【完結】巴里の細雪(作品230608)

菊池昭仁

巴里の細雪

第1話 日本から来た若い女

 マスタードの効いたオレンジソースのかけられたフィレ肉に、労わるようにナイフを入れた。

 パリに暮らして7年目、私はこの街にすっかり馴染んでいた。


 裏町にある小さなビストロ。

 私はここでの食事を大切にしていた。

 オーナーシェフのアランは、パリで有名な三ツ星レストランで働いていたが、客の態度に激怒し、あっさりと店を辞めた男だった。


 「あんな舌音痴の客に俺の料理を食わせるくらいなら、俺は料理人を辞めてコメディアンになるよ」


 私はそんなアランが好きだった。

 この男も私と同じ匂いがした。

 独善的で、計算の苦手な小学生がそのまま大人になったような大人。それがアランと私だった。


 私は料理の余韻がまだ残っているうちに、ボルドーのマルゴーを口にした。

 鼻から抜けていく芳醇なワインの香り。

 穏やかな晩秋のパリに、私は至福の中にいた。



 「だからー、何度も言ってるでしょう? わからないかなあ、もう!」


 日本人の旅行者らしい若い女が、ギャルソンのミッシェルを相手に日本語とジェスチャーを交えて捲くし立てていた。


 ローライズのジーンズにグレーのタートルネック。

 少しウエーブの掛かった栗色のセミロングの髪と、美しい澄んだ瞳が印象的だった。

 必死の形相でミッシェルに噛みついているその姿に、私は迂闊にも笑ってしまった。

 すると彼女はそれを見逃さず、ズカズカと私のテーブルに近づいて来た。


 「オジサン、日本人? 笑ってないで助けてよ! 私の注文したステーキになんだか変なピンク色のソースが掛かっているのよ!

 交換してって言っても全然通じなくて、通訳してよ!」

 「この店のオーロラソースも悪くはないけどな。

 じゃあ塩コショウでいいのか? 醤油はないぞ、この店には」

 「うん、普通のやつでいいの、普通のやつで」


 私はミッシェルを呼び、事情を説明した。

 彼はフランス人らしく肩を竦めると、


 「フランス語で話せとは言わないよ、でもせめて英語くらいは話して欲しいなあ。

 これだから日本人の女は面倒なんだ」

 「わかった、わかった。

 じゃあその料理は俺が貰うから、彼女には塩コショウだけのステーキを焼いてくれないか?」

 「塩胡椒だけでいいんだね?」

 「ああ、それでいい」


 ミッシェルはオーダーを伝えるために、厨房へと消えていった。



 「なんて言ったの?」

 「その料理は俺が貰うから、今度は塩コショウだけでステーキを焼いてくれって言ったけど、これでよかったかい?」

 「うん、ありがとう。あー、お腹空いたー。

 ねえ、ここでオジサンと一緒に食べてもいい?」

 「構わないよ、俺みたいな爺さんでよければな?」


 彼女は私の斜め前の席に座った。


 「私、鮎川アリス。

 オジサンはここに住んでいるの?」

 「もう7年になる。いいところだよ、パリは。

 他人に干渉しないし、そこが俺には合っている」

 「オジサンの名前を教えてよ」

 「一ノ瀬五郎、一人暮らしの老人だ。

 歳は鮎川さんのお父さんと同じくらいだろう? お父さんは何歳だい?」


 アリスは急に悲しい顔になった。


 「パパもママも もういないの。だから私も独りぼっちなんだ」

 「そうか、余計なことを聞いてすまなかったな」

 「ううん、いいの。

 私のことはアリスって呼んで。オジサンのことは五郎ちゃんって呼ぶから」


 アリスと私は親子のように笑った。

 アリスはよく話しよく笑い、そしてよく食べた。


 娘の優香もアリスと同じ年頃だった。

 

 (優香は今、日本でどうしているだろう?)


 優香はまだ私を怨んでいるだろう。

 だが父親にとっての娘は、いつまでも抱っこしていた頃の記憶のままだ。

 私はアリスを見て、優香のことを想い出していた。

 そしてその想いはすぐに消えた。


 「二度と私と優香の前に現れないで!」


 別れる時、女房の晴美にそう言われたことを想い出したからだ。



 「パリには観光で来たのか?」

 「私ね、子供の頃からここに来ることが夢だったの。あの翼を広げたサモトラケのニケの女神像をルーブルで見ることが。

 よくママが話してくれたわ、パパと一緒に見たニケのことを。

 それでママたちが残してくれたお金でパリにやって来たってわけ」


 アリスは楽しそうにデザートのソルベを食べていた。


 「あのルーブルのやつか? 見てどうだった?」

 「まだ見ていないの。パリに今日来たばかりだから。明日、会いに行くつもり」

 「ルーブルの場所、わかるか?」

 「調べて行く・・・」


 アリスは心細げに言った。


 「明日、暇だから案内してやるよ、ホテルはどこだ?」

 「まだ決めてないの」

 「おいおい、アリスは度胸がいいな? じゃあ俺の知り合いのホテルに泊まるといい。

 古いがいいホテルだ。コンコルド広場の近くだよ」

 「ありがとう、五郎ちゃん」




 私たちは食事を終え、店を出た。


 「ごちそうさまでした。助けてもらった上にご馳走までしてもらっちゃって。

 でもとってもおいしかった。ありがとう、五郎ちゃん」


 私とアリスは街灯が揺らめき映る、セーヌ川の畔を歩いていた。

 もうすぐパリに冬が来る。

 パリの秋の夜の空気はキリリと引き締まっていた。

 薄手のダウンを着たアリスは少し寒そうだった。


 「寒くないか?そんな薄着で?」

 「大丈夫、若いから」


 アリスは白い息を吐き、笑った。

 私は自分のカシミアのマフラーを外し、アリスに渡した。


 「爺さん臭いかもしれないが、風邪を引くよりはマシだろう?」


 アリスはそれを素直に受け取ると首に巻いた。


 「あったかい、パパと同じ匂いがする・・・」


 アリスは急に立ち止り、泣いた。

 私はやさしくアリスの肩に手を置いた。

 アリスは私にしがみ付いて嗚咽した。


 「ねえ、五郎ちゃん、パリにいる間でいいから五郎ちゃんのお家に泊めて」


 私は少し戸惑った。


 「ひとつ条件がある。俺に干渉しないこと。

 出来るか?」

 「うん、そんなの簡単だよ」

 「じゃあついて来なさい」


 私は頷き、アリスとアパルトメントへ歩き始めた。


 私は寂しかったのだと思う。

 アリスが優香と重なっていたのも事実だった。


 こうしてアリスと私の奇妙なパリの共同生活が始まった。


第2話 天使との朝食

 「すごーい! 五郎ちゃんって一体何者なの? こんなに素敵なアンティーク・マンションなんかに住んでいるなんて!」


 アリスは室内を見渡し、目を丸くして驚いていた。



 「シーツは今朝替えたばかりだから、ベッドはアリスが使うといい。

 枕はタオルでもかけておけばオヤジ臭は多少は消せるだろう。

 それくらいは我慢してくれ。

 もっとも、俺は殆どベッドでは寝ないから、ベッドはそんなに加齢臭はしないはずだ」

 「五郎ちゃんはどこで寝るの?」

 「俺はソファで寝るから心配するな。寝心地は悪くはない、中々いいソファなんだ。

 それに俺は物書きだから、いつもそのまま椅子で寝てしまうことが多いからな」


 私はそう自嘲した。


 「えー、何だか悪いよー、私、居候なのに。

 五郎ちゃん、一緒に寝ようよ、私は平気だよ?」

 「ありがとう、気を遣ってくれて。

 気にすることはない、アリスがパリに滞在している、短い間のことだから」

 「残念だなあ? 五郎ちゃんと一緒に寝たかったのにー。あははは」

 「疲れただろう? バスタブに湯を張ってゆっくり風呂に浸かるといい。

 俺はこれから仕事をするから、何か必要なことがあれば言ってくれ、そこの書斎にいるから」


 「はーい、じゃあ遠慮なく。お先でーす!」


 アリスは荷物を整理し、風呂場へと消えた。



 アリスがいるだけで、この殺風景な部屋の中に花が咲いたようだった。

 このメゾンに人を招き入れたのは、女ではアリスが初めてだった。

 まるで娘の優香と暮らしているような、そんな錯覚を私は感じていた。

 それが照れ臭くもあり、嬉しかった。

 



 気が付くと、私は書斎の椅子に座ったまま朝を迎えていた。

 いつの間にか毛布が掛けられており、それはおそらくアリスがしてくれた事だった。

 

 いい匂いが室内に漂っていた。

 キッチンにはアリスが朝日を浴びて立っていた。

 


 「五郎ちゃん、おはよう!

 おかげさまでぐっすり眠れたから疲れも吹き飛んじゃった。

 パリまで飛行機で13時間でしょう? 本当はもうクタクタだったの。

 朝食、冷蔵庫にあったもので簡単に作ったんだけど、どうかしら?

 五郎ちゃんって食事にうるさそうだからちょっと心配」

 「アリス、音で分かったよ、どれだけアリスが料理上手なのかが」

 「えっ、音で分かるの?」

 「ああ、いい料理人が厨房に入るとシンフォニーが聞こえてくるんだ。

 ぐつぐつ煮立つ鍋の音、ジュージューと音を立てるフライパン。

 食材を切る包丁がまな板を小気味よく叩く音など、それらが美しいハーモニーを奏でる。

 今朝、それが聞こえていた」

 「なんだかうれしいなあ。そんなこと言われたの初めて」



 事実、アリスは驚くほど料理が上手だった。

 ポトフにカリカリに焼いたベーコンエッグ、シーザーサラダにフレンチトースト。

 見事な出来栄えだった。



 「お母さんに教わったのか?」


 アリスはスプーンでポトフを掬いながら言った。


 「私の実家は仙台で温泉旅館をやっていたの。だから小さい時から調理場が遊び場だった。

 お母さんよりも板長ね? 私の師匠は」

 「どうりで旨い訳だ、調理場で修業したんじゃ本格的だな?」



 白いテーブルクロスに並んだ食器やグラス、それらが朝日を浴びて輝き、ゴーギャンの静物画のようなアイリスとオレンジ、レモンがそれに彩を添えていた。

 朝食を誰かと摂るのは何年ぶりのことだろう? 

 こんな楽しい朝食を、私は長い間忘れていた。

 そして朝の光よりも眩しかったのは、アリスの清らかな笑顔だった。


 私は天使と一緒に食事をしているような気分だった。


第3話 サモトラケのニケ

 朝食を食べた後、私たちは「サモトラケのニケ」に会うためにルーブルへと出掛けた。

 


 「これがあの有名なガラスのピラミッドね? 意外と小さいんだね?」

 「テレビで見るのとは違うよ。エジプトのギザのスフィンクスだって、実際に見ると大きな狛犬のようだからな? 人は勝手な先入観で物事を作り上げるもんだ。

 さあ、ここがルーブルへの入口だ」



 私とアリスはエスカレーターでガラスのピラミッドの中を地下へと降りて行った。

 いくつかの回廊を巡り、アリスは素晴らしい美術品や絵画の数々に溜息を漏らした。



 「教科書で見た物がたくさんあるわ、これ全部が本物なのね?・・・」


 アリスはそれらに見惚れて館内を歩いた。



 大理石のダリュの階段の踊り場で、その女神は私たちを待っていた。

 首と腕のない大きな翼を広げた女神「ニケ」


 ギリシャのサモトラケ島で発見されたこの女神像は、美しい翼を広げ、勝利へと導く女神として絶対的な威厳を放っていた。

 私はこの女神像と向き合ったまま、アリスにニケの逸話を語り始めた。



 「タイタニックの映画があっただろう?

 あの舳先でケイト・ウインスレットが両手を広げるシーンはこのニケの姿を真似たものだそうだ。

 そしてあのスポーツブランドのNIKIもこのニケから・・・」


 そう言ってアリスに振り返った私は完全に言葉を失ってしまった。


 ダイヤモンドのように光り輝く大粒の涙が、アリスの両目から止めどなく流れていたからだった。

 それは言葉をかけることが憚れるほど、高貴で尊厳に満ちた姿だった。

 アリスは茫然と立ち尽くしていた。



 「きれい、なんて美しいの・・・。

 パパ、ママ、これがニケなのね?・・・」



 アリスはその場に跪き、ニケの前で両手を組み、祈りを捧げた。



 「どうかママとパパが天国でしあわせでありますように」



 観光客たちがそんなアリスに好奇の目を向けて通り過ぎてゆく。


 私とアリスはしばらくニケの前から離れることが出来なかった。


第4話 シャンゼリゼを歩く親子

 アリスと私はニケの余韻が醒めぬまま、ルーブルの近くのカフェにいた。



 「良かったなアリス、ニケに会えて。

 ご両親もきっと喜んでいるだろう、アリスがあの女神に会えたことを」

 「人間が彫ったのじゃなく、女神がそのまま石になったみたいだった。

 今にも翼が動いて天に向かって羽ばたきそうな感じだったわ。

 ありがとう五郎ちゃん、ニケに会わせてくれて。

 私ひとりだったら、不安ばかりであんな感動はなかったもの。

 五郎ちゃんに会えたのも、きっとパパとママの私への気遣いかもね? 私、頼りない娘だから」


 そう言ってアリスはオレンジジュースを飲んだ。


 「そんなことはない、アリスは十分頼もしい娘だよ。あれだけレストランで騒いだんだからな?」

 「もうその話はやめてよー、五郎ちゃんの意地悪。あはははは」


 アリスは楽しそうに笑った。

 カフェの前をルノーやシトロエンが走ってゆく。

 日本で見るそれとは違い、やはりパリの街にはフランス車がよく似合う。

 夏に生い茂った葉は枯れ、イブモンタンの『枯葉』が聴こえて来るようだった。



 「アリス、次はどこに行きたい?」

 「どこがいいかなあ? ニケのことばかり考えてきたからよくわからないの。

 五郎ちゃんのおススメは?」

 「じゃあ、エトワールに行くか?」

 「エトワール?」

 「凱旋門って知っているだろう?」

 「ああ、それなら教科書にも載っていたし、テレビでも見たことあるあれね?」

 「ヨーロッパの街は日本とは違い、それぞれの中心から放射状に街が広がっているんだ。

 凱旋門からシャンゼリゼをコンコルド広場へ向かって歩いてみるか?」

 「うん、行きたい! そこ、見てみたい!」


 私とアリスはメトロに乗った。




 凱旋門駅から地上に上がると、大きな凱旋門の前に出た。

 ナポレオンがパリに凱旋した記念に造られたこの門には、第一次世界大戦で戦死した無名戦士の墓が地下にあり、今も鎮魂の炎が揺らめいている。


 「うわー、凱旋門の中ってこんな風になっているのね? 外側しか見た事なかったから、火が点いているなんて知らなかった!」

 「ナポレオンの凱旋記念に建てられた物だが、実際に完成したのはナポレオンが死んでからだ。

 ナポレオンは見ていないんだよ、自分の栄光の象徴のこの凱旋門を。

 エトワールとはフランス語で「星」という意味がある。

 地図で見るとまるで星の形のようだから、別名「星の広場」とも呼ばれている。

 この凱旋門を中心にパリの街が広がっているんだ。

 見てごらん、これがあの有名なシャンゼリゼだ。

 もうすぐ日暮れだからイルミネーションがすごく綺麗に見えるはずだ。

 じゃあこのままコンコルド広場まで歩こう。あそこに鉛筆みたいな塔が見えるだろう?

 あれがエジプト国王から贈られたオベリスクだ。

 ルクソールにあるオベリスクと対になっているらしいが、別名「クレオパトラの針」とも言う。

 ニューヨークとロンドンにも同じものがある」

 「結構遠いね? あそこまで歩くの?

 五郎ちゃん、タクシーで行こうよー、疲れたー」

 「せっかくパリまで来たんだ、なるべく自分の足で歩いてこの美しいパリを自分の体で記憶しろ。

 アリスはまだ若いんだから」

 「なんだか私のパパみたいだね? 五郎ちゃん」


 私とアリスは笑わなかった。

 それはそれぞれに深い想いがあったからだ。

 アリスは死んだ父親を、そして私は娘の優香を思い出していた。




 コンコルド広場に着いた。


 「どうだ、きれいな広場だろ? まさかここでマリーアントワネットやルイ16世やその子供たち、そしてさらに何万人もの人たちがフランス革命の生贄として断頭台の露と消えた場所でもある」

 「えー、やだ気持ち悪いよー」

 「ギロチンはギヨタン博士が効率的に、しかも死刑囚になるべく痛みを少なく、刑の執行がされるようにと考案した処刑装置なんだ。

 それにはルイ16世も関わっていたというから皮肉なものだ。

 まさか自分がそれで処刑されるなど、夢にも思わなかっただろう。

 ルイ16世はやさしい国王だったと言われている。

 ロンドンのマダムタッソーの蝋人形の館にもギロチンのレプリカとアントワネットのデスマスクがあるが、ギロチンは意外と小さなものだ。

 日本にも首切り役人という死刑執行を#生業__なりわい__#とする役人がいたが、フランスにも代々、死刑を取り仕切る貴族がいた。

 よく、「あいつはサディスティックな奴だ」なんて言うだろう?

 あのサドという言葉は、その死刑執行を取り仕切った貴族、サド侯爵に由来するものだ。

 いやな役目だよ、代々、人殺しが仕事だなんてな?

