碧の宝石

入江 涼子

第1話

  とある国に蒼き宝石の令嬢と呼ばれる女性がいた。


 彼女は緩く波打った銀色の髪に深みのある蒼玉の瞳、肌は雪のように白くてこの世の物とは思えない程の美姫であった。令嬢には婚約者がいる。この国の王子で名をシグルドと言った。淡い金の髪に朱の瞳の美男子だ。シグルドは性格も穏やかで温厚だった。今日も令嬢に優しく笑いかけながら声をかける。


「……サフィ。今日は君の好みのお茶を用意したんだ。一緒に飲もう」


「……わかりましたわ。殿下」


 サフィことサファイア・フォレスト。フォレスト侯爵家の長女にしてシグルド第一王子の婚約者であった。サファイアは当年とって十七歳だ。シグルド王子は十八歳であった。

 さて、サファイアは女官が用意してくれた紅茶を静かに口に含む。シグルド王子はそれを嬉しそうに見つめる。


「どうかな。サフィの口に合っているかい?」


「ええ。とても美味しいですわ」


「けどね。サフィ。俺はいつ君から色よい返事がもらえるか待っているんだ」


「……またですの。婚姻式まではお待ち下さいと申し上げたではないですか」


「まただよ。サフィ。俺は本当に君が好きなんだ。君が心からの笑顔をくれたらそれで満足なのに」


 そう言うとシグルド王子は悲しげに目線を落とした。毎度のやり取りにサファイアはため息をつく。実はサファイアには呪いがかけられていた。魔女によるもので異性の前では心からの笑顔を浮かべられないという呪い。彼女がまだ十一歳という幼い頃にだ。

 目の前にいきなり黒ずくめの魔女が現れ、サファイアに禍々しい呪文を唱える。それが終わった後に魔女は高笑いしながらこう言った。


『……サファイア。お前はこれから氷の姫として生きていくのだ!ああ、気持ちがいい。ずっとお前は目障りだった。婚約者の王子に疎まれながら惨めに生きていけ!』


 魔女が姿を消した後にサファイアは高熱を出した。こうして彼女は二日間うなされ続けた――。


 後で父や兄、家令に他の男性の使用人。幼なじみの男の子。婚約者の王子に陛下。身近な人々であっても異性というだけで笑顔を浮かべる事ができなくなっていた。

 神殿の神官長に解呪の方法を聞いてみた事がある。すると神官長は眉をひそめながらもこう告げた。


『……サファイア様の呪いを解くためには月零石という魔石の粉を聖水に混ぜた月の涙という薬を作る必要があります。これを作るには月の神子と星の神子の協力が不可欠です。完成させるには一年はかかりますね』


 それを聞いたサファイアは両親と共に頼み込んだ。一年待つから作ってほしいと。神官長は渋々ながらも頷いた。こうして半年が過ぎていた。


 サファイアが月の涙を作ってもらえるように頼み込んだのは十六の年の夏だ。もう季節は冬で年を越してしまった。もう来年にはシグルド王子との婚姻式が控えている。これ以上は待っていられないのもあった。


 そこまでを思い出してサファイアはお茶会の途中だったと我に返った。シグルド王子は気遣わしげにこちらを見ている。朱の瞳が心配そうな色を宿していた。


「……サフィ。返事はやっぱりいいよ。君の笑顔が見たいと言った俺が悪かった」


「殿下」


「俺の事はシグでいい。小さな頃はそう呼んでくれていたよな?」


 サファイアは胸がいっぱいになって答えられない。シグルド王子の事を傷つけたくはないのに。だがこの顔はお面のように無表情か不機嫌な表情のままだ。魔女の呪いが解けるにはまだ半年もかかる。が、サファイアはこの時は気づいていなかった。もう一つの解呪法がある事をだ。すぐ側にがいたのだった……。


 サファイアはお茶会がお開きになったので王宮を出た。馬車に乗り込み自邸に帰る。邸に着くと降りて御者の手を借りながらエントランスホールに入った。家令とメイドのクラリッサに出迎えられた。


