桜の契り

土屋正裕

桜の契り

天明年間、大飢饉の危機が迫る盛岡藩。盛岡藩士・大矢安右衛門は不義密通を犯した妻を成敗するが……。武家社会に生きる武士たちの悲劇。



主な登場人物


大矢安右衛門おおややすえもん

この物語の主人公。勘定方に属し、三十こく二人扶持ぶちの下級藩士。江戸詰を命じられ、外桜田の盛岡藩上屋敷に妻の八重と暮らしている。


大矢八重おおややえ

安右衛門の妻。旧姓・小林こばやし。安右衛門の上役・小林伊織こばやしいおりの娘。


沼宮内主馬ぬまくないしゅめ

盛岡藩士。安右衛門の親友。盛岡城下下ノ橋に屋敷を構える。


中野渡甚五なかのわたりじんごろう

安右衛門の朋輩。江戸屋敷の長屋に暮らしている。趣味は碁。


陣ヶ岡兵部じんがおかひょうぶ

盛岡藩目付役。


城守蔵人じょうもりくろうど

安右衛門の上役。謹厳実直な性格。



桜の契り



天明三年(一七八三年)春のことである。

大矢安右衛門は江戸・外桜田の盛岡藩上屋敷にいた。

安右衛門は盛岡藩九代藩主・南部なんぶ修理大夫しゅりだいぶ利正としまさの家臣である。

俸禄は三十石二人扶持の下級藩士で勘定方に属していた。

国許の盛岡から江戸藩邸に転勤を命ぜられたのは二年前。

以来、妻・八重とともに藩邸の長屋で暮らしていた。

夫婦にはまだ子がなかった。


国許からは時折、手紙が送られてくる。

親類や友人・知人からの便りである。

沼宮内主馬からの手紙もあった。

主馬は安右衛門の幼馴染で、国許の盛岡では屋敷が隣り合っていたこともあり、父祖の代から親交が深い。

主馬も同じ勘定方に属している。

主馬の手紙は二通あった。

一通は安右衛門に、もう一通は妻の八重に宛てたものだ。

安右衛門は自分宛の手紙を読んだ。

国許では不作が続き、飢饉ケガヅが始まるかもしれない、と書かれてあった。


東北地方は安永年間(一七七二~一七八一年)の頃より悪天候や冷害で農作物の収穫が激減し、すでに農村部を中心に疲弊した状況にあった。

天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には弘前の岩木山が、七月六日(同八月三日)には上州の浅間山が噴火し、火山灰の降灰や日射量低下による冷害をもたらし、農産物に壊滅的な被害が出た。

天明二年(一七八二年)から三年にかけての冬は異常な暖冬となり、その三十余年前の宝暦年間(一七五一~一七六三年)の凶作時と酷似していた。

その結果、全国的な凶作となり、天明二年から八年(一七八八年)にかけて大飢饉が発生した。

杉田玄白すぎたげんぱくの『後見草のちみぐさ』によれば、被害は東北地方の農村を中心に全国で数万人が餓死し、死者の肉を喰らい、人肉に草木の葉を混ぜ「犬肉」と称して売るほどの惨状だったという。

ある藩の記録には、「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記され、餓死者の死骸が累々と積み重なる状況であった。

しかし、諸藩は失政の責任を問われ、幕府から改易などの処分を受けることを恐れ、被害の実情をひた隠しにしたため、実際の犠牲者数ははるかに多い。

被害は特に陸奥がひどく、弘前藩では死者十数万、逃散した者も含めれば藩の総人口の半数近くを失った。

飢餓とともに疫病も流行したため、日本全国で安永九年(一七八〇年)から天明六年(一七八六年)までの六年間に九二万人余の人口減となった。

農村を捨てた農民は都市部に流入し、治安が悪化した。天明七年(一七八七年)五月、江戸や大坂で米屋の打ちこわしが起こり、江戸では米屋千軒、商家八千軒余が暴徒に襲われ、無政府状態が三日も続いた。

