雄として迎えられた。


コロンビア政府は面目丸つぶれである。トゥルバイは戒厳令を布告し反体制活動家を徹底的に弾圧した。多くの活動家が秘密警察により拉致され、失踪した。


ドミニカ大使館事件で株を下げたトゥルバイは、思い余って奇策に出る。ゲリラに対し投降すれば一切罪を問わないと宣言したのである。


一方、M19は1981年、メデジン・カルテルの幹部オチョア兄弟の妹を誘拐する。


これに激怒したメデジン・カルテルは「誘拐者に死を(MAS)」という暗殺部隊を結成。M19メンバーを粛清した。


慌てたM19はオチョアの妹を解放し、メデジン・カルテルと和解する。そして、カルテルと手を結び、ともにテロ作戦を実行するようになるのである。



1982年に就任したベリサリオ・ベタンクール大統領は、麻薬カルテルの跳梁に手を焼いた。そこで、トゥルバイ以上の奇策に出た。


なんと、ゲリラに和平交渉を呼び掛けたのである。しかも、


「政府と一緒に麻薬カルテルと戦ってくれないか?」


と申し出たのだ。軍隊や警察は腐敗していて使い物にならず、反政府ゲリラの力を借りて麻薬マフィアを叩き潰そうとしたのだ。


ところが、意外にもゲリラは和平に応じたのである。最大のゲリラ組織FARCは1984年、政府との停戦に応じ、合法政党である「愛国同盟(UP)」を創設した。そして、国会に議員を送り込んだ。地方選でも勝利し、国政に参加した。


しかし、カルテルの方が一枚も二枚も上手だった。政府の情報はカルテルに筒抜けだった。国会議員も買収されていたのである。


先回りしたカルテルはゲリラと手を結んだ。FARCはカルテルの資金源を守ることで多額の軍資金を手に入れ、政府軍よりも優れた高性能の武器を買いそろえることが出来た。


こうしてFARCは急速に勢力を拡大させ始めた。だが、ここで疑問が生じる。いったん和平に参加したのに、どうして武装闘争を継続する必要があったのだろうか?


それは結局、政府が約束を反故にしたからである。FARCの合法政党UPの国会議員は次々と何者かに暗殺されていった。1985年からの5年間に2人の大統領候補を含む議員や関係者が1500人以上も暗殺されたのだ。しかし、暗殺者が逮捕されることは一度もなかった。1994年にはUPは党員不足で政党資格を剥奪されてしまう。


86年ごろにはすでにFARCは武装闘争に復帰した。多額の麻薬マネーで潤った彼らはもう昔の弱いゲリラではなくなっていた。ゲリラもやはり麻薬マネーの魅力には打ち勝てなかったと見える。背に腹は替えられぬ、ということか。


この頃になると、アメリカ政府も自国の麻薬汚染に悲鳴を上げるようになっていた。いくら国内で取り締まりを強化しても、コロンビアからコカインが流れ込んでくるのではたまったものではない。


最盛期のエスコバルはコカイン取引で年間250億ドルも稼ぎ、世界で7番目の金持ちとしてフォーブス誌にも取り上げられたことがある。


同誌の推定では総資産200億ドル(約2400億円)とされたが、これでも控えめな見積もりだという。


エスコバルは「プラタ・オ・プロモ(銀か鉛か)」を合言葉に政治家、役人、警察官、裁判官を次々に買収していった。「銀か鉛か」は「賄賂(銀)に応じるか、銃弾(鉛)で消されるか」の意味である。


1980年代前半、中南米諸国を金融危機が襲った。外資導入で経済成長を図ってきたこれらの国々は、70年代の二度にわたる石油ショックで景気が停滞すると、たちまち先進国から借りた金を返せなくなり、次々と国家財政が破綻してしまったのである。


コロンビアも例外ではなかった。エスコバルは政府に対し、


「カルテルの金で国家財政を建て替えてやるから、麻薬取引に目をつぶれ」


と持ち掛けた。政府は慎重な協議の末、この申し出を断った。日本でも兵庫県は税収の半分以上を山口組に頼っている。国家と暴力団が「持ちつ持たれつの関係」にあるのは万国共通のようだ。


アメリカ政府はコロンビア政府と「二国間犯罪人引き渡し協定」を結び、麻薬の元締エスコバルを逮捕し、アメリカに身柄を引き渡すよう求めた。


だが、この情報も筒抜けだった。先手を打ったエスコバルは凄惨な事件を起こすのである。



1985年11月6日、ボゴタの最高裁判所兼法務省ビル(正義宮殿)にM19のメンバー35名が侵入し、市民や最高裁長官と判事12人、国会議員など300人以上を人質に取って立てこもった。


M19はベタンクール大統領との「和平のための直接交渉」を要求した。だが、最高裁を包囲した政府軍部隊は即座に攻撃を開始し、装甲車やヘリコプターを使って強行突入した。


人質のアルフォンソ・レイエス最高裁長官による必死の攻撃中止要請にも関わらず、政府軍は28時間にもわたる激しい銃撃戦の末に最高裁を制圧。ゲリラ全員を射殺して強引に事件を解決した。


5年前のドミニカ大使館占拠事件で犯人をキューバに逃がした政府は、この時とばかり意趣返しをした。ゲリラは全滅したが、最高裁も炎上し、判事11人と市民60人を含む人質115人が巻き添えで犠牲となった。


ところが、この事件、後に分かったことだが、すべて政府により仕組まれた「茶番劇」だったのである。


事件を起こしたM19の最高幹部カルロス・ピサロは、エスコバルから最高裁長官の暗殺と麻薬関連書類の焼却を依頼され、230万ドルで引き受けた。


しかし、エスコバルは裏で軍とも手を結び、自分の身柄をアメリカに引き渡そうとする最高裁長官を殺害し、エスコバルの罪状を記した書類を最高裁もろとも灰にしてしまったのだ。


これはゲリラを潰したい政府の思惑とも一致する。この事件で幹部のほとんどを失ったM19は急速に弱体化し、5年後には政府との和平に応じて武装解除した。


この事件では2010年6月9日、コロンビア司法当局が当時の陸軍大佐ルイス・アルフォンソ・プラサス・ベガの責任を認め、禁固30年を宣告した。また、2015年12月には、元大佐と元少佐に禁固40年が宣告されている。


1985年はコロンビアにとって厄年で、11月13日にはカルダス県のアンデス山中のネバド・デル・ルイス火山(標高5321メートル)が大噴火し、大量のラハール(泥流)が麓の町アルメロを直撃。2万3千人もの死者を出す惨事となった。


この時、首まで泥水に浸かりながら救出を待ち続け、とうとう間に合わずに死んでいった13歳の少女オマイラ・サンチェスの映像を覚えている人もいるだろう。世界中が涙した悲劇だ。


この時、アメリカ政府は救助隊の派遣を拒否していた。コロンビア政府が麻薬取り締まりに消極的だから、という理由だ。


踏んだり蹴ったり、泣き面に蜂とはこのことだろう。いつの世も一番泣きを見るのは無力な庶民なのだ。


1986年に就任したビルヒリオ・バルコ大統領は、麻薬カルテルへの取り締まりを強めていく。これに対抗してエスコバル率いるメデジン・カルテルは政府要人や警察・司法関係者に対するテロを繰り返す。


カルテルのメンバーを逮捕した警官は家族もろとも殺害された。メンバーに有罪を宣告した判事も同じだった。カルテルに殺された裁判官だけで80人にも上る。


カルテルの攻撃対象は政府関係者に留まらず、カルテルに批判的な記事を書いたエル・エスペクタドール新聞の社屋も爆破された。


コロンビアでは当初、麻薬はアメリカの国内問題とみなし、麻薬によりもたらされるドルが自国経済を潤すという極論もまかり通っていた。


コロンビアの有力紙「エル・ティエンポ」のフアン・カーノ編集局長が、


「カルテルはたんなる犯罪組織ではない。それは国家を腐敗させ、民主主義そのものを脅かす」


と警鐘を鳴らしたとき、すでにカルテルは“国家内国家”と呼ぶべき巨大なモンスターと化していたのである。


「コロンビア国家は根底から崩壊の危機に直面していた」


と国家保安局(DAS)長官ミゲル・マサ・マルケス将軍(当時)は語っている(彼自身、二度の暗殺未遂に遭遇した)。


1989年8月18日、自由党の大統領候補ルイス・カルロス・ガラン上院議員が選挙戦の遊説中にボゴタ郊外でカルテルの刺客に暗殺されると、バルコ大統領はメデジン・カルテルに対して「全面戦争」を宣言。


軍・警察部隊を総動員してカルテルの壊滅を図る。カルテルも政府に対し宣戦布告し、コロンビアはまさに「麻薬戦争」の真っ只中に突入したのである。


バルコ大統領の“宣戦布告”から2週間後、アメリカ政府は総額6500万ドルの緊急軍事援助を決定。A-37軽攻撃機8機、UH-1ヘリコプター5機をコロンビア政府に提供した。



1980年代後半から90年代前半にかけて、コロンビアでは「麻薬カルテル戦争」による暴力の嵐が吹き荒れることになる。


バルコ大統領の宣戦布告にエスコバルは無差別テロで応えた。1989年12月6日、ボゴタのDAS本部ビルに推定500キロのダイナマイトを積んだトラックが突入。大爆発を起こし、死者62人、重軽傷者600人以上を出した。


DASは捕らえていたエスコバルの腹心、ロドリゲス・ガチャの息子を釈放し、尾行をつけた。果たしてガチャの息子はスクレ県コベナスの父親の隠れ家に向かった。ただちに特殊部隊が急襲し、ガチャと息子、その家族ら15人を殺害することで報復したのである。


カルテルの反撃も凄まじかった。1990年の大統領選で、エスコバルは「反麻薬」の姿勢を鮮明にする候補者を次々に葬っていった。選挙戦期間中に4人の候補者が暗殺された。だが、当選したのは対麻薬強硬派の自由党セサール・ガビリアだった。


この頃になると、さすがのエスコバルも落ち目になっていた。政府の絶え間ない追及に加え、ライバルの組織であるカリ・カルテルが台頭し、縄張り争いが激化し、エスコバル自身も常に身辺に警護を置いておかないと命も危うい状況になっていたのである。


絶頂期のエスコバルは麻薬の稼ぎを惜し気もなく貧乏人に分け与え、気前よく貧困層向けの学校や病院、住宅、図書館、さらにはサッカー・スタジアムまで建設し、慈善事業のようなことをしていた。


政府に見捨てられた人々に、政府に代わって救いの手を差し伸べていたのである。暴力団が公共事業をやったのだ。エスコバルは敵も多かったが、彼を慕う者も多かった。「現代のロビン・フッド」などと呼ばれていた。貧困層にとってエスコバルはまさに「神」だったのである。


そんなコロンビアの麻薬帝国の帝王にも陰りが見えてきた。政府やライバルとの戦いに疲れたエスコバルは1991年6月、自分の身柄をアメリカ当局に引き渡さないことを条件に政府に投降した。


