【完結】曼殊沙華(作品240212)

菊池昭仁

曼殊沙華 

第1話 

 すれ違った女の香水はブルガリだった。

 夜の銀座は女たちの艶めかしい香りで溢れていた。

 私は出版社との打ち合わせを兼ねた食事を終え、並木のクラブ『プチ・ボヌール』に向かって歩いていた。



 店は生憎いっぱいだった。


 「すみません三島先生、折角おいでいただいたのに。

 あと30分ほどでお席をご用意いたしますので、ウエイティングバーでお待ちいただけませんか?」


 支配人が言った。

 そこへ礼子ママが駆け寄って来た。


 「あら三島先生、お久しぶりですこと。

 丁度さっきも噂していたんですよ、くしゃみしませんでしたか? うふっ」

 「ママの顔を拝みに来ただけだから、今日は帰るよ。

 元気そうで良かった。相変わらず綺麗だね、銀座のダイヤモンドは?」

 「先生、お顔だけじゃイヤ。もっと別なところもたくさん見て下さいな?」

 「それじゃ少し散歩して来るよ。最近部屋に籠もってばかりいて、運動不足だから」

 「絶対ですよ、ハイ指切り。

 指切りげんまん嘘ついたらキス千回すーる、指切った。

 待っていますからね? 三島先生」



 私は店を離れ、再び夜の銀座を歩き始めた。

 雨上がりの夜の銀座は、佐伯祐三の絵画のように鮮烈だった。


 

 銀座は自信に満ち溢れた、成功者たちの楽園だ。

 高級外車にブランド品で着飾った男と女。

 私はそんな銀座が嫌いではなかった。



 歩いていると、細い路地の暗がりに、小さなBARの灯りが見えた。


 (こんなところにBARなんてあったかな?)



 私は引き寄せられるようにその店の前に立った。



 『St.Elmo's fire』 



 良く磨き込まれた真鍮の看板にはそう書かれてあった。

 重いマホガニーのドアを開けると、しゃがれたサッチモの唄が流れていた。


 カウンターだけの店内。

 精悍な顔立ちをした40歳前後のマスターと、カウンターの隅に女の客がいた。



 「いらっしゃいませ」

 「ギムレットを」

 「かしこまりました」


 バーテンダーは手際よく、酒の支度を始めた。

 ギムレットは単純なカクテルだが、バーテンダーの技量が露呈するカクテルだった。



 「どうぞ」



 完璧なギムレットだった。

 私の不安は杞憂に終わった。


 「『セント・エルモの火』なんて粋な名前ですね?」

 「ありがとうございます。

 嵐の海が収まりかけると起きる、放電現象だそうです。

 私はまだ見た事はありませんが、マストの先端だけではなく、指先にも火が灯るようです。

 「人生の嵐が収まる直前の酒場」という想いを込めて名付けました」

 「それは良かった。私の人生は大嵐の真っただ中だから。それも今夜で終わるかもしれない」


 するとカウンターの女が言った。

 かなり酔っているようだった。


 「私の人生なんてねえ、いつも嵐よ。大嵐。

 人生はね? 生老病死苦なの。

 生まれて老いて、病気になって苦しんで死んでゆく。

 マスター、お替わりー」

 「今日はもう閉店です。そろそろお帰り下さい」

 「いいから飲ませなさいよ~、もっとお酒を頂戴・・・」


 マスターはその女に親しみのある困ったような顔をした。

 私も5年前までは、この女と同じだった。

 忘れてしまいたいことが多すぎて、私は酒浸りの日々を送っていた。

 廃人のように。

 

 この女も忘れたいことがあるのだろう。あるいは忘れたくないものを必死で守っているのだろうか?

 その時の私には知る由もなかった。


 


第2話 

 「ねえ、そっちで一緒に飲んでもいい?」

 「どうぞ」


 その女は私の隣に座った。

 酒とゲランの『夜間飛行』、そして煙草の匂いがした。


 ゲランの『夜間飛行』は以前、編集者の聡子に贈った香水だった。

 ゲランの調香師だったジャック・ゲランは、サン・テグジュペリの小説、『夜間飛行』のような香水を生み出した。

 トップノート、ミドル、ラストと変化してゆく香りはその名に相応しい物だ。

 シトラス、ウッディー、フローラルとスパイシーが複雑に絡み合った香り。

 それを纏う女には「儚い孤独」がなければならない。

 この女にはそれが備わっていた。

 

 

 「私、千雪ちゆき。あなたは?」

 「三島」

 「何してる人?」

 「当ててみな」

 「んー、ネクタイはしていないしダークスーツでもないから公務員と銀行員ではないようね?

 でも服装はお洒落で高そう。アパレルとか芸能関係?」

 「違うな」

 「じゃあIT社長とか大学の先生だ! 当たりでしょう!」

 「全部ハズレだ」

 「じゃあ何?」

 「ヤクザ」

 「そんな優しいヤクザなんていないわよ」


 千雪はつまらなそうに酒を飲んだ。


 「優しく見えるだけかもしれない。お姉さん、人を見る目がないな?」


 私は笑った。


 「男を見る目はないけど、ヤクザには見えないなあ」

 「お姉さんは人妻さんか? 結婚指輪をしているようだけど」

 「そうよ、「ひとりの人妻」。だから「ひとり妻」。旦那は死んじゃった・・・」


 この女の悲しい横顔と、酒を飲む理由が分かったような気がした。

 私は話題を変えた。 


 「俺の田舎は東北なんだが、銀座に来るとつくづく思うんだ。

 ここも同じ日本なのかって。

 ベンツにフェラーリ、ロールスロイス。

 仕立ての良いスーツを着た紳士とシャネルやグッチの淑女たち。

 銀座は華麗な街だ」


 マスターが口を開いた。


 「銀座で商売していると、よくバカにされますよ。

 ここで認められるには、せめて創業100年以上じゃないと笑われますから」

 「マスターは今いくつなの?」

 「41です」

 「ここで何年やってるの?」

 「今年でやっと3年目になります」

 「じゃあ、あと97年かあ? 138歳まで頑張らないといけないわけだ」

 「もう死んでいますよ、その頃には」


 私たちは笑った。

 その時初めて、私は千雪が笑うのを見た。


 

 3人組のサラリーマンが店にやって来た。

 そしてその後、すぐに20代のカップルもやって来て、店は満席になった。


 「お腹空いた。ねえ、ラーメン食べに行こうよ」

 「何ラーメンだ?」

 「豚骨ラーメン。東京で一番美味しい豚骨ラーメンなんだよ」

 「豚骨ならいいよ」

 「それじゃあ塩ラーメンだったら?」

 「いや、塩もいい」

 「結局何でもいいんじゃない?」

 「何でもいいんだ。実はさっき、気取ったフレンチを食べたから、どうも食べた気がしなくてね?