その後、打ちこわしは全国に波及し、これを受けて幕府は同年七月、寛政の改革※を断行したのである。


※寛政の改革。老中・松平定信まつだいらさだのぶが天明七年から寛政五年(一七九三年)にかけて行なった幕政改革。飢饉対策、農民の帰村奨励、棄捐令を発し、株仲間や専売制を廃止するなど田沼意次たぬまおきつぐの重商主義を改め、米価抑制のため酒造を制限した。享保の改革、天保の改革と合わせ江戸の三大改革と呼ばれる。


盛岡藩は稲作の北限地域であり、生産性の低さと気候条件の悪さから飢饉が非常に多く、慶長五年(一六〇〇年)から明治三年(一八七〇年)までの二百七十年間に不作が二十八回、凶作が三十六回、大凶作が十六回、水害が五回あったと記録されている。

特に沿岸部(閉伊へい九戸くのへ三戸さんのへ地方)ではヤマセと呼ばれる冷風による被害が大きく、天明三年から同七年にかけては収穫量がゼロという惨状であった。

また、藩の治世も歴代目立ったものはなく、藩経営が潤滑に進まなかったために備蓄も少なく、飢饉対策はお粗末なものであった。

天明三年土用になってもヤマセで気温が上がらず、稲の成長は止まり、大風と霜害で収穫ゼロの大凶作となり、同年秋から翌年にかけて大飢饉が発生し多くの餓死者を出した。

被害が大きくなった原因は自然現象のみならず、藩の年貢徴収が過酷であり、農民に対する苛斂誅求かれんちゅうきゅうが度を超したため、農村の復興がほぼ不可能な状況に陥っていたことも挙げられる。

天明の大飢饉では、盛岡藩だけで七万五千人余の死者を出した。当時の盛岡藩総人口三十万人の四分の一に相当する。

飢餓に迫られた領民は野山の草木の根や皮、土までも食べ尽くし、人肉食が横行したとの記録が残されている。


安右衛門は自分宛の手紙を読むと、主馬が八重に宛てた手紙を取った。

自分宛の手紙と比べてみて、八重に宛てたものの方が分厚く、重みがある。

(はて……?)

安右衛門は訝しく思った。

八重に何の用があるのか。手紙はまだ八重の手には渡っていない。この手紙はまだ誰も読んでいないことになる。

少し迷ったが、安右衛門は八重宛の手紙を開いた。彼の表情が固まった。

(これは……)

ただの手紙ではない。主馬の達筆で、

「今一度会いたい」

「もう一度、口を吸わせてくれ」

などと書かれてある。

不義密通の動かしがたい証拠であった。

しかも、主馬は、

「近いうちに公用で江戸に赴くことになった。その時、会いたい。藩邸では目立つゆえ、どこぞで落ち合いたい。返事を待っている」

と書いてあるのだ。

手紙を読み終えて、安右衛門は石のように動かない。

(まさか、主馬と八重が……)