「……お帰りなさいませ。お嬢様」


「ただいま。ダルトン。クラリッサ」


「もう殿下とのお茶会は終わったのですね。お部屋へ行きますか?」


「そうするわ。クラリッサ、夕食はいいから」


「わかりました」


 クラリッサが頷くのを見るとサファイアは一緒に自室へ戻る。二人で中に入った。


「……サファイア様。顔色が優れませんよ」


「そうかしら。クラリッサ、もう休みたいわ。ドレスを脱ぎたいから手伝って」


「わかりました。ではネグリジェを用意します」


 クラリッサは急いでネグリジェなどを用意した。サファイアの髪留めを外しほぐす。お化粧も落とした。次にドレスを脱がすとベージュ色のネグリジェに着替えさせる。最後に柔らかな布製の室内履きを床に置き、髪を紐で緩く束ねた。サファイアは室内履きを履いてから寝室に行く。

 ベッドに行くと上がり毛布とシーツに潜り込んだ。寝室は常に魔法石で一定の温度に保たれている。火の魔石が暖炉に焚べられていた。サファイアはほうとまた息をつく。


(いつになったら月の涙が入手できるのかしら)


 そう思っていたら不意にコツコツと窓硝子を叩く音がした。最初は気のせいだと思ったが。何度も続くので瞼を開ける。半身を起こした。


「……やっぱり空耳ではないわね」


 一人呟いてからベッドから降りた。そろそろと窓辺に近づく。カーテンを開けて伺うとそこには真っ白な大きい鳥が窓のへりに掴まってくちばしで硝子をつついている。窓硝子のコツコツという音はこの鳥の仕業だったようだ。


『……星の神子。窓を開けておくれ』


 不思議な声が聞こえた。サファイアは驚きながらも慌てて窓の鍵を解錠して開け放った。途端にびゅうと冷たい外気が部屋に入り込む。空は曇っていてちらほらと雪が降り始めている。サファイアは震え上がった。


「……さ、寒い!」


『ああ、言わんこっちゃない。我が入るから早く閉めなさい』


 サファイアは鳥が入るのを見て取ると急いで窓を閉めた。ガタンッと音が鳴る。カーテンも閉めてしまうとガタガタ震えながらベッドに速足で向かう。シーツと毛布に再び潜り込む。

 ふと小声で鳥に話しかけてみた。


「……あの。あなたは一体……?」


『……我は太陽神。今は鳥の姿をしておるが。名はアテナスと言う』


「え。アテナス神といったら。この国の守護神様じゃないの」


『いかにも。我はそなたに用があって来た。だが。我はそなたの名を知らぬ。教えておくれ』


「……わたくしは。サファイア。サファイア・フォレスト」


 そう言うと鳥――アテナス神は満足そうに頷いた。どことなくにんまりとしているように見える。


『……我はサファイアを正式に星の神子と認めよう。そなたの呪いだが。対の月の神子であるシグルドだったか。あやつに口付けをしてもらえ。それが無理なら聖水を対の神子に作らせてそなたが月零石を粉状にするんだ。そうしたら月の涙はできるぞ』


「……く、口付けですって?」


『仕方なかろう。そなたの呪いはかなり強力だ。対の神子に協力してもらわぬと解くのは非常に難しい』


 サファイアはアテナス神の話を聞いて腹を括る事にした。どっちみち、呪いを解かないと婚姻式もできない。一か八かでシグルド王子に協力を頼む事に決めた。


 それからはサファイアの行動は早かった。まず、手紙でシグルド王子に解呪の方法がはっきりわかった事を伝える。その上でシグルド王子が月の神子で自分が星の神子である事も書き加えた。王子はこの日の昼には迎えの馬車を寄越してくれる。サファイアは急いで身支度をして乗り込んだ。クラリッサも一緒だが。王宮に着くとクラリッサを馬車の中で待たせてサファイアだけが中に入った。話は聞いているらしく王子付きの侍従が案内をしてくれる。辿り着いたのはシグルド王子の私室だ。部屋のドアの前まで来ると侍従は深々と礼をして立ち去っていく。サファイアはノックをする。中から返事があったので入った。