 マリーアントワネットはその時、生理だったらしい。すでに衣類が血で汚れていたと記録にある。

 彼女はフランスの女王としてではなく、祖国オーストリアのハプスブルグ家のマリア・テレジアの王女としての威厳を讃えたまま、自らギロチンの前に進んで行ったという。

 アントワネットは自らルイ16世の妃を望んだわけではない。よくある政略結婚だったのだ。

 好きな男と恋愛も出来ない悲劇の王妃。

 まあ、トリアノンでの不倫はわからないでもないがな?

 アリス、ここにお前を連れて来たのは華やかなパリにも深い闇があることを教えたかったからだ。

 人間も同じなんだよ、他人から見れば明るくいつも笑顔でいる人間にも悩みもあれば深い悲しみもある。

 アリスの人生はこれからだ、辛いことはこれからもやって来るだろう。

 だがなアリス、そこから逃げちゃダメだ。一緒に歩いていくしかないんだよ、苦悩や悲しみを抱いて生きるしかない」



 振り返るとシャンゼリゼにイルミネーションが一斉に点灯した。



 「すごくきれい・・・、まるで光の国に来たみたい」


 アリスは目を輝かせていた。


 「これから夜のパリの物語が始まる。さあ、晩飯を食いに行くとするか?」


 アリスは私と手を繋いだ。


 「五郎ちゃんの手、冷たいね?」

 「アリスもな?」



 私たちは親子のように、光のシャンゼリゼを手を繋いで歩いて行った。


第5話 異なる食文化

 「ねえ、このきれいなお料理は何?」

 「テリーヌだよ、ウサギの」

 「えー、このピンクのやつがウサギ? ウサギさんまで食べちゃうの? フランス人は?」

 「ああ、フレンチではよく出るよ、あと鳩とかカタツムリもな?」

 「それは知ってるよ、エスカルゴでしょ?」


 私はワインを飲み、テリーヌを口に入れた。

 私とアリスはプランタンの近くのレストランで、少し早目の夕食を摂っていた。

 秋分の頃になるとパリの日没は早い。

 私はアリスに本場のフランス料理を教えようと、ドレスコードぎりぎりのこのレストランに入った。



 「フランス人って何でも食べるのね?」

 「ピーターラビットだって、お父さんウサギは「ウサギパイ」にされたからな? フランス人に限らず、人間の食に対する欲望には切りがない。

 中国人なんかもっと凄い。熊の手に象の鼻、そして生きたままの猿の脳味噌まで食うんだからな?

 それからカエルの脂肪に海燕の巣までデザートにして食べてしまう。

 海燕の巣は断崖絶壁に作られているから、それを命がけで岩をよじ登り、巣を収穫する。

 巣だよ巣、燕の巣。

 海藻とかを食べた海燕が口で咀嚼したやつを食べるなんて信じられるか? 

 四川料理なんて机などの4つ足以外、動物はすべて食べるらしいからな?

 それに比べたら日本人の食など淡泊なものだ。

 カーニバルって知っているだろう?」

 「リオのカーニバルとかのあれ?」

 「そうだ、でもその語源はカルバニズム、「食人」なんだ。

 かわいいウサギまで食べるコイツらは、そのくせクジラを食べる日本人は残酷だ、野蛮だという。

 アイツらに「なんで牛や豚は食うのに、クジラはダメなんだ?」と尋ねると、きっぱりとこう答える。  

 「牛や豚は神様が人間に与えてくれた食料だが、クジラは高い知能を持った生き物だからだ」と」

 「なんだか納得出来ないなあ、あんなかわいいウサギを食べるなんて。他に食べる物なんていくらでもあるのにね?」


 アリスはそのテリーヌがウサギだと聞いて、少しためらうようにそれを口にした。


 「私は菜食主義だから生き物は殺さないのって毛皮のコートを着て、クロコダイルのバッグを持っている奴もいるが、そもそも野菜だって生きているんだ。

 人は生き物を殺さなければ生きてはいけない罪人なんだよ。

 ライオンが生きるためにシマウマを食べるのも同じだ。

 シマウマにも生きたい、食べられたくはないという願望はあるが、それはライオンも同じだ。

 草食動物は良くて、肉食獣は残酷だなんて決めつけるのはおかしな話だ。

 アリスはこの前、ステーキを食べたよな?」

 「うん、とっても美味しかった」

 「でも自分で牛を殺せるか?」

 「無理に決まっているでしょ、そんなの」

 「でも好きだよな? 牛肉?

 スーパーにパックで売られている牛肉は食べるが、自分では殺せない。

 嫌な仕事は他人にやらせて自分は平気で肉を食う。

 どっかの悪徳政治と同じだ、嫌な事は人にやらせて自分は英雄気取りで自分の手は汚さない。

 それっておかしくないか?」

 「じゃあどうすればいいの? 牛を殺せないならお肉を食べるなってこと?」

 「そうじゃない、この食卓に並んだものすべてが命だということだ。

 牛を育ててくれた人、牛を屠殺してくれた人、そして命を捧げてくれた牛に対する感謝が必要だということだ。

 だから「いただきます」は「命をいただきます」なんだ。

 それなのに日本のくだらないテレビ番組はやれ大食いだとか、食べられもしない激辛バトルを面白がる。

 いつかその罪を償わせられる時が必ず来るだろうがな?」

 「でもさあ、日本人は偉いと思う。外人さんは食べる時には神様に感謝するけど、日本人は食べた後も感謝するでしょう?「ごちそうさまでした」って」

 「そうだな? アリスの言う通りだ。

 感謝して食べような? たくさんの命を」


 私とアリスは目を閉じ、料理に手を合わせて感謝した。




第6話 ノートルダムの「せむし男」

 「ここがあの子供の時に見たアニメ、「ノートルダムの鐘」の舞台なのね? 凄く大きい!」


 ノートルダム大聖堂はセーヌ河の中洲、シテ島にあった。


 「ノートルダムは世界中にある。

 ノートルダムとはフランス語で「私たちの貴婦人」と言う意味がある。

 つまり、ここは信仰の象徴としての聖母マリア、ローマカトリックの要になっているんだ。

 この正面のレリーフは「最後の審判」といって、人類が滅んだ後に、あの天使の吹くラッパの合図で死者が蘇り、キリストの前で天国行きか、地獄行きかの裁きを受けるというものだ。

 キリストの左にいるのが聖母マリアで、右にいるのが洗礼者ヨハネ。そしてキリストの下にいるのが大天使ミカエルと悪魔さ。

 そして見えるかな? ミカエルが手に持っているのが魂の重さを計る天秤だ。

 魂の重さで天国か地獄かを決める。

 魂が重いと天国で、軽いと地獄に送られることになる」

 「なんだかリアルで怖い」

 「聖書には「12の悪徳」が書かれている。

 俺は聖書は読んだことはないが、仏教で言うところの「108の煩悩」のようなものかもしれないな?

 12の悪とは絶望、貪欲、淫乱、狂気、傲慢、臆病、怒り、冷酷、不和、反逆、移り気をいう。

 そして「12の善」もある。信仰、希望、慈悲、貞操、賢明、謙虚、力、忍耐、やさしさ、調和、従順、堅忍不抜であるとされている。

 キリスト教に都合がいいような気もするが、そんな内容がこのレリーフには込められているそうだ」

 「あまりにたくさんあって、一度聞いただけでは覚えられないわ」

 「覚える必要はない。簡単なことさ。

 自分がされたくないことは他人にしない、そして自分がして欲しいと思うことを人にしてあげればいい。

 神様に祝福される生き方とは、宗教は違っても根本的な教義は同じなはずだ。

 それじゃあ中に入ってみるか?」

 「うん」



 荘厳なゴシック建築の大聖堂の中は冷んやりとしていた。

 無数のロウソクが灯っている。

 これは参拝者が供える線香のようなものだ。


 「アリス、あれが有名な「薔薇のステンドグラス」だ」

 「凄く神秘的ね? 初めてよ、こんなすごい教会に入ったの。

 あれがパイプオルガンでしょう?」

 「今日は日曜日だからミサがある。夜、パイプオルガンを聴きに来るか?」

 「うん、聴きたい聴きたい!」


 アリスはうれしそうにはしゃいだ。


 「ここが懺悔室。意外と小さいだろ?

 もっとも、大声で自分の犯した罪を告白する馬鹿はいないがな?

 ヒソヒソ話には丁度いい広さなのかもしれない。

 アリスには懺悔したいことってあるのか?」

 「山ほどあるよ、でも内緒」


 アリスは悪戯っぽく笑って見せた。 

 

 「あのアニメ「ノートルダムの鐘」は、ビクトル・ユーゴーの「パリのノートルダム」が原作になっている。

 物語に出てくるカジモドは、ジブシー狩りを強行する最高裁判事、フロローによって殺されたジプシー女の抱えていた赤ん坊だった。

 フロローは醜いその子供を井戸に投げ捨てようとするが、ノートルダムの司祭にそれを咎められ「出来損ない」という意味の「カジモド」と名付け、この大聖堂に幽閉してしまう。

 アリス、カジモドは好きか?」

 「うん、物語の始めは少し不気味なカンジだけど、だんだん可愛く思えて最後には尊敬しちゃう」

 「このユーゴーの小説により、フランス革命で起きた略奪や破壊によって荒廃していたカテドラルが市民の手によって蘇ることになる。

 俺は時々カジモドを思い出すんだ。

 この世にはいろんな人間がいる、背の高い者もいれば低い者もいる。

 歩けない者もいれば、喋れない者もいる。

 大学出のやつもいれば中学にも行けない子供もいる。

 金持ちに貧乏人、権力者に奴隷、イケメンにブス。

 でもそれはたまたまカジモドのように、そうゆう宿命の元で生まれただけなんだと。

 俺はそれがその人間の個性だと思うんだ。

 この世の善悪とは所詮神が決めることだ。

 俺たち人間にはそれを決めることは出来ないし、また決めるべきではないと俺は思う。

 カジモドは自分の醜さを否定しなかった。

 人がこの世を生きるということは、まず、自分の境遇を受け入れることから始まる。

 学歴を偽ったり、カツラを被ったり、シークレットブーツを履いたりして自分を良く見せようとするのは虚しい行為だ。

 この顔も身体も、自分という意思を入れる器であり、家もクルマも宝石もバッグもすべて、神様から与えられたレンタル品なんだ。一時的な所有にすぎない。

 だってそうだろう? 人は生まれる時も死ぬ時も、裸なんだから。

 つまり人間は皆、この大きな宇宙の中では平等なんだ」

 「そうだね? たまたまそういう環境に、そういう人間として生まれただけだもんね?」

 「後は自分次第ということだ、楽しく生きるのも、俯いて生きるのもな?」

 



 その夜、ミサが行われた。

 司祭の説法の後、パイプオルガンの演奏が始まった。

 大聖堂に響き渡るトッカータ。


 アリスは胸の前で手を組み祈った。


 (どうかパパとママが天国でしあわせでありますように、そして五郎ちゃんが健康で、長生きしますように)


 美しいオルガンの旋律と、アリスの祈りは続いた。


第7話 モンマルトル

 アリスは夢を見ていた。

 枯れた薔薇の森の中を裸足で歩いている夢だった。

 両親の声はするが姿は見えない。

 

 「アリス、ニケに会えたのね? 良かったわね?」

 「綺麗な翼だっただろう? 今にも飛んで行きそうな?」

 「ママ、パパ、何処にいるの?」


 返事はなかった。

 薔薇の棘がアリスに刺さるが痛みはなかった。

 突然、薔薇に絡みつく白い大蛇が目の前に現れ、アリスは自分の悲鳴で目が覚めた。


 リビングに行くと五郎が新聞を読んでいた。



 「どうした? 怖い夢でも見たのか?」

 「うん、とっても怖い夢だったの。

 枯れた薔薇の森に大きな蛇がいてね、パパとママの声は聞こえるんだけど姿が見えないの」

 「俺もよく夢を見るよ、俺が見る夢は怖い夢じゃなくて、イヤな夢だけどな?」


 私は眠ると毎日のように夢を見る。

 自分の書いている小説の夢を見ることもあるが、時々、娘の優香や妻の晴美の夢を見た。

 その殆どは彼女たちは何も言わず、ただ私を悲しそうに見詰めている、そんな夢だった。


 「朝メシにするか?」

 「うん、着替えて来るね?」




 私たちは軽い朝食を済ませ、私の淹れたカフェオーレを飲んで寛いでいた。


 「今日はこれからモンマルトルとカルチェラタンを覗いて見るか?」

 「なんだかワクワクするなあ、パリって飽きないね? おとぎの国みたい」

 「アリス、それをいうなら「おとぎ」じゃなくて「不思議の国」だろう?「不思議の国のアリス」なんだから」

 「五郎ちゃん、それ、オヤジギャグだよ」


 私たちは親子のように笑った。





 モンマルトルは芸術と文化の街だ。

 ピカソ、モディリアーニ、アポリネール、それにコクトーやマティスなどが多くの作品を生み出し、激論を戦わせた街だった。


 フニキュレールというケーブルカーに乗り、アリスと私はサクレクール寺院にやって来た。

 サクレクールとは「聖なる心臓」という意味で、フランス語圏にある寺院の総称でもある。

 モンマルトルのそれはロマネスク様式で造られた、このバジリカ聖堂が有名だ。



 「この大きな鐘はサヴォアと呼ばれ、16トンもある世界最大級の釣鐘だ」

 「この鐘の音がパリの街に響き渡るのね? ステキ」


 ここからはパリを一望することが出来た。


 「昔、この辺りは一面の葡萄畑だったらしい。

 長閑な農村だったんだろうな? そしてその田園風景に憧れて絵描きたちが集まって来た。

 そしてそれに続くように様々な芸術家や思想家たちがここに移り住むようになっていった。

 世の中の不条理や夢、希望や嘆きなどを語り合っていたのかもしれない。

 だが、第一次大戦が終わると観光地化が進み、やがてこの街は特権階級としてのブルジョアたちの高級住宅街へと変貌していった。

 彼らはそんなモンマルトルに絶望し、モンパルナスへと消えていった」

 「ゴッホやゴーギャン、ルノワールにモネ、ロートレックもここにいたの?

 まるで生きた美術館みたいだったのかしら?

 ルーブルやオルセーを彩る芸術家たちがこの街に溢れていたのね?」

 「シャルルアズナブールの歌った「ラ・ボエーム」はモンマルトルを歌った曲だ。

 ここは芸術の発祥の街なんだよ」




 ル・コアンデザミで昼食を食べた。

 ここはパリの趣のある伝統的なフレンチレストランだった。

 エスカルゴとボルドーワインで腹を整え、コンソメ、サラダ、そしてラムチョップのワインソース掛け、ジャガイモと牛肉のソテーへと進んでいった。


 「本場のフレンチって凄いのね? 日本のフレンチとはかなり違うわ」

 「日本のフレンチは日本人の口に合わせてアレンジした物が多いからな? それに気候風土も異なる。

 ラベンダーも北海道の富良野のそれとは全く違うものなんだよ、香りがまるで異なる。

 水と土、太陽の光があってもけっして同じ物にはならない。

 肉も野菜も同じだ、そして人間もな?」

 「お料理にも魂が籠っているみたい、すごく美味しいわ」

 「フランス料理が素晴らしいのは、芸術と文化が料理として昇華されているところにある。

 料理が芸術だなんて、どの世界の料理にもない。

 皿のひとつひとつがまるで絵画やオブジェのようだろう?

 そしてワインと料理は切り離すことが出来ない。

 もちろんワインはそれだけでも旨いが、それが料理と出会うことで何十倍、何百倍にも豊かな味わいになる。

 それはまさに男と女のようなものだ。

 そのふたりの出会いがお互いの人生をより深めてゆくようにだ。

 食事に対してもたくさんのマナーが存在する。

 それは料理人やソムリエ、給仕たちへの尊敬と感謝、そして食材に対する敬意としてもだ。

 エチケットは周囲を不愉快な気分にさせないということにも大切な意味がある。

 そもそもエチケットという言葉は、ベルサイユ宮殿の花壇にあった看板がその由来らしい。

   

  「花壇を荒らさないで」


 と、言う意味としてだ。

 ところでアリス、皿の端に寄せてあるのはなんだ?」

 「私、ブロッコリーがダメなの、ごめんなさい」

 「嫌いな物を無理して食べることはない、食材にも失礼だしな? 嫌々食うのは」


 私はアリスの皿にあるブロッコリーを、まわりに気付かれぬようにフォークで刺して素早く口に入れた。


 「マナー違反だけどな? フランス料理で人の皿から料理を取るのは」


 アリスは悪戯っぽく笑った。

 私は娘の優香は鰻が嫌いだったことを思い出していた。

 だから優香と一緒の時には鰻屋には行くことが出来なかった。


 自分の娘のようなアリスとのパリでの生活は、私に生きる希望を与えてくれた。


第8話 独りぼっち仲間

 「ここカルチェラタンは学生街だ。カルチェは地区、ラタンはラテン語のという意味がある。

 つまりここはラテン語地区というのがその由来だ。

 パリ大学や師範学校などがある。

 昔は学生運動も盛んで、1960年代に起きた5月革命の舞台でもあった」

 「ここも綺麗な街ね?」

 「布施明という歌手が『カルチェラタンの雪』という気障な歌を唄っていた。

 俺は好きだけどな? 布施明。

   

    カルチェラタンの鐘が鳴る 

    口づけは歩きながら


 ってな?