彼の故郷エンビガドにはカテドラルという豪華な「刑務所」が建てられた。プール付きの大邸宅である。エスコバルはここで5年間の「服役」を義務付けられるに留まった。電話もファックスも使い放題。外出も自由。ショッピングやサッカー観戦もOK。まさに至れり尽くせりだ。刑務所の看守もみんな買収されていたのだから当然である。


ここでエスコバルは悠々自適な暮らしを送りながら、外部の仲間と連絡を取り、相変わらずアメリカにコカインを密輸していた。無論、こんなことを世界の警察官アメリカが許しておくはずがない。


CIA(米中央情報局)とDEA(麻薬取締局)による極秘作戦が開始された。エスコバルを拉致してアメリカに連行しようというのだ。が、この情報はすぐにエスコバルに漏れてしまった。


1992年7月22日、エスコバルは自宅兼刑務所から脱獄した。自分の金で建てた刑務所から脱獄したのだ。漫画のような実話である。


その後の1年半はアメリカ当局の威信をかけた追跡とエスコバルの必死の抵抗だった。エスコバルは「メデジンの反逆者」というテロ組織を作り、自分をアメリカに売り渡そうとするコロンビア政府に無差別テロで対抗した。


一方、エスコバルに家族を殺された者たちも黙ってはいなかった。彼らは「ロス・ペペス」という暗殺団を結成し、エスコバルの手下を次々に血祭りに上げていった。ロス・ペペスとは「パブロ・エスコバルに迫害された者たち」の意味のスペイン語の頭文字を取った名前である。


ロス・ペペスは殺害現場に必ず証拠を残していった。コロンビアのアンティオキア地方には、


「愛情は10倍に、憎悪は100倍にして返せ」


という諺がある。彼らは恨みを忘れず徹底的に報復する主義なのだ。


世界の超大国アメリカを相手に喧嘩を売ったエスコバルにも、とうとう年貢の納め時がやって来た。1993年12月2日のことである。


この日、エスコバルはメデジン市内ロス・オリボス地区の隠れ家に潜伏していた。息子に掛けた2分半の電話が命取りになった。コロンビア治安当局の傍受班が電話の逆探知に成功したのである。


ただちにコロンビア国家警察の特殊部隊がアジトに突入した。エスコバルは銃撃戦の末に3発の銃弾を浴びて死んだ。44歳の誕生日の翌日のことだった。


アメリカのビル・クリントン大統領(当時)はコロンビア政府に祝電を送り、麻薬戦争の勝利を祝った。


エスコバルの葬列には彼を慕う3千人の市民が詰めかけた。エスコバルは生前、麻薬取引で得た金を惜しげもなく貧民に分け与え、彼らの間で英雄視されていたのだ。


エスコバルの死によってメデジン・カルテルは大打撃を受け、その後、幹部のほとんどが逮捕あるいは殺害されて壊滅状態に追い込まれた。エスコバルの家族は現在、アルゼンチンで暮らしているという。


コロンビア政府の徹底的な掃討作戦で第2の麻薬カルテル「カリ・カルテル」の幹部ヒルベルトとミゲルのロドリゲス兄弟も1995年6月に逮捕され、組織は壊滅。麻薬戦争は政府側の全面勝利で終わった。



ところが、2万人もの死者を出した「コロンビア麻薬戦争」の終結後、FARCは急速に勢力を拡大させていく。


麻薬カルテルの穴埋めをするかのようにFARCがコカイン・ビジネスに直接参入し、莫大な富がFARCの懐に転がり込んだのである。


中南米の左翼ゲリラ組織はメキシコの「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」、エルサルバドルの「ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)」、ニカラグアの「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」、コロンビアの「コロンビア革命軍(FARC)」、「民族解放軍(ELN)」、「人民解放軍(EPL)」、ペルーの「センデロ・ルミノソ(輝く道)」や「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」などがある。


だが、冷戦終結とソ連崩壊で求心力を失い、東側からの援助も絶たれたこれらのゲリラ組織は、政府と和平を結んで合法化されるか、衰退して自然消滅の道をたどっていった。


しかし、コロンビアは違った。冷戦後、麻薬といううまみを覚えたFARCは、むしろ冷戦期よりも強大な勢力に成長していったのである。


コカイン取引は莫大な富をゲリラにもたらした。ゲリラ兵士は1人で3丁の銃を持っても余るほどになった。6連装のグレネード・ランチャーを装備したゲリラ兵は、旧式の装備しか持たない政府軍兵士を圧倒するようになった。


支配地域を広げたFARCは、麻薬と並ぶもう一つのビジネスに精を出すようになる。セクエストロ(誘拐)である。


記録によれば、コロンビアで初めて誘拐事件が発生したのは1933年。この時は被害者の家族が5万ペソの身代金を払い人質は無事解放された。しかし、被害者は30年後に再び誘拐されそうになり、その時、犯人に殺されてしまった。


コロンビアで目立って誘拐が増え始めるのは1960年代後半からである。裕福な資産家がゲリラのターゲットとなった。ゲリラに狙われる地主や富裕層は自衛のための私兵集団を組織した。これがパラミリターレス(準軍事組織)と呼ばれる極右のテロ組織となる。


コロンビアは日本の3倍もの面積を持つ広大な国である。しかも、国土の大半は険しいアンデス山脈と奥深い密林で占められている。軍隊や警察の力の及ぶ範囲は限られている。ゲリラや無法者にとってはまたとない活躍の場が提供されているわけだ。


人質を誘拐しても被害者を長期間監禁し、身代金交渉を有利に進めるには、そのための場所と人員を確保しなければならない。コロンビアにはアンデスとジャングルという天然の要塞と、貧しさからゲリラに走る無数の農民や若者という好条件があまりにも整いすぎていた。


ゲリラは誘拐対象者を慎重に選んだ。銀行の個人情報をスパイや電子機器を使い盗み出し、個人の資産や富裕度を調べ対象者リストを作る。対象者を尾行し帰宅時間や帰宅ルートを綿密に調べ上げ犯行に及ぶ。


最も価値の高い資産家や大企業の重役は喉から手が出るほど欲しい人材だが、そうザラに転がっているものではない。そこでゲリラは手っ取り早く一度に無差別に大量に誘拐し、その中から金を取れそうな者を選び抜くという戦術に切り替える。


誘拐の方法は大胆だ。地方の幹線道路を封鎖し、通り掛かる車や通行人を検問し拉致する。軍や警察の検問を装うこともある。バスや飛行機を乗っ取り、乗客ごと連れ去るという手口もある。


だが何と言っても一番価値の高いのは外国人だ。人質の家族だけでなく、相手国の政府を脅して金を巻き上げることも出来る。また政府に対する圧力にもなる。ゲリラたちは外国人旅行者を狙った「ミラクル・フィッシング」という誘拐を繰り返すようになった。


コロンビアほど多くの外国人が誘拐された国もないだろう。コロンビア政府の発表によれば、コロンビアでは1996年から2004年までの8年間だけで324人の外国人が誘拐されている。


ゲリラに誘拐されると、たいてい人里離れた山の中のアジトへ連れて行かれる。そこで身元調査が行なわれ、人質の背後に金の匂いがある場合はそのまま監禁。ない場合は解放するか口封じのため処分となる。


誘拐された被害者はアンデスやジャングルのゲリラのキャンプを転々と移動しながら、長期に及ぶ監禁生活に耐えなければならない。数ヵ月で解放されるのはまだ運のいい方で、解放までに数年を要する場合も珍しくない。


人質にとって敵はゲリラだけではない。劣悪な環境で病気にかかり命を落とす人質も少なくない。ジャングルにはマラリアや黄熱病などの風土病が流行し、毒蛇や毒虫、猛獣もいる。


たとえ逃げ出したところで道に迷い獣の餌食になるか餓死するのがオチだ。ゲリラ兵は政府軍が人質救出作戦を始めたら即座に人質を射殺するよう上官から命じられている。政府軍もまた人質にとっては敵なのである。


それでも命が助かるならまだマシだ。何年も自由を奪われた挙げ句、殺されてしまう人質もいる。2002年4月に誘拐されたバジェ・デル・カウカ県の県議会議員12人のうち11人は、5年後の2007年6月に殺害されている。


とは言えゲリラにとって人質は大事な「商品」である。殺すことは滅多にない。コロンビアの非政府組織(NGO)「自由国家財団」によると、人質が殺される確率は全体の1%だという。


政府は多発する誘拐に対処すべく「誘拐対策法」を制定した。被害者に身代金の支払いを禁ずる法律である。だが、政府にそれだけの解決能力がなかったことから有名無実化した。



ゲリラが麻薬と誘拐で勢い付く中、政府も麻薬との腐れ縁を断ち切れずにいた。1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール大統領はカリ・カルテルから選挙資金として600万ドルを受け取っていたことが発覚し、大問題に発展した。


アメリカ政府は激怒し、サンペール大統領へのビザ発給を停止した。コロンビア議会はサンペール弾劾の構えを見せた。平和的な政権交替を繰り返してきたコロンビアで、大統領が任期途中に退任に追い込まれることなどかつてないことである。


だが結局、この問題はうやむやにされてしまった。議会の懲罰委員会はサンペールに対して簡単な聴取を行なった後、証拠不十分で不問としたのである。


1996年3月、アメリカ政府は「麻薬取り締まりに非協力的な国」にコロンビアを挙げた。これはサンペールに対する事実上の退任勧告だった。


麻薬疑惑で人気のないサンペールは奇策に出た。1997年6月、サンペールは軍に命じて南部カケタ県から軍部隊を撤退させる。FARCに囚われている捕虜の解放を実現するためだ。


FARCは57名の捕虜の釈放と引き替えに軍の撤退と解放の模様をテレビ中継することを要求した。実はこの時、捕虜解放と同時に軍が捕虜を殺害し、すべての責任をゲリラになすりつける計画があったという。


この企てを阻止するため、FARCはテレビ中継を要求したのだ。まさか、生中継のカメラの前で人質を殺すことは出来ない。


結局、人質は無事解放されたが、この時、最後までゲリラへの譲歩を拒否した軍部と政府の間に亀裂が生じる。


コロンビア軍は以前から右翼の民兵組織と癒着しながらゲリラや関係者へのテロ攻撃を続けていたが、90年代に入るとさらにやり口は汚さを増してくる。


殺した農民の死体にゲリラの軍服を着せてゲリラに見せかける偽装工作をするのは序の口で、現役の軍人が民兵組織とともに民間人を拉致・拷問したり、暗殺という非常手段に訴えるようになるのである。


正体不明の武装集団が政府に異を唱える者を暗殺し、一体誰が誰の命令で殺害を実行したのか誰にも分からない。そんな「グエラ・スーシア(汚い戦争)」の時代に入っていくのである。



1998年、保守党のアンドレス・パストラーナがコロンビア大統領に就任した。パストラーナは1970年の選挙でロハス将軍の当選を阻止したミサエル・パストラーナの息子である。