 俺は苦手なんだよ、あのアラカルトってヤツが。

 マスター、ご馳走様。

 お会計は彼女の分も一緒で。

 また来るよ。ギムレットを飲みに」

 「お待ちしております」

 「悪いわね? ご馳走になっちゃって」

 「銀座のクラブで飲むよりはるかに安いよ。千雪のような女と飲めるなら」

 「そうやって何人の女を口説いて来たの?」

 「アンタを口説いた覚えはないけどな?」

 「ヘンなひと。マスター、またね~」

 「久しぶりに見ましたよ、千雪さんの笑った顔」

 「私、笑ってた?」

 「ほら、今も笑ってますよ。おやすみなさい」

 「おやすみマスター」




 10月の夜の銀座の風は冷たかった。


 「タクシーで行こうか?」

 「新橋なんだけど、タクシーにしようか? 歩くのイヤだしね?」



 タクシーに乗ると、千雪は私にカラダを預けた。

 私は久しぶりに欲情した。



 そのラーメン屋は新橋の飲み屋街にあった。

 入口を厚いビニールシートで覆った、オープンスタイルの店で、以前、博多で食べた、豚骨の髄液をグツグツと煮込んだ独特の同じ臭みがあった。


 

 「一杯500円なんだな?」

 「安いでしょ? でも味は確かよ」



 後から後から客が来ては、去って行った。

 かなり人気のラーメン屋だった。


 髪を気にしながらレンゲでスープを啜る千雪。


 「ああ美味しいー。久しぶりにまともな食事をしたわ」

 「旨いな? 博多の天神で食べた豚骨ラーメンと同じ味がする」

 「よかった、喜んでもらって」

 「どうして俺を誘ってくれたんだ?」

 「死んだ夫のことを訊かなかったから。

 普通の男はね? 私のカラダが目当て。

 だから同情するかのように夫の話を訊こうとする。

 私の気を引くためにね?

 でもあなたは訊かなかった」

 「俺はただ、湿っぽい話が好きじゃないだけだ。

 俺も同じだ。お前とやりたいと思って千雪について来た」


 私はそう言ってまた一口、麺を啜った。

 細麺のバリカタ麺の喉越しが心地良い。

 高菜に紅ショウガを入れ、擦り胡麻をかけて味変を楽しんで食べた。



 私たちはラーメンを食べ終えると、腕を組んで深夜の新橋の街を歩いた。



 汐留の高層マンションの前に差し掛かかった時、千雪が言った。


 「私の家、ここなの。寄ってく?」


 

 千雪の部屋は23階にあり、東京タワーが正面に見えていた。


 だがそこは酷いゴミ屋敷だった。

 酒瓶や缶ビールが散乱し、食べかけのコンビニ弁当が干からびて悪臭を放っていた。

 部屋にはすえた匂いが充満していた。



 「少し散らかってるけど、気にしないで」


 私は部屋の窓を開け、すぐに換気をした。


 「ゴミ袋はどこだ?」

 「余計なことはしないで! やりたいんでしょ? 私と」

 「やりたいが、それは掃除が済んでからだ」


 

 真夜中、私たちは掃除を始めた。




第3話 

 「なんで夜中にこんなことしなきゃならないのよー」

 「それは俺が言いたいよ」

 「だったら止めようよ」

 「そうはいかない。始めたからには最後までやるんだ。

 それが人間のあるべき姿だ」

 「私はもう人間じゃない、廃人よ」


 千雪と私はゴミ袋にゴミを詰め、マンションのごみ置き場へ何度も往復した。



 ようやくゴミが無くなったのは朝の7時を過ぎていた。

 埃を払い、掃除機をかけ、拭き掃除が完了したのはお昼近くになっていた。



 「あー、やっと終わったー。いい気持ちー。こんなに広かったのね? この部屋。忘れてた」


 千雪はソファに寝そべった。

 東京湾の海風が、リビングを吹き抜けて行った。


 私はベランダに出て、タバコに火を点けた。

 千雪が私の背中に抱き付いて来た。


 「ありがとう。凄くスッキリした」

 「物には魂が宿る。だから物は少ない方がいい。

 ゴミはダメだ、悪霊の集りになるからな?」

 「ねえ、疲れたでしょ?」

 「いい眺めだな? ここからの景色は」

 「だからここに決めたの。東京タワーも見えるし、それに汐留っていい名前でしょ?」

 「そうだな? 銀座にも近いし、いいところだ」

 「お風呂、一緒に入ろうよ」

 「だいぶ汚れたからな?」



 浴槽に湯を張り、私が先に湯船に浸かった。

 心地よい達成感があった。


 「お邪魔しまーす」


 恥ずかしそうに千雪がバスルームに入って来た。


 「君の家だろ? こちらこそお邪魔してます」


 アルコールがすっかり抜けた千雪は嬉しそうに笑った。

 狭い浴室に私たちの笑い声が響いた。



 千雪の肌は少し荒れていた。

 アザや傷もあった。おそらく酒に酔って転倒したか、行きずりのセックスが原因なのかもしれない。


 千雪は浴槽に体を沈めた。

 私たちはキスをし、お互いのカラダを確かめ合った。


 その時私は千雪の秘密を知ってしまった。

 千雪の腕には、あのクスリの注射痕があった。



 私たちはそれには触れず、お互いに体を洗った。


 「うふっ ここ、こんなに硬くなってる」

 「オスだからな? 俺も一応」


 千雪は愛おしそうに、私のそそり立った男根をスポンジで丁寧に泡立てると、焦らすように上下させた。


 「どう? 気持ちいい?」


 私はそれに答える代わりに千雪の下半身に触れた。


 「千雪のここはどうだ?」

 「ねえ、早くベッドに行きましょうよ」


 

 私たちは全裸のまま、「戦いの場」をベッドへと移動した。

 私は千雪の腕の注射痕をじっくりと舐めた。


 「気付いた? そうよ、私はそうゆう女なの。どう? あなたも一緒に楽しまない?」


 私は千雪を抱き締め、耳元で囁くように言った。


 「シャブは何でシャブって言うか知ってるか?」

 「知らないわ、そんなこと」

 「クスリをやると骨までボロボロになり、火葬すると骨も残らなくなる。

 骨まで「しゃぶり尽くす」からシャブなんだ」

 「じゃあ、私だけやってもいい?」

 「俺との関係を今日で終わらせたいならやればいい」

 「強烈な快感がカラダ中を駆け巡るのよ? 普通のセックスでは味わえない、脳が蕩けちゃいそうになるの」

 「そうだろうな? でも俺は千雪と恋がしたい」


 千雪は泣いた。


 「私、どうしたらいいの?」

 「俺を愛して欲しい。俺への愛を取るか? クスリを取るかだ? それは千雪が決めろ」

 「抱いて、お願い強く!」


 私は強く千雪を抱き締めた。

 それは千雪のカラダを抱き締めたというより、すり抜けていきそうな愛を逃すまいとする抱擁だった。 




第4話 

 仏壇の上に、やさしく微笑む男の遺影が置かれていた。


 「旦那か?」

 「そうよ、いい男でしょ?」


 (この男を忘れるために、千雪は酒とクスリ、そして男に溺れたわけか?)



