大西洋定期横断航路専用客船

芳岡 海

クイーンエリザベス号

 なんだか野暮ったいことを言ってしまった気がしたけど、「きれいなブローチだね」という僕の言葉に、彼女は思いのほかうれしそうにした。


「アンティークなの。別に高級なものじゃないんだけど」

 胸元に視線を落として言う。黒いワンピースの胸元に青いブローチが光っていた。

「さっきまで横並びで歩いていたから気がつかなかった」

「そうね」

 彼女はブローチから視線を上げ、さっきまで歩いていた川沿いの道を思い返すように窓の外を見る。


 僕らの入ったレストランは川沿いにあり、窓からは水音が小さく聞こえた。古民家を改築したという店で、重厚な柱と梁を見て彼女は入った瞬間「わあ」と小さく声をあげた。

 テーブルはそれなりに埋まっていたけど、みんな古い建物に相応しい声の大きさがあると思うのか、もしくは古さがそのまま上質さだと思うのか店内はしっとりと静かだった。


 こうして向かい合うとブローチの青が角度によって偏光して見えた。

「青がきれいだ」

 星がきれい、のような感覚で今度は言った。彼女はまたうれしそうにする。気に入っているんだろうなと思う。そう思うと僕にとってもブローチは大切な品物に思えてくる。


 彼女がブローチに触れる。ぐっと指先に力を込め、服から針をはずして僕に見せてくれた。大きめのボタンというくらいのサイズのブローチが、彼女の手のひらでころんとなった。

 ドーム状のガラスが、少し黒ずんだ銀のフレームに入れられていた。きれいな青の上に船の絵が描かれている。上が白で下が黒、赤い煙突が二本並んだ船の絵。傾けると青が見えなくなって船だけが浮かんで見えた。モルフォ蝶の青だって、と彼女が言った。

「古いの?」

「四十年代の頃の物って、お店では言ってた」

「タイタニックよりは後の時代かな」

「そうね」

 彼女は頷く。それから

「豪華客船の黄金期ね」

 と、ブローチを見つめたまま言った。そのガラスを通して華やかなその時代が見えるかのように。


 ワイシャツに紺色の前掛けをした店員がテーブルの傍らに立ち、さっき注文したメニューのうち、彼女の前にコンソメスープを、僕の前に春野菜とベーコンのサラダを置いていった。

 板張りの床の店内では、夢うつつに聞くようなくぐもった音で足音が響いた。窓から川の水音も聞こえ続けた。


 彼女につられて窓の外を見る。水音が聞こえ、外灯の明かりがぼわりと大小の水玉模様を作った。表面張力を張っているような水玉ではなくて、今にも夜の闇に沁み込んでいきそうだった。

 澄んだ水が流れ続けているのが見えるというより感覚として僕の中に沁み込んできた。水面は規則的に波打って流れている。窓際の席で、僕は川下の方を、彼女は川上の方を向いて座り、僕の後ろから前へ川が流れていく。

「美味しい」

 スープだけで彼女はずいぶんにこにこしている。このあとレモンとオリーブのパスタが出てきたら満面の笑みになってしまいそう。

「食べないの?」

「サラダは冷めないから」

 そう言いながらゆっくり野菜を口に運ぶ。

 話す間も、ふっと会話が途切れるときも、川の流れる音が会話の後ろに聞こえていた。


 彼女はスプーンを持ったまま頬杖をついて、また窓の外に目を向ける。その目に外灯の光の水玉模様が映っている気がした。姿勢が変わるとブローチの青もまた偏光して見えた。

 僕の後ろから前へ、川の水が流れている。僕らの後ろで聞こえ続ける水音はブローチの青のようなものだと思った。


「クイーンエリザベス号」

 見ると彼女はまたブローチに視線を落としている。

「何?」

「このブローチに描かれてる絵、クイーンエリザベス号っていう実在した豪華客船なんだって」

「ちゃんとモデルがあるの」

「そう。それで、クイーンエリザベス2号もあって」

 人気だったんだ。と、僕が口を挟むも彼女は首を傾げる。

「もう2号が作られた頃は飛行機の時代で、豪華客船は衰退期で、それが大西洋を定期横断する最後の客船だったんだって」


 最後の豪華客船。

 哀愁を帯びた響き。彼女が笑う。偏光する青の上で、ブローチのクイーンエリザベス号は誇らしげに、気高い姿を浮かべていた。川が僕の後ろから前へ流れていって、窓から水音が長い歴史を刻むように聞こえ続けていた。

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大西洋定期横断航路専用客船 芳岡 海 @miyamakanan

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