パストラーナ大統領は反政府左翼ゲリラとの対話による和平実現を公約に掲げた。話し合いでコロンビアに平和をもたらそうとしたのである。


パストラーナは単身、FARCの支配地帯であるコロンビア南部を電撃訪問し、FARC最高指導者のマヌエル・マルランダと会談した。マルランダは熟練の老ゲリラで、ラ・ビオレンシアの時代に虐殺された共産党書記長の名前を名乗り、30年以上にも及ぶゲリラ戦を生き抜いてきた百戦錬磨のプロである。


コロンビア政府とFARCは和平交渉の再開で合意した。出だしは順調だった。翌99年1月から交渉が本格的にスタートした。FARCは和平の条件として、コロンビア南部の広大な地域から政府が軍・警察部隊を撤退させ「非武装地帯(DMZ)」を設置することを要求した。


FARCは政府を信用してはいなかった。84年の和平の苦い教訓を忘れてはいなかったのである。あの時、FARCは停戦に合意し合法政党を立ち上げたものの、その後の白色テロで合法闘争路線を叩き潰されている。


和平に応じ武装解除するにしても、そのための「保障」が必要だったのである。武器を捨てた途端、皆殺しにされたのではたまったものではない。非武装地帯の設置を要求したのはそのためだった。



1999年5月、パストラーナはコロンビア南部の約4.2万平方キロメートルの面積を非武装地帯とし、駐留する国軍と警察の全部隊に撤退を命じた。こうして出来た非武装地帯はスイスの面積に匹敵し、日本の九州よりも広かった。


パストラーナの決定に軍や警察の高官は猛反発し、一斉に大統領に辞表を提出する騒ぎとなった。彼らは大統領の決定に反対したばかりでなく、退職するやただちに右派民兵組織に協力し、左翼ゲリラとその同調者に対するテロ攻撃を開始した。


右派民兵を率いていたのはフィデルとカルロスのカスターニョ兄弟である。兄弟の父親は裕福な牧場主だったが、ゲリラに誘拐され身代金を払えずに殺されてしまっていた。弟カルロスは民兵に入隊した理由を訊かれ、こう答えている。


「私が5歳の時、父がゲリラに殺された。私は父の墓前で泣き叫んでいた。私はこの時、父を殺した共産ゲリラへの復讐を誓った」


復讐心に燃える兄弟は国軍に入隊し、そこで軍事教練を受けた。当初は軍人としての正規の活動に留まっていた。だが、法的制約を受ける軍人でいたのでは満足に父親の仇を討つことは出来ない。兄弟は民兵組織を結成し、法に縛られない超法規的な対ゲリラ活動を展開する。


カルロスは成績優秀だったため、コロンビア政府の奨学金を得てイスラエルに留学することを得た。そこでカルロスはイスラエルの軍人から対ゲリラ戦の特殊訓練を受けた。コロンビアに帰国した時、カルロスはもはや田舎の朴訥な青年ではなくなっていた。復讐の鬼、冷酷な殺人マシーンに生まれ変わっていたのである。


兄弟は故郷のコルドバ県で「コルドバ・ウラバ農民自衛軍(ACCU)」を結成した。農民自衛軍と名乗ってはいるが、実態は恐るべき殺戮集団であった。彼らはゲリラと関係があるとみなした農民を無差別に虐殺し、やがて地元からゲリラ勢力を一掃することに成功した。


1994年12月、兄フィデルがパナマ国境地帯でゲリラに暗殺されると、カルロスはゲリラに対する戦いを全国規模で拡大させるべくコロンビア全国の右派民兵組織に結集を呼び掛けた。


1997年4月、全国的な極右民兵組織「コロンビア統一自衛軍(AUC)」が結成される。AUCの誕生には背後で米軍やCIAも深く関与していたとされる。ゲリラ勢力の台頭を恐れたアメリカ政府の強力な後押しがあった。


右派民兵はパラミリターレス(準軍事組織)と呼ばれることが多い。これは正規軍のスペア的意味を持つ。政府軍が大っぴらには出来ない「汚い仕事」を請け負うためだ。ベトナム戦争でアメリカ軍は民間人の虐殺を韓国軍に委託した。それと同じようなものである。


ゲリラを壊滅させるには焦土作戦が最も効果的である。ゲリラが潜んでいると思われる地域の住民全員を強制的に疎開させるか、全員を容疑者とみなして殺害してしまうのである。


日中戦争で日本軍は共産党八路軍や新四軍のゲリラ戦に悩まされ、焦土作戦を展開して多くの罪なき中国人を虐殺した。神出鬼没のベトコン・ゲリラに悩まされた米軍もベトナムで住民虐殺を行なった。アフガニスタンに侵攻したソ連軍もイスラム戦士ムジャーヒディーンのゲリラ抵抗に苦しみアフガン住民を大量虐殺した。


ゲリラ戦の継続には何より地元住民の協力が欠かせない。住民が消え、補給路が断たれればゲリラは孤立する。AUCは住民の大量虐殺を繰り返した。


AUCはFARCと関係があるとみなした農民を生きたまま電動ノコギリで四肢を切断した。彼らの残虐行為は筆舌に尽くしがたいものだ。


アメリカ政府は2001年、AUCをFARCやアルカイダと並ぶ「国際テロ組織」に指定した。一方で、ゲリラの拡大を恐れた米国はコロンビア政府を支援し、政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵という三つ巴のコロンビア内戦は泥沼化していったのである。


要するにゲリラを叩くのも、彼らを助けているのも同じアメリカという皮肉な現実なのである。アメリカ人がコカインに手を出さなければゲリラは資金源を断たれ弱体化する。AUCが農民虐殺をすることもない。コロンビアの内戦は終息し平和が訪れるのである。その意味でコロンビアは病んだアメリカ社会の犠牲者であるとも言える。


一向に減らないコカイン密輸に業を煮やしたアメリカ政府は1999年、コロンビア政府との間で「コロンビア計画」という麻薬撲滅作戦をスタートさせた。


これは2005年までの6年間に総額40億ドルを拠出してコロンビアのコカイン生産量を半減させるというものである。資金の大半はコロンビア軍の近代化やコカ駆除のための除草剤の購入費などに充てられた。


この計画は当初から「麻薬対策を口実としたコロンビアへの内政干渉」との批判が強かった。FARCはコロンビア計画に反対し、コロンビアに展開する米国系石油会社オクシデンタルが建設した石油パイプラインを爆破するなどのテロ行為を繰り返した。


コロンビアは地下資源に恵まれた国である。手つかずの石油や天然ガスの埋蔵量は相当なものだ。しかしそれらの資源の多くはゲリラ支配地で眠っている。ゲリラたちは「外国資本による植民地化」に反対してパイプラインの爆破や技術者の誘拐を行なうため、資源の開発は遅れている。貧困がゲリラを生み、テロ活動によって経済が停滞し貧困が助長されるという悪循環に陥っているのだ。



アメリカ政府は最新鋭のブラックホーク戦闘ヘリをコロンビア軍に提供し、米軍の教官が対ゲリラ戦の指導に当たった。


コカ栽培地には上空から「グリホサート」という強力な除草剤が撒かれた。1970年、アメリカのモンサント社が開発した。商品名はラウンドアップ。


5-エノールピルビルシキミ酸-3-リン酸合成酵素(EPSPS)阻害剤で、植物体内での5-エノールピルビルシキミ酸-3-リン酸の合成を阻害し、ひいては芳香族アミノ酸(トリプトファン、フェニルアラニン、チロシン)やこれらのアミノ酸を含むタンパク質や代謝産物の合成を阻害する。接触した植物の全体を枯らす(茎葉)吸収移行型で、ほとんどの植物にダメージを与える。


ラウンドアップシリーズを日本で販売している日産化学工業の見解によると、


・処理後1時間以内に土の粒子に吸着し、その後微生物が自然物に分解する。

・約3~21日で半減、やがて消失する。

・土壌に速やかに吸着するため、土に落ちた成分は、除草剤としての効果は失われる。

・土壌に吸着しやすい性質を持っているため、有効成分が土壌中を移動することはほとんどない。


とされ、散布後も土を悪くする心配は不要であるとしている。また、グリシンから成るアミノ酸系除草剤であり、毒劇物に該当しない普通物であることも強調している。


一方で、世界保健機関(WHO)の外部組織「国際がん研究機関」は2015年3月20日、グリホサートを殺虫剤マラチオン、ダイアジノンとともにグループ1に次ぎ2番目にリスクの高いグループ2A(ヒトに対しておそらく発がん性がある)に指定した。


この報告の中でグリホサートは、「噴霧中の空気中、水中、食品中で検出されていること、また、曝露を受ける対象として噴霧地の近くに居住している場合、家庭で利用した場合に加えて、水または食品を摂取した場合」と言及している。


ゲリラによる撃墜を恐れ、飛行機は3千メートルという高空から除草剤を撒き散らしたため、除草剤は霧のようになって大気中に広がり、コカだけでなく農民の食べる作物まで枯らした。


除草剤を浴びたバナナは黒く変色し立ち枯れした。さらに除草剤は親水性が高いため、雨水に溶けて地中深くしみ込み、住民の飲料水である地下水を汚染した。


コロンビア計画は2005年に終了し、これによってアメリカ政府はコロンビアのコカイン産業は大打撃を受けたと宣伝している。だが、麻薬取締局(DEA)は「計画の終了後も米国内に流れ込むコカインの量や質、価格に大きな変化はない」と発表している。


取り締まりの厳しくなったコロンビアに代わり、今度はペルーやボリビアの農民たちがコカ栽培を請け負うようになったからである。まさにイタチごっこだ。


コカイン取引では毎年推定60億ドルの儲けが生まれる。そのうち45億ドルはアメリカのマフィア、14億ドルがメキシコなど中継地のマフィアが握り、コロンビアの取り分はわずか1億ドルに過ぎない。経費を差し引けば農民の手元にはほとんど残らないのである。結局、コカインで一番儲かるのもアメリカなのだ。


貧困という社会問題を解決しない限り、コカ栽培に手を出す農民は後を絶たない。だが、当局は除草剤を買うことには熱心でも、農民たちの生活向上には無関心のようだ。一体、誰のための何のための麻薬対策なのか?軍需産業が儲けたいという意図が見え透いてくる。


コロンビア政府と左翼ゲリラが和平交渉を続けている間も、コロンビアから暴力が減ることはなかった。


政府が交渉を続ける一方で、軍はゲリラに対する攻撃を続けていた。ゲリラ支配地への無差別爆撃で女子供が犠牲になっても軍は「テロリストの仕業」と発表し、軍による空爆ではなくゲリラの爆破テロの犠牲者であるかのように見せかける偽装工作を行なった。


AUCは農民虐殺を繰り返し、ゲリラ支持者へのテロを続けた。ゲリラに食事を提供したというだけで一村の住民が丸ごと皆殺しにされたこともある。


FARCはコカレーロス(コカ栽培農民)に3~5割の税を課し、その徴税によって多額の資金を得た。コカ栽培に応じなかったり、納税を拒否した農民は殺された。またAUCへの関与を疑われた農民も暗殺対象となった。