 「メシを食べに行こう、何がいい?」

 「餃子とビール」




 有楽町の中華料理店でビールを飲み、餃子と黒酢酢豚、海老チャーハンを食べた。



 「こんな時間に起きるなんて久しぶり。の後のビールは最高ね?」


 千雪は嬉しそうに生ビールを飲んだ。


 「この酢豚、お肉が大きいわね? 私にも少し、チャーハン頂戴」


 私は皿ごとチャーハンを千雪の前に置いた。



 「うわー、美味しい! もう少し食べてもいい?」

 「全部食べてもいいぞ」

 「ありがとう、凄く美味しい」


 その店は小さい店だったが味は確かだった。

 昼間の千雪は笑顔が清楚な丸ノ内のOLのようだった。

 

 (千雪を本当の笑顔にしたい)


 私はそう思って千雪の食べる姿を見ていた。



 「ゆりかもめに乗ってお台場に行ってみないか?」

 「もういいよー、お酒買ってお家で飲もうよ」

 「潮風にあたりたいんだ」

 「しょうがないなー、じゃあちょっとだけだよ」




 ゆりかもめに乗ると、千雪は遠い目をして旦那を想い出しているようだった。


 「ゆりかもめなんて久しぶり」


 寂しそうに車窓を眺める千雪。




 お台場の海風は強かった。

 船の霧笛や飛行機の爆音が聞こえていた。


 「千雪、俺の親友に精神科医をしている奴がいる。明日、診てもらおう」

 「いいよ、このままで」

 「どうして?」

 「もう無理だから」


 私は千雪の手を強く握った。


 「俺がついている、一緒に治そう」

 「ありがとう三島さん。でも私はもういいの。

 もっと早くあなたに会いたかった」


 千雪は私の手を強く握り返して来た。

 それが千雪の答えだった。




 私は高校の同級生だった精神科医の栗田に電話を掛けた。


 「めずらしいな慶? どうした? 売れっ子作家さん」

 「実はお前に診て欲しい女がいるんだ」

 「お前の女か?」

 「俺の知り合いだ」

 「明日の12時でどうだ?」

 「すまんな? 彼女、アル中なんだ」

 「そうか? まあ程度にもよるが、そう大変じゃないだろう」

 「それだけじゃないんだ」


 まるでそれを予想していたかのように栗田が言った。


 「クスリか?」

 「そうだ」

 「取り敢えず診察してみよう。話はそれからだ」

 「よろしく頼む」

 「その女に惚れているのか?」

 「まあな?」




 そこは大学病院の精神科の診察室というより、どこかの工場の事務所のような部屋だった。


 

 「どうぞお掛け下さい。えーと、高岡千雪さんですね? じゃあ慶、ちょっと外で待っていてくれ。

 いくらお前でも医者には患者さんの守秘義務があるからな?」

 「わかった。よろしく頼む。千雪、外で待ってるからな?」

 「うん」



 診察を終えると、栗田は私と千雪に言った。


 「アル中の方は何とかなりそうだが、クスリの方は一度、クスリが抜けてから検査するとしよう。

 そうしないと警察やマトリへ報告しなければならんからな?」

 「お前に迷惑がかかるようなら、医者を変えてもいい」

 「俺を誰だと思っている? これでも医大の准教授だぞ、心配するな」

 「悪いな、栗田」

 「クスリを絶つためにはダルクがいいかもしれんな?」

 「ダルクか?」

 「ああ、辛いだろうが千雪さんの為だ」

 「任せるよ、俺に何か出来ることはないか?」

 「耐えることだ。彼女の苦しむ姿に」



 そして千雪は福島のダルクで合宿生活をすることになり、私もその近くの温泉旅館に滞在することにした。

 



第5話

 ダルクとは様々な依存症からの自立、自助支援をするための団体である。

 千雪の場合は覚醒剤だったこともあり、女性専用のダルクに参加することになった。



 「なんだか怖い。大丈夫かしら?」

 「それでいい。最悪を考えれば大抵の困難は乗り越えられるものだ。

 千雪は病気だったんだ。リハビリだと思って気軽に行って来い。

 そしてもしどうしても駄目だったら、いつでも俺を呼べ。迎えに行くから。

 俺はいつも千雪の傍にいる。

 仕事は近くの温泉宿ですることにしたから心配するな。 

 俺がいつでも受け止めてやる」

 「あなたの仕事って何なの?」

 「売れない小説家だ」

 「どんな小説を書いてるの?」

 「三島慶みしまけいで検索してみろ」


 千雪はスマホで俺のウィキペディアを検索した。

 

 「こんなに沢山の作品を書いているのね? 凄いわ」

 「数を書けばいいというものじゃない。どれだけ読者の共感を得られるかどうかだ」

 「私の事は小説にしないでね?」

 「どうしてだ?」

 「なんとなく・・・」


 私は千雪の気持ちがよくわかる。

 自分をモデルにして小説を書いて喜ぶ人間もいれば、プライベートを晒されて嫌な人間もいる。

 千雪の場合は後者だった。


 


 そのダルクは那須の山間やまあいにあった。

 共同生活をすることで規則正しい生活を送る。

 怠惰な生活を改め、生活リズムを整えるためだ。

 覚醒剤依存になる人間は夜型が多い。

 それを昼型の生活に戻さなければならない。

 早寝早起き、太陽と共に生活をするように習慣付けるのだ。

 そして一番大切なのが「ミーティング」だ。

 自分の体験を各々告白しあうことで、その経験をみんなで考え、共有することで「自分だけではない、自分はひとりではない」と自覚する効果がある。

 人は本来、自分を知って欲しいのだ。依存になりやすい人間のタイプは友人が少なく、家族と縁の薄い者が多い。

 薬物依存から脱却し、普通の生活に戻るためには同じ悩みを持つ仲間が必要だ。


 まずは田中陽子さんからの体験談が紹介された。

 陽子さんは43才で、高校2年生の男の子と、中学3年生の女の子を養っているシングルマザーだそうだ。


 「私は中学1年の時から覚醒剤に手を出し、何度も補導されました。

 父親がヤクザで、家に覚醒剤があったからです。

 高校には行っていません。行けませんでした。

 何度も覚醒剤を止めようと思いました。刑務所に入る度に。

 でも駄目でした。

 色んな合法ドラッグを試しましたが、覚醒剤の高揚感、快感は格別だったからです。

 そして覚醒剤は簡単に入手出来ます。

 寄ってくるんですよ、私をまたシャブ漬けにしようとして。

 あのタレントの田代まさしさんが何度も逮捕されるのも、握手する際に覚醒剤を握らせて来る人もいるからだと聞きました。

 今、私がクスリをやらずに済んでいるのは、家族の支えがあるからです。

 こんな母親を心配してくれる、やさしい子供たちを泣かせたくはないからです」

 「私も夫の協力がなければここへ来ることは出来ませんでした。

 アルコール依存もギャンブル依存も、そして薬物依存もそうですが、完治することはありません。

 「今日はしなかった」「今日はやらなくて済んだ。でも明日はわからない」、その連続なんです」


 川瀬由美さんが言った。

 由美さんは執行猶予中とのことだった。

 旦那さんは同じ個人経営のスーパーの店長で、子供はいないらしい。

 由美さんの更生にご主人は真剣だった。

 すべてを承知で結婚してくれた人だったと言う。



 千雪の番になった。


 「初めまして、高岡千雪です。

 私は夫が役所でパワハラに遭い、自ら命を絶ちました。

 私は生きる希望を失いました。

 夫を苦しみから救ってあげられなかったんです。

 私は自分を責めました。

 そして夜の街を彷徨うようになり、その時に知り合った男からクスリを教えられました。

 最初はタバコに染み込ませた大麻リキッドからでした。 

 それからガラスパイプを使った覚醒剤の「炙り」をやるようになりました。

 何もかも忘れたかったからです。

 死んでもいいと思いました。

 そしてより深い快感を得るためにコカインやヘロインにも手を出すようになりました。

 ここに来たのは最近知り合った彼の勧めでやって来ました。

 その人のために依存性を治したい。

 そう思ったからです」


 陽子さんが言った。


 「セックスの時に使うと凄いからね?