にわかには信じがたいことである。これまで二人にそのような関係があったとは夢にも思わなかった。

八重は国許の上役・小林伊織の娘である。伊織は安右衛門の実直な性格を見込んで縁談を持ち込んだ。安右衛門に出世の野心がなかったわけではない。

だが、安右衛門は八重という女を愛していたし、八重もまた安右衛門にまめまめしく仕えた。似合いの夫婦だと評判だった。

この二年間、夫婦の間を疑うような何物もなかったのである。

安右衛門は沈思した。

適当な理由をつけて八重を盛岡に帰し、離縁するのが最もよい。

姦婦を成敗すれば表沙汰になる。何も知らない国許の親類縁者に迷惑が及ぶ。

そこまで冷静な判断ができれば何事もなかったのである。

が、安右衛門の一徹な性格がわざわいした。


その日は非番であった。

安右衛門は内職の針仕事をしている八重に歩み寄った。

物価の高い江戸で下級藩士の生活は苦しい。長屋暮らしの藩士はいずれも内職で口を糊していた。

「どうした?」

安右衛門は八重の額に手を当てた。

「熱でもあるのではないか」

「気分悪しゅうございます」

「脈を診てみよう」

安右衛門は針仕事の手を休めた八重を抱きすくめるようにして腰の脇差を抜いた。

切っ先は八重の乳を深々と貫き、畳まで食い込んだ。安右衛門は八重を抱いたまま倒れ込んだ。

八重の呻り声も長屋の人々の耳には届かなかった。


安右衛門は主馬の手紙を火鉢に投げ込んだ。

手紙は黄色い炎を上げて燃えた。

白い灰になるまで安右衛門は凝視していた。

表に人の気配がして、

「安、おるか?」

無遠慮な声をかけて戸を開けたのは朋輩の中野渡甚五郎である。

甚五郎は非番の日に安右衛門の長屋を訪れ、碁を打つ。碁は安右衛門も好きで、誰にも引けを取らない自信があった。

「あっ……」

甚五郎は血の海に八重が倒れ伏しているのを見て腰を抜かし、

「や、安、乱心したか?」

「いかにも。乱心した」

甚五郎が素っ頓狂な悲鳴を上げ、長屋の通路を駆けていった。


八重を殺害した安右衛門は目付役・陣ヶ岡兵部の訊問を受けた。

安右衛門は口をかんして何も答えぬ。

らちが明かぬというので、勘定方の上役・城守蔵人が安右衛門の身柄を引き受けた。

「そこもとの所業とも思えぬ。子細を申せ」

人払いをして、安右衛門と対座しても、彼は孤独の殻に籠もったままだった。

ややあって、安右衛門が静かに涙を流した。

暗い座敷で蔵人は黙って見つめている。

ことわりもなく妻を斬ったとあれば切腹にも値しましょう。もとより一命は惜しみませぬが、ひとつだけ果たしておきたいことがあるのです」

「何じゃ?」

安右衛門は中庭の桜の木に目をやった。

枝にはまだ青いつぼみが並んでいる。

「あの桜が咲くまでには戻ります。それまで見逃していただきたい」

「桜が咲くまで、そこもとを見逃せと?」

御意ぎょい

「ふうむ……」

蔵人は安右衛門の顔を凝視した。

彼が苦し紛れに嘘を言うとは思えない。どういう事情か知らぬが、桜が咲くまでに戻るというのであれば、ここは自分の一存で見逃してやってもよい、と蔵人は考えた。

「よかろう。ただし、桜が咲くまでじゃ」

安右衛門は畳に両手を突いて深々と頭を下げた。


大矢安右衛門を故意に逃したというので、城守蔵人は閉門を命ぜられた。

外桜田の盛岡藩上屋敷から脱走した安右衛門の行方は杳として知れなかった。


盛岡の城下町は北上川、中津川、雫石川の合流点に築かれ、盛岡城を中心とする三重の堀で区画されていた。

城下町の北から東にかけて北上山地の丘陵地帯が広がり、西から南にかけて豊かな穀倉地帯が広がっている。

盛岡は水陸の交通の要衝である。

南北に奥州街道、西から秋田街道、東から野田街道、宮古街道、遠野街道が盛岡で交差し、北上川の水運は和賀の黒沢尻、仙台藩領石巻を経て江戸につながっている。

盛岡城を囲むように武家屋敷が広がり、その背後に町屋が広がる。中津川が北上川と合流するところの下ノ橋を渡ったところに沼宮内主馬の屋敷はあった。現在の下ノ橋町のあたりである。