ELNは停戦を拒否し、石油パイプラインの爆破を繰り返した。ある村では爆破によって流れ出た石油に引火し、100人以上の村人が焼け死んだ。


FARCは独自の法律を制定し、「富裕税」なるものを設けた。所得が100万ドル以上の者に対して10%を課税したのである。FARCに税を支払わない者は誘拐され、ある女性は首に爆弾を巻きつけられ生きたまま爆殺された。


何度も言うようだが、いつの時代、どこの国でも一番泣きを見るのは無力な庶民である。政府軍に殺され、AUCに殺され、FARCやELNにも殺される。コロンビアの農民たちは殺されるために生まれてきたようなものだ。


和平交渉の成果が見られないまま時は流れていった。パストラーナ大統領は紛争の当事者双方に武器を置いて対話のテーブルに着くよう重ねて説得した。だが、コカイン取引といううま味を覚えてしまったFARCもAUCも互いに停戦に応じる気はなかった。


FARCに対する評価はまちまちである。「単なる盗賊に成り下がった」というものから「コロンビアの底辺の人民のために戦っている」という評価までさまざまだ。


だが、無差別テロをやるような集団に未来はない。かつてブラジルの革命家カルロス・マリゲーラ(1911~1969)は、


「無差別テロは絶対にしてはいけない。それをやれば民衆を敵に回し、国家権力にたやすく鎮圧されてしまうだけだ」


と言った。無差別テロをやる組織は、たとえそこにどれほどの正当な主張や理由があっても、民衆の支持は得られず、権力に潰されてしまうだけなのである。


私は共産主義者ではないし、テロリストでもない。FARCを支持する気にはなれない。どんなに取り繕ってもFARCは麻薬と誘拐に味を占めた人民の敵だ。


本当に必要なのは問題の根っこを解決するための努力ではないか。貧困をなくさない限り、ゲリラに走る者は後を絶たないし、暴力がなくなることもない。



コロンビア政府とFARCの和平交渉が行き詰まる中、2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。


テロリストに乗っ取られた航空機がニューヨークの世界貿易センタービルに激突し、超高層ビルが瓦解するシーンは全世界に中継され、世界中の人々が強い衝撃を受けた。


事件の首謀者とされるウサーマ・ビン・ラーディンをかくまうアフガニスタンのターリバーン政権に対し報復攻撃に踏み切った米ブッシュ政権は2003年3月、独裁者サッダーム・フセイン(1937~2006)率いるイラクとの戦争に踏み切る。


世界中のテロ組織とテロ支援国家に対する「テロとの戦い」を強力に推し進めることを宣言した米国政府は、かねてからFARCをテロ組織とみなしていたが、これを機にコロンビア政府に対して「テロリストとの交渉をやめるよう」圧力を掛けたのである。


コリン・パウエル国務長官(当時)は「FARCは西半球で最も凶暴なテロ集団だ」と述べ、アフガニスタンでアルカーイダとターリバーンに対してやったように、米軍が介入して武力で壊滅させる考えがあることを表明した。


これに驚いたのが当のFARCである。FARCの「外務大臣」でありスポークスマンであるラウル・レイエスは声明を発表し、


「これまで政府との交渉を認められていたのに突然、テロ組織として糾弾されるのは腑に落ちない。エクアドルで木が切り倒されればFARCのせいだと言い、ぺルーで牛が一頭死んでいたらFARCのせいだという。ポストが赤いのも信号が青なのも我々のせいなのか?」


と当惑を隠さなかった。


だが、年が明けて2002年を迎えると、コロンビア政府はFARCとの交渉を打ち切り、武力による解決をチラつかせ始めるようになる。


あれほど交渉に前向きだったパストラーナ大統領も「我々はFARCに交渉の意思がないと判断した」と述べ、それまで認めていた南部のDMZ(非武装地帯)からFARCが撤退することを求めてきたのである。


この政府の変心ぶりにFARCは慌てた。米軍が本格介入すればFARCに勝ち目はない。だが、アメリカ政府もコロンビアへの武力介入は何としても避けたい、というのが本音だった。


かつてアメリカの社会学者ホッブス・ボーム教授が、


「コロンビアのゲリラはコロンビアの野となり山となり、すでに国土の一部を形成してしまっている」


と指摘したように、コロンビアのゲリラは一筋縄ではいかない強敵である。もし米軍が本格介入した場合、アンデスやジャングルを背景としたゲリラ戦に苦しめられ、その被害はベトナムの比ではない。少なくとも40万の兵力が必要であり、しかもその半数は戦死することになるという。さすがのアメリカも本格介入には及び腰だった。


アメリカはアフガン問題で手一杯だった。イラクとの戦争を控え、コロンビアに介入する余裕はない。そこで、アメリカ政府は自軍の出血を抑えるためにコロンビア政府を動かしたのである。


2002年2月20日、南部のネイバからボゴタへ向かう国内線プロペラ機が4人組にハイジャックされ、非武装地帯近くのハイウェイに強制着陸させられた。


犯人グループは乗っていた和平交渉担当のホルヘ・エチェン・トゥルバイ上院議員を拉致し、逃走途中の橋を爆破して逃げ去った。


この事件が起こるやただちにパストラーナはFARCの犯行と断定。軍に非武装地帯の奪回作戦に入るよう命じた。


スクランブル発進した空軍機が200波にも及ぶ猛爆をかけ、陸軍の緊急展開部隊900人が非武装地帯に侵攻した。翌日にはFARCの首都だったサン・ビセンテ・デル・カグアンが陥落。FARC部隊はジャングルに撤収した。


こうしてコロンビア政府は3年に及んだ和平交渉を全面的に打ち切り、ゲリラに対する強硬策へと方針転換したのである。



2002年5月の大統領選。自由党右派で対テロ強硬派のアルバロ・ウリベ・ベレス候補が同じく自由党の穏健派オラシオ・セルパ候補を破って当選した。


ウリベはアンティオキアの大地主の出身。ハーバード大学で行政学と経営学を専攻し、コロンビアの学校では試験を免除されたほどの秀才である。彼の父親アルベルト・ウリベは1983年にFARCによって殺害されている。


ゲリラに父を殺された男が大統領になったのだ。ウリベはパストラーナの対話路線を批判し「力による内戦終結」を掲げて多くの国民から支持された。


無論、FARCが黙っているわけがない。2002年8月7日の大統領就任式。就任宣誓の最中、ボゴタの大統領官邸に向けてロケット弾が撃ち込まれた。FARCが仕掛けたロケット砲によるテロ攻撃だった。ウリベは無傷だったが、一部の弾は近くのスラム街に落下し、また関係のない市民が命を奪われた。


就任式の演説で、ウリベはコロンビアの治安回復のために決然たる意思を表明した。


「解放者(シモン・ボリーバル)を安心させるためにも、暴力組織による事実上の諸共和国に分裂しているヌエバ・グラナダ(コロンビア)を統一し、治安回復を図ろう。法治国家の民として、ビオレンシア(政治社会的暴力)の奴隷状態にある現状を変えなければならない。コロンビアでは毎年、3万4000件もの殺人事件があり、世界の誘拐事件の60%に相当する3000~3600件の誘拐事件が起きている。人口4300万のうち2500万人が貧困状態にあり、失業率は16%に及ぶほか、650万人が半失業状態にある。正しい税制や経済・社会改革も不可欠だ。軍を支援しよう。だが人権擁護の義務を守ろう。そうすることによってのみ、治安確保と人民和解は達成されよう。民主国家が人民の安全を平等に守り、その業績が進歩的なものであるとき、これに反対する暴力はテロリズムとなる。反政府暴力も政府の暴力も、テロとして認めない。国家の合法的な武力は、社会防衛のための特別な任務のためだけに行使されるものであり、批判者を抹殺するために使われてはならない。民主制度は理想実現の唯一の道であり、銃が政治に取って代わられ、<民主的安全>こそが、武器なしの政治や殺害されない権利を実現するための手段である。自治体首長、議員、州知事ら人民の代表の安全を守ることは、民主制度の救済となる。(中略)平和を望む。不誠実な対話、合意失敗、当局の横暴に起因する制圧は和解につながらず、短期的に暴力を停止させはしても、一層激しい暴力をもたらすことになる。祖国への愛は炎となり、その炎を通して主と聖母は、私を鍛えあげ私の虚栄を克服せしめ私の失敗を矯正するため、私を照らす」


FARCによる先制攻撃に対しウリベはすぐさま宣戦布告で応じた。ウリベ政権は「戦争税」を導入し、対ゲリラ戦争に必要な戦費を確保。「テロとの戦い」でアメリカと協同歩調を取ることでアメリカ政府から多額の軍資金を調達した。


これを元手に軍の近代化を進めたウリベは「プラン・パトリオタ(愛国計画)」と呼ばれるゲリラ殲滅作戦を実行に移す。軍備を3倍に増強し、FARCの本拠地であるコロンビア南部で大規模な掃討作戦を始めたのである。


やがてウリベ政権の成果は目に見える形で表れ始めた。2000年に3700件あまりも発生していた誘拐事件が5年後の05年には約800件にまで激減。就任時に3万5千件も発生していた殺人事件は3年後に約1万5千件に減少したのである。


ウリベ大統領の支持率も凄い。世論調査では常に支持率は70%を超えている。町から強盗や誘拐犯が消え、安心して外を歩けるようになったのだから、国民が支持しないわけがない。それでもこの数字の高さは異常とも思えるくらいだ。南米の指導者でこれほど国民から支持された人物はいないのではないか。



ウリベの登場でコロンビアは劇的に変化していくことになる。


ウリベ政権の徹底的なゲリラ掃討作戦の結果、国土の3分の1を実効支配していたFARCは至る所で包囲され撃滅粉砕された。都市の周辺からゲリラは姿を消し、ベネズエラ国境地帯や南部のジャングル地帯などの辺境の地に追いやられた。


2004年1月12日、エクアドル国境近くでFARCナンバー2の幹部シモン・トリニダ(本名リカルド・パルメラ)が逮捕された。


トリニダは武闘派の幹部だったが、前立腺ガンの治療のため訪れたエクアドルの病院で待ち伏せしていた治安当局によって身柄拘束され、即日コロンビアに引き渡された。


この逮捕作戦「オリオン作戦」はアメリカCIAが協力していた。トリニダの逮捕は政府が捕らえたFARC幹部としては40年来最大の大物だった。


トリニダはアメリカにコカインを密輸した容疑で米捜査当局から逮捕状が出されていた。コロンビア政府はトリニダの身柄をアメリカへ引き渡し、トリニダはワシントンの裁判所で禁固60年を宣告された。


トリニダ逮捕劇はFARC弱体化の序曲であった。以後、FARC幹部は次々に捕らえられていく。


04年2月、FARCの女ゲリラ幹部ソニア(本名オマイラ・カブレラ・ロハス)が政府軍によって逮捕された。ソニアは600トンにも上るコカインをアメリカに密輸した罪に問われている。


同年12月、ベネズエラの首都カラカスでFARC国際部代表のロドリーゴ・グランダが拘束された。当初、コロンビア政府はベネズエラ国境近くの町ククタで逮捕したと発表していたが、後にコロンビア秘密警察がベネズエラ軍人に賄賂を払い、カラカスで拉致、コロンビアへ連行したことが発覚した。


