第11話 宴前夜
「いよいよ明日ねえ」
丹華はそう言って伸びをする。
「稽古はこれで終い。後は夜に備えて各自支度する。はい、解散!」
蘭世の一声で、妓女たちは各々部屋へと戻って行く。
「あらー、蘭世小姐、気合い入ってるわねえ」
「そりゃあね、宮中に呼ばれるっていうのに、粗相を起こすわけにはいかないでしょう」
「それはそうなんだけどねえ」
丹華は蘭世の顔を覗き込む。
「な、なに?」
「それだけじゃない気がするのは私だけかしら?」
丹華はニヤリと意地悪な笑みを浮かべ、葵に視線を送る。
その視線に気づいた葵は、やれやれといった表情で蘭世に近づく。
「その宮中の宴には、張様も出席なさるものね。あら、小姐、顔が赤いわよ」
葵の口から張様の名が出てすぐ、蘭世は気恥ずかしさからか、顔をうつむき加減にする。その耳は赤く染まっている。
「そうよねえ、なんなら今晩いらっしゃるのよねえ、こないだの文はそういう内容だったんでしょう?」
「ちょっと丹華。それ内緒だって…」
「小姐。顔があ・か・い・わ・よ」
わざと語尾を強調するように揶揄する。
蘭世は両手で顔を押さえたまま、部屋を後にした。
「からかいすぎたかしら~」
丹華は鼻歌を歌うかのような調子で笑みを浮かべる。
「今晩、張様がいらっしゃるの?」
葵は丹華に尋ねる。
蘭世に会いに来ることが目的なのなら、今日は葵に話す情報が何もないのかもしれないが、前に張様が来てから色々あった。
もしかしたら、貴光妃のその後についても聞けるかもしれない。
「ええ、昨晩から蘭世小姐が美容液を顔に塗りたくってたの」
丹華はフフフと微笑む。
「私が妓楼に入って間もなかった頃のことだけど…私の大姐がね、当時蘭世小姐とこの店の「華」を競っていたの」
大姐、というのは禿の面倒を見る妓女のことである。椿峰はどうやらよくわかっていないらしく、小姐、と呼んでいるようだが、蘭世がよしとしているので、口出しはしない。
なにせ、ねえさん、という読みは変わらない。
丹華の大姐、という人のことは、葵も噂程度には知っている。
中性的な顔立ちで、所作全てが美しく、おまけに賢いと評判だったらしい。身請けされるまで一度も身を売ったことはなく、どこぞの高官のもとに嫁いだという。
そんな妓女と蘭世はこの妓楼の「華」を競っていた。だが今、「蘭世」という名に「華」の一字がないということは、その妓女が「華」を勝ち取ったのだろう。
「葵も聞いたことはあるでしょう、蘭世小姐が昔好きだった高官が、別の妓女を身請けしたって話。あの時身請けされたのは、その私の大姐だったのよ」
丹華は静かに話す。
禿からすれば、自分の慕っていた大姐が身請けされていくことは喜ぶべきことだろう。家柄や身分のある家であれば、尚更だ。
蘭世と丹華が未だに良好な関係を築けていることは手に取るように分かる。それは、蘭世のことを丹華が小姐、と呼んでいるように、二人の間に姉妹のような絆があるからだろう。
そう考えると、丹華の気持ちは複雑なものに違いない。
「だからねえ、蘭世小姐には幸せになって欲しいわけ。張様は身元がしっかりしている方だし、北の方に大きな土地を持っているんでしょう?おまけに紳士的で、誠実そのもの。蘭世小姐が好意を寄せているのなら、これ以上ないと思うのよねえ」
丹華は葵に微笑みかける。
「そうだね、蘭世小姐がいなくなるのは寂しいけどねえ」
葵は相槌を返す。
「ま、小姐が気合を入れてる宴を台無しにしないためにも、今からしっかり休息取って、夜の仕事こなして、明日に備えましょ~」
そう言って、丹華は部屋を出ていく。
残された葵は考えを巡らせる。
張様は確かに、大規模な土地を持ち、身元はしっかりしている。
しかし。
数年前、身分を降格されている。葵に今協力しているのは、それが大きい。
蘭世小姐には幸せになってほしい、とは思う。ただ、葵達のことに蘭世を巻き込むわけにはいかない。
(さっさと終わらせないと)
そのころには、「葵」という妓女も消えていることだろう。
葵は夜の支度をするため、自室に戻った。
〇●〇
「張様。お待ちしておりました」
蘭世は玄関口にて出迎える。
「しばらく来られなくて済まなかったね」
蘭世の案内に沿って、張様は部屋に通される。
「今日はどんなお話を聞かせて下さるのです?」
「そうだね、咄嗟に言われると出てこないから…明日の宴の話でもしようか。明日は舞を舞うんだってね」
張様が葵に直接その依頼をしたのだが、それは情報屋、としての仕事だ。表にするわけにはいかない。
「そうなんですの。私は最後の〆で見せ場がありますから、注目してくださると嬉しいわ」
蘭世は頬を桃色に染める。
「それは楽しみだね。蘭世の舞はいつ見ても飽きないんだから」
「まあ。でも、少し心配なのは、帝の御妃様が皆さん揃われるということかしら。御妃様方に花を持っていかれて、私たちはそっちのけになってしまったら悲しいわ」
