扇風機

鈴美

第1話

 暑い。またこの季節が訪れた。日本の夏はとにかく湿気だらけで体に水分が纏わりつく。いつだか日本は世界でも稀な水が豊富な国だと聞いた。国土の多くを山が占めているために雨が多く降ることが理由の一つだと言う。それを聞いた時は我が国を誇りに思ったものだが、空気中に滞在する水分が体感温度を上げてしまうこの季節では鬱陶しいことこの上ない。もう少しカラッとしてほしいもんだ。


 俺はしぶしぶ畳から起き上がり扇風機のスイッチを押す。中途半端な角度で止まっていたそれは首をゆっくり動かしながら最弱の風を部屋に行き渡らせる。


 夏は扇風機に限る。エアコンなんて論外だ。文明の機器だろうが、なんだろうが関係ない。俺は生涯扇風機派だ。こいつが俺に首を向けると何とも言えない心地よい空気を運ぶ。人工的に作られた不自然に冷たい風じゃなく、自然が生んだ優しい風。それは俺の頬を優しく撫で、火照った身体からすっと熱を引く。俺は訪れたその安らぎに身を委ねる。そうしているうちに扇風機はそっぽを向く。俺は少しだけ寂しさを感じながらそっぽを向いた扇風機を見る。心地よい風を失った身体はまた火照り熱を生む。肌がじとりと汗を生む頃、また扇風機が俺に振り向く。そして俺の身体から熱が引く。これだ。この繰り返しが肝心なのだ。常に体を冷やし、汗をかくことを忘れさせるようなエアコンではこの感覚は味わえないのだ。これぞ夏の醍醐味。夏と言えば、海だの、スイカだの、キャンプだの、そんなものを上げ連ねるやつは腐る程いるが、すべて間違いだ。夏こそ、扇風機を存分に楽しめる季節ではないか。夏が来たから扇風機をつけるのではない。扇風機をつけるために夏が来るのだ。


 そして扇風機は首を振らせてこそ、扇風機の機能を発揮する。エアコンは首を振らない。ただ天井の隅に鎮座して部屋を一定の温度に、極めてキンキンに冷やすだけだ。一定の場所にいて首も振らないくせに部屋の温度を一定に保つなど気味が悪い。一体どんな仕組みをしているんだ。そしてエアコンに冷やされた部屋には反復動作がない。発熱と冷却、安らぎと不安、喜びと寂しさ。扇風機はこれらの反復動作を行うから癖になるのだ。この恋しさが夏にしか味わえない至極の楽しみなのだ。

 俺は六畳の狭い和室に設置されたエアコンを睨む。古い日本の和室にその近代風の形はまるで合わない。部屋着同然で外を歩くその辺のばばあがシャネルだかなんだかの高級なバックを持ち歩いているくらいに合わない。当のエアコンはまったく無言で、俺の睨みもなんとも感じていない白々しい顔をしたままそこにいる。そんなところがまた気に食わない。


 扇風機を楽しみながらまた昼寝でもするか。うとうとしていると、隣から音が聞こえてきた。

「酒がねえのはどういうことだ! 用意しておけってあれほど言っただろうが!」

 太く、低い男の怒鳴り声が聞こえる。またか、と俺は座布団を頭に巻き耳を遮断する。それでも止まない怒鳴り声と続く何かを殴る音は嫌でも耳に届いてしまう。毎度毎度勘弁してほしいもんだ。一体何度繰り返せば気が済むんだ。


 安いアパートでは壁など仕切り程度に薄いものだから騒音は覚悟していたが、まさかお隣さんがDV問題を抱えているとは何たる不幸。お隣の女じゃなくて、俺が。最初にこの騒音が聞こえてきた時は俺だって心配になって警察に通報したさ。お隣の女を助けようと思ってな。でも警察は警察で「身内の問題は身内で」なんて言いやがって、そそくさと帰りやがった。そんで結局女は別れたらしいが、今度はまた違うDV男を連れてきた。そんでまた暴力沙汰。警察は呆れ果て、女はまた別れた。その繰り返し。今の男は女が隣に越してきてから三人目の男だ。


 結局眠れないままゴロゴロしていると腹がぐう、と鳴った。時計を見ると午後の1時半を回っていた。昼飯の時間か。俺はうだるような暑さの中、しぶしぶ身体を起こして台所に向かった。勿論、扇風機を台所側に向かせるのは忘れなかった。


 冷蔵庫の中は大したものは入っていない。いつものことだ。でも卵が入っている。そして乱雑に置いてある鍋の横にはインスタントラーメンがあった。暑いが今日はこれで我慢するしかない。餓死するよりましか。俺は鍋に水を入れインスタントラーメンを煮る。


 隣の騒音はまだ続いている。時折女の叫び声とすすり泣く声が聞こえる。同じだ。いつもいつも、なんであんなダメ男を選ぶんだ、バカ女。俺が警察に通報してやった時も、礼一つ言わなかった。「大丈夫か?」と声をかけても無視するばかり。俺の行為が迷惑だったとでも言いたげに俺を睨みつけやがった。それでも傷ついて男を信用できなくなったか、と思って何度か菓子やパンを持って戸を叩いたが、一つも反応を見せなかった。そんで次のDV男を連れてきた。反復だ、と俺は思った。この女はただただ繰り返しているんだ。反復作業をしているだけなんだ。それから俺が女に声をかけることはなくなった。騒音は相変わらず聞こえてくるが、俺は何も言わないことにした。これは女の反復作業なのだ。扇風機が首を回すのと同じように。