 私なんか5時間も入れっぱなしだったこともあったわ。時間が飛んじゃうの。

 その時はいいのよね? でもその後、クスリが切れるともう最悪。

 重いインフルエンザみたいな症状になって、幻覚や幻聴が起きたりするようになって来る。

 だからまた覚醒剤に手を出してしまう。

 その悪循環の繰り返し」

 

 伊東瑠璃子さんも会話に加わって来た。


 「私は好奇心からでした。

 1度くらいなら大丈夫だと思ったのです。

 でもそれが2回になり3回になり、気がついたら常習するようになっていました。

 そして止められなくなりました。

 覚醒剤は1度やったら抜けられなくなるんだと知りました。

 そして思いました。「早くお巡りさんに捕まえて欲しい」と。

 ある日の朝、会社に出勤しようとアパートを出ると、女性刑事さんと男性の刑事さんが駐車場で私を待っていました。

 「わかるよね?」そう言って逮捕状をみせられ、手錠を掛けられました。

 でもその時、私は正直ホッとしました。

 「これでクスリを止めることが出来る」と」

 「わかる。自首は出来なくても捕まえて欲しくなるのよね? 苦しくて。

 もう自分ではどうすることも出来なくなるから」



 そう毎日みんなで話し合った。

 どうすれば覚醒剤を止めることが出来るかを。



 千雪もダルクに来た当初は激しい禁断症状に襲われ藻掻き苦しんだが、三島のことを思い出し、必死に耐えた。

 地獄だった。


 千雪からは三島に電話やLINEはしなかった。甘えないように自分を追い込んだのだ。

 だが毎日、三島は千雪に連絡をして来てくれた。

 千雪は死ぬほどうれしかった。


 「今日の晩メシは何だった?」

 「鳥南蛮」

 「そうか? 俺は塩ラーメンを食べた。

 そこを出たら連れて行ってやるよ」


 そんな何気ない毎日の会話が、千雪の折れそうな心の支えだった。




 そして3ヶ月後、ついにダルクを出る日がやって来た。

 ダルクの代表の早苗さんや仲間たちが千雪を見送ってくれた。


 「もうここに来ては駄目よ」

 「元気でね?」

 

 千雪は深々と頭を下げ、早苗さんたちと抱き合って泣いた。


 「お世話になりました。本当にありがとうございました」

 「がんばってね? 辛い時はいつでも電話してね?」

 「ありがとうございます」



 三島が千雪を迎えに来てくれた。


 「千雪、よくがんばったな?」


 三島は強く千雪を抱き締めた。


 「少しふとっちゃった」

 「それは良かったじゃないか? 食欲が戻ったということだからな?」

 「慶に嫌われちゃうかも」

 「俺も腹が出たよ。ほら」

 「あはは じゃあ一緒にダイエットだね?」 

 「その前に「出所祝」だ。焼肉とビールで乾杯しよう」

 「うん、塩ラーメンもね? 美味しいお肉を沢山食べたい。もちろんビールも」



 その時、その光景を憎々しく見ていた女がいた。

 伊東瑠璃子だった。


 「しあわせになんかしない。あなたは必ずまたここへ戻ってくる。必ず」


 瑠璃子はそうほくそ笑んでいた。

 



第6話

 千雪と私は東京へ戻り、汐留の千雪のマンションで一緒に暮らすことにした。

 千雪は酒を止め、そして私も酒を止めた。

 私が酒を飲めば、また千雪も酒を飲みたくなるからだ。


 「慶まで私に付き合うことはないのに。

 いいのよ、慶は飲んでも」

 「元々酒なんか飲みたいわけじゃない。女がいなかったから酒を飲んで暇を埋めていただけだ。

 俺にとっての酒はお前だ。俺を酔わせてくれるからな?

 だからもう飲む必要がない。

 それに俺が酒を飲まなければ千雪も酒が飲み難くなるだろう?

 俺はお前の「アル中防止薬」というわけだ」

 「ありがとう、慶。

 でももう大丈夫。私もひとりじゃないから。

 慶というお酒が私をいつも酔わせてくれる」



 千雪は掃除洗濯、料理などの家事全般を積極的にこなし、彼女の生活は昼型に変わった。

 肌艶も良くなり、あの死んだ魚のような目が輝きを取り戻していた。


 「千雪」

 「なあに?」

 「お前、綺麗になったな?」

 「うれしい! もっと言って!

 慶のお蔭だよ。今夜もたくさんかわいがってね?」


 そんな平穏でしあわせな日々が続いていた。

 



 「ねえ、銀座のミニシアターに映画を観に行かない?」

 「シネスイッチか? どんな映画だ?」

 「マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの映画、『ひまわり』よ」

 「随分古い映画だな? ヘンリー・マンシーニのあの胸が締め付けられるような映画音楽は好きだけどな?」

 「私も大好き。そして映画の帰りにあのBARに行きましょうよ」

 「セント・エルモの火にか?」


 実は私も気になっていた。

 なぜかあのマスターには人間として興味があったからだ。

 彼にはまるで黒豹のようなしなやかな野生を感じた。


 「もちろん私は飲まないわよ。もうお酒は止めたから。

 でも慶は飲んでいいからね? 今度は私が介抱してあげる」


 おそらく千雪は私を安心させたかったようだ。

 ここまで回復した自分を見せたかったのだろう。


 


 映画を観た後、私たちは中華レストランで軽い食事をした。

 

 「千雪、お前、大泣きしていたな?」

 「慶だって泣いていたくせに。しっかり見ちゃったんだから、慶が泣いているところ」

 「俺が泣くわけがないだろう? それは気のせいだ」

 「だってソフィア・ローレンがマルチェロと別れて列車に飛び乗り、泣き崩れるあのシーン。

 あのシーンで泣かない人は鬼よ鬼」


 あの広大なひまわり畑に流れるマンシーニのテーマ音楽。

 俺は忘れていたものを思い出していた。


 

      人を愛すること



 私はノンアルビールでギョウザと棒々鶏を食べている千雪を見て、私は幸福を実感していた。

 



 『St.Elmo's Fire』に行くと、見覚えのある老人がギムレットを飲んでいた。

 経団連会長、四菱物産の高畠順三その人だった。


 

 「いらっしゃいませ。お久しぶりです。

 良かった、ご一緒でおいでいただいて」

 「ご無沙汰しておりました。少しの間、ふたりで別荘に行っていたので、今日やっとここへ来ることが出来ました」

 「それは良かった。少し心配していたんですよ。

 あの後、どちらもいらっしゃらなかったので」

 「マスター、お久しぶり。

 今ね、慶と一緒に暮らしているの」

 「そうでしたか? これで私も安心しました」

 「それからね? もう私はお酒を止めたの。

 でも彼には飲ませてあげてね? 私に付き合ってずっとお酒を飲んでないのよ、この人。バカでしょう?」

 「そうでしたか?」

 「ということだから私はノンアルカクテルでこの人にはギムレットをお願い」

 「俺もノンアルでいいよ」

 「いいからいいから」

 「おやさしいんですね? 三島先生は」

 「私のことを知っていたんですか?」

 「はい。先生のファンですから。

 三島先生の小説に出てくる男性はみんな、あと少しのところでしあわせを掴めるのに、人間としての尊厳を守ろうとしてそれをあっさりと捨ててしまう。

 そこが好きなんです」

 「ありがとうございます」

 「後で本にサインをいただけますか? 厚かましいようですが握手もお願いします」

 「恐縮ですね?」

 「それでは千雪さんにはノンアル・カクテルを。

 先生にはギムレットをお作りいたします」

 「お願いします」

 