この「ロドリーゴ・グランダ事件」はコロンビアとベネズエラの外交問題にまで発展する大事件となった。


コロンビアと隣り合うベネズエラは強硬な反米左派ウーゴ・チャベス大統領の国だ。1999年2月に就任したチャベスは社会主義路線を掲げ、キューバのカストロ政権に接近するなど反米傾向を鮮明に打ち出した。


世界5位の産油国であり、原油埋蔵量ではサウジアラビアを抜いて世界1位のベネズエラは国民の半数が貧困層とされる。


1830年、大コロンビアから分離独立後、ベネズエラでは保革対立から内戦が繰り返され、1870年には保守派のアントニオ・グスマン・ブランコが政権を握り独裁者となった。


1888年にグスマンが失脚すると、1899年からシプリアーノ・カストロの独裁政権を経て、1908年から「アンデスの暴君」と呼ばれたフアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターで政権を掌握。以後、1935年まで軍事独裁が続いた。


1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見されると、ベネズエラは農業国から一気に南米の先進国に躍り出る。


独裁者ゴメスの死後、クーデターが繰り返され、政情不安が続いたが、ベネズエラは原油高を背景に「西半球で最も繁栄する国」となった。


1959年に「ベネズエラ民主化の父」と呼ばれたロムロ・ベタンクールが大統領に就任。ベタンクールはベネズエラ史上初めて任期を全うした民主的な指導者であったが、共産主義者の反乱を鎮圧できず、1964年に退陣した。


1970年代、ベネズエラはオイルショックの影響で「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほどの繁栄を見せたが、貧富の格差や政治腐敗などの社会問題を解決できなかった。


1989年2月27日、首都カラカス市で貧困層が蜂起し「カラカス暴動(カラカソ)」が起こると、軍が民衆に発砲して多数の死傷者を出す惨事となった。


この事件に衝撃を受けたチャベスは当時、ベネズエラ陸軍の中佐だった。チャベスは社会変革を目指し、1992年2月にクーデターを試みたが失敗。


クーデターの失敗後は「第5共和国運動(MVR)」を組織し、合法的な政治活動に転身。1998年の大統領選で貧困層の圧倒的な支持を得て当選した。


チャベスは、これまで外国資本と国内の富裕層に独占されてきた石油の富を国民に還元することで絶大な支持を誇った。


チャベス政権は国中に低所得者向けの無料の食糧配給所や市価よりも安いスーパーマーケット「人民の家」を設置し、公教育を充実させ文盲を撲滅するなどの成果を上げた。


また外国資本を接収し、ベネズエラ国営石油公社(PDVSA)の人事に露骨に介入。原油価格の底上げを図って減産措置に踏み切り、反対派が多数を占める国会を強制的に解散させ憲法を改正するなど独裁を強めていった。


こうしたチャベスの姿勢はアメリカの反発を招き、CIAはベネズエラの反チャベス派を支援して政権打倒を図った。


2002年4月12日、反チャベス派の軍人・富裕層によるクーデターが発生。チャベスは解任され、ベネズエラの経団連にあたる「フェデカマラス」の会長ペドロ・カルモナが新大統領に就任した。


しかし、民主的に選ばれた政権を力ずくで倒したこのクーデターは周辺国の承認を得られず、また国内でもチャベス支持者による大規模なデモが発生。結局、クーデターは三日天下に終わり、チャベスが復権した。


以降、チャベスは反米独裁の傾向をエスカレートさせ、アメリカ外交官を国外追放するなどアメリカとの対立も激化していった。


こうした中で、親米右派のウリベ政権は反米ベネズエラを抑えるためにもアメリカにとって必要不可欠な存在になっていた。


ウリベは「テロとの戦い」のためなら、隣国の国家主権を侵害してでもテロリストを捕らえることを証明した。これにベネズエラが激しく反発したのである。


ウリベも一歩も引かなかった。ベネズエラ政府は国境を越えて活動する左翼ゲリラを取り締まっていない。テロリストに「聖域」を与えていると反論した。


ベネズエラのホセ・チャコン内務大臣は「FARCが国内に入れば神が命ずるままに捕らえる」と表明した。両国の外交危機は両首脳の8時間にわたる会談によって回避された。


しかし、この事件は大きな「しこり」を残した。チャベスはアメリカがコロンビア政府を動かして自分を倒そうとしているのではないかと疑った。


事実、コロンビアの右派民兵組織はベネズエラに侵入し、反チャベス派と組んでチャベス政権打倒のための密謀を重ねていた。


ベネズエラ国内にコロンビアの民兵が多数潜入し、武器弾薬を集め武装蜂起を計画しているとの噂も流れた。実際にベネズエラ警察はチャベスの暗殺を謀ったとして多くのコロンビア人を逮捕している。


この背後でCIAが動いているのは確かだ。2005年末にはベネズエラの反体制派が国内の石油パイプラインを同時に爆破し1万5千人を殺害、これを機に米軍が介入しチャベス政権を倒すという途方もないテロ計画を立てていたことが発覚。関係者が逮捕された。


ベネズエラはキューバ、イラン、北朝鮮、中国、ロシアに接近し、自国の石油を安く提供することで世界的な反米包囲網を形成しようとした。また、エクアドルやボリビアなどで相次いで反米政権が生まれたことも、この地域の不安定化を促進した。


チャベスはこれらの南米反米諸国に石油を供給することで親密な関係を築き、南米を反米勢力の拠点にすることを計画した。国内で反米ゲリラの掃討を進めるコロンビアにとっては何ともやりにくい状況が生まれた。


アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権は強力にウリベ政権に肩入れした。アメリカ議会はコロンビアに駐留する米海兵隊の上限を400人から800人まで引き上げる法案を可決した。


これらの海兵隊は表向きコロンビア軍をトレーニングするのが目的としている。しかし、単なる訓練で800人もの兵を送る必要はない。実際はコロンビア軍と共同で軍事作戦を行なっている。


隣国コロンビアにこれほど大量のアメリカ軍兵士が駐留し続けていることは、チャベス政権にとって不安以外の何物でもない。いつ国境を越えてベネズエラに侵攻してくるか分からないからだ。


こうしてコロンビアとベネズエラ、さらに南米諸国の関係が微妙で複雑なものになっていく中、ウリベはアメリカの援助で強硬にゲリラ対策を推し進めた。


ウリベは圧倒的な支持を背景に憲法を改正し、それまで禁じられていた大統領の再選を可能にした。


2006年5月の大統領選でウリベは圧勝した。次点の左派候補を40ポイントも引き離すほどの地滑り的大勝だった。



二期目に入ったウリベ政権はゲリラに和平を呼び掛けた。徹底的に叩いて弱体化させ、穏健派のみ残しておいて対話のテーブルに引きずり出し、武装解除させてしまおうという狙いがあった。


これに応じてELNは40年来初めて停戦に合意した。ウリベは獄中にいたELN最高幹部アントニオ・ガランを釈放し、彼を和平交渉の仲介役に任命した。ELNはウリベ政権下の徹底弾圧でメンバーを減らし、武装闘争の継続が困難な状況に追い込まれていたのだ。


一方、FARCは頑なに和平を拒んだ。二度の和平交渉が失敗し、もはや政府をまったく信用していない彼らは、コロンビアのジャングルに引きこもってコカインを作るしか生き残る道がなくなっていたのである。


そこでウリベは和平交渉の仲介役にチャベスを指名した。思想的にゲリラに近いチャベスなら、ゲリラも信頼し打ち解けるだろうと考えたのか。チャベスはウリベの要請を快諾した。


2007年8月からチャベスを仲介して交渉が始まった。この交渉はこれまでの中で最も進展を見せた。チャベスはFARCの老ボス・マルランダに対し、ベネズエラに来て直接交渉に参加するよう持ちかけた。ところが、これにウリベが水を差す。


「マルランダがベネズエラに行くのは勝手だが、奴を見つけたらすぐに殺すか、捕まえて刑務所にぶち込んでやる」


というのだ。ウリベは父を殺したゲリラへの恨みを忘れてはいなかった。常に暗殺を恐れるマルランダは結局、交渉の場に姿を見せることはなかった。


07年11月、決定的な事態が起こる。ウリベが突然、交渉の仲介役からチャベスを外すと言明したのである。チャベスが自分の許可を得ず、勝手にコロンビア軍幹部と話をしたから、というのがその理由だった。


これにはチャベスも激怒した。チャベスが怒るのも無理はない。交渉開始からたった3ヵ月で一方的に打ち切ってしまったのである。腹の虫が収まらないチャベスはコロンビアとの外交関係を凍結した。


「コロンビア政府の人間はみんな嘘つきだ。もう、こんな連中は信用できない。私はコロンビアとの関係を冷凍庫に放り込む」


和平交渉をブチ壊したウリベには冷徹な計算があった。つまり、最初から彼はゲリラと交渉する気などなかったのである。


ウリベがチャベスを交渉の仲介役から外した理由は、


「自分を通さずにコロンビア軍の幹部と話をした」


というものだ。チャベスがコロンビアの軍部と内通し、自分をクーデターで追い出そうと謀っている、というのが表向きの理由だった。


だが、独立以来、一貫して民主主義統治の原則を貫き、軍事クーデターや独裁の経験をほとんど持たないコロンビアでクーデターが起こるなどとは到底思えない。そんなことはウリベでさえ信じてはいないだろう。この話はウリベの作為であることが看破できる。


では何故、ウリベはチャベスを交渉の席から外す必要があったのか。そもそも最初からチャベスに仲介を頼む必要などなかったのではないか。


要するにウリベは交渉の成功を望んでいないのである。チャベスの仲介でFARCがジャングルの奥深くに捕らえてある750人の人質(この中には政治家や軍人、警官、アメリカ等の外国人も含まれる)の解放を巡る交渉が進展を見せたとき、ウリベは難癖をつけて、一方的に交渉を潰してしまった。


FARCが人質を解放すれば、それは交渉を仲介したチャベスの得点になってしまう。わざわざ敵国ベネズエラの指導者に得点稼ぎをさせてやる必要はない。


自国で誘拐された人質を隣国の政治家に頼まなければ取り返せないのでは、コロンビア政府の面目は丸つぶれである。チャベスを仲介役に指名したのは、長期の監禁で弱っている人質たちの家族がうるさいからだ。ウリベは渋々、交渉をしているように見せかけたに過ぎないのである。


だから最初からチャベスに用なんてなかった。人質解放交渉がうまくいってほしくないから、ウリベは交渉を踏み潰すチャンスを狙っていたのだ。チャベスはまんまと利用されたわけである。


だが、このまま引き下がるチャベスではない。チャベスはその後も粘り強くFARCとコンタクトを取り、2007年暮れから2008年初めにかけて6人の重要な人質を解放させることに成功した。