 アリスが生まれるずっと前の歌だ」


 リュクサンブールの街路樹の葉は枯れ落ち、佐伯祐三の絵画のように哀愁に満ちていた。


 「大分冷えてきたな、そこのカフェで暖まるか?」

 「賛成!」



 私はスライスレモンの浮かんだホットワイン、アリスはホットチョコレートを飲んでいた。

 スライスレモンが邪魔をして、私は熱いワインで火傷をしなくて済んでいた。

 


 「どうだアリス、パリはお気に召したかな?」

 「五郎ちゃんに色んなところを案内してもらって、益々パリが好きになっちゃった。

 もう日本に帰りたくないかも」


 アリスはそう微笑んだ。


 「これからクリスマスにかけてのパリもいいが、花で溢れる春から夏のパリもいいもんだ」


 すると急にアリスは真顔になった。


 「このまま五郎ちゃんとずっとパリで暮らしたい。

 ダメだよね? そんなの迷惑だよね?」

 「アリス、俺みたいな爺さんと暮らすんじゃなくて、もっとハンサムな男を探せ。おまえは美人だし優しい娘だからな?」

 「私はイケメンよりも五郎ちゃんがいい。五郎ちゃんが大好きだから」

 「ありがとう、アリス。

 そうだよな? 俺もアリスも誰もいないんだもんな? 肉親が」

 「そうだよ五郎ちゃん、私たち「独りぼっち仲間」だよ」


 アリスの言う通り、私たちは身寄りのない孤児のようなものだった。

 アリスが私のところに来て、既に1週間が過ぎようとしていた。


 「アリス、お前の夢は何だ?」

 「私の夢? 何だったかなあ、色々ありすぎて忘れちゃった。

 特別ないなあ? でも今は五郎ちゃんとこのままパリで生活するのが夢かな?」

 「まあいい、夢なんかいつでも見ることが出来るからな?

 だがもしもこれからアリスのやりたいことが見つかったら、それを紙に書いて部屋に貼りなさい。

 そしてそれがなるべく視覚化出来るように、具体的な写真やイラストがあるとより効果的だ。

 そしてそれも一緒に貼るんだ。

 それが出来たらいつもそれが完成したとイメージする。

 成りたいじゃなく、「成った!」と過去形にして想像するんだ。

 そうしたらそのためにやるべきことを紙に書き出していく、期限を決めてだ。

 いつまでに何をどうするかを。

 それが完成したらすぐにそのための行動に取り掛かるんだ。

 明日やろうなんて考えては駄目だぞ、今すぐやるんだ。

 そうすれば夢は現実の物となる。

 いいかアリス? 夢は見るものではなく、叶えるものなんだ。

 俺はそうしてここまでやって来た。

 成功したかどうかは別として、そうして俺は好きなことをして生きて来た。

 満員電車に揺られて会社に通勤し、イヤな奴にも頭を下げることもなくな。

 人間に大切なことは「足るを知る」ということだ。

 もっともっとではなく、今一歩下がって自分の環境に感謝をする。

 それが人間のあるべき姿だ」

 「夢は叶えるためにあるのね? じゃあ今の私の夢は夢を見つけることかな?」


 私とアリスは笑った。

 アリスは凍えた両手を温かいカップで温めながら言った。


 「五郎ちゃんは寂しくないの? ひとりで?

 家族に会いたいとは思わないの?」

 「もう慣れたよ、独りは気楽だしな?

 それに俺の家族は少なくとも俺には会いたくはないはずだ」

 「そうかなあ? 娘さんとかは絶対お父さんに会いたいはずだと思うけどなあ」

 「アリスとは違うよ、娘の優香は俺を憎んでいるんだ。

 でも俺は楽しいよ、アリスといると」


 私は自分の迂闊な発言を後悔した。

 それはアリスを苦しめることになるからだ。

 私のカラダはかなり衰弱していた。

 アリスとの別れは死別だけは避けなければならない。


 そろそろ私は終活の準備に着手しなければならないと思った。


第9話 ポートレイト

 エッフェル塔はトロカデロの人権広場から見るのが美術的だ。

 私はエッフェル塔を背景にして、アリスのスマホで彼女のポートレートを撮ってやっていた。


 「もう少し顎を引いて、そう、そんな感じだ。

 じゃあ撮るぞ、はい、マルチーズ」

 

 アリスは吹き出してしまった。


 「五郎ちゃん、何、マルチーズって。

 笑っちゃったじゃないの、もう一度ちゃんと撮ってよね」


 私はアリスに撮影した写真を見せた。


 「何よこれ、こんな大口開けて笑ってる」

 「よく撮れているだろう? カメラマンの腕がいいからな?」

 「いいから、もう一度撮ってよね、美人にだよ」

 「大丈夫だ、アリスはいつも美人だから」



 アリスは考えていた。

 パパとママが死んでしまってから、こんな大きな口を開けて心から笑ったことはなかったと。

 アリスはパリに来て五郎と出会って、本当に救われていた。

 



 私はアリスを撮影しながら思い出していたのだ。

 こうしてよく優香が子供の頃はたくさん写真を撮ったものだと。


 生まれた時、はじめて立った時、七五三、幼稚園の入園式、お遊戯会に運動会・・・。

 そして私が人生に躓き始めると、家族の写真は徐々に減っていった。

 写真の多い家族はしあわせだ。

 苦しみや悲しみの中にいると、写真は極端に減っていくものだ。


 「それじゃあアリス、もう一度。はい、チーズ」


 アリスは私からスマホを受け取ると、満足そうにそれを確認していた。



 「うん、今度はよく撮れてる。それにエッフェル塔も綺麗に映ってるしね?」


 するとその瞬間、アリスが私にスマホのカメラを向けた。

 小気味の良いシャッター音、私はアリスに写真を撮られてしまった。



 「はい、いただきー!

 一ノ瀬五郎大先生のお写真、待ち受けにしちゃおうっと」

 「馬鹿なことは止せ、そんな写真を持っていたら不幸になるぞ」


 アリスは笑っていたが、私は真顔だった。


 「大丈夫だよ、五郎ちゃんのこと大好きだから。

 永久保存にするんだから」

 

 私はポツリと呟くように言った。


 「それを俺の遺影にするかな?」


 するとアリスは涙ぐんでしまった。


 「止めてよ縁起でもない。もう嫌だよ五郎ちゃんまで死んじゃ・・・」

 

 写真が残れば思い出も残る。

 私はなるべくアリスの記憶の中に、自分が思い出として留まるべきではないと考えていた。


 私には自分の写真が少ない。

 それは子供の頃からそうだった。

 だがそのおかげで私の嫌な思い出は、いつの間にか消えていた。



 「私のパパとママはね、自殺したの、心中。

 パパが旅館経営に失敗して、毎日毎日、パパにお金を貸したという人たちが押し寄せて来たわ。

 旅館経営が順調な時はみんな笑顔だった。「さすがは社長!」なんて煽てられてた。

 でも、経営が怪しくなってくると、やさしかったおじさんたちは鬼のような顔になってパパを突き飛ばしたりした。

 ママとパパは毎日土下座して謝っていたの。

 毎日のように・・・。

 ある日、学校から戻ると、私の机の上に通帳と印鑑が置いてあった。

 そして遺書も・・・。



   大切な娘 アリスへ


   パパとママを許してね。

   パパは寂しがり屋だからママが傍にいないと

   ダメな人なの、だからそうすることにしました。

   このお金はずっとアリスのために貯めていた

   お金です。

   このお金にだけは手を付けませんでした。

   アリスは私たちの自慢です。希望です。

   いつも見守っています。

   しあわせになって下さい。


              ダメなパパとママより



 ママとパパは私を置いて逝っちゃった。

 私も一緒に死ねば良かったと思ったわ。

 だから五郎ちゃんは死なないで、これ以上大切な人を失うのはもうイヤ!

 嫌だよ、また独りぼっちになるのは・・・」


 アリスは私にしがみ付いて泣いた。

 私はアリスを娘の優香を抱くようにやさしく抱いた。



 「アリス、辛かったな? でもな、親は子供の幸せを願うものだ。

 パパもママも辛かったかもしれない、でもなアリス、色々あるのが人生だ。

 ここにいるすべての人間はいつかは死ぬ、絶対にだ。

 大統領もノートルダムのあの司祭も、そしてあそこで物乞いをしているルンペンも、老人も子供もみんないつかは死を迎える。

 人は病気や事故で死ぬんじゃない、神様がお決めになった寿命で死ぬんだ。

 扇風機が回っているように人間は生きている。

 だがある日、その扇風機のプラグがコンセントから抜かれ、扇風機は停止する。

 死は突然やってくるものだ、そしてすべてを中断してしまう。

 俺は思うんだ、人間のしあわせな生き方とは、いつ自分に死が訪れてもいいような生き方をすることじゃないかと。

 アリスのお父さんもお母さんもすばらしいご両親だったと思う。

 どんなに苦しくて、どんなに大変でも、アリスの将来のために貯めたお金だけは守ったんだから。

 俺にはそれがどんなに大変なことだったのかがよく分かる。

 俺も君の両親と同じことを経験しているからな? 

 だからアリス、君は幸せにならなければいけない、誰よりもだ。

 それがアリスのご両親の、そして俺の願いでもある。

 だから泣くなアリス、笑顔で生きろ」


 アリスは黙って頷いた。


 「ねえ五郎ちゃん、いっしょに写真、撮ろうよ」


 私とアリスは一生懸命に笑おうとしたが、それはぎこちない写真になった。

 

 

 トロカデロのやさしいライム色の風が、私とアリスを包んだ。


 私はアリスの幸福を祈った。


第10話 サルトルとボーボワール

 「五郎ちゃん、この人誰?」


 アリスは私の書斎にある、黒縁メガネを掛けた斜視の男の写真を見ていた。


 「サルトルだよ」

 「何をした人?」

 「哲学者だよ、実在主義の提唱者だ」

 「偉い人なんだ」

 「すごくモテたんだよ、サルトルは」

 「写真ではちょっと怖いカンジだけど」

 「それはその斜視と、圧倒的な存在感のある威厳がそう思わせるのかもしれないな。

 ほら、よくいるだろう? なんとなく近寄り難い人が。

 だが実際に話してみるとその人間的魅力に引き込まれてしまう。それがサルトルかもしれない。

 サルトルとボーボワールの恋愛は有名な話だ。

 ボーボワールは「第二の性」を書いた思想家で、教員の採用試験でサルトルが1番、彼女が2番だったそうだ。

 結婚とは契約であり、恋愛は自由であるべきだと主張した。

 性からお互いを解放することで、一夫多妻、一妻多夫を実現しようとした」

 「えー、そんなの嫌だな。だってお互いの浮気を認めるってことでしょう?」

 「そこが説明の難しいところだ。

 まあ、俺はサルトルの研究者ではないから、これはあくまで俺の推論だ。

 それはお互いがお互いに所有されず、自分の感情に素直でいようとしたんじゃないかと俺は思う」

 「そのボーボワールって人はそれを了承したの?」

 「始めはね? でも、彼女は男としてサルトルを深く愛してしまった。

 彼女はその事実に悩み苦しんだそうだ。

 ふたりは50年間もいっしょに暮らしたが、その間、サルトルは多くの女性たちと関係を持った。

 おそらくボーボワールは辛かっただろう。

 アリスもこれから色んな恋愛を経験するだろうが、恋愛には障害や苦悩は付き物だ。

 生きることが魂の修業なら、結婚は試練だ。

 好きになったり嫌いになったり、そのままずっと好きだったり、あるいはずっと嫌いになり、別れることもあるだろう。

 結婚生活を長持ちさせる秘訣は、お互いを思い遣る気持ちが大切だと、結婚に失敗して俺はそれを知った。

 相手を変えようとしてはいけない、自分が変わるしかないんだ。

 自分が変われば相手が変わって見える。

 茶筒だってそうだろう? 横から見れば長方形だが、上から見れば丸だ。

 アリス、恋と愛の違いは分かるか?」

 「どっちも同じでしょ? 恋愛って言うし」

 「まず、恋は好きから始まる。「あの男性は爽やかで好き」ってな?

 そしてそれが恋に変わる。「あの人のことがもっと知りたい、デートしたい、抱き締めて欲しい」と、それは「相手に対する要求」だ。

 つまりああしたい、こうしたいという欲望だ。

 でもそれが愛に変わると、「無償の愛」になる。

 見返りを求めない、相手に尽くす行為が愛だと俺は思う。

 take & take give & take そして give & give へと進化を遂げていく。

 与えて与えて、与え続けるのが本当の愛だ。

 そしてそれがお互いにそう思えた時、それが永遠の愛、純愛に変わる」

 「じゃあサルトルとボーボワールは恋なの?」

 「いや、凄まじい純愛だったと俺は思う。

 サルトルはボーボワールのことを忘れなかった。どんな女を抱いてもだ。

 サルトルは自分の主義思想を貫くために、敢えて自分の良心にナイフを入れ続けた。

 不倫している男も女もクズだというが、女房や旦那のことを考えない奴はいない。

 みんなそれなりに苦しみ悩んでいる。人間的な良心、善がある限りな?

 恋で終わればかすり傷、だが愛に発展してしまうと厄介だ。自分にメスを入れる、苦痛を伴う手術が必要だ。

 それでもサルトルとボーボワールは別れなかった」

 「私にはわからないわ、なぜ二人は別れなかったのか?」

 「若くて美しい女性もイケメン君も、いつかは見慣れてしまい、老人になっていく。

 外見に惚れた場合、それがいつしか自分の偶像崇拝であったことに気付くだろうが、その人間の精神性に惚れた場合、そこに老いはなくなる。

 愛が永遠と呼ばれる所以がそれだ。

 身体は衰え、醜くなってもその愛は変わらない。

 サルトルとボーボワールは精神で結ばれていたんだ。

 サルトルが死んだ時、5万人もの人たちが弔問に訪れ、彼の死を悼んだ。

 それだけ彼は多くの人間に影響を与えた思想家だったんだ。

 フランス人が性に対して寛容なのも、あるいはサルトルの思想が反映しているのかもしれない。

 フランスの政財界人や文化人の多くにも愛人がいる。

 結婚は神の前での契約であり、離婚はその反故に当たるため、キリスト教徒では罪の意識が強い。

 財産や血脈、子孫を残すために結婚という契約が存在し、恋愛はその外に求めるものだというのが彼らの主張だ。

 でもそれは白人社会だけではない。日本も江戸時代になるまでは滅茶苦茶だった。

 徳川だってあんな都合のいい「大奥」なんて作ったんだからな?

 太平洋戦争に日本が破れるまでは、二号さんやお妾さんもいた。

 そしてそれが男の甲斐性でもあった。

 子供も認知し、生活の面倒もみたんだからな? 今のゲス不倫とは違う。だから不倫なんだ、「倫理に非ず」になる」

 「五郎ちゃんは奥さんの他に愛した人はいたの?」

 「もう忘れたよ、でも女房を苦しめたのは事実だ」

 「酷い五郎ちゃん」

 「俺もそう思うよ、俺は悪人だ」

 「でも、それでも五郎ちゃんは好きだよ」

 「ありがとうアリス。

 そうだ、そろそろ日本食が食いたい頃だろう? 今夜は寿司でも食いにいくか?」

 「うん、行く行く!

 本当はお寿司とか、ラーメンとか天ぷらが食べたかったんだ!」

 「よし、日本のメシを食いに行くか? 用意しておいで、出掛けよう」


 アリスはとても嬉しそうだった。


第11話 親子ごっこ

 夕暮れ、チュイルリー庭園にある移動式遊園地はパリの夏の風物詩だが、冬の時期は照明だけが点いて、閑散としていた。

 遠くから手押しオルゴールの音楽が聞こえていた。



 日本料理の店、『体心』はこの近くにあった。


 「こんばんは」

 「あら先生、お久しぶりでございます」

 「女将、ご無沙汰だったね? 今日は娘を連れて来たんだ」

 「こんばんは、娘のアリスです。いつも父がお世話になっています」

 「あらあら、こんなに綺麗なお嬢さんがいらしたんですね? 日本からおいでですか?」

 「はい、パリにいる父を監視するためにやって来ました。

 大丈夫ですか? ウチの父は?」

 「はい、いつもご贔屓にしていただいております。

 ささ、どうぞカウンターの方へ」

 「ありがとうございます」


 私とアリスは親子という設定にした。

 そうでもしないと説明が面倒だったからだ。

 ずっとフレンチばかりだったせいか、アリスはうれしそうだった。


 「大将、俺には鰆の西京焼きと熱燗を。

 この子にはおすすめでどんどん握ってやってくれ」

 「かしこまりました。お嬢さん、嫌いな物はありますか?」

 「魚卵系は苦手ですけど、それ以外なら大丈夫です」

 「かしこまりました。それでは白身魚から始めますね?

 まずはヒラメの昆布〆から」

 

 寿司飯のいい香りが食欲をそそる。

 アリスはうっとりとした顔でそれを頬張った。


 「凄く美味しいー! 美味しくて死んじゃいそうー!」

 「たくさん食べなさい」


 アリスはご満悦だった。

 するとそこに中年の日本人らしき男性が私たちに近づいて来た。


 「失礼ですが、小説家の一ノ瀬五郎先生ではありませんか?」

 「そうですが・・・」

 「私、飯島といいます。

 先生の小説のファンです、サインをいただけないでしょうか?