盛岡北西の岩手山は頂を白く染め、盛岡城下は一面の銀世界であった。

北上盆地の中央部に位置する盛岡は内陸性気候であり、夏と冬、昼と夜の寒暖差が激しい。

降雪量は極端に多くはないものの、冬季の日照時間が長いため、よく晴れた深夜や早朝に放射冷却現象が起こり、路面が凍結して雪害以上の問題となる。

本州では最も年平均気温の低い土地であり、桜の開花は江戸より一月は遅い。


沼宮内主馬の屋敷は中津川に面していた。

盛岡城内の勘定所での勤めを終え、主馬が下城したのは夕闇が濃くなる頃だった。

小者の弥助やすけを伴い、下ノ橋を渡ると無言で主馬の前に立ちはだかった侍がいる。大矢安右衛門であった。

面体は深編笠で隠していたが、

「沼宮内主馬どのか?」

と問われ、主馬は心得たように弥助に言った。

「弥助。先に行っておれ」

一足先に弥助を屋敷に帰した主馬は安右衛門と並んで歩き出した。


ふたりは中津川沿いの道を歩いた。

右手に黒々とした中津川の流れを臨み、左手は武家屋敷の街並みが広がっている。

人通りはまったく絶えている。

凍えるような寒さであった。

「安。話があるなら早くしろ」

主馬が白い息を吐いた。

「八重どのが斬られたという話は聞いておる。気の毒だったな」

「言うな!主馬、未練だぞ」

安右衛門が叫ぶように言った。

「未練?俺が八重どのに未練を残していたと申すか」

「なに……」

「確かに不義密通の文を送ったのは俺だ。だが、八重どのが俺と密通していたというのは貴様の思い込みだ」

「今更、何を言うのだ」

「いや、八重どのは不義密通などしておらぬ。俺に抱かれたことはあっても、八重どのから求めてきたことは一度もない」

「…………」

「八重どのは貴様のみを慕っておった。なれど、貴様は八重どのが不義密通を犯したと思い込み、八重どのを手にかけた。貴様の浅はかさ、八重どのは何と思うかな……」

「貴様は俺を罠にはめたのか?」

安右衛門の声は心なしか震えていた。

主馬が送った手紙は八重との不義密通の文ではなく、安右衛門を籠絡するための巧妙な罠だった。安右衛門が八重を糾明することなく成敗することも織り込み済みだったのか。

「なれど、何故、貴様はそのようなことをした?俺に恨みがあるのか?」

「俺は貴様が憎かった。幼少の頃から俺と貴様は比較され、貴様はいつも俺を出し抜いてきた。同じ勘定方にあって、貴様は上役の娘を嫁にもらい受け、将来が約束されている。俺は出世の糸口もつかめず、こんな田舎で朽ち果てていくだけだ。貴様には俺の苦しみなど分かるはずもない」

「主馬、それは違う。俺は貴様を見下したことは一度もない」

「黙れ!俺は貴様のそういうところが嫌いなのだ」

「何だと?」

「男なら、いや、人間ならば、怒り、悲しみ、笑うところを、貴様はいつも涼しい顔で受け流す。侍の道に外れまいとして、おのれを偽ろうとする。貴様のそうした性格が嫌いなのだ」

「俺が貴様を欺いたと言うのか」

「貴様は八重どのを愛していたのか?」

「…………」

「俺が書き送った偽の密通の手紙を、貴様はそのまま信じて、八重どのを斬った。八重どのを愛していれば、それがまことかどうか、八重どのの口から確かめようとしたはずだ。貴様はおのれの体裁を気にして、八重どのを斬って捨てた。貴様の頭には、家名だの、武士の亀鑑きかんだの、くだらぬ見栄を張ることしかないのだ。違うか?」

安右衛門は返事に窮した。

八重を刺殺したとき、彼の胸中を占めていたのは裏切られたことへの怒りだった。

だが、我に返ったとき、彼は乱心を装うことにした。主馬の手紙を焼き、何も語らずに腹を切れば、それが残された遺族にとって最善の結果をもたらすと信じたからだ。

主馬と八重の不義は闇から闇に葬られ、伊織は不貞の娘を持ったという不名誉を免れる。

だが、最初から不義密通などなかったのだ。すべては安右衛門を恨む主馬の謀略であった。

「なれど、何故、貴様はそのようなことをしたのだ」

「貴様を怒らせてみたかったのだ」

「何……?」

「貴様は俺が負けると思って、剣術の試合でも、わざと手加減して、俺に勝たせてやったりした。貴様が負けても、皆は貴様が俺に勝たせてやったとしか思わぬ。そうしたときの俺の惨めな気持ちが貴様に分かるか?」