 そうしていると足音が聞こえてきた。台所のすぐ隣にある戸の郵便受けでがさっと音がする。そして足音は俺の部屋の前を通り過ぎていく。台所の小窓から郵便配達員の顔が見えた。この辺りを担当しているいつもの配達員だ。若いが無愛想で、淡々と業務をこなす。以前ドアの前で見かけた時に挨拶をしたが、仏頂面を変えず挨拶も返さず俺を無視して投函を続けた。最近の若者は挨拶の仕方も知らないらしい。それ以降俺はあの配達員に挨拶をするのをやめた。きっとあいつはこの仕事が嫌いなんだろう。だからあんな仏頂面を携えて面白くもなさそうに投函する。仕事を辞められないのか、他にやりたいことがないのか、なんなのかは知らないが、結局この若いのもひたすら反復作業をしているに過ぎない。ただ手紙を運び、郵便受けに投函する。毎日その繰り返し。こいつもまた扇風機と同じだ。


 世の中は反復動作で成り立っているのだと思う。ひたすら同じことを繰り返して、皆生きている。多くの人は昨日と同じ日常を好み、新しい未来を嫌悪する。変わることを恐れ、良くないと思いつつも昨日までの日常と同じことを繰り返す。みんな反復作業が好きなのだ。反復作業でみんなの日常が成り立っている。それが存在しない、新しいことだらけの世界ではきっと誰も生きられないだろう。老人は古いものを愛し新しいものを嫌うが、若者は新しいものが好き、と誰かが言った。しかし俺は懐疑的だ。年齢に関係なく、人は反復作業が好きで、慣れ親しんだものを愛する。慣れ親しんだものとは反復を繰り返したものなのだ。故郷を恋しく思うのは、生まれ育った場所で行ってきた反復が恋しくなるからだ。あの郵便配達員も新しいものが好きだったら、こんな反復作業だらけの仕事すぐに辞めるだろう。


 鍋に卵を入れる。そして出来上がりを待つ。俺だって毎日反復作業をしている。朝起きて扇風機をつける。腹が減ったらラーメンを煮る。食べたら皿を洗う。そして昼寝をする。腹が減ったらまたラーメンを煮る。生きることそのものが反復作業なのだ。まるで一定のリズムで首を振る扇風機のように。扇風機こそ人間というものを表している。


 突然ドアを叩く音が聞こえた。いつもの反復作業の中に含まれていないものが突然訪れたことに俺は動揺する。誰だ?

「お父さん? あたしだよ。美佐子!」

 声と共にドアが開く。白髪が混じったぼさぼさの髪を後ろで雑に束ね、少しやつれた顔の女がドアから顔を出した。そのまま当たり前のように部屋に上がる。

「この部屋あっつ! なんでエアコンつけてないの!? 熱中症で死ぬよ!?」

 女は部屋の片隅に捨て置かれたリモコンを取ってスイッチを入れる。エアコンは生命を得たロボットのように動き出し、部屋を冷やし始める。

「ちょっと何やってんの? コンロに火入ってないよ。ラーメンも袋ごと水に入れちゃってるし!」女は水浸しになった袋を破いて中からラーメンを出す。

「卵も割らずに殻ごと入れちゃって。ラーメン食べたかったの? もう、あたしが作るからお父さんは座って」

 女は俺を台所から追い出した。俺は何故か肩見せまくなり扇風機の前に鎮座する。

「デイサービスの人から連絡来たよ! 今日お迎え来たのに拒否して行かなかったんだって? もういい加減にしてよ! あたし仕事あるんだから!」

 デイサービスとはなんだ? 朝のお迎え? ああ、なんか知らない男が来てどこかに連れていくとか話していた。あいつのことか。知らない人から声をかけられてもついていっちゃいけないなんて子供でも知ってるのに、なんで俺が行かなきゃならないんだ。それにそんなものは俺の反復作業の中にはない。新しいものなんて俺は嫌いだ。エアコンと同じようにな。

「お父さんもう新聞読まないの?」

 出来上がったラーメンを持ってきた女は部屋の隅に綺麗に畳まれた新聞を指差した。

「毎日読むのが日課だからわざわざ新聞代払ってんのに。『反復作業が』とか言ってたじゃん。読まないならもう購読解除するからね」

 俺がこれを読んでいた? 俺の反復作業は飯と扇風機と昼寝くらいだったはずだ。それ以外に何かしていたのだろうか? よく思い出せない。

「テレビも見ないならうちに持ってっちゃうから。最近隼人が反抗期でさ、自分のテレビ欲しいってうるさいのよ! 次の休みの時にこれ貰ってっちゃうからね」

 女はテレビを指差して言う。隼人とは誰のことだ?

「こんな古い扇風機ももう捨てちゃうから。エアコン使ってよね。せっかく高い金出して買ってあげたんだから」

 熱中症で死なれたらエアコン用意しなかった家族のせいだと思われるでしょ、と女はぶつぶつ言う。そして扇風機のスイッチを切ってしまった。


 ああ、俺の反復作業が消えていく。この感覚が何故か初めてではない気がしてならない。でもよく覚えていない。俺はこれまで一体何をしていたのだろう? あの積み重なった新聞を読んでいたのだろうか? デイサービスとやらに行っていたのだろうか? テレビを毎日見ていたのか? わからない。でもわかることは一つ。俺の大事な反復作業が消えていく。どうして? わからない。何が消えて、何が残るのかもわからない。俺の中からいろんなものが抜け落ちている。新しいものはついぞ残らない。そして残るのはぽっかり空いた穴だけだ。日に日にこの穴が大きくなる。まるで俺を食い尽くすかのように。怖い。どうしたらいい。反復作業がこの穴の広がりを抑えてくれていたはずだ。でもそれももう終わりだ。


 暑苦しい夏の日。伸びたラーメンを無言で食べる俺に、扇風機の風はもう当たらなくなった。

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扇風機 鈴美 @kasshaaan

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