2002年からFARCに誘拐されていた女性国会議員のクララ・ロペスは6年ぶりに解放されたとき、自分を監禁していたゲリラ兵士との間に一児をもうけていた。監禁中にゲリラに強姦されたのか、それとも互いに愛し合って子供を作ったのか、そのどちらかは不明である。


生まれた男の子はジャングルの中で母子ともども厳しい監禁生活を送るわけにもいかず、生後間もなく母の手から引き離され、ボゴタの孤児院に預けられた。


実はこの時、FARCは最後までロペスの解放を渋っていた。母子ともども解放すると約束していたのである。ところが、ロペスの子はすでに孤児院に預けてある。だから母子一緒に解放することは出来ない。おそらくFARCはロペスの子を必死になって捜し、取り戻そうとしていたのだろう。


だがこの時すでにウリベは孤児院に預けられていたロペスの子を捜し出し、もうとっくに赤ん坊は政府の手で保護されていることをアピールしたのである。FARCは母子を解放することで「人道的」なイメージを演出しようとしたのだろうが、見事にウリベに覆されたわけだ。


解放された人質たちはコロンビアのジャングルで国際赤十字のスタッフに引き渡された後、ベネズエラのカラカスにヘリコプターで運ばれ、チャベスの歓迎を受けた。


人質たちは記者会見で交渉を仲介したベネズエラ政府の尽力に感謝し、口々に交渉を妨害したウリベの対応を非難した。マスコミの力は強い。チャベスは人質を利用して意趣返しをしたのだ。


さらにチャベスは思想的に近いFARCを擁護し、


「コロンビアのゲリラはテロリストじゃない。反乱軍だ。コロンビアの寡頭体制に抵抗する反乱軍だ。だから彼らを正規の軍隊と認め、テロ組織の指定を解除すべきだ」


などと発言した。これにはコロンビア政府もコロンビアのテロ被害者も反発し激怒した。


だが、これもウリベの計算の内だった。常に冷静なこの男の頭には父を殺したFARCへの復讐のシナリオが描かれていたのである。



2008年3月1日早朝、コロンビア空軍の戦闘機(ブラジル製スーパー・ツカノ)が国境を越えてエクアドル領内に侵入し、国境から10キロも南下した後、急速に方向転換し、国境3キロの地点にあるFARCキャンプを空爆した。


この時、キャンプではFARCナンバー2でスポークスマンのラウル・レイエス(本名ルイス・エドガル・デビア・シルバ)とその家族、兵士らが寝泊まりしていた。


突然の轟音とともに戦闘機からインテリジェンス爆弾が投下された。これは爆発すると周囲700メートルに破片を撒き散らし、地上にいる人間をまんべんなく殺傷するという恐ろしい兵器だ。


この爆撃でレイエスと家族、兵士の計23人が死亡。負傷者も多数出た。夜明けとともにコロンビア軍の特殊部隊が国境を越えてキャンプに入り、レイエスの遺体を回収し、生存者を並べて銃弾を撃ち込み息の根を止めた。そしてコロンビア側に引き揚げた。


当初、この事件を当事国エクアドルのラファエル・コレア大統領は冷静に受け止めていた。ところが、エクアドル軍の現場検証の結果、ゲリラたちが寝ようとしてパジャマ姿だったところを急襲され殺害されたことを知り、烈火の如く怒り出した。


ウリベはコレアに電話で状況を説明し、テロリスト掃討のためのやむを得ない軍事行動だった、事前通告しなかったのは遺憾である、と話した。しかしコレアは自国の主権を踏みにじられたと怒り、コロンビアとの国交を断絶すると言い出したのである。


これに素早く反応したのがチャベスだった。チャベスはただちに軍隊をコロンビアとの国境周辺に配置し、臨戦態勢に入った。


「もしコロンビア政府が自国に対しても同じようなことをするなら、戦争も辞さない」


という事実上の宣戦布告である。チャベスはエクアドルに飛んでコレアを励まし、ふたりはコロンビアの主権侵害行為を非難すべく周辺国に協力を呼び掛けた。


これに応じてニカラグアのダニエル・オルテガ大統領もコロンビアとの国交を断絶すると表明した。ニカラグアはコロンビアと隣り合ってはいないが、カリブ海に浮かぶ島の領有権を巡ってコロンビアと対立し、このほど国際司法裁判所がコロンビアの主張を認めてコロンビアに領有権を与えたばかりである。その意趣返しをしたのだ。


事態は二国間の外交問題から南米全体の政治問題に発展した。ただ、強硬なエクアドルとベネズエラに同調する国は限られ、多くの国はコロンビアの行為を非難しながらも事態を静観する構えだった。


アメリカ政府はコロンビアの立場を全面的に支持した。しかし、南米でコロンビアを積極的に支持する国はついに現われなかった。


テロリストを殺すために他国の領土を侵犯することも厭わない国は、アメリカとイスラエルくらいのものだ。


襲撃時、エクアドルのキャンプにはメキシコやニカラグアの左翼の学生もいた。負傷者はニカラグアの病院に運ばれ手当てを受けた。


国際的な批判を浴びたウリベはエクアドル政府がゲリラをかくまっていると非難した。そして、とっておきの切り札を切るのである。


3月3日、コロンビア国家警察のビクトール・ナランホ長官はキャンプで押収したFARCのノートパソコンを解析した結果、チャベスがFARCに3億ドルの資金を提供していたことが判明したと発表した。


さらにFARCが放射性物質のウランを50キログラムも購入していたことも明らかにした。原爆を作る気だったのか?いや、FARCにそんな技術力はない。ウランはあくまでも転売して資金源にするつもりだったようだ。


チャベスが資金提供をしていたという事実が暴露されたことで、チャベスは苦しい立場に追い込まれた。慌てたチャベスは「コロンビア政府の捏造」と反論した。しかし、国際刑事警察機構(ICPO)による中立的な検証の結果、コンピューターの記録に捏造された痕跡はなかった。チャベスは苦し紛れに、


「コロンビア政府の嘘つきぶりには呆れる。ICPOも大した嘘つきのピエロだ」


と嘲笑した。チャベスがゲリラとつながっているのは誰もが知っていたのである。


南米諸国を巻き込んだ政治危機は、3月7日、ドミニカ共和国のレオネル・フェルナンデス大統領の仲介により紛争当事者が互いに握手して和解。南米諸国はコロンビアの行為を非難しつつも、制裁などはせず、この問題はうやむやな形で決着したのである。


この外交ゲームの最大の勝者は誰だろうか?素早く南米をまとめて行動力を見せつけたチャベスに軍配が上がりそうだが、私はウリベの勝利だったと思っている。


「肉を切らせて骨を断つ」という諺がある。ウリベはコレアとチャベスを怒らせ、オルテガにも騒がせておいて、チャベスの資金提供という「爆弾」を落とした。チャベスは振り上げた拳の行き場がなくなり、結局、引っ込めざるを得なかった。


ただ、そんなウリベにも誤算があった。エクアドルという南米の小国を舐めていたことである。


南米諸国が結束してコロンビアを非難するという事態は想定外だったのではないか。この外交危機でコロンビアはアメリカの支持は得られたが、南米では浮いた存在となり、最後まで積極的な応援は得られなかった。



政権発足以来最大の危機を乗り切ったウリベは、以後もゲリラ弾圧の手を緩めず、落ち目のFARCを徹底的に追い詰めていく。


ナンバー2のラウル・レイエスの死の痛手はFARCにとってあまりにも大きすぎた。最高幹部マルランダの後継者と目されていただけに、レイエスを失ったことでFARCは窮地へと追い込まれていくのである。


3月7日、今度はイバン・リオスが殺害された。リオスはFARC最高幹部7人のうちの1人である。リオスを殺したのは彼の部下。しかも身辺警護に当たる護衛だった。彼はリオスを殺した後、リオスの右手首を切断して政府軍に投降した。手を切り落としたのはリオスを殺したという確かな証拠を持っていくためである。リオスの首には賞金が掛けられていた。


リオスを殺した兵士の証言によれば、レイエスの死後、FARC内部に動揺が走り、組織は混乱しているという。殺害の動機はリオスが部下に調理のため火を使うことを禁じたことだった。政府軍に追われる彼らは掃討作戦の強化で食糧の調達も困難になり、昼夜を問わず空腹を抱えながら山の中を逃げ回っているという。


政府の発表によれば、FARCから脱落する者は毎日20人。1年で3千人もの兵士がFARCから抜け出て政府軍に投降した。一時は2万人近い兵力を抱え、日本と同じ面積を支配下に置いていたFARCの面影はもはや影も形もない。ウリベ政権下の6年で組織は確実に弱体化し、ガタガタになっていた。


3月26日、FARCにとって40年来最大の不幸が訪れた。40年以上にわたりFARCを率いて政府と戦い続けてきた最高指導者マヌエル・マルランダが死んだのである。戦死ではなく、突然の心臓発作による病死と発表された。享年77歳。その歳でゲリラはきつかったろう。


側近によれば、マルランダはゲリラを辞めたいとひそかに漏らしていたという。でもこれまで一緒に戦い苦楽を共にしてきた仲間たちの前ではさすがに引退を口にすることは出来なかったのだろう。


FARCの新しい指導者にはアルフォンソ・カーノが選ばれた。カーノはFARCの思想的指導者である。この人事を巡ってはFARC内部の対立も浮き彫りにされた。マルランダの盟友であるFARC軍事指導者ヘルマンとホルヘのブリセーニョ兄弟がカーノと反目し、権力闘争の様相を呈したという。


ホルヘ・ブリセーニョ・スアレス(通称モノ・ホホイ)はFARCの有能な軍師であり、彼がいなかったらFARCはここまでもたなかっただろうと言われている。モノ・ホホイは欠席裁判で懲役40年を宣告されている。多くの誘拐や暗殺、テロに関わった男だ(彼は2010年9月23日、軍事作戦で殺害される)。


2008年7月2日、コロンビア軍はFARCに誘拐・監禁されていたフランス国籍の女性政治家イングリッド・ベタンクールら人質15人を救出したと発表した。


ベタンクールはフランス人の夫を持つ。フランスとコロンビアでは異色の存在として名の知れた人物で、コロンビア政界の腐敗を厳しく追及し続け、何度となく脅迫や暗殺未遂の憂き目に遭った。


そんなベタンクールが大統領選に出馬したのは2002年。選挙戦の最中の2月23日、無謀にもFARC支配地に足を運び、そのまま誘拐されてしまった。それから6年あまりの歳月が流れていた。


ベタンクールの誘拐はフランスでも大問題だった。彼女はフランスかぶれのエリート政治家。コロンビアよりも西欧諸国で世間の関心と同情を集め、国際的な救出運動が巻き起こっていた。


2003年7月にはフランス政府が救出作戦を展開。ドミニク・ド・ビルパン首相(当時)がブラジルに特殊部隊を派遣し、重病のFARC幹部をフランスで治療するのと引き替えにベタンクールの身柄を受け取ろうとしたが、この作戦は失敗する。コロンビア政府は自国の主権を侵害されたと抗議し、当時内相だったニコラ・サルコジ大統領が謝罪するという事態に発展した。