「…………」

安右衛門と主馬は盛岡城下中ノ橋に新陰流の道場を構える小峰主膳こみねしゅぜんの門人であった。

ふたりとも剣術を好み、師範代を務めるほどの腕前で、

「小峰の竜虎」

などと呼ばれたものだ。

「貴様が八重どのと結ばれたとき、俺は貴様を試してみようと思った。貴様がまことに八重どのを愛しているか試してみたのだ」

それは安右衛門が八重と婚礼を挙げてまもなくのことだったが……。

安右衛門が宿直とのいで屋敷を留守にする日を狙い、主馬は大矢邸に忍び込み、八重に関係を迫ったのだ。

「八重どのは俺を拒んだ。拒まれたが、何度も通った。それでも拒むので、俺は八重どのを犯した。八重どのは傷を隠したが、そこは夫婦の仲だ。貴様が八重どのを愛していれば、おのずと気付いたはずだ。なれど、貴様は黙っていた。御城で顔を合わせても、貴様は何も知らぬ様子だった。つまり、貴様は八重どのを心から愛してはいなかったのだ。おのれの出世のために八重どのをもらい受けただけだ。違うか?」

安右衛門は凍りついたように動かない。主馬が続けた。

「俺はそんな貴様が憎かった。貴様の前で八重どのを犯し、貴様がどのような面をするのか見届けたかったくらいだ」

「黙れ!それ以上言えば、斬る!」

「望むところだ。貴様は俺を斬りに来たのだろう。俺も貴様を斬りたかったのだ」

安右衛門と主馬は対峙した。主馬が言った。

「貴様が八重どのと江戸詰になったとき、俺は正直、安堵した。これで貴様と顔を合わせることもないと思うと、俺も貴様への憎しみを忘れることができると思った」

「…………」

「なれど、貴様が江戸で愛してもいない八重どのと暮らしながら、出世していくのだと思うと、ようやく薄れかけていた貴様への憎しみが、またふつふつと湧き上がってきた」

「…………」

「俺は考えた。貴様を怒らせるには何がよいか、と。偽の密通の文を送れば、貴様は必ず、八重どのを成敗する。愛してもいない八重どのを斬るのは簡単だ。そして、俺を斬るために盛岡にやってくる。そこで、貴様にすべてを打ち明ける。貴様は怒り、絶望し、おのれのしでかしたことで苦悶することになる。ここまで、すべて俺の筋書き通りだ」

「…………」

「安よ、俺の苦しみが分かるか?愛する女を貴様に渡さねばならぬ俺の苦しみを……」

「……?」

「俺は八重どのを愛していた。貴様との縁談が調う前、俺は何度も、八重どのをもらい受けたい、と自分から頭を下げた。だが、断られた。断られるのが当たり前なのだ。同じ勘定方でも、俺と貴様は違う。貴様には才能があり、上役の受けもよい。俺は凡人だ。貴様には頭が上がらぬのだ」