「……あの。殿下。手紙は読んでくださったようですね」


「……読んだよ。まさか、対の神子がサフィだったとはね。驚いたな」


「呪いを解く方法ですけど。公言をするのは憚られるので。手紙にもはっきりとは書きませんでしたが」


「うん。それは仕方ないよ。けど今なら。聞かせてくれるかい?」


 シグルド王子が真面目な表情で訊いてきた。サファイアは顔を薄っすらと赤らめながらも告げる。


「……あの。対の神子に口付けをしてもらったら良いとか。太陽神のアテナス様に直接教えていただきましたので。間違いはないと思います」


「……え。口付け?」


「はい」


 シグルド王子はしばし固まった。かと思うと顔を真っ赤にして俯いてしまう。どうしたのかと思ったらすぐにサファイアを見る。


「……そんな簡単な方法だったとはな。けど。対の神子でないと解呪は無理なんだよなあ」


「はあ。そうらしいですね」


「わかった。何といっても婚約者殿のためだ。俺が一肌脱ぐよ」


 シグルド王子はそう言ってサファイアをまっすぐに見つめた。ゆっくりと歩いて距離を詰めてくる。お互いの息が掛かるくらいの近さになった時に頤部おとがいをそっと指で上げられた。シグルド王子の顔が徐々に近づく。サファイアは自然と瞼を閉じていた。

 気がついた時には唇に温かく柔らかなものが触れた。軽く啄むような感じだが。すぐに離れてサファイアは瞼を開けた。シグルドは拳一つ分くらいの近さにいる。


「……どうだ。笑えそうか?」


「……急には無理ですよ。けど。ほっぺたとかの強ばりはなくなったように思います」


「そうか。良かった」


 シグルド王子はそう言うとサファイアの華奢な身体を強く抱き締めた。しばらくはお互いの温もりを分け合うのだった。


 その後、何とか解呪はできていた。ゆっくりとだがサファイアはシグルド王子や両親、兄の前では自然と笑えるようになっていた。婚姻式も無事に済ませた。サファイアは呪いをかけた魔女とある時に再会する。


「……ちっ。あたしがかけた呪いは解けちまったのかい」


「残念だったわね。先代の月の神子様。あなたがわたくしに呪いをかけていたのね」


「……ばれちまったらしょうがないね。そうだよ。先代の星の神子ときたら。あたしと結婚の約束をしていたのに。それを反故にしやがった。腹が立って仕方なかったよ。だから次代の星の神子であるあんたが妬ましくなって。呪いをかけちまった」


「そうだったの。月の女神様に聞いていた通りね。けど。魔女さん。いいえ、ルーリー様。今後は呪いをかけないように約束してくださいますわよね?」


「……わかったよ。あんたには悪い事をしたとは思ってる。約束するよ」


 ではと言ってサファイアは餞別にと魔女――ルーリーに髪飾りを渡した。彼女の名前の由来になった青玉が散りばめられている。


「これはまた豪華な髪飾りだね。あたしにはもったいないくらいだ」


「……ふふ。魔除けにもなりますわよ。ルーリー様には持っていていただきたくて」


「わかった。ありがとう。サファイア嬢ちゃん」


 にこりと笑ってルーリーは去っていく。バルコニーでそれを見送った。


 実はルーリーにあげた青玉の髪飾りには魔力封じと探索魔法が施されていた。シグルド王子の提案だ。それは彼女には伝えていない。まあ、当然と言えた。ルーリーを監視する代わりにサファイアは呪いの件は不問にすると言ったのだ。シグルド王子もそれには同意してくれた。

 サファイアはやっと肩の荷が降りたと思った。現在、彼女は王太子妃になっている。もうシグルド王子と婚姻して一年が経とうとしていた。彼女は一人目の子を身ごもっている。三ヶ月目なので腹はまだ平らなままだが。優しく撫でたのだった。


 翌年の夏頃にサファイアは待望の王子を産んだ。周囲は大喜びしており特に国王陛下や王妃陛下は歓喜していた。もちろん、夫のシグルド王太子も喜んでいた。

 サファイアは可愛い赤子を腕に抱く。出産の後で意識は朦朧としているが。


「王太子妃様。元気な男御子です」


「……そう。良かったわ。この子にはスチュワートと名付けたいわね」


「でしたら殿下にお知らせしておきます」


「よろしく頼むわ」


 産婆役のメイドにそう言い、サファイアは赤子――スチュワートを他の女官に預けた。眠りについたのだった。


 あれから半年が経った。スチュワートはすくすくと育っている。シグルドはスチュワートを大層可愛いがっていた。目に入れても痛くないと言わんばかりだ。


「ははっ。スチュワートは今日も元気だなあ」


「ふふ。この子はシグ様が好きみたいね」


 きゃっきゃっとスチュワートは高らかな声をあげた。今は真冬だが。日差しは穏やかだ。三人でしばらくは憩いの一時を過ごすのだった。


 ――終わり――


 

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