その後は度々、生存情報が伝えられるも事件に進展はなく、すでに死んだとか、ジャングルで病気になり重体とか、様々な憶測が乱れ飛んだ。パリにいるベタンクールの息子と娘が涙ながらに「母を解放して」とFARCに呼び掛け、フランス政府もベタンクールを解放するならFARCメンバーの亡命を受け入れるとまで約束した。


だが、FARCは頑なに解放を拒んでいた。FARCにとってベタンクールは最大の人質だ。利用価値が高すぎる。FARCは彼女を盾に国際世論を動かし、コロンビア政府を揺さぶり、コロンビアの獄中に囚われている仲間たちを何としても釈放させたかった。


2007年11月に公開されたFARCのビデオでベタンクールのやつれ果てた姿が世界中に衝撃を与え、彼女は肝炎を患い、余命数週間との情報も流れた。


そのベタンクールが6年ぶりに救出されたのである。救出作戦の詳細は次の通り。


コロンビア軍はFARC内部に多数のスパイを潜入させていた。彼らの口を通じてFARC幹部に「偽の人質移送計画」を信じ込ませた。


人質を別の場所に移送する。だが地上を行くのは危険だ。ヘリコプターをチャーターするから、それに乗せて運ぼう、というのだ。


これはFARC最高幹部からの命令として電子メールで伝えられた。ベタンクールらを拘束していたFARC幹部はこのメールを信用してしまった。


2日朝、コロンビア南部グアビアーレ県のジャングルに1機の大型ヘリが着陸した。何も知らないゲリラがベタンクールらを連れて乗り込んだ。離陸直後、異変が起こった。ゲリラに変装した特殊部隊がゲリラの司令官らを拘束し、15人の人質を救出したのだ。


1発の銃弾も使わず、1人の犠牲者も出さず、人質奪還に成功したのである。


ベタンクールは意外と元気だった。6年間、毎日米と豆だけの食事。3年半は首に鎖を巻かれてつながれていたという。


救出された人質には2003年から拘束されていたアメリカ人3人も含まれていた。彼らは民間軍事会社の傭兵で、コロンビアでのコカ撲滅作戦に参加中、乗っていた飛行機を撃墜されFARCの捕虜になっていたのだ。


FARCは重要な人質をまんまと奪還された上、幹部も捕まってしまった。救出作戦の成功でウリベ政権の支持率はついに90%を超えた。


チャベスを仲介に立てた交渉が始まったときからウリベの計画は始まっていたのだとも思える。チャベスの交渉でゲリラを油断させておき幹部を叩く。そして人質を取り戻すという寸法だ。


5月には「女ランボー」の異名を持つ幹部・通称カリーナも政府に投降した。カリーナは戦闘で右目を失明していた。投降したカリーナはジャングルで抵抗を続ける同志に「武装闘争の時代は終わった。武器を捨てて新しい国造りに参加せよ」と呼び掛けた。


もうFARCの時代は終わった。中南米ではどの国も民主化され、もはや民意は武力に訴えずとも政治に反映される時代になった。ブラジルもボリビアもエクアドルも民意で選ばれた指導者が国民のために改革を行なっている。ゲリラなどはとっくの昔に時代遅れになっていたのである。


FARCの終焉を見たチャベスも演説で武装闘争の放棄を呼び掛けた。


「ゲリラを辞めて合法闘争の道に戻るべきだ。アメリカ帝国主義者に介入の口実を与えてしまう」


チャベスの手の平を返したような発言にFARCは衝撃を受けた。だが、FARCも追い詰められるほどに意固地になってしまった。


「答えはノーだ。何度でも言う。千回でも言う。ノーだ!誰がマルランダの剣を捨てるものか」


と新指導者カーノは叫び、これからも社会主義コロンビアの建設に向けてゲリラ戦を続けると言明した。


そのカーノも2011年11月4日、カウカ県の山岳地帯で10時間にわたる戦闘の末に殺害された。後任にはロドリーゴ・ロンドーニョ・エチェベリ(通称ティモチェンコ司令官)が就任した。



ウリベ政権下でコロンビアの治安は劇的に改善された。


かつて農民虐殺を繰り返していたAUCも解体された。2003年7月、サンタフェ・デ・ラリート合意で政府と武装解除に同意したAUCは2005年末までに3万6千人のメンバーが投降し、社会復帰の道を歩むことになった。


コロンビア政府はAUCと癒着し彼らの虐殺や麻薬取引を黙認していると国際社会から非難されてきた。


そんな負のイメージを払拭するため、ウリベはAUCに恩赦を与えて解散させたのである。


ウリベは「正義・平和法」を制定し、投降に応じて被害者への謝罪と賠償を行なったAUCメンバーに対しては、最長8年の禁固刑を科すに留めた。この寛大な措置に犠牲者から反発の声が上がった。


AUCを率いていたカルロス・カスターニョは2004年4月に暗殺された。麻薬取引を巡るトラブルから兄・ビセンテに殺されたという。


その後、AUCの指導者となったサルバトーレ・マンクーソも政府に投降し、現在は麻薬密輸の罪で米国の刑務所で服役している。


ゲリラを叩くためにさんざん利用しておいて、用済みとなるやさっさと切り捨てる。そんな政府の意図が見える。


ゲリラ対策が成功し順風満帆なウリベ政権だったが、2008年10月には軍がボゴタのスラム街で無職の若者をリクルートし殺害、彼らをゲリラに見せかけて葬っていたことが発覚し大問題になった。


ウリベはただちに軍幹部27人を更迭したが、軍の兵士が戦果を偽装し休暇や報酬を得るために無実の市民を殺害しゲリラに見せかける行為は「ファルソス・ポジティボス(偽りの戦果)」と呼ばれ、半ば常態化していたことが分かっている。


2011年には、過去23年間でファルソス・ポジティボスによる犠牲者が1741人に上ることが分かった。



かつて世界で最も危険な国と言われ、年間3万人が殺され、3千人が誘拐されていたコロンビアも、2002年のウリベ政権の誕生により見違えるように変わった。


中南米最大の左翼ゲリラFARCも今や兵力は激減し、弱体化に歯止めが掛からない。相次ぐ幹部の死で組織は打撃を受け、武装闘争の継続は困難な状況となっていた。


2010年6月の大統領選では、連続三選を禁じられたアルバロ・ウリベの事実上の後継者として、国民統一党のフアン・マヌエル・サントス・カルデロン(中道右派)候補が当選を決めた。


サントス新大統領はウリベ政権下で国防大臣を2006年から2009年まで務め、2008年3月のアンデス危機の際にはFARC最高幹部ラウル・レイエス殺害作戦の陣頭指揮を執ったことで知られる。


就任直後の9月23日には、コロンビア中部メタ県とカケタ県の県境付近において、FARCの軍事指導者モノ・ホホイを軍・警察部隊の合同作戦で殺害した。


サントス大統領は「コロンビアの恐怖の象徴が死んだ。FARCに対する大きな勝利だ」と述べ、引き続きFARCへの軍事的圧力を強めていく方針を示した。


一方、サントス政権はウリベ政権下で悪化した隣国ベネズエラなど周辺諸国との関係改善を進め、南米で孤立化していたコロンビアの国際的地位の回復に努めた。


ウリベの「忠実な僕(しもべ)」とみなされていたサントスだが、ゲリラ対策では武力一辺倒だったウリベとは異なり、FARCに対して硬軟両用の柔軟な姿勢を示す。


武闘派の幹部に対しては殺害も辞さない強硬路線を貫く一方、穏健派の幹部には対話を呼びかけ、ウリベ政権下で中断されていた和平交渉の再開に乗り出したのである。


就任から2年後の2012年11月、コロンビア政府と最大の左翼ゲリラFARCはキューバの首都ハバナで和平交渉を再開し、キューバ、ノルウェー、チリの各国政府が交渉を仲介することになった。


交渉ではゲリラの政治参加、農地改革、麻薬問題などについて両者の協議が行なわれ、FARCは「今後、身代金目的の民間人の誘拐は行なわない」とする声明を発表するに至った。


背景には両者の歩み寄りがあった。政府軍の徹底弾圧にも関わらず、アンデスやジャングルを舞台に神出鬼没のゲリラ戦を続けるFARCの完全制圧は難しい。


FARCもまた、半世紀に及ぶゲリラ闘争にも関わらず、政権奪取は実現性に乏しく、無差別テロで国民の支持を完全に失っていた。出口の見えない消耗戦が、両者を交渉のテーブルに向かわせたのである。


約3年に及ぶ交渉の結果、2015年9月23日、コロンビア政府とFARCは「半年以内に和平を実現させる」ことで合意に達した。


サントス大統領はFARC最高幹部ティモチェンコと会談し、


・重大犯罪に関与していないゲリラ・メンバーに恩赦を与える

・紛争中の重大犯罪を裁くための特別法廷を設置する

・和平合意から60日以内にゲリラの武装解除を行なう

・紛争犠牲者への謝罪と賠償


以上の点で双方が合意したと発表した。


和平を歓迎する声が上がる一方で、内戦の犠牲者からは「ゲリラへの扱いが寛大すぎる」といった批判や、犠牲者への補償や兵士の社会復帰など不透明な点が多く、内戦の終結には悲観的な見方もあった。


FARCに父親を殺された前大統領ウリベ氏も「茶番だ」と合意を一蹴、和平路線を推し進めるサントス大統領を痛烈に批判した。


コロンビア政府とFARCは2016年6月22日、ハバナで停戦と武装解除に合意し、9月26日にコロンビア北部ボリーバル県の県都カルタヘナ・デ・インディアス市で和平合意に署名した。


和平の是非を問う国民投票が10月2日に行なわれ、反対が賛成を僅差で上回り否決された。


サントス大統領は和平への取り組みが評価され、同年のノーベル平和賞を受賞した。


11月24日に和平案は議会で承認され、FARCは国連監視団の監視下で武装解除を進め、コロンビア全土に設けられた26ヵ所の監視所で登録された7132丁の銃器が引き渡された。


2017年6月27日、中部メタ県メセタス市で最後の武器引き渡しと武装解除の終了式典が行なわれた。


サントス大統領は同年8月15日、コロンビア国内紛争の終息を宣言。50年以上にも及んだ「世界で最も長い内戦」は事実上、終結したのである。


2017年9月1日、FARCは合法政党「人民革命代替勢力(FARC)」を創設。武装闘争を放棄し、合法闘争路線に転換することを宣言した。


しかし、過去に多くの殺人と誘拐に関与したFARCへの不信感は根強く、不支持率は87%にも達した。


2018年3月11日、和平後初の上下両院議員選挙が実施され、FARCは74人の候補者を立てながらも1人も当選できず惨敗した。


FARCの得票率は1%にも満たず、改めて国民感情の厳しさを物語る結果となった。


しかし、和平合意に基づき、2026年までFARCは上下両院に5議席ずつ自動的に与えられることになっている。


2018年6月17日に実施された大統領選決選投票では、和平反対派のイバン・ドゥケ(中道右派)が和平推進派で左派の元ボゴタ市長グスタボ・ペトロを破り、当選した。


ドゥケはウリベ派の野党「セントロ・デモクラティコ(中道民主党)」出身の上院議員。41歳というコロンビア史上最年少の若き大統領で、政治経験は乏しく、その手腕は未知数だ。