「…………」

「俺は涙を呑んで八重どのを貴様に渡した。貴様が八重どのを愛してくれればいいと思った。だが、貴様は八重どのを愛してはいなかったのだ」

「…………」

「八重どのを斬った、その手で俺を斬るがいい。貴様が愛しているのはおのれだけなのだ」

そこまで言うと、主馬は腰の大刀を抜いた。

「どうした?貴様も抜け」

安右衛門は動かない。

「何故、抜かぬ?俺を斬れぬのか?」

「…………」

「貴様、いつから唖になった?俺を斬れば、このことを知っているのは貴様だけになる。貴様の体面は保たれるのだ」

「…………」

「さあ、抜け。抜いて戦え。貴様と存分に戦って死ぬなら本望だ」

安右衛門は主馬の挑発に乗らない。ここで彼と刀を抜き合わせれば彼の思う壺だった。

「どうした、早く抜け!俺が怖くて抜けぬのか?」

「…………」

「卑怯な奴だ。女は斬れても男は斬れぬのか?」

「…………」

「抜かぬなら、こちらから参るぞ」

たまりかねたように主馬が安右衛門に斬りかかった。主馬の一刀を躱しておいて、安右衛門は振り向いた。

すかさず主馬が斬り込んでくる。刃風は鋭い。安右衛門は雪に足を取られ、思わずよろめいた。背後は土手になっている。

「何故、抜かぬ?」

主馬が青眼せいがんに構えた。

「俺が斬るか、貴様が斬るか……。いずれかが死なねばならぬ」

主馬が片手で笠の紐を解き、笠を投げ捨てた。

「斬ってくれる」

主馬が不敵な笑みを浮かべ、猛然と雪を蹴った。

笠が視界を遮り、このままでは斬られる、と思い、笠の紐に手をかけた瞬間、安右衛門は笠を切り割られた。

間髪を入れず、主馬が斬り込む。安右衛門は大刀の柄に手をかけ、主馬の刀を掬い上げるように払った。

刃と刃が噛み合う音が響き、青い火花が散った。

主馬の攻撃は熾烈なものとなった。息つく暇も与えず打ち込んでくる。

「どうした!貴様からも斬り込んでこい!防ぐばかりで剣術ができるか!」

刃を躱し、受け止めながら、安右衛門は自分から斬り込もうとはせぬ。主馬の刃先が安右衛門の頬をかすめ、血が奔った。

「行くぞ」

主馬が殺気を迸らせて斬りかかった。必殺の一刀を躱しつつ、安右衛門の刃が主馬の脇腹を抉った。

「うっ……」

腰から血を迸らせながら主馬の上体が傾いた。安右衛門の一閃が主馬の面上を襲った。

唐竹割りに主馬は頭蓋を下顎まで断たれ、鮮血を噴き上げた。白い雪が深紅に染まった。


安右衛門も顔や腕を斬られていた。吹雪が主馬の死骸を白く包んだ。安右衛門は足を引きずるようにして雪の中に消えていった。


天明二年の冬から同三年にかけては異常な暖冬で、江戸では例年より早く桜の花が満開となった。


大矢安右衛門を故意に逃した罪で閉門を命じられた城守蔵人は、江戸で桜が咲いたその夜、藩邸内で自害した。

彼の遺書には、安右衛門が約定を違えるとは思えず、この暖かさで桜が早く咲いたが、彼はいずれ江戸に戻ってくるであろう。しかし、自分が生きてそれを云えば、世人は自分が命惜しさに云ったと受け取るであろう故、武士の意地で腹を切った、と認めてあった。


しかるに、安右衛門は蔵人が割腹した翌日、外桜田の盛岡藩上屋敷に現われたのである。

蔵人が自分を信じて死を選んだと知り、安右衛門は平伏した。


翌日、安右衛門は江戸藩邸で切腹を命ぜられた。

其方儀そのほうぎ、乱心にてことわりなく妻を殺害せつがいせしそうろう段、不届き至極に付、切腹を仰せ付けるもの也……」

目付の陣ヶ岡兵部が御沙汰おさたを読み上げた。

「かくなる上はそれがしも腹を切り、城守どのの義に報いましょう」

安右衛門は従容と藩邸の庭先に用意された死の場所に赴いた。


切腹の作法は近世に入り確立されたもので、戦国時代や江戸初期は介錯かいしゃくなしで腹を十文字に割いたり、はらわたをつかみ出すようなことも行なわれたという。

腹の切り方は腹を一文字に切る「一文字腹」、一文字に切った後、みぞおちから臍の下まで縦に切り下げる「十文字腹」が理想とされたが、体力的には無理であり、喉を突いて自害することも多かった。