 お食事中に申し訳ありません」


 すると彼はシステム手帳を広げた。

 

 「すみません、色紙とかがございませんので、こちらにお願い出来ますでしょうか?」

 「かまいませんよ」


 私は「飯島さんへ」とサインをした。


 「ありがとうございます、感激です。先生にパリでお会い出来るなんて」


 私は万年筆を彼に返し、尋ねた。


 「パリへはご旅行で?」

 「はい、妻と一緒に」

 「それは良かった。パリは初めてですか?」

 「新婚旅行で1度だけ。三カ月前、妻が亡くなりましたので、パリへは彼女の位牌と一緒に参りました。

 もう一度、パリに来るのが妻の夢でしたので」

 「そうでしたか、では奥様も天国で喜んでいらっしゃるでしょうね?」

 「はい、私もそう思います。

 今日、先生にお会い出来たのも、家内の計らいだと思います。

 お食事中、お邪魔してすみませんでした。

 一生の宝物にいたします」


 物腰のやわらかいその男性は、そう言って自分のテーブルに戻って行った。

 テーブルの上には奥さんの位牌が置かれていた。



 「ありがとう智子。一ノ瀬先生にお会いすることが出来たよ、サインまで頂戴したんだ、ほらね?」

 

 飯島というその男は、位牌に向かって話し掛けていた。

 テーブルには2人分の料理が並んでいた。



 「いい旦那さんだね?」

 「ああ、そうだな。

 奥さんも喜んでいることだろう」




 食事を終えて外に出ると、雪が降っていた。


 「五郎ちゃん、とっても美味しかった。

 いつもご馳走してもらっちゃってゴメンね?」

 「ひとりでする食事は味気ないものだ。アリスが一緒だと飯も旨いよ。

 俺の方こそ感謝しているよ、こんな爺さんと食事をしてくれて。

 さっきの店、中途半端な現地人のやっている店じゃないから旨かっただろう?」

 「うん、とっても美味しかった!」


 遊園地の照明も消え、街灯に雪が照らされていた。


 「ねえ、五郎ちゃんの家族はパリに来たことはあるの?」

 「女房とは30年以上前にな。娘の優香がまだ生まれる前の話だ。

 優香は来たことはない」

 「優香さんにも見せてあげたいね? パリ」


 パリではしゃぐ優香を私は想像した。

 そして空想した。優香にパリを自慢げに案内する自分の姿を。

 それが叶わぬ夢と知りながら。


 アリスが私と手を繋ぎ、私たちは雪の降るパリを歩いて行った。


 まるで本当の親子のように。


第12話 ドーヴァーの白い壁

 アリスのパリ滞在は既に2週間が経過していた。


 「いいのかアリス、日本に帰らなくても?」

 「五郎ちゃんは私がここにいると迷惑?」


 私はアリスがずっとここにいてくれたらと思っていた。だがそれは私が健康であればの話だ。

 余命いくばくもない私のところへ、これ以上アリスを引き留めて置くわけにはいかない。

 長く一緒にいれば、それだけ情も移ってしまう。別れが辛くなるのだ。

 それをどうやってアリスに伝えたらいいのか? 私は考えあぐねていた。


 「俺は構わないけど、心配しているんじゃないのか? 日本のアリスの知り合いたちが?」

 「誰もいないよ、私を待っていてくれる人なんか・・・。

 ねえ五郎ちゃん、私を五郎ちゃんのお嫁さんにしてよ、そうすればずっとここにいられるでしょう?」


 私は娘の優香が幼稚園の時の事を思い出していた。


 「優香ちゃんね、パパのお嫁さんになってあげる」


 優香はよくそんなことを言ってくれていた。



 「親子みたいな俺たちがか?

 ロリコンの変態ジジイって言われるのがオチだろうな?」

 「いいじゃないの、言いたい人には言わせておけば。歳の差カップルなんて素敵よ」

 「そんなに気に入ったのか? このパリが?」

 「パリも好きだけど、五郎ちゃんはもっと好き。

 でも五郎ちゃんは2番目だよ、1番は私のパパだから」

 「2番で十分だよ。俺はいつも2番だからな?

 学校の成績もそうだった」

 「じゃあ1番は誰だったの?」

 「1番か? 1番は三枝だ」

 「今、何をしているの? その人」

 「ディエッペというフランスの港町で画家をしている。  

 久しぶりに三枝に会いに行ってみるか? ディエッペはとても美しい港町なんだ」

 「フランスにいるのね? その1番の人。会ってみたいな、五郎ちゃんよりも頭がいい人なんているんだね?」

 「頭が悪いからこの歳になっても独りでいるんだ。賢い大人だったら家族と穏やかに暮らしているよ。

 三枝は面白い奴でな? 以前は優秀な脳外科医だったんだが、大学病院に嫌気がさしてあっさり医者を辞めた男だ」

 「もったいないね? お医者さんを辞めるなんて」

 「だから1番なのかもな? 常識に捕らわれないアイツこそ天才だよ。三枝にとって医者はあくまで人生の通過点に過ぎないのさ。人間には何を失っても守るべきものがあるからな」

 俺にとって守るべきものとは何だろうか?





 ディエッペはパリからクルマで3時間半、ノルマンディーの近くにある美しい港町だった。

 ディエッペまでの道すがらには小さな城が点在し、葡萄畑が広がる長閑な田園地帯をクルマは進んで行った。

 刈り入れ前の牧草が、風に吹かれて波打っていた。

 アリスはそんな風景をクルマの窓越しに眺めながら、ユーミンの「あの日に帰りたい」を口ずさんでいた。


 「光る風~♪ 草のー波間を~♪・・・。

 これがその情景なのね? ママ、ユーミンをよく聴いていたなあ」


 (駆け抜ける 私が見える)


 私はアリスの続きを心の中で歌った。

 女房の晴美もユーミンが好きだった。





 やっとディエッペの三枝の家に着くと、三枝と奥さんのキャサリンが私たちを出迎えてくれた。


 「よく来たな! 長旅お疲れさま!

 一ノ瀬、お前少し痩せたか?」

 「作家とか画家は、少し病的な方がいいもんだ。それらしく見えるからな? あはははは」

 「同感だ。デカダンスは美だ! そして滅びゆくものの中にこそ美が存在する!」


 

 三枝のアトリエには沢山のカンバスが無造作に置かれ、油絵具の匂いがしていた。

 イーゼルに置かれた描きかけの油絵は、奥さんのキャサリンを描いた肖像画だった。

 その絵は私たちを優しく見つめ、白く美しい手は膝の上に置かれていた。

 つまりその眼差しの先には三枝がいて、彼女のエメラルド・グリーンの瞳は愛を持って三枝に注がれていた。



 「一ノ瀬、その美しいマドモアゼルは誰だ?」

 「日本からやって来た俺の姪だ」


 私はまた嘘を吐いた。勘違いされるのも嫌だったからだ。


 「はじめまして、鮎川アリスです。あなたが1番の人ですね?」

 「1番の人?」

 「高校の成績の話だよ。俺はお前には勝てなかったからな?」

 「私、五郎おじさんのお嫁さんになりたいんです」

 「いいじゃないかそれ! それは美しいよ! 死にゆく老人と美しい若い花嫁。最高の美じゃないか!」

 「イヤですよ、五郎ちゃんが死んじゃ。ずっと長生きして欲しいんです!」


 私は胸が痛んだ。

 死にゆく私と娘のようなアリス。それは美ではない、ただの悲嘆だ。


 「すまんすまん、とにかく食べて飲んで歌おうじゃないか! そして語り明かそうじゃないか! 人生について、芸術について!」




 ダイニングテーブルの上には沢山の料理が並べられていた。


 「うわー、美味しそう! これみんなキャサリンさんがひとりで作ったんですか? すっごーい!」

 「ワタシ クッキング ダイスキ」


 キャサリンは片言の日本語でそう答えた。

 三枝はシャンパンを抜き、みんなに注いだ。


 「それでは、美しい素晴らしき人生に! Tchin-Tchin(乾杯)!」

 「やだ、フランス語で乾杯って「チンチン」っていうの? 面白い」

 「ああ、日本人には面白いよな?」





 その夜、私たちは遅くまで飲み、食べ、歌い踊った。


 「なあ一ノ瀬、俺は堕落しているよ。

 描けないんだ、人の内面が、感情が、心が!

 お前には分かるはずだ、作家だからな?

 芸術とは目には見えない喜怒哀楽を描くことだ! 表現することだ!

 だが、今の俺にはそれが描けない!

 アカデミックな絵など美ではない! そこに美は存在しないんだ!

 そもそも美術とは何だ? 美術が金持ちの道楽や投資であってはならん!

 絵、その物に価値があるのであって、その絵に付いた高値に価値があるのではない!

 本当の美とは大衆の中にこそ生きるのだ!

 なあ一ノ瀬、美とは滅びだよ、そうだよな?

 桜は咲くから美しんじゃない、桜の美しさはあの儚く散る姿にこそある!」

 「俺は芸術なんて単純なものだと思う。

 人の心が突き動かされる、つまりその感動が芸術だと俺は思う。

 少なくとも俺はお前の絵が好きだ」

 「うれしい、うれしいぞ、五郎!」


 喉が枯れるまで三枝はしゃべり続け、そのまま眠ってしまった。


 私は再びアトリエにあるキャサリンのポートレートを見た。

 そこにはしっかりと、キャサリンの三枝に対する愛が描かれていた。





 ベッドに入るとアリスが話し掛けてきた。


 「三枝さんと五郎ちゃんって似てるね?」

 「どこがだ?」

 「子供みたいなところ。お金持ちになりたいとか、偉くなりたいとか、全然思わないでしょう?」

 「そうかも知れないな? 毎日飯が食えて、寝るところがあって、そして三枝のような親友もいる。

 それ以上何も望むものはない」

 「私もいるよ、五郎ちゃん。ねえ、五郎ちゃん?」

 「なんだ?」

 「私、ずっと五郎ちゃんの傍にいたい・・・」

 「アリスが飽きるまで、俺のところで雨宿りをしていればいいさ。そして雨が上がったら自分の道を進めばいい」

 「よかった。じゃあ、ずっと五郎ちゃんの傍にいるね?」


 アリスは私の頬にキスをした。


 「おやすみ、五郎ちゃん」

 「明日、ドーバーを見て帰ろう、ドーバーの白い壁を。

 おやすみ、アリス」


 私はまたアリスに自分の余命を伝えることが出来なかった。

 



 翌朝、私たちはドーバー海峡の断崖の上に立っていた。

 海からの風が強く吹き、海面には白いうさぎが跳ねているように波頭が立っていた。



 「アリス、一ノ瀬、美しい風景だろう? このドーヴァーのホワイトクリフは?

 俺はここからの景色がいちばん好きなんだ」

 「三枝、キャサリン、本当に会えて良かったよ」

 「一ノ瀬、アリス、また来いよ」

 「はい、また必ず来ます!」

 「マッテル マタ キテクダサイ」


 私は三枝の顔を見ずにそのままドーヴァーへと視線を移した。

 三枝たちにはもう会うことは出来ないだろう。


 この素晴らしい景色と三枝夫婦、そしてアリスの笑顔を私は心に焼付けようとした。


第13話 ナーニの肖像画

 「アリス、明日、またルーブルに行こう、見せたい絵があるんだ」

 「どんな絵?」

 「それは見てからのお楽しみだ」




 翌日、私たちはルーブルにいた。


 「これがヴェロネーゼが描いた、「女性の肖像 美しきナーニ」だ」


 

 その絵は惜しげもなく、ふんだんにラピスラズリを使った、瞳の視線が定まらない聖人のような特別なオーラを放つ、貴婦人の肖像画だった。

 誰とも目を合わせることなく憂いのあるその眼差しで、過去と現在、そして未来を見据えているようだった。

 胸に置かれたふっくらとした手は静脈すら描かれていた。

 それはダ・ヴィンチのモナリザに引けも劣らない傑作だった。


 アリスはそのナーニの肖像を慈しむようにじっと見詰めていた。


 「この瞳に吸い込まれてしまいそう。

 こんな絵を見たのは初めて・・・」

 「ルーブルの中で俺が一番好きな絵だ。

 俺たちと同じ人間が描いたとは思えないよな?

 この絵の異次元の世界に迷い込みそうだろう?

 このルーブルは途方もない美の宝庫だ。この美術品すべてを鑑賞するには、人間の寿命はあまりに短すぎる」

 「五郎ちゃんとずっとルーブルを鑑賞し続けたい。一生をかけて」


 アリスは五郎に体を寄せた。


 「五郎ちゃんにとって私は何? 娘? それとも恋人?」

 「戦友だな?」

 「辛い世の中を生き抜くための戦友?」

 「いや、甘い誘惑に負けないための戦友だ」

 「私は歳の離れた愛人がいいなあ」

  

 私は笑った。


 「ナーニとモナリザと見比べてみるか?」


 私とアリスは手を繋ぎ、モナリザを目指した。



 モナリザの前では日本人の若いカップルが係員から注意を受けていた。

 

 「ノン、ここはフラッシュ撮影は禁止です」


 それでもふたりはモナリザの前でピースサインをして自撮りを繰り返していた。

 

 

 「どうして人は思い出を欲しがるのだろう? その写真を後で見て懐かしむのが好きなのか?

 頭に記憶するだけで俺はいいと思う。

 記憶に残る物、忘れる物、それでいい。

 所詮、忘れる物に価値はないのだから。

 人間は忘れることによって生きていけるものだ」

 「五郎ちゃんは写真、嫌いだもんね?」


 私には家族写真がない。 

 だが、書斎には優香と晴美の小学校の入学式の写真がフォトスタンドに飾ってあった。

 そのおかげで私は妻と娘の顔を忘れずに済んでいた。

 そして自分に罰を与えることも忘れはしなかった。



 「どうだ、モナリザは?」

 「さっきのナーニの肖像が強烈すぎて、何だかあまり感動がないかも」

 「それは案外正しいのかもしれない。モナリザは世界中を旅している。

 だからこれはそのレプリカかもしれないんだ」

 「へえー、そうなんだ。

 でも有名だよね? モナリザって?」

 「あのガラスは防弾ガラスになっているそうだ。世の中には変なヤツもいるからな? モナリザは人類の宝だ」

 「レオナルド・ダ・ヴィンチってヴィンチ村のレオナルドって聞いたことがあるけど、そうなの?」

 「そう言われているな?

 彼は一生独身だった。音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理、光学、力学、土木工学など様々な分野に精通していた万能の天才だった。

 ミラノ、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアを渡り歩き、最後はフランス王フランソワ1世に庇護された。

 このモナリザは弟子のサライがそれを受け継いだ物らしい。

 ダ・ヴィンチはサライを寵愛し、男色であったことは有名な話だ」

 「えー、男の人が好きだったの?」

 「そんな記録があるだけだ。真実かどうかはわからない。

 でも彼が息を引き取る時、フランソワ1世の腕の中で亡くなったそうだけどな。

 彼は王様に愛された天才だった。

 いや、天才だった彼の魅力に王様が魅了されていたのかもしれない」


 私の話を聞きながら、驚いたり笑ったりするアリスを見ていると、彼女そのものが芸術であると私は感じた。

 芸術という概念が「人に感動を与える」とするならば、アリスは私にとっての芸術だった。

 いつも感情をそのままに表現し、天真爛漫に生きるアリス。

 私はアリスにどれだけのことをしてあげることができるだろうか?


 私はそれをモナリザに問いかけてみたが、彼女は曖昧な笑みを浮かべているだけだった。


第14話 追憶

 「これからどうなるの? 私たち・・・」


 女房の晴美は怯えていた。

 お嬢様育ちの晴美には酷な話だった。


 私は当時、不動産開発会社の経営に行き詰まり、どん底の状態になっていた。

 連日のように自宅に押しかけてくる債権者たち。私は小銭の入った小さい貯金箱まで差し出した。


 「これが今の私の全財産です」


 するとその業者はその貯金箱を受け取ると、私を突き飛ばした。


 「お前にやられた金はこんなもんじゃねえだろう! なめてんのかコラッ!」


 その男は解体会社の営業マンだった。

 会社が順調な時には、


 「社長、どうです、たまには一杯?」

 「いいよ、ご馳走するよ」

 「いえいえ、とんでもありません。たまには私にご馳走させて下さいよ。

 いつも一ノ瀬社長にはお世話になっていますから」


 その時、まだ小学3年生だった娘の優香はそんな私を庇った。


 「やめて下さい! パパをいじめないで!」


 地獄だった。

 経営が良好な頃には8帖の和室はお歳暮やお中元が天井までピラミッドのように積み上げられていたが、経営不安の噂が広まると、瞬く間に業者は離れてゆき、遂には薄っぺらな缶ビールの箱が1箱のみとなっていた。


 明日、優香に持たせる弁当に入れる米もなかったほど、生活は困窮していた。

 明日には電気が止められ、5日後にはガスが止められるはずだった。

 水道は命にかかわる物だから止められることは無いと聞いていたが、それはデマだった。

 小銭をかき集め、私は水道局へ支払いに行ったこともある。

 すべてがギリギリの状態で、私は完全に正常な思考を失っていた。

 私たち家族は完全に追い詰められていた。



 「毎日毎日、どうするの? どうするの? どうするのってうるさいんだよ!