 私にはギムレットを、そして千雪の前にはロンググラスが置かれた。


 「このカクテルはなんというカクテルなの?」

 「『グラスゴー・フリップ』というノンアルカクテルです。

 レモンジュースとジンジャエール、そして砂糖と卵、レモンライムで作ります。

 コクが有り、蕩けるような舌触りが特徴です。

 別名を恋人たちの夢、『Lover's Dream』と言います」

 「流石はマスター、随分と粋なことするじゃないの?」


 千雪は満足そうに私と乾杯をした。


 「私たちのしあわせな未来に」

 「乾杯」


 私はこのマスターの作るギムレットが全身に沁みた。


 すると高畠会長が話し掛けて来た。

 

 「ここのギムレットを超える店は中々ありませんよ」

 「会長もお好きなんですね? マスターの作るギムレット」

 「私のことをご存知ですか?」

 「よくテレビで拝見しますから」

 「あはははは あれはよそ行きの私ですよ。

 今が本当の私です。

 初めまして、四菱の高畠です」


 会長は私に名刺を渡してくれた。


 「ご丁寧にありがとうございます。

 すみません、私は自由業なので名刺を持っていないもので。

 小説家の三島慶と申します」

 「私も何冊か読ませていただきましたよ。

 今どき純文学とはめずらしいですからなあ。おっとこれは失礼。

 私もあなたのファンです」

 「ありがとうございます」

 「私にもご著書にサインをいただけますかな? そして握手もよろしいか?」 

 「こちらこそお願いしたいくらいです。

 高畠会長のような方こそ、総理大臣に相応しいと思います」

 「総理になって日本が変えられるものならそうなりたいものですな? あはははは」


 すると奥からマスターが私の本を2冊、持って来た。

 

 初めに高畠順三と会長の名を書いてサインをし、握手をした。

 人間力の溢れる、パワーのある手だった。


 「マスターのお名前は?」

 「冴島浩二です」


 私は冴島さんにもサインをし、握手をした。

 

 (んっ? 軍人の手?)


 冴島さんの手は、以前中南米で取材をした時に握手を交わしたゲリラ兵の手と同じ感触だった。

 人を殺めた手?



 私と千雪は1時間ほど会長とマスターと談笑をして帰った。




 「冴島、久しぶりに旨い酒を飲んだよ。

 あのふたり、しあわせになるといいなあ」

 「そうですね?

 ところで会長、いいんですね? そのまま任務を遂行しても」

 「ああ、いつもすまんな? 嫌な仕事ばかりをさせて」

 「お互い様ですよ会長」

 「仕方がない。この国のためだからな?」


 そして店の看板の明かりが消えた。




第7話

 都内にある高級ホテル。

 国交大臣の東村が大臣秘書の女を抱いていた。


 「どうだ? いいのか? お前は俺の最高の女だ」

 「先生、もっと激しく抱いて・・・」

 「こうか? もっとか?」


 その時、ドアのチャイムが鳴った。

 東村はあと少しでクライマックスを迎えるところを邪魔され、不機嫌にバスローブを羽織ると、ドアスコープを覗き込んだ。

 ドアの前には黒縁のメガネを掛けたボーイが立っていた。


 「何の用だ?」

 「幹事長からのプレゼントをお届けにあがりました」

 「幹事長から? わかった、今開ける」


 東村がドアを開け、後ろを向いた時、ボーイが東村の口を背後から塞ぎ、頸部に注射針を深く刺し、薬品を注射した。

 ボーイは崩れ落ちそうになった大臣を素早く支え、静かにカーペットの上に寝かせると、手袋を外して頸動脈に手を当て、脈の停止と、ペンライトによる瞳孔の対光反射が起きないことを確認した。

 東村は即死だった。


 そしてわざと大きな声で叫んだ。


 「お客様! 大丈夫ですかお客様!」



 異常に気付いた大臣秘書が、バスローブを着てベッドルームから飛び出して来た。


 「せ、先生!」

 「すぐにホテルのドクターを呼んでまいります!」


 ボーイはすぐに部屋を出て行ったが、二度と戻って来ることはなかった。

 女も服を着て、その場から立ち去った。


 冴島は任務を完了し、次のようにSNSに投稿した。



        掃除終了

     

      

 高畠会長はその投稿を見ると葉巻に火を点け、深い溜息と共に煙を吐いた。

 自宅の書斎にはハバナの甘いバニラの香りが漂っていた。


 

 翌朝のニュースでは、


 「昨夜、東村国土交通大臣が都内のホテルで亡くなっているのが発見されました。

 死因は急性心不全だったそうです。61歳でした。

 これにより東村大臣の裏金疑惑の解明は難しくなってしまいました」


 女子アナが原稿を棒読みした。





 毎週月曜日の夜は、千雪と私は『セントエルモの火』で過ごすのが習慣になっていた。

 高畠会長とマスター、そして私たちは世間話をして談笑をしていた。


 「どうしてあのお笑い芸人は記者会見を開かんのかねえ?」

 「それが真実だからじゃないかしら?」


 するとそこへ背広姿の男がやって来た。


 「何だ? 千雪じゃねえか?」


 男はかなり酔っていた。

 中年の、髪が少し薄くなった小太りの男だった。

 千雪の顔が強張っていた。


 「どうだ? また俺とことしねえか? えっ?」 


 私はマスターに言った。


 「マスター、チェックして下さい」

 「先生たちがお帰りになることはありません。

 帰っていただくのはこの人ですから」

 「なんだと? 俺を誰だと思っていやがる! 財務省主計局の・・・」


 するとマスターの冴島が男の眉間に正確にアイスピックを突きつけた。

 男の動きが止まった。


 「ここは紳士淑女の社交場だ。お前のような下衆の来るところではない。

 二度と来るな」


 (冴島というこの男。やはり只者ではない)


 私はそう確信した。



 高畠会長が男に振り向き言った。


 「財務省? ほう、それは大したもんだ」


 冴島はアイスピックを調理台へ静かに置いた。


 「経団連の高畠会長⁉」


 男は高畠会長を見て、凍り付いた。


 「覚えてろ」


 そう捨て台詞を残して男は店を出て行った。



 「東大出かなんか知らんが、いよいよ日本も末だな?」

 「ありがとうございました。マスター、高畠会長」

 「最近は礼儀を知らん者が多くなったよ」


 冴島は何も無かったかのように、鮮やかな手付きで身知らず柿を剥き始め、それを美しく盛り付けると私たちの前に置いた。


 「会津の身知らず柿です。お口直しにどうぞ」


 私たちはそれを口にした。


 「マスター、これ旨いなあ? もうひとつ剥いてくれんか?」

 「会長、かしこまりました」


 千雪は悲しそうな顔をしていた。





 マンションに帰ると千雪が言った。


 「あの男はね・・・」

 「千雪、何も言うな。自分を許してやれ、お前は病気だったんだ。

 そしてどうしても許せない奴は許さなくていい。忘れることだ」

 「慶・・・」


 私は千雪をやさしく抱き締めた。


 「お前はもう、俺の女だ」


 千雪は涙を溢した。

 深夜の街を、救急車のサイレンが遠ざかって行くのが聞こえた。




第8話

 伊東瑠璃子はダルクから脱落し、また覚醒剤に沈んでいた。


 

 「どうだ? これが欲しいか?」

 「欲しい・・・」



 セックスで覚醒剤を使うと凄まじい快感が全身を貫く。

 瑠璃子は売人の男、健次とクスリに溺れていた。


 「本当にお前はシャブが好きな女だな? チンコとシャブがねえと生きられねえんだからな?」

 「アンタだって同じじゃないの。うっ、あっ、またイキそう! 来るわ来るの!」

 「何度でもイカせてやるぜ、このシャブ中!」



 次第にクスリの量が増えて行った。

 瑠璃子は覚醒剤を買うために、吉原のソープでまた働き始めた。




 瑠璃子はようやく千雪の居所を突き止めた。

 

 (こんなタワマンに住んじゃって、シャブ中のくせに。

 さあ、あなたも私と同じようにこの蟻地獄に引き摺り込んであげるわね?)