切腹人の首を斬ってとどめを刺す介錯人の作法も決まっており、通常、正副二人、あるいは三人一組で務めた。

首を打つ介錯(大介錯)、短刀を載せた四方を持ち出す添介錯(助介錯)、首を実検に入れる小介錯の三役である。

介錯人は一刀の下に切腹人の首を落とさねばならず、剣術の技術に長けた者でなければ務まらなかった。

江戸中期以降の切腹は形式的なものとなり、短刀の代わりに扇子を置き、腹を切る仕草、または手をかけた瞬間に介錯人が首を落とすのが一般的だった。

これを扇腹おうぎばらと言い、赤穂浪士の多くも扇腹だったという。幕末には一部で本来の切腹が復活した。


切腹前、切腹人は沐浴で身を清める。

この時、たらいに水を入れ、湯を足して用いる。当時、沐浴は湯を水で薄めて使ったが、切腹の場合は逆であり、湯灌の方法と同じであった。

沐浴の後、髪を結い、普段より高く結い逆に曲げる。切腹時の死装束は白無地の小袖に浅葱色あさぎいろの無紋麻布のかみしもひだは外襞、小袖は首を落としやすいよう後襟を縫い込んでいた。

また、遺骸に着せるのと同じように左前(左の襟を手前)に合わせた。

切腹人が裃を着けると湯漬けを与える。最後の食事は白飯に白湯をかけ、香の物三切れ(身切れの意)、塩、味噌であった。

その後、銚子で酒を二度注がれ、二杯を四度で飲む。切腹人が酩酊すると介錯人が難儀するので、これ以上は与えなかった。

切腹の場は身分の高い者は六間四方、身分の低い者は二軒四方に虎落もがりを結い、南北に口を開ける。

裏返した畳二畳を撞木しゅもくに敷き、縦の畳に浅黄か青の布、または布団を敷く。その四隅に四天を付け、畳の前に白絹を巻いた女竹めだけを高さ八尺、横六尺の鳥居に立て、四方に四幅の布を張る。後方には逆さにした屏風びょうぶを立てる。

切腹に用いる短刀は九寸五分。柄を外し、布か紙で二十八回逆に巻いて紙縒こよりで結び、刃先を五六分出す。柄を外さない場合も目釘は抜いた。

介錯人は切腹人に名乗り一礼し、切腹人の背後に回る。介錯に用いる刀に柄杓で水をかけ、八双に構える。

切腹人が短刀を腹に突き立てる(あるいは手に取った瞬間に)介錯人が首の皮一枚残して切り落とす。これを抱き首と言い、皮を残さず切り落とすこともあった。


安右衛門は藩邸の桜の木の下で見事に腹を割き、介錯人の朝倉藤十あさくらとうじゅうろうに首を打たれた。

副介錯人が安右衛門の首を検視役に見せ、柄杓ひしゃくの柄を胴に差し、首を継いで遺骸を敷絹で包み、棺に納めた。


国許の盛岡から沼宮内主馬が何者かに斬殺されたとの報せが江戸藩邸に届いたのは、安右衛門切腹の翌日であった。



日本の各地を旅すると今も昔の飢饉の記録が方々に残されているのに気づきます。

江戸時代、日本は鎖国し三百年近くも平和でしたが、寒冷な時代でもありました。

記録に残るだけで寛永、享保、天明、天保と4回の大飢饉(東北では元禄と宝暦を加えることもあります)があり、特に天明の大飢饉は被害の大きなものでした。


日本は「瑞穂の国」と云われますが、お百姓さんは米を作っていても白いごはんを食べられるのは正月やお盆などハレの日だけ。普段は麦や雑穀などを混ぜた「かてめし」か雑炊を食べていました。

山国の日本は農地も限られ、農業の生産性も低く、不作・凶作になればたちまちおそろしい飢餓が襲ってきて、大量の餓死者を出しました。


貧しい農民は子どもを売って生き延びました。女衒(ぜげん)と呼ばれる人身売買業者が農村を回り、器量よしの子を買っていきました。

「江戸に行けば白いごはんをおなかいっぱい食べられる」

というのは大変な魅力だったのです。

夢に見るほど恋焦がれた白い米だけの飯を誰もが食べられるようになったのは戦後の昭和40年(1965年)以降のことです。


農業の技術革新と品種改良が進み、安い外国産の食品が大量に入ってくるようになって、ようやく日本人は「飢えの恐怖」から解放されました。

「飽食の時代」と呼ばれて久しい現代、日本は食料や燃料など資源の多くを海外に依存しており、戦争や災害で輸入が止まれば再び飢餓の時代がやってくるのです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


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