ドゥケ大統領は「被害者の救済が中心となるような和平合意の修正を求める」と述べ、FARC幹部の刑事免責や政治参加を認めた和平合意の見直しに言及した。


ドゥケ政権の誕生で、コロンビア和平の展望は不透明感を増している。



皮肉なことに和平合意以降、コロンビアのコカイン生産量は飛躍的な上昇を続けている。


コロンビア政府は米国の支援でコカ撲滅作戦を強力に推進してきた。


コカ栽培地にグリホサート(除草剤)を散布し、人手でコカの木を抜き取るという地道な作業が実を結び、サントス大統領の就任時(2010年)にはコロンビアのコカ作付面積は5万ヘクタールにまで減少していた。


ところが、ドゥケ大統領の就任時(2018年)には、なんとコカ作付面積は20万9000ヘクタールにまで拡大。コカイン生産量も921トンに達した。


ちなみに2012年時点でのコカ作付面積は7万8000ヘクタール。コカイン生産量は165トンであった。


わずか8年間で4倍以上に増加していたのである。


FARCとの和平を優先させたサントス政権下で、コロンビア政府はFARCとの和平交渉を優位に進めるため、FARCの要求を受け入れ、コカ栽培地への除草剤の空中散布を中止した。


これはコカ栽培農民からの支持を取り付けるという目的もあった。政府は貧しい農民に助成金を出し、コカ栽培を自主的に放棄するよう促した。


この政策は一定の成果を上げていた。コカ栽培農家は助成金と引き換えにコカ栽培を放棄し、2017年には4万ヘクタールのコカ栽培地が減少した。


コカ栽培農家の月収はコロンビアの最低賃金の56%しかない。つまり、コカ栽培は大して儲からないのだ。にも関わらず、71%の農家はコカ栽培の方が他の作物より儲かるという。


コカは植え付けから収穫までに8ヵ月~1年半かかる。政府が推奨する代替作物(パーム椰子、カカオ、ゴム、コーヒー豆など)は植え付けから収穫までに3~6年の期間を要する。


コカは手っ取り早い現金収入になるのだ。また、他の作物に比べて初期投資が少ないという利点もある。こうした魅力がコロンビアの貧しい農家をコカ栽培へ走らせていた。


さらに、和平でFARCがいなくなった「空白地帯」に麻薬組織や他のゲリラ組織が入り込み、麻薬利権を巡る熾烈な縄張り争いを始めたのだ。


国連薬物犯罪事務所(UNODC)は2015年7月8日、コロンビアのコカイン生産量が前年比で50%も増加したと発表した。


UNODCコロンビア支部のボー・マティアセン代表によると、コカ作付面積は前年比で39%増の9万6000ヘクタールに拡大。コカイン生産量も前年比46%増の646トンに増えたという。


UNODCは2018年6月26日、2016年の世界のコカイン生産量は推定1410トン。うちコロンビアの生産量は866トン(全体の61%)と発表した。


その結果、コカインの密輸量も急増している。


米国疾病予防管理センター(CDC)によると、米国では毎日200人が麻薬の過剰摂取で死亡しているという。


2006年の米国の全国調査では、12歳以上のアメリカ人(3530万人)が「コカインを使用したことがある」と答えた。


米国の総人口は3億1000万人(2010年)なので、じつにアメリカ人の9人に1人がコカインを吸ったことになる。


コカインの米国市場での卸相場は1キログラム当たり2万~2万5000ドル(約275万円)。欧州では1キロ当たり3万5000ドル(約385万円)になる。


また、経済成長著しい中国では5万ドル(約550万円)。オーストラリアでは10万ドル(約1100万円)という高値で取引されているという。


密輸も命がけだ。麻薬の運び屋がコカインを詰めた小さなカプセルを大量に飲み込み、空港での厳しいチェックを掻い潜り、飛行機で運ぶこともある。


途中でカプセルが破裂し、急性中毒で死亡することもある危険な行為だ。


2019年5月24日、コロンビアのボゴタからメキシコシティ経由で成田に向かっていた日本人男性(42)が機内で死亡した。


メキシコの司法当局によると、この男性の体内からはコカインの入った246個ものカプセルが見つかったという。


コロンビアの麻薬カルテルは「潜水艇」で欧米までコカインを密輸することもある。


カルテルの潜水艇は手製で、船体は漁船などに使われる強化プラスチック製。完全に水中に潜れるわけではなく、船体の半分が水面下に没するいわば「半潜水艇」だ。


艇内にはトイレもなく、エンジンの熱で高温になる。沿岸警備隊のレーダーに捕捉されないよう、大海原の荒波を乗り切って目的地までコカインを運ぶのはまさに命がけだ。過酷な環境で命を落とす者も少なくない。


潜水艇の乗組員のほとんどは貧しい漁師で、月収は200ドルほどしかない。1回の密輸で1万~2万5000ドルの収入になるという。


無論、コロンビア人のほとんどは麻薬とは無縁である。


一般的なコロンビア人は真面目で、コカインもマリファナもやらない。麻薬の危険性を知っているからだ。


しかし、麻薬目的でコロンビアを訪れる不届きな外国人が増えている。


欧米では1グラム数千~数万円するコカインが、原産地コロンビアでは数百円で手に入るからだ。


観光客が多いクラブなどでは、トイレでコカインを吸おうという外国人が長蛇の行列を作っているという。



隣国ベネズエラの政情不安も追い打ちをかけている。


1999年に就任したウーゴ・チャベス大統領の下で「21世紀の社会主義革命」を掲げたベネズエラは、原油埋蔵量では世界1位の石油大国である。


チャベス政権は豊富な石油資源を元に貧困層の優遇政策を展開し、国民の半数を占める貧困層から圧倒的な支持を集めていたが、2013年3月5日、チャベスは癌で死去する。


後継者のニコラス・マドゥロ大統領はチャベス路線を継承したが、2014年末からの原油価格の下落で歳入の9割を原油輸出に依存するベネズエラ経済は破綻した。


年率100万%に達する猛烈なインフレと極端な物不足で国民生活は崩壊し、2015年以降の4年間に450万人以上(総人口の1割)のベネズエラ人が国外に脱出したのである。


2018年は1日に5千人のベネズエラ難民が近隣諸国に出国し、推定270万人のベネズエラ人をラテンアメリカ・カリブ諸国が受け入れている。


最も多くベネズエラ難民を受け入れているコロンビアには約130万人。ペルーに約76万8千人、チリに約28万8千人、エクアドルに約26万3千人、アルゼンチンに約13万人、ブラジルに約16万8千人の難民が滞在している。


彼らの多くは定職もなく、窃盗や麻薬密売などの犯罪行為に手を染める者も少なくない。


原油価格の低迷は産油国コロンビアの経済も直撃し、景気後退とベネズエラ難民の急増でコロンビアの失業率は10%を超えていた。


こうした中で、コロンビア第二のゲリラ組織である民族解放軍(ELN)との和平も行き詰まっていた。


コロンビア政府とELNは2017年2月、エクアドルの首都キト市で和平交渉を開始。


2017年10月1日から2018年1月12日までの停戦で合意したが、停戦期間終了後に起きた連続爆破事件を受けて交渉は中断。


その後、キューバのハバナに舞台を移して交渉が再開されたが、ドゥケ政権はベネズエラ政府がELNを支援していることを理由に交渉を打ち切った。


2019年1月17日、ELNは首都ボゴタ南部の警察学校を爆破し、22人の死者と68人の負傷者を出した。


社会不安を煽るようなELNのテロ。そしてFARCの武装闘争再開宣言。


コロンビアはまだ「安全」とは程遠い状況にある。



しかし、コロンビアで暮らしている者として、どうしても腑に落ちないことがあった。


かつて世界で最も治安の良い国だったコロンビアで、なぜこうも戦乱が絶えず、治安が良くないのか。


私が知るコロンビア人の多くは親切で、人間的な優しさと温かみがある。彼らは自分たちの家族を愛し、祖国を誇りに思っている。


凶悪犯罪が後を絶たない一方で、「幸福を感じる国民」が世界でもトップクラスに多いという事実がある。


コロンビアの貧困率は46%。所得分配のジニ係数では0.553で貧富の格差が大きい。


ところが、「現在の生活に満足している」という国民は93.3%という驚異的な高さだ(日本は71.1%)。


コロンビアでは人と人との距離が短い。初対面でも握手やハグをする。私もコロンビア滞在中は幸福感を覚えることが多いのだ。


コロンビアを訪れ、コロンビア人たちと関わったことのある人間で、コロンビアは危険だとか、コロンビア人は凶暴だとか思う人はいないのではないか……?


コロンビア人の優しさと治安の悪さという矛盾した二面性。


ある人は言う。コロンビアを征服したスペイン人は殺人鬼や強姦魔のような残忍な人間が多かった。彼らの呪われた血がコロンビア人にも流れているのだ、と。


しかし、もしそうであるならば、かつての治安の良さを説明できない。


ある人はこう言う。かつて国民の倫理的な規範に国家よりもはるかに強い影響を与えていたカトリックに代わる新しい世俗的な倫理を、カトリック的な倫理規範が解体された後も生み出せていないことが大きな原因である、と。


だが、これもあまり説得力はないように思える。世俗化した国で治安が崩壊しているとすれば、コロンビアだけでなく、他の国でも同じような現象が起きているはずである。


コロンビアという国が抱える大いなる矛盾。その中に私は囚われてしまったのだ。



コロンビアと聞いて思い浮かべるものは何でしょうか。

おいしいコーヒーの国?

コロンビア=コーヒーというくらい有名ですね。

きれいな花の国?

日本に輸入されるカーネーションの7割はコロンビア産です。

サッカーの国?

W杯で日本と対戦しました。

美男美女の国?

確かにイケメンやモデルみたいな人が多いですね。

あとは「治安の悪い危険な国」というネガティブなイメージが圧倒的に強いと思います。


作者はコロンビアを訪れ、コロンビア各地を旅し、現地の人たちと交流する中で、この国が自分の中でとても好きになっていくのを感じました。

実際に行ってみると拍子抜けするくらい平和で、親切でフレンドリーでホスピタリティにあふれる心の優しい人が多いのです。

気候は温暖で資源は豊富。しかも国民は働き者で将来有望な国です。

今、世界中の国と企業がコロンビアに投資しまくっています。

街はどんどんきれいになり、ピカピカの新車が走り回り、道行く人々はみんなおしゃれです。


でも、犯罪発生率はアメリカの5倍!あの銃社会のアメリカ人でさえ怖がるのです。

昔に比べて治安は良くなっていますが、それでも街中で歩きスマホなんて論外!

日本人が強盗に襲われて犯人を追いかけたら撃ち殺されたなんて事件も起きています。

気をつけていれば居心地のいい国ですが、油断するとマジでやられます。


コロンビアに行かれる方はくれぐれもご注意くださいm(__)m


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