 瑠璃子は千雪が汐留のマンションから出てくるのをじっと待っていた。

 

 午前10時、家事を終えた千雪が出て来た。瑠璃子は千雪の後をつけた。

 偶然を装うために。



 千雪が銀座に向かって歩いていると、瑠璃子が背後から声を掛けた。

 

 「あら? 千雪さん? 千雪さんでしょ? 偶然!

 この近くに住んでいるの?」


 千雪の顔が強張った。

 出来れば二度と遭いたくはない相手だったからだ。

 


 「ねえ、良かったらこれからお茶しない?」

 「ごめんなさい、これから友人と会う予定があるの」

 「そう? 残念ね? 私も今、東京にいるのよ。

 今度一緒に遭いましょうよ。同じ「仲間」なんだし」


 千雪はその「仲間」という言葉に嫌悪感があった。


 「ねえ、LINE交換しようよ」


 千雪は仕方なく瑠璃子とLINEを交換した。


 「それじゃまたね?」


 そう言って瑠璃子は去って行った。



 (ブロックすればいいわ。

 どうせ住所なんてわかりはしないんだから)


 千雪はそう簡単に考えていた。




 銀座のデパ地下で食材を買い、家に戻ると瑠璃子と遭ったことを三島に話した。



 「今日ね、ダルクで一緒だった伊東さんに道路で偶然ばったり遭ったのよ。

 凄くイヤだったわ。

 しつこくLINEを交換しようと言われたんだけど、ブロックすればいいと思ったから交換しちゃった」

 「別にここを知っているわけではないだろうが、注意した方がいい。

 世の中いい人間ばかりじゃないからな」

 「うん、気をつける」


 千雪は食事の用意に取り掛かった。




 千雪がマンションを出た時、 声を掛けられた。


 「千雪ちゃん!」


 瑠璃子だった。

 千雪は怯えた。


 「着拒するなんて酷いんじゃない?

 こんな凄いタワマンに住んでるんだあ?

 いいなあ、私もこんなところに住んでみたいなあ」

 「・・・」

 「何も心配しなくてもいいわよ、私はもうクスリは止めたから。

 もう二度と間違いは起こさないと誓ったの。あのダルクでね?

 でもひとりじゃ不安なの。

 だから「仲間」が欲しいの。私がクスリに手を出さないように見張っていて欲しい。

 お願い千雪、私をひとりにしないで」


 千雪は戸惑った。


 (この人も悩んでいるのね?)


 すると瑠璃子がピエール・マルコリーニの小さな手提げ袋を千雪に渡した。


 「これ、千雪にプレゼント。良かったら食べてみて。凄く美味しいだから。

 それじゃまたね?」


 それだけ言うと瑠璃子は大人しく帰って行った。


 

 外出から帰ると千雪はチョコレートの包を開けた。

 それを見て千雪は凍り付いた。


 チョコレートの上に覚醒剤のパケが一袋とメッセージカードが添えられていたからだ。


 

   

       親愛なる千雪へ



       「また仲良くしてね?」



              瑠璃子




 久しぶりに見た覚醒剤だった。

 千雪はその狂いそうな快感を思い出し、脳が涎を垂らし始めた。



 千雪は慌ててクスリの入ったパケの封を破り、激しく水道を出してシンクに覚醒剤を流し、チョコを箱ごとゴミ箱に捨てたた。

 再びの禁断症状が千雪を襲った。




第9話

 JR新橋駅に向かって千雪が歩いていると、また眼の前に瑠璃子が現れた。


 「どうだった? チョコの味は?」

 「もう私に近づかないで!

 警察を呼ぶわよ!」

 「おー怖い怖い。でも本当は欲しいんでしょ? コレが? ふふっ」


 瑠璃子はバッグからポシェットを取り出すと、中身を開けて千雪に見せた。

 注射器が二本入っていた。


 「どう? これから一緒に楽しまない?

 男もいるからさあ。やろうよ乱交パーティー」


 千雪は注射器を見て頭がおかしくなりそうだった。


 (欲しい! クスリを打ちたい!)


 「もういい加減にして!」

 

 千雪はその場から走って逃げた。

 瑠璃子は勝ち誇ったように笑っていた。


 「あはははは いつでも欲しい時は言ってねー? あはははは あはははは」


 (あなたは必ず連絡してくる、必ず。

 脳に刻まれた凄まじいほどのあの快感。それに抗うことは出来ないのよ)




 

 禁断症状が千雪を襲った。

 カラダがブルブルと震え、悪寒がした。

 カラダがダルい。


 (欲しい! クスリが欲しい!)


 「どうした千雪? 大丈夫か?」

 「彼女が、瑠璃子さんが私に覚醒剤を」

 「打たれたのか!」

 「ううん、拒絶したわ。

 でも、でもね、カラダが物凄くクスリを欲しがるの、助けて慶!」


 私は強く千雪を抱き締めた。


 「よく耐えたな? 偉いぞ、千雪は偉い。

 お前は耐えたんだ」

 「慶、私、怖いの。

 またクスリを使ってしまいそうで」

 「心配するな。俺がなんとかする」

 「どうしてあの女は私に付き纏うのかしら?

 何が目的なの?」

 「お前に嫉妬しているんだろう。

 大丈夫だ、何も心配するな」

 「警察に言った方がいいかなあ?」

 「警察に言っても無駄だ。また数年で刑務所から出てくるからな?

 さらに恨みを募らせて」

 「じゃあどうすればいいの?」

 「俺が女と話をつける」

 「無理よ、シャブ中なのよ!」

 「大丈夫だ、俺に任せておけ」


 翌日、私は伊東瑠璃子と会うことにした。




 話が話だけに、人がいる喫茶店で話をするわけにはいかなかった。

 私たちは晴海埠頭で会うことにした。

 私は自動販売機で缶コーヒーを買い、ひとつを彼女へ渡した。


 「ありがとう。やさしいのね?

 今まで男からプレゼントを貰ったのは初めてよ」


 私たちは海を見ながら缶コーヒーを口にした。

 苦いコーヒーの味がした。

 


 「もうウチのやつには近寄らないで欲しい」

 「イヤだと言ったら?」


 私は100万円の札束を入れた封筒を瑠璃子に渡した。


 「手切れ金だ」

 「随分気前がいいのね? あなた、お金持ちなのね?