 俺が毎日どんな思いでいるか、お前にはわかるのか!」


 私は女房の晴美を詰った。

 私は完全に狂ってしまっていたのだ。

 すでにうつ病を通り越し、私は狂人になっていた。


 債権者が鳴らすチャイムの音に、晴美も優香も怯え続けた。

 私はクルマも売り払い、携帯も使えないまま、自転車で日雇いの土方仕事に通い、食い繋いでいた。

 夕方、仕事が終わると、夜の公園のベンチで債権者が来なくなる深夜まで時間を潰して過ごした。


 ある日、いつものように深夜に帰宅した私は、晴美と優香の寝顔を見ていた。

 ふたりとも涙の流れた跡が残っていた。

 私はそんな晴美の首に手を掛けそうになっていた自分に気付き、泣いた。

 この世には死ぬよりも辛いことなど山ほどあるのだ。


 「死んだ気になって一生懸命やれば必ず報われる」


 そんな美辞麗句を述べる輩は、本当の地獄を見た事がないからそんな呑気なセリフが言えるのだ。

 新幹線のホームで足が勝手に線路へと向かう恐怖を、彼らは知らない。

 私は常軌を失いつつあった。いや、失っていた。


 債権者の中には私が財産を隠しているのではないかと疑う者もいた。

 今思えば、そんな芸当も#容易__たやす__#く出来たのかも知れないが、私はそれをしなかった。

 あり金残らず債権者に差し出してしまった。

 そうなる前に廃業すれば良かったのかも知れないが、私は諦めず、まるでゾンビのように悪足掻きをしてしまったのだ。

 親戚、兄弟、友人、挙句の果ては親からも私たちは見捨てられてしまった。


 「もうアンタたちに出すお金はないからね!」


 おふくろは私と晴美にそう言い放った。

 私はついに、その筋から金を借りた。


 「一ノ瀬社長、金がないのは切ないよね?

 それでいくら欲しいの?」

 「逆にいくらなら貸していただけますか?」

 

 闇金の社長は夕日を背にしていたので、その表情を読み取ることは出来なかったが、おそらく薄ら笑いを浮かべていたはずだった。

 社長は引き出しを開けると、1万円札を5枚、私の前に並べた。

 私がそれを拾おうとすると社長はそれを制した。


 「慌てるもんじゃないよ、一ノ瀬社長。

 まずウチは10日で2割の利息を取る。利息は先払いだ」


 すると社長はそこから1万円札を1枚、取り上げた。


 「10日後、元金の5万円を返しに来い。

 そうしたら次は10万円を貸そうじゃないか?

 ただし、もし期日に1日でも遅れたら、その時は奥さん、ウチの系列店で働いてもらうことになる。

 綺麗な奥さんだもんな? 社長の奥さんは?

 いっそのこと奥さんに働いて貰えば? どうだい? 200で?」


 私はその4万円をポケットにねじ込むと、その場を後にした。

 返す宛など初めからなかった。

 とりあえず私は1週間の生活費を確保した。

 そしてまた誰かに泣き付くか、社長に土下座するしかなかった。

 

 そして万が一の時には社長を殺して自分も死ぬ覚悟を決めていた。

 私は自暴自棄になっていた。


 換金できるものはすべてカネに換えた。

 晴美のブランド品や着物、帯、宝石、婚約指輪、そして結婚指輪までも売り払った。

 だが娘の優香のバイオリンだけは売る気にはなれなかった。

 美術品は足元を見られ、二束三文で買い叩たかれた。

 多くの貴重な蔵書は、段ボール1箱が5,000円程度だった。


 屋敷はすでに銀行に抑えられ、任意売買の話も始まっていた。

 晴美は泣く気力すら無くしていた。

 その時から私は、夫であることも父親であることも辞めた。

 生きるため、この妻と娘を守るために私は鬼となることを決めた。



 返済の日がやって来た。

 私は闇金の事務所に呼ばれた。


 「社長、ご苦労さん、カネは?

 大丈夫かい? そんな暗い顔をして」

 「社長、すみませんがもう1日だけ待って下さい! お願いします!」


 土下座をして懇願する私のすぐ傍に、社長は大きなガラスの灰皿を投げつけた。

 飛び散ったガラスの破片が私の顔を掠め、頬が切れた。


 「ごめんごめん、その腐った脳味噌の入ったその頭に当てようと思ったら、手がすべっちゃった。

 大丈夫、今度はちゃんと当てるから。

 久しぶりだなあ、脳がザクロみたいに開くのを見るのは?

 お前、生命保険は入っているか?

 もう解約しちまったか?

 そうでなければここまで来ねえよな?

 保険掛けてたらとっくに自殺してるもんなあ」


 私は顔を上げることが出来なかった。


 「いいだろう、明日まで待ってやる。

 そのかわり分かっているな? もしも返済できなかった時のことは?」





 私は絶望の中、家路への帰り道、夜の歓楽街を通った。

 すると電柱の張り紙に「日払い」の文字を偶然見つけた。

 その下には「運転手募集」と書いてある。

 私は一縷の望みをかけ、そこに電話を掛けた。


 「電柱の張り紙を見たんですが」

 「そうですか? あなた運転免許はあるの?」

 「はい」

 「今どこです?」

 「はい、ピンサロ「レインボーセブン」の前にいます」

 「そう? そこから南に下って2本目の路地の右手にある赤いビルの1階まで来て下さい。面接をしますから」

 「わかりました。これから伺います」


 それが暗黒街のボス、伊吹竜二郎との出会いだった。

 伊吹は私を見て言った。


 「アンタ、どっかから摘まんでない?」

 「金田興業さんから5万円借りました」

 「それで返せないと?」


 伊吹は電話をかけた。


 「ああ金田社長? 伊吹です、いつもお世話になってます。

 金田さんのところから摘まんでいる、一ノ瀬ね? 今度ウチで預かることにしましたから。

 ハイ、そうですハイ。

 後はウチでなんとかしますから、よろしくお願いします、ハイ、ごめん下さい」


 電話を切ると伊吹会長は言った。


 「金田の件は安心しろ、カタは付けた。

 仕事はウチの女の子の送迎だ。

 日当は1日5,000円、日払いにしてやるから経理に毎日取りに来い。

 あんたの気持ちはよく分かるよ、俺も同じだったからな?

 だがな、億を稼いでいた奴はまた億を稼げるようになるもんだ。

 俺の下でやってみろ、命懸けでな? そうすればお前は必ず復活することが出来る」


 そして伊吹は財布を取出し1万円を私に渡してくれた。


 「金がねえんだろう? これは入社祝いだ、取っておけ」




 仕事は面白かった。

 デリヘル、ピンサロ、ファッションヘルスにレンタルルームの管理。

 居酒屋、ラーメン屋にイタリアンレストラン、スナックにクラブ、キャバクラと、私は夢中で働き、グループのナンバースリーにまで上り詰めた。

 そんなある日のこと、私はアーケードで小林洋子に呼び止められた。


 「一ノ瀬社長ですよね?」

 「ああ、サンライズの小林さん。君のところには負債はなかったよね?」

 「ウチにはちゃんとお支払いいただきました。

 あれから大変だったそうで・・・」


 彼女は広告代理店の営業マンだった。


 「夜のお仕事をされているとの噂でしたが、本当だったんですね? 社長は今でも小説を書いているんですか?」

 「いや、もう辞めたんだ、生きるのに精一杯でね?」

 「実は私の大学時代の先輩が出版社にいるんですけど、今度、新人文芸賞を募集するそうなんです。

 応募してみませんか? 社長」




 そして私の小説は候補に挙がり、書籍化が決まった。

 私の書いた小説や脚本が、次々に映画やドラマになり、私は夜の仕事を辞めた。



 「一ノ瀬、よかったなあ、お前もこれで作家先生だな?

 寂しくなるが仕方のないことだ。がんばれ」

 「会長のお陰です。ありがとうございました」

 「なっ、俺の言った通りだろう?

 今まで苦労した分、もっと幸せになれ」

 「はい」


 そして会長は餞別だと言って、10万円の入った「赤のし」をくれた。





 私は晴美と優香に、一緒にパリで暮らさないかと言った。

 だが返事は意外なものだった。


 「私たちはパリには行かない。離婚して下さい。

 そして約束して、もう2度と私たちの前に現れないと」




 そして今、私はずっと憧れだったこのパリで暮している。


 大切な家族と引き換えに。


第15話 アリスを養女に

 「大丈夫? 五郎ちゃん?

 うなされてたよ、怖い夢でも見たの?」


 娘の優香が泣いている夢だった。

 小学生の優香が大粒の涙を浮かべて泣いていた夢だった。


 「イヤな夢だった」


 アリスは私を優しく抱きしめてくれた。

 それは母親が子供にするような抱擁だった。

 私は慈愛に満ちた聖母マリアに抱かれている心地良さに包まれていた。


 「大丈夫、大丈夫だよ五郎ちゃん。私はいつも傍にいるから。

 五郎ちゃんはもう独りぼっちじゃないよ」


 私はそのまま静かに目を閉じた。

 

 「ありがとう、アリス」


 後悔は無駄だと思う。

 やってしまったことは仕方がない。それは過去の事だからだ。

 問題はそれを、これからどうやって償っていくかということなのだ。

 だが、私に残された時間は少なくなりつつあった。



 「アリス、俺は家族に酷いことをして来た。

 その罰として、俺はずっとひとりで暮らしてきた。

 そこへお前が現れた。

 俺の罰は終わったのかも知れない」

 「五郎ちゃんは悪くないよ。しょうがなかったんだよ、その時は」

 「アリス、ずっとパリで暮らしたいか?」

 「それはそうしたいよ、こんな素敵なところで五郎ちゃんと一緒に生活出来るなら最高にしあわせ」

 「それならアリスに家庭教師をつけてあげよう」

 「いいよ、家庭教師だなんて。五郎ちゃん先生がいるもん」

 「俺の知り合いにソフィアという女性がいる。彼女からフランス語とここでの様々な文化や慣習を学ぶといい」

 「そんなの五郎ちゃんが教えてくれればいいじゃないの」

 「アリスにフランス語を教える悠長な時間は俺にはない」

 「いつも色んなところに連れて行ってくれる時間はあるのに?」

 「とにかくソフィアに会ってみるといい、たぶん気が合うはずだから」

 「そうなの? フランス人の女の人って興味はあるけどね」


 


 2日後、ソフィアが家にやって来た。


 「マエストロ、お久しぶりです。

 こちらがアリスね? マエストロの愛人ですか?」


 ソフィアは京都大学の大学院で日本の美学について研究していたこともあり、日本語が堪能だった。


 「俺のラ・マン(愛人)じゃないよ、娘みたいなもんだ。

 電話でも話したが、彼女にフランス語とパリでの生活習慣を教えてあげて欲しいんだ」

 「わかりました。マエストロのお役に立てるのであれば喜んで」

 「ありがとう、ソフィア」

 「こんにちはソフィアさん、鮎川アリスです。

 よろしくお願いします」

 「ソフィアです、マエストロの信者です。アリス、仲良くしましょうね?」


 ソフィアはヴォーグなどのファッション雑誌のモデルのような美人だった。

 アリスは彼女の美貌に圧倒されていた。


 「取り敢えず、アリスを連れて買い物に付き合ってやってくれないか?」

 「わかりました。ではアリス、行きましょうか?」

 「はい、よろしくお願いします」


 ソフィアたちはアリスの身の回りの物や服を買うために、パリの街に出掛けた。




 街を歩いていると、ソフィアは何人もの男性たちから声を掛けられたが、彼女は相手にしなかった。



 「ソフィアは日本語がすごく上手ね? 大学の時に勉強したの?」

 「そうね、でも大学というよりは日本人の彼にベッドで教わった方が多いかもね?」


 彼女はそう言ってウインクして見せた。


 「本当にアリスはマエストロの彼女さんじゃないの?」

 「そうだよ、私は好きなんだけど、五郎ちゃんは私を相手にしてくれないの。子供扱いされてる」

 「そう、なら安心んした。私もマエストロも彼の作品も大好き、結婚したいくらいにね?」

 「でもねソフィア、五郎ちゃんは時々すごく寂しそうな顔をするの、それが心配・・・」

 「作家には作家の苦悩があるものよ、アリスもマエストロの作品は読んだんでしょう?」

 「ううん、全然。

 そんなに凄いの? 五郎ちゃんの書く小説って?」

 「信じられない! マエストロの作品を読んでいないで一緒に暮らしているなんて!」

 「五郎ちゃんって巨匠なの?」

 「マエストロは神よ」





 買物を終え、アリスたちが帰って来た。


 「五郎ちゃんただいまー」

 「お帰りアリス、どうだった? 女同士のショッピングは?」

 「うん、すごく楽しかったよ。ついつい余計な物まで買っちゃった」

 「アリスはあまり迷わないから、お買い物も早くに済んで、カフェでお茶して帰って来ました」

 「ありがとう、ソフィア。大変だったね?」

 「いえ、マエストロのお役に立てれば光栄です。では今日はこれで失礼します」

 「さようなら、ソフィア。後で礼をさせてくれ」

 「楽しみにしていますね? マエストロ。

 それじゃアリス、またね?」

 「うん、またねソフィア」


 ソフィアが帰って行った。




 夕食を終え、アリスは食器を洗っていた。

 私は書斎で原稿の続きを書いていると、突然、体に激痛が走り、私は椅子から転げ落ちてしまった。

 アリスはそれを聞きつけ、すぐに書斎に駆けつけて来た。


 「五郎ちゃん! 五郎ちゃん! 大丈夫!」

 「アリス、そこの、ひ、引き出しから、クスリ、を、頼む・・・」

 「これ、これのこと?」


 私がそれを呑み込むと、アリスがコップに水を入れて持って来てくれた。

 私はそのまま救急車を呼んだ。




 とりあえず私は検査入院をすることになった。

 病名はすでに分かっていた。



 「五郎ちゃん、具合はどう?」

 「大丈夫だ、昨日は死ぬかと思ったけどな? あはははは」

 「五郎ちゃん、病気なの?」

 「アリス、俺の家で同居する際の条件、覚えているよな?」

 「うん、五郎ちゃんに干渉しないことだったよね?」

 「アリス、俺はガンなんだよ。ステージ4の末期ガンなんだ。もう手術は出来ない。

 いつ死んでもおかしくはない。

 だが俺は酒もタバコも辞めるつもりはない。今更そんなことをしても無駄だからだ。

 でも、俺がガンだと知れば、お前は「そんなのダメ!」というだろう?

 ニコラス・ケイジの映画で、『リービング・ラスベガス』という映画があるんだが、その中でニコラスは華やかなラスベガスで自分の人生を終えようとする。その時に自分を愛した女に彼はこう言う。


      「俺に指図をしないでくれ」


 女は辛い、もっと長生きして欲しいからだ。

 当然、酒もタバコも辞めて、少しでも長く生きていて欲しいと願う。

 だが彼女はその約束を必死で守ろうとするんだ。

 俺はニコラスの気持ちがわかる。それが彼の生き方だからだ。

 アリス、まさかこんなにも長く君と暮らせるとは思わなかった。

 俺はしあわせ者だよ。アリスといると、凄く楽しいんだ。

 だからソフィアと君を会わせた。俺が死んでもアリスがここで生活出来るようになるためにな?」


 アリスは泣いていた。


 「そんなの嫌だよ! 五郎ちゃんがいないパリなんて意味がないよ!」

 「ありがとう、アリス。

 でも安心しろ、俺はまだ死んだわけじゃない。

 そして俺には自分の人生を全力で生きたという誇りがある。

 だから後悔はない。

 家族や色んな人たちに迷惑を掛けた。

 そこでだ。アリス、フランスで永住権を取るために、俺の養女にならないか?」

 「私を五郎ちゃんの養女に?」

 「そうだ、まあアリス次第だけどな? もちろん強制はしない」

 「ありがとう、五郎ちゃん。私のためにそこまで考えてくれて。

 五郎ちゃんの娘になれるのはうれしいけど、前のご家族に内緒ではイヤだよ、私の一存では決められないよ」

 「アリスらしいな? まあ、なるべく早く決断してくれ。俺はもうそんなに長くはない。

 嫌な思いをさせてすまなかった」


 アリスは私の手を両手で握り、言った。


 「五郎ちゃんは絶対に死なない! だって私がついているから」

 「そうだな? そうかも知れない」



 病室の窓からは、冬の到来が近づいていることを告げる木枯らしが吹き、窓ガラスを揺らしていた。 


 窓の隙間から入り込む風の音が、まるで小児喘息の子供の呼吸のように苦しそうだった。


第16話 アリスの祈り

 私の身体は日を追うごとに急激に衰弱していった。

 食欲も減退し、ワインとチーズ、そしてタバコだけが食事になっていた。

 辛い日々が続いていた。

 アリスは私との約束を忠実に守ってくれていた。

 


 「五郎ちゃん、夕ご飯は何がいい? 何か食べたい物はある?」

 「そうだなあ、バゲットとゴルゴンゾーラ、それからアルザスの白がいいな」

 「果物とかは?」

 「苺でも貰うかな?」

 「うん、苺は私も大好き。こっちの苺って本当に甘くて美味しいよね? 日本にはないイチゴだもん。

 すごく香りが強くって、お砂糖食べているみたい」

 「特にブリュッセルの苺はいいぞ、あの苺は苺じゃないな、strawberryだ」

 「うそーっ、食べたい食べたい、絶対に食べたーいっ!

