65535個の檸檬

脳幹 まこと

そんなにもあなたは檸檬を持っていた


 その和装の衆は紛れもなく、梶井基次郎かじいもとじろうの一群であった。


 梶井基次郎は1932年を起点とし、23年と31年に1度の周期で、京都の丸善に大量発生する。周期がともに素数であることから「素数モト」とも呼ばれている。

 2024年は、23年周期でやってくる梶井基次郎の年となる。

 丸善まるぜん京都本店の前には和装の人だかりが出来ていた。一般客の入場は終日禁止している。それどころか、周囲一キロ四方は厳戒態勢が敷かれている。


 幾千いくせんもの梶井基次郎が入れ違いに咳をする。しかしそれは近年蔓延はびこっている感染症によるものではなく、元より彼が肺を悪くしていた為である。

 一人の例外もなく、梶井基次郎は片手にカリフォルニア産の檸檬れもんを持っていた。待ち時間のあいだ、何度も何度もその果実を鼻に持っていってはかいでいた。すると数分はしゃきっとした表情になる。


 開店と同時に、梶井基次郎達は「今日はひとつ入ってみてやろう」などと思い思い言葉を発して店内にずかずか入って行った。さも苦渋くじゅうの決断といった顔つきではあるが、今までの周期で、丸善に入らなかった梶井基次郎は一人もいない。

 ぶらぶらと店内を歩く彼らが、少しずつある場所へと近づいていった。それは古書で積み重ねた本の塔であった。

 梶井基次郎の習性は、積まれた本の上に自前の檸檬を置くことであった。周囲を見渡して誰もいないことを確認してから、ひょいと置く。そして「しめしめ」といった具合で風変わりな光景をたのしむのだ。

 本が積まれてないと、周りの本を使って勝手に積みはじめる。なければ癇癪かんしゃくを起こす。店内を荒らされてはたまらないので、ある時点から丸善のスタッフがおとりの本の塔を作っておびき出している。継ぎ目を接着剤で固めており容易に崩れることはない。


 まわりも何も客は全員梶井基次郎だ。丸善のフロアに幾千の梶井基次郎が敷き詰められている。本来なら、ひっそり檸檬を置くことなど出来ないと思われるかもしれない。

 しかし、梶井基次郎の生態に詳しい東京大学文学部の教授は以下のように述べている。


「ある梶井基次郎は他の梶井基次郎を認識していない。彼らにとって梶井基次郎は自分一人であり、檸檬もまた一つしかないのだ」


 だから、彼らの認識からすれば広い店内に自分しかいない実に空虚――彼らにとっては好ましいかもしれないが――な空間なのである。先客の置いた檸檬など気にせず、自分の檸檬を置いてゆく。

 迷惑をこうむるのは現世うつしよにいる人間だけなのだ。


 それぞれの梶井基次郎が檸檬を置くものだから、そのコーナーには檸檬が山ほど置かれることになった。想像したい方は、電線に密集した鳥達の糞を思えばよかろう。

 おびただしい数の檸檬が棚の上、床を問わずばらまかれているような状態だ。爽やかな香りも、強過ぎれば不快に感じられてくる。彼らはそれらを感じることもなく、勝手気ままに丸善をあるまわるのだ。


 しばらくたたずんでいると、店内に一陣の風が吹いた。

 異界の旅人を元の地へかえらせる一陣の風。

 その名を「クロンの風」という。


 ある梶井基次郎が、その拍子によろめき床に鼻をった。

 彼は血のにじんだ口元を袖で拭うとフッと笑い、呟いた。


「――つまりはこの重さなんだな」


 トパーズ色の香気が立つその数滴の天のものなるレモンの汁は、ぱっと基次郎の意識を正常にした。

 基次郎の黒く澄んだ眼がかすかに笑う。檸檬を握る基次郎の力の健康さよ。

 こういう命の瀬戸際に、基次郎はもとの基次郎となり、

 ずっと含んでいたびいどろ・・・・が彼の口から飛び出た。


 彼はゆらゆらと歩き、瓢箪ひょうたんのように潰れたカリフォルニア産の檸檬を本の塔に置いた。


「出ていこうかなあ。そうだ出ていこう」


 それをそのままにしておいて梶井基次郎は、なにくわぬ顔をして外へ出る。実際は悪戯いたずらが上手くいった子供のようなしたり顔だったが。とにかく梶井基次郎はすたすた出て行った。

 檸檬を持って丸善へ入らんとする――多くの梶井基次郎達とすれ違いながら。



 結局、一日の間に入店した梶井基次郎は65535人にのぼった。


 梶井基次郎がなぜ素数年の周期で大量発生するのか。その原因は明らかにされていない。

 よく似た現象として「素数ゼミ」が存在している。こちらにおいては、天敵となる生物から逃げるための戦略であるという説、他のセミ種の周期と被らないことで自分達の遺伝子が「混じる」ことを防ごうという説があるらしい。

 対して「素数モト」については、梶井基次郎の天敵や繁殖相手もいないことから、まったく別の要因が絡んでいるのではないかとされている。

 何より、これは一日限りの現象である。大量の梶井基次郎はこの後、綺麗さっぱり消えてしまうのだ。


 ただし、檸檬は別である。


 65535個の檸檬は現実に、丸善の敷地内に散乱している。敷地内に16箇所ある本の塔によって少しは軽減されてはいるが、それでも回収作業は容易ではない。

 踏まれてむごたらしい様を見せる檸檬をポリ袋に入れながら、丸善スタッフの男は苦々しい表情を浮かべていた。

 彼に安堵あんどする余裕はなかった。

 なぜなら来年・2025年は、31年周期の梶井基次郎がやってくる年。23年周期とは段違いの――1901217人もの梶井基次郎がやってくるのだから。


 一年後にやってくるだろう、えたいの知れない不吉なかたまりが彼らの心を終始おさえつけていた。

 焦燥しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか。


「これが本当の檸檬忌れもんき、か」


 そう毒づいて、彼は檸檬をがりりと嚙んだ。

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