 タカっちゃおうかしら? ダニのように。

 だって私、シャブ中だから。あはははは」

 「彼女を救ってやりたいんだ」

 「愛しているのね? 千雪のこと。

 結婚するの? あの女と?」

 「そのつもりだ」

 「いいなあ、千雪が羨ましい。

 憎らしいほどあのキレイな笑顔がキライ。

 ズルいでしょ? あの女ばっかり幸せになるなんて」

 「君がどんな人生を送って来たのか俺は知らない。

 だが辛い人生だったのは想像が付く。

 同情はしない。辛い人生を生きているのは君だけじゃないからだ。

 でも君にはしあわせになって欲しい。

 恨みや妬みはまた新たな憎しみや嫉妬を生む。

 生きることは辛いものだ。

 人は魂を磨くためにこの世に生まれたからだ。

 辛いのが人生だ。

 それでも君がアイツを憎むというのなら俺を憎め。

 だが俺は君を憎むことはない。

 君が立ち直れることを祈っている」


 瑠璃子は私を見ずに静かに海を見詰めていた。

 缶コーヒーを飲みながら彼女は泣いていた。



 それ以来、瑠璃子は千雪の前に現れることはなかった。




第10話

 BAR『St.Elmo's Fire』では高畠会長と冴島が次のミッションの打ち合わせをしていた。


 「階堂は慎重な男だ。警護は極めて厳重だぞ」

 「84才になってもまだ権力に執着するんですね? 醜い老人です」

 「人を自由に動かす快感が忘れられないのだろうな?

 実に哀れな男だよ、カネと権力のために生きるなど。

 「盛者必衰のことわりをあらわす」だよ」

 「では予定通りに」

 「ああ、一体いつになったら俺たち『令和必殺仕事人』のお役目は終わるんだろうな?」

 「ラングレー(CIA)も我々の存在に気付き始めているようです。

 アメリカの飼犬である民自党の長老たちを抹殺し、敗戦国としての汚名を濯がなければなりません」

 「日本は真の独立国家にならねばならんのだ。

 もう民自党とアメリカの自由にはさせん」

 「仰るとおりです会長。日本は神の国なのですからね?」

 「真面目に生きる者たちが報われる国でなければならんのだ。

 何もカネを集めることが悪いとは言わん。

 大きな事をするにはカネがいる。

 問題は「何のためにカネを集め、何のためカネを使うかだ。

 自分の欲望を満たし、権力を拡大するためだけにカネを追う。

 それは外道の所業だ」

 「そのカネで国を潤し、富を分かち合う。

 そんな日本にしなければなりません」

 「俺たちは神国日本の「掃除屋」だからな?」



 

 ホテルでの階堂派の定例会を終え、階堂が高畠会長と談笑しながらトイレに向かって歩いていた。


 「歳を取るとションベンが近くなってかなわんよ」

 「いやいや、幹事長は若い。政界の「キングメーカー」ですからなあ」

 「ところで高畠会長、今度の衆議院選挙には孫の秋千世を出馬させるつもりじゃ。

 よろしく頼む、応援してやってくれ」

 「秋千世様を政治家に? 階堂家のサラブレッドですからなあ。お任せ下さい、経団連を挙げて応援させていただきます」

 「秋千世は倅たちにはない人心掌握の才に長けておる。

 これは政治家にとって大変な武器だ。

 目の中に入れても痛くない孫じゃよ。秋千世は」

 「それでは幹事長、私はこれで失礼いたします」

 「今度、一緒にメシでもどうだね?

 孫の秋千世も是非、アンタに紹介したい」

 「ご連絡をお待ちしております」


 (もう連絡することは出来ないがな?)


 高畠は待たせていた社用車に乗り込み、ホテルを後にした。



 

 階堂が用を足していると、トイレブースから冴島が出て来た。

 背後から階堂に近づいた冴島は階堂の口を塞ぎ、素早く階堂の首の骨を折った。

 階堂は絶命した。


 そして冴島は素早くトイレから廊下へ出ると、秘書やSPたちに向かって叫んだ。


 「トイレで人が倒れている!」


 SPたちがトイレの中に一斉になだれ込んで行った。


 冴島はホテルのギャレーを抜け、非常階段を降りて人混みに紛れると地下鉄銀座線に乗った。

 そしていつものようにSNSに投稿した。



     「掃除完了」




 

 三島は夢を見ていた。



 「慶、お前は人を殺したことがあるか?」

 

 ニカラグア政府軍の将校、ロドリゲスが言った。


 「ない」

 「そうか? 人を殺すのはセックスと似ている。

 やればやるほど感覚が麻痺して来るんだ。次第にマンネリ化して来る。

 初めて女を抱く時は緊張するよな? そしてその快感を知るともっとやりたくなる。

 愛の言葉もキスも前戯もせずに射精だけをしようとする。いきなりだ。

 そしてもっと快感を得ようとヘロインやコカインのクスリに手を出すようになる。

 殺しも同じだ。

 人を殺すことに抵抗がなくなってくるんだ。

 こんな風にな?」


 ロドリゲスは私にM16を向け、引き金を引いた。



 「うわーっ!」


 私は叫んだ。


 「どうしたの慶? 怖い夢でも見た?」

 「ニカラグアを取材していた時の兵士が出て来て俺を撃ったんだ」

 「怖かったわね? よしよし。

 私がバクになって悪い夢を食べてあげる。バクバク バクバク」


 そう言って千雪は私を母親のように抱き締めてくれた。



 「千雪。結婚しよう」

 「いいの? こんな女で?」

 「お前じゃなきゃダメなんだ。

 今日、指輪を買いに行こう」

 「うれしい・・・」


 千雪は私を抱きながら泣いた。




 私は千雪を連れて銀座に指輪を買いに出掛けた。



 「いらっしゃいませ」 

 「婚約指輪と結婚指輪を見せてくれ」

 「かしこまりました」


 30代くらいの清楚な女性店員が応対してくれた。


 「エンゲージリングはいらないわよ。

 結婚指輪だけで十分」

 「普段も着けられる誕生石ならいいだろう?

 お前は10月生まれだからオパールだよな?

 オーストラリアのファイヤー・オパールはあるか?」

 「よくご存知で。

 はい、今当店に2つございます」

 「ではまずそれを見せてくれ」

 「ファイヤー・オパールって何?」

 「日本でのオパールはメキシコ産の乳白色の物が一般的だが、オーストラリア産のオパールは色がクリアで鮮やかなんだ。

 そしてその中にまるで炎が閉じ込められたようなオパールがある。

 それが「ファイヤー・オパール」だ」



 店員がそれを私たちの前に置いた。


 「こちらになります」

 「ホントだ。炎が揺らめいているみたい」

 「どっちがいい?」

 「でもいいわよ、こんな高価な宝石なんて」

 「お前の守り神になる指輪だ。

 遠慮せずに選べ」

 「それじゃあ、こっち」

 

 千雪はわざと安い方を選んだ。


 「ではこちらの方をくれ」

 「えっ? そっちじゃないわよ私が選んだのは」

 「こっちの指輪の方がパワーが強い。これにしろ」

 「一桁違うわよ?」

 「銀座で飲むよりはるかに安いよ」

 「ではサイズをお調べいたしますのでこちらへどうぞ」



 指の採寸を終え、結婚指輪を選んだ。


 「夢見たい」

 「後はウエディング・ドレスと教会だな?」

 「ウエディング・ドレス?」




 私たちは渋谷の『DRESS・BLACK』でドレスを選び、ウエディング・コンサルタントの女性を紹介して貰った。

 