 五郎ちゃん、今度連れてってよ、苺を食べにベルギーのブリュッセルに。

 ついでにアントワープにも寄って、フランダースの犬も見たい!」

 「アントワープを訪れた時、「フランダースの犬って知ってるか?」って何人かに尋ねたことがあるが、誰も知らなかったなあ。

 でもルーベンスの人気は凄い、ルーベンスについて質問しようものなら、1時間はしゃべり続けるからな。ルーベンスは彼らの誇りなんだろうな?」

 「へえー、すごく有名なのかと思っちゃった。じゃあ、マルシェに行って買物してくるね?」

 「ああ、気を付けてな。パリはスリが多いから、バッグは常に前にぶら下げて置けよ」

 「大丈夫だよ五郎ちゃん、五郎ちゃんの娘だもん」

 「だから心配なんだよ」


 私とアリスは笑った。


 だがアリスはマルシェには向かわず、ルーブルに向かった。

 サモトラケのニケに会うために。



 

 アリスはニケの前に歩み出ると跪き、胸の前で手を組んだ。


 「女神様、お願いです。どうか五郎ちゃんを優香さんに会わせてあげて下さい。

 五郎ちゃんは私を深い悲しみから救ってくれました。

 私はこれ以上、もう何も望みません。もしお望みになるのなら私の命を差し上げてもかまいません。

 五郎ちゃんを娘さんに会わせてあげて下さい」


 アリスは大理石の冷たさも厭わず、サモトラケのニケの前で祈り続けた。




 「ごめんね五郎ちゃん、遅くなっちゃった」

 「アリス、遅かったな? 心配したぞ」

 「マルシェって楽しいからつい長居しちゃったの。

 ついでにこれも買っちゃった。ほら、ドラゴンフルーツ」


 アリスは得意げに私にドラゴンフルーツを見せた。



 

 食事が始まり、アリスは自分のためにと作ったミネストローネを私に見せた。


 「どう? おいしそうでしょー?

 ちょっと味見してみる? すごく美味しいから」


 アリスは私の顔にスプーンを近づけた。

 少しでも私に栄養をつけさせるために。


 「じゃあ俺にも少しくれ、具はいらないから、カップに少しでいい」

 「いいからいいから、まずは味見してみなよ、はいどうぞ」


 アリスは私に口を開けるように要求した。

 私はちょっと照れ臭かったが、アリスの口をつけたスプーンでミネストローネを飲んだ。


 娘の優香も同じことをしてくれた。


 「はいパパ、あーんだよ、あーんして」


 年を取ると涙脆くなるものだ。私は必死に涙を堪えていた。


 「うまいなコレ? アリスは料理の天才だ」

 「でしょう? じゃあカップに持ってくるからね?」


 アリスも涙を堪えていた。

 どんどん痩せこけていく私を見ているのが辛かったのだろう。

 アリスはそっとキッチンで涙を拭っていた。



 アリスはルーブルの方角を向いて、再び祈りを捧げた。


 (女神様、どうか五郎ちゃんが1秒でも長く生きられますように)


第17話 マリー・ローランサン

 五郎は書斎に飾ってある、マリー・ローランサンの絵を眺めていた。

 

 アポリネールを愛した情熱的な画家、マリー・ローランサン。

 彼女は「鎮静剤」という詩を残している。



   「鎮静剤」 マリー・ローランサン 作                  

                 (訳:堀口大學)


    退屈な女より 

    もっと哀れなのは 悲しい女です


    悲しい女より

    もっと哀れなのは 不幸な女です


    不幸な女より

    もっと哀れなのは 病気の女です


    病気の女より

    もっと哀れなのは 棄てられた女です


    棄てられた女より 

    もっと哀れなのは よるべない女です


    よるべない女より 

    もっと哀れなのは 追われた女です


    追われた女より

    もっと哀れなのは 死んだ女です


    死んだ女より

    もっと哀れなのは 忘れられた女です



 私はマリー・ローランサンのこの詩が好きだった。

 彼女は言う、人間の一番の哀れは「忘れられること」だと。

 晴美も優香も私のことはもう忘れたはずだ。



 「五郎ちゃーん、ごはん出来たよー」

 「今、行く」


 今、私はしあわせの中にいる。

 だが困ったことに、幸福は執着を生む。

 

 「死にたくない、もっとこの幸せの中にいたい」


 私はそんなことを考える、臆病者になっていた。




 アリスは食事をしながら、さりげなく言った。



 「五郎ちゃん、私、やっぱり日本に帰ることにする。色々とやらなきゃならないことも出来たし」

 「そうか」


 私は葉巻を吸いながら、平静を装った。

 それはとても残念なことではあったが、やむを得ないことだとも思った。

 いつまでもアリスをここへ留めておくことは出来ない。

 アリスは私のメイドでもなければ娘でもないのだから。



 「それでいつ日本帰るんだ?」

 「明日」

 「航空チケットは取れたのか?」

 「うん、ソフィアさんにお願いした」

 「金はあるのか?」

 「もう五郎ちゃんは心配性なんだからあ。

 大丈夫だよ、お金はけっこう持っているから」


 私は書斎へ行き、キャッシュカードを持って来ると、それをアリスへ渡そうとした。


 「またいつでもパリに遊びにおいで。これはその時の旅費だ」

 「いいよ、あと何回かはパリに来れるだけのお金はあるから。

 ママとパパが残してくれたお金が」

 「それとこれとは別だ。これはアリスが俺のメイドとして働いてくれた給料だ。気軽に受け取ってくれ」

 「逆でしょう? ここに泊めてもらって、ご馳走してもらって、ガイドまでしてくれたんだよ、

 私が五郎ちゃんに払わないと」

 「もう俺に金は必要はない、アリスが有効に遣ってくれ。暗証番号はアリスの誕生日にしておいたから」

 「五郎ちゃん・・・」



 アリスはどうしても日本に帰る必要があった。出来るだけ早く。

 アリスは五郎には内緒で、優香に手紙を書いていたのだ。



  優香様


  初めまして、鮎川アリスと申します。

  決して怪しい者ではありません、私はパリでお父様に

  お世話になった者です。

  誤解しないで下さい、おかしな関係ではありません。

  口には出しませんが、お父様は優香さんに会いたがって

  いると思います。

  今、お父様はあまり長くは生きられない状態にあります。

  お願いです、どうかパリに来てお父様を見舞ってあげて

  下さい。

  時間がありません、お父様に是非会ってあげて下さい。

  私がでしゃばることではないことは十分承知しています。

  身寄りのない私に、あなたのお父様は優しく接して下さい

  ました。

  どうかお父様に会ってあげて下さい。

  お願いします。

                     鮎川アリス




 アリスはソフィアに事情を説明した。

 ソフィアは泣いた。


 「どうして、どうしてなの? マエストロはまだ60歳にもなっていないのよ、もっともっと作品を世に出して欲しいのに・・・」

 「それでねソフィア、私、娘の優香さんを日本に迎えに行こうと決めたの。

 ソフィア、飛行機の手配をお願いしたいんだけど、五郎ちゃんに知られないように」

 「わかったわ、帰国の手配は任せて」

 「あと、私が戻るまで五郎ちゃんのことはお願い、かなり苦しそうだから」

 「うん、任せて頂戴。アリス、気をつけてね?」

 「私、絶対に優香さんを連れて来るから」




 

 翌朝、私はタクシーを呼び、アリスを空港まで送る手配をした。



 「アリス、元気でな。悪いがここでさよならだ。

 今度パリに来る時は、彼氏と一緒においで、俺がその男を査定してやるよ」

 「うん、その時はお願いね。凄いイケメン君を連れて来るから、五郎ちゃんもそれまで元気で待っててね」

 「ああ、それまでは死ねないな。

 アリスの花嫁衣裳を見たいからな?」

 「そして子供が生まれたら抱っこしてね、約束だよ、五郎ちゃん」

 「わかった、わかった。楽しみに待っているよ、気をつけてな。

 日本に着いたらハガキでもくれ、じゃあな」

 「うん」


 私もアリスも泣いた。

 タクシーの窓から手を差し出すアリス。


 「五郎ちゃん・・・」

 「ほら、飛行機に遅れるぞ」


 私たちは強く手を握った。

 タクシーが走り出し、クルマが角を曲がるまで私はずっとアリスを見送った。




 (五郎ちゃん、私、絶対に優香さんを連れて来るからね!)



 アリスはそう自分に誓った。


第18話 五郎の元家族

 ドゴール空港で搭乗手続きを終えたアリスだったが、手荷物検査の遅れで搭乗が1時間遅れるというアナウンスがあった。

 アリスは空港内のカフェカウンターで珈琲を買った。

 これから乗る日本航空の機体を前に、待合エリアのベンチに腰掛け、先程の手荷物検査の時にバッグから出て来た封筒を開けてみると、それは五郎からの手紙と、昨日、五郎から受け取らなかったキャッシュカードと1万円が入っていた。



   アリスへ


   楽しいひと時だった。ありがとう。

   アリスは本当に自分の娘のようだった。

   神様は最期にこんな素敵なプレゼントを贈って

   くれた。

   パリはたくさんの顔がある街だ、それを紹介する

   には100年あっても足りないだろう。

   もっともっと素敵なパリを案内したかった。

   アリス、人はいつかは死ぬのが定めだ。

   それが早いか遅いかの違いだけだ。

   人間は病気や事故で死ぬのではない、神様がお決め

   になった寿命で死を迎えるのだ。

   だが、死は悲しむべきものではない。

   それは永遠の別れではあるが、自分の人生をZERO

   にリセットすることでもある。


   俺はアリスのそのやさしさが心配だ。

   君のやさしさは自分を捧げるやさしさだからだ。

   アリス、自分を大切にするんだよ、他人の事など

   気にしなくていいんだ。

   だから俺の事はもう気にするな。


   アリスの人間としての成長を見届けられそうもない 

   が、いつも俺は君のご両親と同じようにアリスを

   見守っているからな。

   今度は是非、イケメンの彼とパリを訪れて下さい。

   そしてその彼にもサモトラケのニケを見せてあげる

   といい。


   アリス、素敵な思い出を沢山ありがとう。

   自分を大切にするんだよ。


              愛するわが娘、アリスへ


                    一ノ瀬五郎


   追伸


   少しだが今後の人生の足しにして下さい。

   万一のこともある、口座が凍結されないうちに全 

   額を引き出しておきなさい。


   養女の件、間に合わなくてすまなかった。

   すべては遺言書に記してあるから安心してくれ。

   1万円を同封しておいたから、日本に着いたら寿司  

   でも食べて下さい。気を付けてな。




 アリスは五郎の手紙を抱き締めて泣いた。

 周りに人がいるのも憚ることなく、声を挙げてアリスは泣いた。



 「五郎ちゃんのバカ! やさしいのは五郎ちゃんの方じゃないの!」




 

 途中、ロシアの上空で少し機体が揺れたが、おおむね快適なフライトを続けていた。


 あと1時間ほどで成田に到着する。

 機内アナウンスが始まった。


 「みなさま、長旅お疲れ様でした。

 当機は間もなく成田国際空港への着陸態勢に入ります。

 シートベルトをお締めになり、今しばらくお待ちください。

 ただいまの日本の時刻は午後3時24分でございます。

 現地からの報告によりますと天候は晴れ、外気温は12℃との報告を受けております。

 本日は日本航空をご利用いただきまして、誠にありがとうございました。

 ladies and gentlemen, we are ...」



 機体は徐々に高度を下げて、機内の窓から成田の田園地帯が迫って来ていた。

 機体は軽くバウンドをして、無事に着陸した。

 


 アリスにも懐かしさがこみあげてきた。

 だがアリスの帰国の目的は優香を五郎に会わせることだった。

 アリスは入国手続きを終えると、すぐに優香と晴美の住む横浜へと向かった。




 五郎の入院中に横浜の住所は調べてあり、予め手紙も送っておいた。

 アリスは携帯に入力した住所をナビに従い、優香たち母娘の住むマンションへと急いだ。




 そこは中華街の近くにある、海が見える高層マンションだった。

 そこの20階のフロアに彼女たちの住まいがあった。

 アリスは勇気を持ってエントランスのチャイムを押した。



 「どちら様ですか?」

 「パリから参りました、鮎川アリスと申します」

 「ああ、お手紙の。どうぞお入り下さい」



 エントランスのガラスのドアが開いた。

 アリスはドキドキしながらエレベーターに乗った。



 震える手でドアの隣のチャイムを押した。

 すると美しい年配の女性が現れた。


 「一ノ瀬の元家内です、どうぞ中へお入り下さい」


 リビングに入ると、コーギー犬がアリスに飛び掛かって来た。


 「ダメよ、レオン。お客様なんだから」


 コーギーは晴美の命令に素直に従い、ソファに移動した。

 私と同世代くらいの可愛らしい女の子が、軽く会釈をして私を出迎えてくれた。

 彼女が優香だった。



 「はじめまして、磯山です。

 私は旧姓に戻ったんだけど、娘は一ノ瀬のままなの。しっくりこなくてね、磯山だと」

 「はじめまして、鮎川アリスです」

 「どうぞ、お掛けになって下さい。今、お茶を淹れますから。

 帰国したばかりで疲れたでしょう? ほうじ茶でもいいかしら?」

 「ありがとうございます、どうぞお構いなく」



 晴美はお茶を淹れながら言った。


 「お手紙どうもありがとう。結論から言うと私たち、あの人には会えない、いえ、会いたくはないの。

 ごめんなさいね」

 「どうしてですか?」

 「それを話すと長くなるわ、とにかく彼と会う気はないのよ、折角来てくれて悪いんだけど」


 その時優香が初めて口を開いた。


 「あんなの父親なんかじゃないよ」


 優香はコーギーを撫でながら、独り言のように言った。



 「ご主人はあなたたちに会いたいとは言ってはいません。

 でもわかるんです、すごく会いたがっていることが。

 ご主人は末期がんで先日も倒れて病院に入院しましたが、今は自宅で静養していらっしゃいます。

 もう長くはないそうです。

 ですからお願いです、どうかご主人を見舞ってあげて下さい、お願いします!

 最期にご主人に会ってあげて下さい!」


 アリスは床に土下座をして頭を下げた。



 「そんなことしないで頂戴、頭を上げて。

 鮎川さんの気持ちはありがたいけど、もう私たちは家族じゃないの、そっとしておいて下さい」

 「もう会えないかもしれないんですよ!」


 私は涙が止まらなかった。


 「別れた時に約束したの、どんなことがあっても二度と会わないって」


 晴美はアリスの前にほうじ茶と中国菓子をそっと置いた。


 「月餅もいかが? ほうじ茶とよく合うわよ」


 アリスは落胆した。

 

 「どうしてもダメですか!」

 「ごめんなさいね、わざわざパリから来てくれたのに。

 日本へは当分いらっしゃるの?」

 「いえ、明日、フランスに戻ります・・・」

 「あら、そう。もうすぐ夕方だから、どう? 日本食でもご馳走させていただけないかしら?

 近所に美味しいお寿司屋さんがあるのよ」



 

 憧れのお寿司だったが、アリスは食事が喉を通らなかった。

 

 「鮎川さん、あんまりお箸が進まないようだけど?」

 「どうしても駄目ですか?」

 「ごめんなさいね、色々心配してくれて」


 晴美はそう言って鮨を摘まんだ。


 「よかったらウチに泊っていきなさいよ、ホテルはもう取ったの?」

 「いいえ、まだ・・・」

 「じゃあ決まりね? すみません、お寿司はお持ち帰りにして下さい」

 「かしこまりました」




 アリスはお風呂に浸かり、反省した。


 「後先も考えず、バカみたい・・・」



 アリスは優香の部屋に泊めてもらうことになった。


 「ねえ、なんでそこまでしてあげるの? あの人に」


 優香が言った。


 「私ね、両親が自殺して、以前からママが言っていた、サモトラケのニケに会いにパリに行ったの。

 そしてそこであなたのお父さんに親切にしてもらったのよ。

 私、本当はパリで死のうと思ったの。パパとママの後を追って・・・」

 「アリスって呼んでもいい?」

 「いいよ、優香」


 私たちはお互いを見て笑った。


 「アリス、兄弟は?」

 「いないよ、独りぼっちだよ」

 「じゃあ私と同じだね? 私ね、小さい頃はあの人が大好きだったんだ。

 なんでも知っていて、やさしくて、いっぱい遊んで貰った。

 でも変わっちゃたの、あの人。

 嫌な情けない人になっちゃった。 

 だから会うのが怖いの。

 アリスはいい人だっていうけど、もし、まだイヤな父親だったらどうしようって思う。

 私もママも、あの人のいい思い出だけを残そうとして、今も生きているのよ」

 「優香の気持ち、わかる気もする。

 だけど今のお父さんからは想像できないの。

 私は優香が羨ましい。

 だってお父さんもお母さんもいるんだもん。

 私はね、後悔しているの。もっとああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったって。

 結局、パパとは前日まで喧嘩したまま仲直りもせずに死んじゃったから・・・」


 アリスは泣いた。


 「お父さんはあなたに会いたいなんて言わないよ、一言も。

 でもわかるの、凄くあなたに会いたいんだろうなって。

 死ぬ前にもう一度、娘に会いたいって・・・」

 「アリス・・・」




 翌朝、アリスは優香親子と別れ、再びパリへと向かった。


 飛行機から遠ざかる日本の夜景を眺め、アリスは五郎に詫びた。


 (ごめんね、五郎ちゃん・・・)


 機体はそのまま大きく斜めに旋回し、パリを目指して飛び立って行った。 


第19話 再びのパリ

 今日もまた、私はアランの店に来てしまった。

 アリスと初めて出会ったこのレストランに。


 丁度この席の前に座って、旨そうにステーキを頬張っていたアリス。

 愛くるしい美しい瞳で私に微笑みながら。

 安心したのか、アリスは少し興奮気味に私と話をしていた。

 アリスのいない毎日に、私は例えようもない淋しさと、空虚な日々を送っていた。



 「ムッシュー、一ノ瀬、いつも来てくれてありがとう。

 いつも来てくれるのはありがたいが、俺の料理に殆ど手を付けないのはどうしてだい?