「それは大丈夫じゃないかな。宮中では、あの蝶天閣の最上級妓女が三人全員揃う、と話題になっていたからね。皆楽しみにしているはずさ」
張様は蘭世が注いだ酒をあおる。
「それは嬉しいわ。ご期待に添えられるように頑張らないと。ただ、御妃様の中でも特に御寵愛を受けていらっしゃる御妃様は派手な身なりをなさるのかしら。私達の衣装が色あせて見えないかしら」
「それは、どうだろうね。その四人の御妃様とは張り合いに行かない方が無難なような気がするよ。後ろ盾がしっかりしているからね、身なりはそれはもう、言うまでもないだろうしね」
そう言うと、張様は蘭世に微笑みかける。
「いつも蘭世の美しさに翻弄されている者は多いから大丈夫。張り合いにいかなくとも、君はいつも綺麗だからね」
張様の一言に、蘭世は桃色の頬を林檎のように濃くする。
張様はそんな蘭世を優しく見つめる。
すると、ふと背後の扉の隙間がわずかに開いていることに気付く。そこに影があるように見えたので、立ち上がって確認しようかと思っていると、蘭世に酒を注がれる。
「張様。明日の舞の感想、また聞かせてくださいね」
後ろの影に気付きもしない蘭世は、頬を紅くしたまま笑いかける。
その笑みに崩れ落ちそうになるほど惚れる、という男の思考回路を張様は一瞬にして悟る。
故に。
後ろの影が消えることに気付くことはなかった。
〇●〇
葵は、自室で香を焚いていた。
爽やかな柑橘系の香りが鼻を抜ける。
上品な香りや、甘い香りも嫌いではないが、やはり爽やかな香りの方が落ち着く。
今宵は御客も少なく、もう眠ってしまっても問題はない。
布団を敷いて、横になる。
瞼が落ちかけた時、戸を叩かれた。
眠いので、無視して知らない振りをし通すことにする。
すると、戸が開けられ、明るい光が目に付く。
(まぶしいなあ)
葵はのっそりと起き上がり、なんだい、と光に向かって問う。
すると光は葵にぐいぐい近づき、その光の持ち主の顔を露にする。
「椿梓。」
髪を下ろし、眠る支度万全の椿峰が立っていた。
「どうしたの?」
葵が尋ねると、椿峰は持っていた蠟燭を枕元に起き、葵の布団の中に入ってくる。
「ちょ、ちょっと」
「蘭世小姐と張様がいちゃいちゃしているのをきいているのがしんどいので、ここでねかせてください」
そう言うと、椿峰は布団をかぶる。
「蘭世小姐の許可はとったの?」
「蘭世小姐はいちゃいちゃたいむなので、そんなやぼなこときけません」
「あんた、野暮なんて言葉どこで覚えたの」
椿峰は答えるのも面倒くさい、という表情をしている。
仕方ないので、葵も布団に寝ころび直す。
葵が横になったのを確認すると、椿峰は葵の頭がすっぽり隠れるまで布団をかける。
「ちょっと、布団の中に入り込んだら、息苦しくなるでしょ。やめて。」
そう言って、布団をもとに戻そうとすると、椿峰が邪魔する。
「きこうさまは、あすのうたげにさんかされるよていです」
椿峰は葵の耳元に口を近づけ、小声で話す。
「え?」
「さきほど、張様と蘭世小姐がはなしていらっしゃいました。みかどのちょうあいをうけているよにんのおきさきさまがさんかされると」
「それは確かなの?」
葵は目を見開いて椿峰に問う。
「はい。蘭世小姐はちょうあいをうけているおきさきさま、としかいわなかったのに、張様はそのよにんのおきさきさま、といっていたので」
椿峰は真剣な眼差しで答える。
貴光妃は上手く持ち直した、ということだろうか。張様に尋ねたいところだが、こうして椿峰が葵のもとに来るほどに、蘭世と楽しんでいる最中なら、確認のしようがない。
葵には椿峰にもう一つ、確かめたいことがあった。
「ねえ、椿峰。あんたが蘭世小姐についたのって…」
そう言って、椿峰の方を見ると、葵の着物の端を握り、スヤスヤと眠る一人の少女の姿があった。
そこには、大人びた毒舌の生意気な少女の影はどこにもなかった。
確か、椿峰の母は川で溺れて亡くなり、どういうわけか、あの紫水に仕えて、妓楼にやって来たのだ。
きっと、葵の知らないような椿峰の努力があり、その辛さを含め、自分の感情を押し殺して生きているのだろう。
(あんたは立派ね、あたしとは全然違う)
葵は椿峰の髪を優しく撫でると、布団を整え、椿峰の肩にかけてやる。
明日はいよいよ懸念だらけの宴が催される。
気を引き締めなければならない。
葵は目を閉じる。
規則正しい寝息が聞こえてくるまで、そう時間は要しなかった。
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間諜皇女 ~スパイ・プリンセス~ 藤花チヱリ @2502760
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