 「最高にしあわせ。怖いくらい」


 ウエディング・ドレス姿の千雪は、両手で私の手を強く握った。

 千雪は涙を溢していた。




最終話

 『St.Elmo's Fire』で、マスターの冴島さんと高畠会長に結婚式の招待状を渡した。


 「結婚式を挙げることになりました。内輪だけの祝いですが、日頃お世話になっている方への御礼のご招待ですのでご祝儀は辞退いたします。よろしければおふたりにご臨席いただけると幸いです」

 「それはおめでとうございます。もちろん伺いますよ。何かお手伝いしましょうか?」

 「いえ、冴島さんはゲストとしておいで下さい。当日は私と千雪が接待しますので」

 「おめでとう。私も伺うよ。よかったね? 千雪さん」

 「会長、ありがとうございます。お忙しいのにすみません」

 「殆ど私が出る集まりは、仕方なく行くものばかりだよ。

 あなたたちの新しい門出だ。是非、出席させてもらうよ」

 「ありがとうございます高畠会長。畏れ入ります」


 

 三島と千雪が店を出ると、突然千雪が呼び止められた。

 気質かたぎとは思えない連中だった。


 「千雪じゃねえか? 久しぶりだな? 探したんだぜ、クスリも買いに来ねえしよお。

 随分といい女になったじゃねえか? 肌艶も良くなって。 うへへへ

 まあ立ち話も何だ。またお互い仲良くしようぜ。おい、クルマを持って来い」

 「へい」


 若い男がコインパーキングへ走って行った。

 千雪は酷く怯えていた。


 「もう私に付き纏わないで!」

 「もうシャブは止めたのか? やめられねえよなあ? あんないい物。

 楽しもうぜ? あの時みたいによお」

 「千雪、行こう」


 私が千雪の手を取ってその場を離れようとした時、手下の男に左頬を殴られた。


 「若の女に何しとるんじゃワレ!」

 

 もう一人が腹に膝蹴りをして私はうずくまってしまった。

 そこへ黒いベルファイヤーがやって来ると、その男は千雪をクルマへ乗せようとした。


 「止めて! 誰か助けて!」


 千雪が叫んだ。

 遂に私の封印が解かれた瞬間だった。

 私は般若の形相となり、向かいの工事現場から1mの単管パイプを拾い上げると、背後からそのヤクザの肩にパイプを思い切り振り下ろした。


 鎖骨が折れた感触があった。男が千雪の手を離した。

 千雪はすぐに私の後ろに隠れた。


 「死にてえのかコノヤロー!」

 「お前、『血虎会』に逆らうと東京湾に沈むことになるぜ!」


 一人の子分が隠し持っていた匕首あいくちを抜いた。

 

 「うわーーーーっつ!」


 私は叫びながらその男を滅多打ちにした。

 そして出て来た運転手の顔をパイプで殴りつけると、クルマのフロントガラスをパイプで叩き割り、子分から奪った匕首を取り上げ、クルマのタイヤを刺してパンクさせた。


 パトカーのサイレンが近づいて来た。

 だがもう私の彼らに対する殺意は止まらなかった。

 

 (殺せ! 殺せ! コイツラはお前の敵だ!)


 私の頭の中で呪文のように政府軍の将校、ロドリゲスの声が聞こえた。

 私はトドメを刺すため、千雪をクルマに押し込めようとした男に向き直ると、その男の脳天を鉄パイプで砕こうと振り上げた時、私の腕を止める者がいた。

 冴島だった。


 「三島先生、そいつは殺す価値もない奴ですよ」


 私はようやく我に戻った。

 警察が来たので3人のチンピラたちは逃げて行った。



 「どうしたんですか? 喧嘩していると110番通報が寄せられたもので」


 制服警官の一人が私たちに尋ねた。


 すると高畠会長が警官たちを諌めた。


 「チンピラたちに絡まれただけですよ。向こうへ走って逃げて行きました。

 このクルマを残して。銀座も物騒になったものです」

 「危害を加えられたり脅迫をされたり、お怪我はありませんでしたか?」

 「大丈夫です」


 冴島が言った。

 私たちは再び店に戻って行った。


 

 「三島先生って怒ると怖い人なんですね?」

 「冴島さんほどではありませんよ」

 「どこで格闘術を学ばれたんですか? あの身のこなし、判断力、そして殺意は武術ではなく、軍隊で教わるものです。以前、先生は自衛隊にいらした経験がおありですか?」

 「実戦で覚えました。

 今から10年前、2年ほど中米のニカラグアでの内戦を取材していた時に身につけさせられました。

 そしていつの間にか政府軍の兵士になっていました」

 「あの映画にもなった『復讐の白い航跡』ですね? 拝読させていただきました」

 「毎日ゲームのように人が殺され、殺していました。

 生き延びるために必死でした」


 冴島は私にワイルドターキーのロックを、そして千雪にはレモンスカッシュを作ってくれた。

 

 「そうでしたか? 取り敢えずこれでも飲んで落ち着いて下さい」

 「ありがとう。マスター」

 「ありがとうございます」

 「しばらくはここをうろつかん方がいい。銀座も質が落ちたものだ」


 高畠会長がそう言って私たちを心配してくれた。


 「はい。気をつけます」

 「でも千雪さんが無事で良かった。強いご主人を持って良かったですね? 頼りになる。

 ずっとあなたを守ってくれるでしょうな?」

 「あなたがヤクザをやっつけるなんてびっくりしちゃった」

 「俺もびっくりしたよ。結婚したらしばらく日本を離れよう。

 今まで俺たちは色々あったから、南の島でのんびりしようじゃないか?」

 「それがいい。人生には休息も必要だからな?」

 「そうですね? 休息は大切ですよね? 人間には」

 「私とマスターには中々休息はないがね?」

 「私と会長の休日は、死んでからになりますね?」

 「あはははは。そうだな?」

 



 結婚式の当日は、雲一つ無い、秋晴れの快晴だった。


 誓いの言葉と指輪の交換を終え、私と千雪はライスシャワーを浴びながらみんなの前を歩いていた。



 「死ねやーっ!」



 目出し帽を被った男が強い憎しみを込めてトカレフの全弾8発を撃ち尽くした。



 パンパン パンパン パン パン パンパン



 一瞬の出来事だった。

 そのうちの4発が私の胸と腹、腕と大腿部に命中した。

 すぐに冴島がその男を取り押さえた。


 「早く救急車を! そして警察に連絡して下さい! すぐに!」


 千雪が倒れた私を抱きしめた。



 「いやーーーーーーーっつ!」



 胸から噴水のように溢れ出る血を狂ったように抑える千雪。

 千雪のウエディングドレスが血で赤く染まって行った。血だらけの花嫁。


 私は仰向けで千雪に抱かれ、薄れて行く意識の中で空を見ていた。

 青い空にひとつの旅客機が飛行機雲を描いて飛んでいる。

 私は思わずユーミンの『ひこうき雲』を口ずさんだ。


 

 「白い♪ 坂道がー♪ 空までー♪ 続いていたー♪・・・」



 「慶ーーーーーーっつ!」



 晩秋の午後に教会の鐘が鳴り、白い鳩が飛んで行った。



                    『曼殊沙華』完




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【完結】曼殊沙華(作品240212) 菊池昭仁 @landfall0810

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