 気に入らないことがあるならハッキリと言ってくれ。それとも俺への嫌がらせか?」

 「すまないアラン、そういう意味じゃないんだ。君の料理は世界一だよ、でも食えないんだ」

 「どうして?」

 「体が受け付けないんだよ、君の料理は食べたいんだが体が受け付けなくなっているんだ。

 だから目と香りで君の料理を楽しませてもらっている。

 俺は厄介な病気になっちまってな? あまり長くはないらしい。

 地獄に行く前に出来るだけ、君の料理を楽しみたいんだ。

 それじゃダメか?」


 アランは悲しそうな目で私を見た。


 「だったらそう言えよ、気になるじゃねえか?

 アンタが俺の料理を食えない理由はよくわかった。

 だが残念だ、そんなことになっちまったなんてな?

 でも俺はうれしいよ、最期の晩餐に俺の店を選んでくれて」


 そう言ってアランはウインクして見せた。


 「ありがとうアラン。

 君の作る料理は最高だ、芸術だよ」

 「当たり前だ、この俺が作っているんだからな?」


 アランは厨房へと消えた。

 その後ろ姿に私への同情が透けて見えた。



 しばらくするとアランがカップを持ってやって来た。


 「せめて俺の渾身のコンソメでも飲んで温まってくれ。この世界一のコンソメを」


 アランは笑った。



 「ムッシュー、俺も後から行くよ、そうしたらまたそっちで料理を作ってやるからな? 楽しみに待っていてくれ」

 「それは無理だな? アランは天国、俺は地獄だから会うことはない」

 「じゃあ天国に来いよ、天国の俺の店に」

 「もう遅いけどな・・・」


 私はアランの差し出したコンソメを飲んだ。

 素晴らしい香りと深いコク、黄金色に輝く美しく澄んだコンソメ・スープに私は目が潤んだ。


 「どうだ、うまいか?」

 「ああ、完璧だよ。ありがとう、アラン」


 アランと私は握手をした。


 (アラン、君の料理はすばらしいよ、そして俺はここにアリスとの想い出を食べに来ているんだ)



 その時、店のドアが開いた。私は幻を見ているのかと思った。

 私はアリスを失った悲しみのあまり、ついにアリスの幻覚を見るようになってしまっていたのかと。



 「五郎ちゃん! ただいま!」

 

 私に駆け寄り抱き付き、嗚咽するアリス。

 温かいアリスの体と甘い香り・・・。

 私はこれが夢なら醒めないでくれと願った。



 「お#家__うち__#に行ったら留守だったから探したよ、でもやっぱりここにいたのね? 五郎ちゃんと初めて出会ったこの場所に」

 「アリス、日本に帰ったんじゃなかったのか?」

 「行ったよ、日本に」

 「どうして戻って来たんだ?」

 「だって私のお家はここだもん」


 アリスは椅子に座って話始めた。



 「ごめんね、五郎ちゃん。私、日本にいる優香さんたちに会いに行って来たの。

 内緒にしていて本当にごめんなさい」

 「えっ、どうして?」

 「優香さんを五郎ちゃんに会わせてあげようと思って。

 でも、ダメだったの、ごめんなさい・・・」


 アリスは大粒の涙を落した。

 私はようやくこれが夢ではないことを確信した。



 「ありがとう、アリス。

 いいんだ、もういいんだよアリス。

 俺の家族はお前だけだから」


 私も泣いた。

 アリスの気持ちがうれしかった。

 そしてまた、アリスがここに戻って来てくれたことに。



 「アリス、腹が減ったろう? 何が食べたい?」

 「ステーキ」

 「塩コショウのやつな?」

 「うん」


 私はギャルソンのミッシェルを呼んだ。


 「俺の娘にステーキを焼いてくれ、ミディアムレアの塩コショウでな。

 それからこの店で一番いいシャンパンを出してくれ」


 

 店はアリスの笑顔で、ベルサイユ宮殿のように華やいでいた。


第20話 家族の絆

 再び穏やかな日常が戻って来た。

 今、私はアリスと暮らしているだけでしあわせだった。

 何も望む物などない、アリスが傍にいるだけで良かった。

 私は幸福だった。


 今まで私は死を恐れてはいなかった。いや寧ろ、自ら死を望んでいた。

 だが、今は違う。

 死ぬのが怖かった。


 アリスと離れていたこの三日間、いかにアリスの存在が、私にとってかけがえのない物だったのかということを知った。

 そしてアリスを置いてこの世を去る日が来ることを考えると、暗澹たる思いがした。

 たとえそれが私のエゴだとわかっていてもだ。


 人生のエンディングが近づくにつれ、人は人生の短さを知る。

 人生を登山に例えるならば、麓から山を見上げて、「よし、この山の頂上を目指すぞ」と登り始める。

 そしてすぐに自分の山登りの苦しさに喘ぎ、後悔することになる。


 「なんで山登りなんてしようとしたんだろう」と。


 そして五合目まで来ると、目の前の険しい山道と、遠くなった麓と自分の登って来た道を振り返ることになる。

 引き返すことも、登ることも困難な状態になり、登山をしたことを後悔しながら、激しい肉体の苦痛と疲労に闘いながら、再び登山を継続する。

 段々と進みゆくうちに山の頂が見えて来る。

 すると今度は無我夢中で登山のペースを加速させ、やがて頂上に立つ。

 今までの苦痛や苦悩は吹き飛び、雄大なパノラマの景色が広がり、爽快な達成感に満たされる。

 そして安全に慎重に、事故のないようにと下山を始めるのだ。

 再び麓から自分の登った山を振り返る時、登山の辛さは忘れ、山の頂から見た素晴らしい風景を想い出す。

 この山を登り切ったという自分を誇りに感じるのだ。


 「俺はこの山を登ったんだ!」


 という実感に満足し、心地よい疲労感がそこにある。

 嫌なことや辛かったことは記憶から消去され、人はまた、別な山を登ろうとする。

 それが人生というものだ。


 私は自分が登って来た人生という幾つもの山を思い出し、自分の人生がいかに短く、そして幸福に満ち溢れていたかを思った。

 そしてその最期の私の人生に、神はアリスという天使のような娘を遣わせてくれたのだ。



 「五郎ちゃん、洗濯物はもうないの? 洗濯機、回しちゃうよ」

 「ああ、大丈夫だ」


 その時、アリスの携帯が鳴った。

 

 「私に電話なんてめずらしいわね? 誰かしら?」


 着信している携帯を見て、アリスは驚きすぐに電話に出た。

 その相手は優香だった。


 「もしもし! 優香なの!」

 「アリス?」

 「うん、そうだよ、どうしたの優香?」

 「どうしたもこうしたもないでしょう? 自分でパリに来いって言ったくせに。

 あー、でもよかったー、もし連絡がつかなかったらどうしようかと思ったよー。

 私の英語のレベルなんて大したことないしさ」

 「えっ、もしかして優香、アンタまさか・・・」

 「そうだよ、今、ドゴール空港に着いたから早く迎えに来てよ、ママも一緒だから。

 ママに代わるね?」


 晴美が電話に出た。


 「パリまで来ちゃったわ、アリス。 

 ガイドの方、よろしくね?」

 「すぐに迎えに行きます! だからそこを動かないで下さいね! これからすぐに迎えに行きますから!」


 アリスは興奮して電話を切った。


 「ご、五郎ちゃん! 晴美さんと優香が、優香がパリに、来たよ、来てくれたんだよ・・・。

 すぐに迎えに行こう! 五郎ちゃんの本当の家族を!」


 アリスは私に抱き付き、声をあげて泣いた。



 「良かったね! 本当に良かったね、五郎ちゃん・・・」



 私は茫然としていた。

 また夢を見ているのかと思った。


 「晴美が? 優香がパリに・・・?」

 「五郎ちゃん、早く迎えに行こう! ド・ゴールへ!」




 私とアリスは優香たちが待っている、空港カフェを探した。

 私はすでに杖をつかなければ歩くのが辛くなっており、それが歯痒かった。

 アリスはそんな私を気遣って、手を引いてくれた。



 「五郎ちゃん、ゆっくりでいいからね? 車椅子を借りて来ようか?」


 私はなるべく彼女たちに心配を掛けまいと、車椅子に乗ることを拒んだ。


 「ありがとうアリス、大丈夫だ、ゆっくり行くよ」



 アリスが空港に着いたと、連絡をしようと携帯を取った時、少し離れて優香と晴美が立って手を振っていた。


 「アリスー、ここだよー!」

 「優香ー! 晴美さーん!」


 アリスと優香は互いに走り出し、抱き合い再会を喜び合った。

 それはまるで仲の良い、姉妹のようだった。


 「優香、ありがとう!」


  アリスは泣いた。


 「泣くことはないでしょうよ、アリス。また会えて本当によかった」


 優香も泣いていた。

 


 「あなた、大丈夫なの? かなり辛そうだけど?

 ごめんなさいね、わざわざ迎えに来てもらっちゃって」

 「悪いな、ここまで来てくれて、少し痩せたか?」

 「まさかまたパリに来れるなんて思わなかったわ。

 あの娘たちのお陰ね?」


  晴美と私は薄っすらと涙を浮かべたが、お互いにそれを零さぬようにと努力した。



 「あなたも痩せたわね?・・・」



 晴美の涙腺はついに崩壊した。


 その瞬間、私と晴美の空白の7年間が埋まったように感じた。


第21話 お礼の祈り

 空港からタクシーに乗って、私たち家族はパリ市内へ向かった。



 「懐かしいわね? 何年ぶりかしら?

 でもあまり変わっていないようね? この街は?」

 「優香が生まれる2年前だから、もう30年になるな?」

 「そうね、殆どあの頃のままだもの。

 歳を取ると昔のことはよく覚えているものね?」

 「やっぱりルーブルとかも観たんですか?」


 アリスが言った。


 「ええ、アリスの見たサモトラケのニケも観たわよ。

 それから何て言ったかしら、あなたが好きだったあの絵?」

 「ナーニの肖像画か?」

 「そうそれ、あの不思議な絵。

 彼女の視線が定まっていないのよね?」

 「パリって何だかおとぎの国みたい」

 

 優香が言った。


 「私とおんなじこと言ってる」


 アリスが笑った。


 「えーっ、アリスもそう思ったの?」

 「うん、そうしたら優香のパパさんに言われたの。

それを言うならおとぎの国じゃなくて、「不思議の国」だろう? 『ふしぎの国のアリス』なんだからって」


 みんなが楽しそうに笑った。

 


 「先に食事にするか?」

 「ううん、まだ大丈夫。

 それよりもこの子にルーブルを見せてあげたいわ」

 「じゃあルーブルを見学してから食事にするか?」


 私たちはルーブルへと向かった。  




 「ママ、これがあの有名なガラスのピラミッドなの?」

 「そうよ、ここから入るのよ。さあ、行きましょう」

 「なんだかママ、凄くうれしそう」

 「そりゃそうよ、何度来ても飽きないわ、ここルーブルは」

 「悪いが俺はここのカフェにいるから、君たちで見ておいで」

 「大丈夫? あなた」

 「ああ、足が疲れただけだから大丈夫だ。それにここの解説は、晴美の方が俺よりも詳しいからな? 

 俺はここでビールでも飲んで待っているよ」

 「そう、じゃあ行ってくるわね」


 私は彼女たちの後ろ姿を見送った。

 アリスだけが心配そうに私を振り返っていた。

 私はアリスに軽く手を挙げて見送った。



 

 「すごいよ、すごすぎるよアリス!

 何、この教科書に載っていた絵画のてんこ盛りは!」

 「また私とおんなじこと言ってる。

 私もそう思ったんだ、すごいよね? これが本物の迫力なんだよね?」

 「ピカソにマチス、ドラクロワ。

 一体これ全部でいくらするのかなあ?」

 「計算できないよ、多すぎて」

 「これがタクシーの中で話していた「ナーニの肖像画」よ」

 「ホントだ、ママの言っていた通りだね? この人、どこを見ているんだろう?」

 「モナリザかナーニかなんですって、最高の肖像画は。

 あの人の受け売りだけどね。

 アリス、モナリザはこっちだったかしら?」

 「はい、もう少し先です」




 アリスたちはようやくモナリザの前に辿りついた。



 「うわー、本物なの、これがあのモナリザ?」

 「優香のパパさんの話だと、偽物かもしれないんですって、世界中で展示会があるから、レプリカが飾ってあることもあるそうよ」

 「ねえアリス、その長い「優香のパパさん」って言うの辞めない?

 いいよパパで、アリスのパパでもあるんだから、あの人」

 「ありがとう、じゃあそうするね?

 パパがそう言っていたよ」


 アリスは照れながら言った。

 でもアリスはそんな優香の心遣いがうれしかった。




 そしてサモトラケのニケの女神像の前に彼女たちがやって来た。



 「これがアリスの言っていたニケなのね? すごく綺麗。

 今にも羽ばたきそうな翼の躍動感があるわ。

 腕も頭もないのに、それがまたこの女神の神秘さの魅力になっているわ」

 「パパが教えてくれたんだけど、あのタイタニックの舳先で腕を広げるあのシーンは、これを真似たものなんですって」

 「へえー、そうなんだあ」


 アリスは胸の前で手を組み、ニケに祈りを捧げた。



 (女神様、私の願いを叶えていただき、ありがとうございました。

 本当に、本当にありがとうございました。

 五郎ちゃん、いえ、パパも優香も晴美さんも、そして私もすごくしあわせです。

 そして私にこんなに素敵なママとお姉ちゃんが出来ました。

 女神様、今私は最高に幸せです!)


 

 「アリス、何をお願いしていたの?」

 「ううん、お願いじゃなくてお礼」

 「お礼?」

 「そうだよ、お礼を言ったの、女神様に。

 パパが優香と晴美さんに会えたこと、そして私に新しい家族が出来たことに」


 すると晴美が言った。


 「だったらアリス、私のことは晴美さんじゃなく、「ママ」と呼んで頂戴」

 「ありがとう、はる・・・、じゃなかった、ママ・・・」



 アリスは泣いた。

 アリスは本当にしあわせだった。


 その時、女神の翼が微かに動いたのをアリスは確かに見た。



第22話 最期の晩餐

 「お待たせ、やっぱり凄いわね、ルーブルは。

 とてもじゃないけど回り切れないわ」

 「こっちにいる間、何度でも来るといい。まあ1週間やそこいらでは足りないけどな? 

 じゃあ、食事にするか?」




 私たちはアランの店で食事をすることにした。


 「ボンジュール、ムッシュー。マドモアゼル。

 ムッシュー、一ノ瀬。今日はお花に囲まれてのお食事ですか?」

 「ああ、今日は家族で来させてもらったよ」

 「そうでしたか? ご家族様でしたか? それはすばらしいことです!

 お食事は何を食べるかではなく、誰と食べるかは重要なことですから。

 こんなこと、アランには言えませんけどね」


 支配人のジョルジュはそう言って笑った。

 

 「ではみなさん、こちらへどうぞ」


 

 私たちは窓際の奥の6人掛けのテーブル席に案内された。



 「このお店で私を助けてくれたのがパパなの。

 私が頼んだステーキに変なピンク色のソースが掛かっていてね、交換してって言っても言葉も通じないし、困ってあたりを見回したらパパがいて、それでパパに通訳をしてもらったの。

 それがこのお店なのよ」


 アリスが優香と晴美の前で、いつの間にか私を「パパ」と呼んでいることに私は驚いた。



 「へえー、そうだったんだあ。

 でもアリス、よく言葉も分からないのにこんなお店にひとりで入れたよね? 私なら絶対に無理。

 そもそもひとりでパリに来ようなんて考えないもん。

 アリスの度胸と行動力は凄いよ。

 思い立ったら即行動だもんね?」


 

 ギャルソンのミッシェルがメニューを持ってやって来た。


 「取り敢えず、シャンパンを頼む。それから前菜にはエスカルゴを。

 ミッシェル、今日のお勧めは何だい?」

 「魚はスズキのムニエル、肉はアランのお得意の、牛の頬肉のワイン煮込みかな? あとは鳩のローストです」

 「日本からの長旅で疲れているからな、本来なら今のこの時期には牡蠣は外せないところだが、止めておこう。

 晴美は魚の方がいいか? 優香とアリスは頬肉にするか?」

 「私はスズキで」

 「私はお肉がいいな、優香は?」

 「私もアリスと同じ物で」

 「わかった、じゃあメインはスズキが2つと頬肉が2つ、あとは任せるよ」

 「かしこまりました」



 私たちはシャンパンで乾杯をした。


 「今日のところは早めにホテルにチェックインをして、ゆっくりと休むといい。

 食事をして帰れば、ちょうど時差ボケにもいいだろうから」

 「牡蠣は「R」の付く月がいいのよね?」

 「Rの付く月?」

 「そうよ、つまりSeptemberからDecember、みんなスペルの最期に「r」が付くでしょう?

 だから9月から12月が牡蠣の旬なんですって。

 私とこの人がパリで食事をした時に生の牡蠣を食べてね、そしてこの人が牡蠣にあたって大変だったのよ、私は平気だったんだけど」

 「あの時は死ぬかと思ったよ。パリでトイレを探しまくったもんな?

 パリのトイレはほとんどトイレ・キーパーがいるからチップを渡すにも小銭がなくなってしまってな?

 仕方がないからフランで払ったよ。

 そしてなんとかホテルに辿り着いたんだが、晴美はコートを脱ごうとしない。「どうした?」って聞くと、また出掛けるといって俺の倒れているベッドに腰掛けてるんだから本当に参ったよ」

 「だってそうでしょう? 土日はお店がお休みでお買物が出来ないなんて知らなかったんですもの。

 月曜日には日本に帰る予定だったし・・・。

 それにいつ来れるかもわからなかったしね?」

 「こっちの人間は日本人のように衝動買いをあまりしないからな?

 店のショーウインドウに飾られている商品を、予め品定めをしておいて、この時期に購入するんだ。

 「ソルド」といって商品の殆どが半額になるから」



 食事が進み、デザートのチョコレートケーキを食べていると、オーナーシェフのアランがやって来た。



 「どうだった? 俺の料理は楽しんでもらえたか?」

 「とてもすばらしいお料理でしたわ。凄く美味しかったです」


 晴美が流暢なフランス語で答えた。


 「ママ、フランス語、しゃべれるの!」


 優香とアリスは驚いていた。



 「大学ではフランス文学専攻だったからね? でも忘れたわ、もう40年も前の事だもの」

 「凄いですね? ママは」


 私はその時、アリスが晴美をママと呼んでいることに気付いた。

 どうやらそれは、ルーブルで決めた呼び名のようで、私たちはずっと前からの「家族」のようだった。

 だがやはり、優香は私と視線を合わせることもなく、そして私とは一言も話そうとはしなかった。



 「マダムとマドモアゼルは日本から?」

 「ええ、今日来たばかりなの。またここにシェフのお料理を食べに来ますからよろしくね?」

 「ああ、待っているよ、なんならここに住むといい、宿泊代込みで」


 フランス語がわかる私と晴美だけが笑った。



 「ママ、このおじさん、なんて言ったの?」

 「そんなに気に入ったんなら、このお店に泊りなさいだって」

 「それいいかも。お料理も美味しいし、スタッフさんたちもイケメン揃いだしね」


 優香とアリスも笑った。



 これがたとえ私の最期の晩餐になろうとも、後悔はない。

 

 私はこのミューズたちに囲まれ、もう何も思い残すことはなかったからだ。


第23話 ミラボー橋の追憶

 「じゃあ、優香、明日10時に迎えに来るからね?」 


 晴美と優香をホテルに送ると、私とアリスは家路に就いた。



 「アリス、今日はありがとう、すべて君のおかげだ」

 「私じゃないよ、ママと優香がパパの事を忘れていなかった、憎んではいなかったということだよ。

 良かったね? パパ」

 「いつの間に晴美がママで、俺がパパになったんだ?」

 「だって優香は五郎ちゃんのことを「パパ」って呼べって言うし、晴美さんも自分のことは「ママ」って呼んでいいわよって言うんだもん。

 うれしかったんだよ。私も五郎ちゃんの家族にしてもらっちゃったみたいで」

 「そうだったのか」


 私もうれしかった。

 それもみんなアリスのやさしさがそうさせるのだろう。彼女は人をしあわせにする「魔法使い」のような子だった。



 「ねえ、パパ。折角だからさあ、明日は晴美さんとゆっくりデートして来たら?

 私と優香はその間、ソフィアさんにパリを案内してもらうから。

 実はね、ソフィアさんにはもう話してあるの」

 「そうか、気を遣わせて悪かったな? アリス」




 その頃、ホテルでは晴美と優香がベッドに入り、色々と話しをしていた。


 「あの人、あのレストランで殆ど食事をしていなかった。お酒を飲んでばかりだった」

 「あんなにやつれて老け込んじゃって。

 でも昔みたいな優しい瞳をしていたね?

 ママ、パリに来て良かったね?」

 「そうね? みんなアリスのおかげね?」

 「アリスって、本当に不思議の国から来たんじゃないのかな?

 普通、あそこまでしないよね?

 あんなに心の優しい子、私の友だちにもいないもん」

 「私たちをあの人に会わせるために、お金と時間をかけて日本まで迎えに来てくれたなんて」

 「アリス、パパとママが死んじゃって、パリで死のうと思ったんだって。

 そんなアリスを救ってくれたのが、あの人だったって言ってた」

 「そうだったの・・・。

 ねえ、優香。あの人と話しをしてあげたら? 娘として」

 「考えておくよ。ママ、おやすみなさい」

 「おやすみ、優香」


 ふたりは目を閉じたが、晴美も優香も中々寝付くことが出来なかった。

 それは時差の影響だけではなく、あまりにも五郎が痛々しく、それが気になっていたからだった。





 翌朝、私とアリス、そしてソフィアの3人は、晴美たちの宿泊しているホテルを訪れた。


 「おはよう優香、ママ、昨日はよく眠れた?」

 「うん、良く寝たよ。アリスは?」

 「私もぐっすりだった。お腹いっぱい食べたしね?

 紹介するね、こちらソフィアさん、私のフランス語の家庭教師の先生なの」

 「はじめまして、ソフィアです」

 「今日は私と優香はソフィアさんにパリを案内してもらうことにしたの。

 パパとママは色々なことを話すいい機会だと思ってね?

 じゃあ優香、私たちも出掛けようか? ソフィアさんに素敵なパリをたくさん案内してもらおうよ」

 「うん、じゃあママ、そういうことだから私たち、先に行くね?」

 「そう、気を付けてね?

 ソフィアさん、娘たちのこと、よろしくお願いします」

 「任せて下さい。ではマダム、マエストロとごゆっくり」


 そうして娘たちが出ていった。



 私と晴美はホテルのラウンジにあるソファに並んで腰を降ろした。


 「あなた、体の方は大丈夫なの?」

 「ああ、大丈夫だ」

 「変わってないわね? その口癖。

 大丈夫じゃないのにいつも「大丈夫だ」って言ってばかり・・・。

 もういいのよ、辛い時は辛いと言っても。これでも元夫婦なんですから、私たち」

 「ありがとう、晴美。

 折角の娘たちの計らいだから、俺たちもあの頃のパリを歩いてみるか?」

 「そうね? 30年前のパリを辿ってみましょうか?」




 私と晴美は様々な場所を訪れた。

 凱旋門、エッフェル塔、オルセー美術館、アンバリッド(廃兵院)にベルサイユ宮殿とを回り、すっかり若い頃の自分たちに戻ったようだった。



 「たくさん回ったわね? ねえあなた「ミラボー橋」に行ってみましょうよ」

 「ああ、あそこが抜けていたか?」


 私たちはタクシーでミラボー橋へと向かった。




 「変わっていないわね? ここも。

 30年前と同じ。日本では考えられないわね?」

 「そうだな?」

 「私たち、色々あったけど、またあなたに会えて、私は良かったと思っているわ。これもみんなアリスのおかげね?

 アリスの誘いがなかったら、あなたにはもう会うことはなかったわ。

 まさかまたパリに来れるなんて、夢にも思わなかった。

 パリに来て、あなたと再会するなんてすごく不思議。

 あなたとの思い出は、今はいいことばかり、楽しかったことしか浮かんで来ない。

 ありがとう、あなた」


 晴美はそう言うと私の手を取り、橋の下を流れるセーヌを眺め、涙を流した。


 「今までたくさん苦労をかけてすまなかった。

 俺もまさか君たちとパリで会えるなんて思わなかったよ。

 もう何も悔いはない。

 晴美。今まで俺を支えてくれて本当にありがとう」


 私は杖を捨て、晴美を強く抱き締めた。

 晴美もそれに抗うことなく、強く私を抱きしめてくれた。


 そして私はアポリネールの詩が頭に浮かんだ。


       

     「ミラボー橋」   アポリネール:作

                 堀口大學:訳


    ミラボー橋の下をセーヌは流れる

    我らの愛も

    忘れないでおこう

    苦悩の後には喜びがあることを


    日は暮れよ 鐘よ鳴れ

    時は流れ ぼくはとどまる


    手をつなぎ 顔を見詰め合おう

    つないだ手の

    下にはゆったりと

    永遠のまなざしが流れていくだろう


    日は暮れよ 鐘よ鳴れ

    時は流れ ぼくはとどまる


    愛は過ぎ去る 水の流れのように

    愛は過ぎ去る

    時は遅々として

    希望ばかりが激しくせまる


    日は暮れよ 鐘よ鳴れ

    時は流れ ぼくはとどまる


    日々が流れ 月日はたつ

    過ぎた時も

    消えた愛も戻らない

    ミラボー橋の下をセーヌは流れる 



 そして私たちの人生の時も、今ここに確実に刻まれたのだ。


 日は暮れよ、鐘よ鳴れ。


 私たちのいる、ミラボー橋の下をセーヌは流れていた。



第24話 父と娘

 ソフィアとアリス、そして優香の3人はプチ・トリアノン宮殿にいた。



 「さっきの絢爛豪華なベルサイユ宮殿とは違って、小さな建物でしょう?

 これがマリー・アントワネットが愛した場所よ。

 農園もあって『王妃の村里』とも呼ばれていたの。

 このプチ・トリアノンには王妃の許可なく立ち入ることは出来なかったそうよ、たとえそれが夫のルイ16世でもね」

 「ベルサイユに比べたら小さいけど、なんか素敵な宮殿ね? 私はこっちの方が好きかな?」

 「ここにはマリー・アントワネットや、その関係者たちの幽霊が出るそうよ」

 「怖いから早く別なところに行こうよ。

 私、そういうのダメなんだ」

 

 優香が言った。


 「本にもなっているのよ、『トリアノンの幽霊』というタイトルで。

 イギリスの名門校の2人の女性教師、エリザベス・モリソンとフランシス・ラモントが観光でベルサイユを訪れた時のお話しをまとめた物なの。

 マリー・アントワネットはこのトリアノンをとても気に入っていた。

 バターとかも自分で作って、本当に気の合う数人しかここへは招待しなかったんですって。

 私はマリー・アントワネットは嫌いじゃないわ。いいえ、寧ろ好き。

 本当の彼女はそんな質素な暮らしに憧れていたんだと思う。

 悲劇の王妃と善良な国王、ルイ16世。

 ルイ16世はフランス革命にも理解があり、だからこそ弾圧も報復もしなかった。

 皮肉なことに、あのギロチンの死刑執行人のシャルル・アンリ・サンソンは、ルイ16世を敬愛していたのよ。

 だからとてもイヤな仕事だったはず。

 当時、死刑囚に行われていた残虐な処刑を、少しでも和らげることが出来るようにと、ギロチンに改良を加えていたのもルイ16世自身だった。

 アントワネットは断頭台に上がるまで毅然としていたらしいわ。

 刑が執行される時、サンソンの靴を踏んで「お許しください、わざとではありませんから」と言った逸話は有名ね?」


 そこの庭園に腰を降ろし、静かにスケッチをする、マリー・アントワネットがいるようだった。


 「そろそろ帰りましょうか? マエストロご夫婦も戻っている頃でしょうから」



 


 ホテルのエントランスホールで、談笑する五郎と晴美がいた。


 「あらあなたたち、お帰りなさい。

 どうだった? パリ観光は?」

 「ソフィアさんにたくさん案内してもらっちゃった。しかも詳しい解説付きで」

 「そう、ありがとうソフィアさん。

 一緒にお食事でもいかが?」

 「ありがとうございます。明日、大学での講義がありますので、今日はこれで失礼します。

 ご家族水入らずでお楽しみ下さい」

 「ソフィアさん、今日はどうもありがとう」

 「とっても楽しかったわ。ありがとう、ソフィアさん」

 「ソフィア、忙しいところ、すまなかったね? 私からも礼を言うよ」

 「どういたしまして。マエストロのお役に立てて光栄です。

 ではまた、今度はご馳走になりますからね?」


 ソフィアは気を利かせて去って行った。

 私たちはそのままホテルのレストランで夕食を囲んだ。


 「ママたちはどこへ行ったの?」

 

 優香が尋ねた。


 「30年前に訪れた場所を見て来たわ。ミラボー橋とか。 

 昔と全然変わっていなかったわ」

 「凄いねパリって? ミラボー橋ってどんなところ?」

 「アポリネールが恋人、マリー・ローランサンを想って書いた詩の舞台になった橋よ」

 「今度みんなで行こうよ、優香」


 アリスが言った。


 「うん、そうだね?」


 私は彼女たちのそんな姿を見ながら、テリーヌを少しだけ口に入れ、それをワインで流し込んだ。


 「あなた、何か食べないと。

 食欲がないの?」

 「大丈夫だ、いつも飲んでる時はあまり食べないから・・・」


 私はまた「大丈夫」と言ってしまった。

 アリスは黙っていた。それが私との約束だったからだ。

 だが、その時、優香が少し強い口調で言った。


 「何か食べなきゃダメだよ!」


 私は驚いて優香の顔を見た。

 優香が自分の体のことを本気で心配してくれたからだ。

 晴美もアリスも驚いて優香を見ていた。



 「何か少しでも食べないと、体力が持たないよ」

 「ああ、そうだな」


 私はすっかり冷めてしまった、ヒラメのポワレにナイフとフォークを入れた。

 優香は私が食事をすることで、安心したようだった。


 「もっと長生きしてもらわないと困るんだよ。私、もっと贅沢したいから」

 「そうだな? もっともっとがんばらないとな?」

 「そうだよ、もっともっと・・・、私たちを幸せにしてよ、死んじゃやだよ・・・」


 優香の流した涙が優香の皿の上に落ちた。


 「あーあ、お料理がしょっぱくなっちゃったじゃない」


 晴美もアリスも泣いていた。

 そしてもちろん私も。


 私の罪は#贖__あがな__#われたのだろうか?


 私は酒を控え、ゆっくりと食事を続けた。



最終話 鐘は鳴る

 私と優香はサン・ジェルマン・デ・プレを一緒に並んで歩いていた。

 昨夜の夕食時、アリスと晴美が言ってくれたからだ。


 「ねえ、優香、明日、パパとふたりでデートして来なよ」


 アリスがそう言うと、それを晴美が援護してくれた。


 「それもいいんじゃない?

 今までの分、たくさん色んな物を買って貰いなさいよ、私とアリスは美味しい物でも食べに行くから」


 優香は黙っていた。それは「Yes」という意味だった。




 「何か欲しい物はないか?」

 「別に・・・」

 「そうか? じゃあ俺からプレゼントさせてくれ」


  私は優香をオメガの時計店に連れて行った。



 「時計を買ってあげるから、好きな物を選びなさい」

 「いいよ、こんな高級時計なんて、勿体ないよ」

 「優香、この世でいちばん大切なものは時間だ。

 いくら俺でも金やダイヤの装飾的な物は買ってやれないが、このオメガだけは別格だと俺は思っている。

 俺が今しているこのオメガもそうだが、針の動きが独特で、まるで時を刻むにふさわしい動きをするんだ。

 少し見ていてご覧、分針が動くところを」


 分針が動いた。

 優香はそれに見惚れた。

 五郎の言った通り、他の時計にはない上品な優雅さと、時に対する冷徹なまでの確実性が存在していたからだ。



 「なっ? 上品な動きだろう?

 いつかこれを優香に買ってあげようと思っていたんだ。どれがいい?」

 「そんな選べないよ、迷うじゃない、こんなに素敵な時計がたくさんあると」

 「じゃあ俺が選んでもいいか?」

 「うん」

 「本当は皮バンドの方がいいんだが、メンテナンスが大変だからな。そうだなあ、こんなのはどうだろう? ちょっと控えめだけど、絶対的な存在感のある、これなんかどうだ?」

 「えっ、4,800ユーロって言うと60万円だよ!

 いいよいいよ、そんなに高い時計なんて、無理!」

 「嫌いか? このデザイン?」

 「だって金額が・・・。

 もっと安いのでいいよ」

 「すみません、これを見せて下さい」

 「ウイ、ムッシュー」


 ブロンドの女性店員は白手袋をして、時計をショーケースの中から取り出してくれた。


 「つけてみてもいいですか?」

 「もちろんです」


 女性店員は優香の左手にそれをはめて見せた。


 「すばらしですわ、とてもお似合いです」


 優香の顔がパッと輝いた。


 「ではこれでお願いします。

 このままつけて帰りますので、ケースだけ包装して下さい」

 「では、少し調整いたしますので、こちらにお掛けになってお待ち下さい」


 私はカードで支払いを済ませた。



 「いいの? あんな高級時計」

 「せめてもの償いだ。全然足りないけどな?」




 それから私たちは『カフェ・ド・フロール』で少し遅い昼食を摂った。

 優香は先ほど買ったばかりの時計が余程気に入ったのか、その時計をずっと見詰めていた。

 

 「ここはかつてヘミングウェイやピカソ、コクトーなどが常連だった店なんだ、いい店だろう?」

 「すごいね? ホント、パリのカフェって感じがする」

 「付き合っているボーイフレンドはいるのか?」

 「うん、いるよ」

 「そうか、良かったな?」

 「何も聞かないの? どんな奴なんだとか?」

 「聞く必要がないからな」

 「どうして?」

 「だって優香は俺というダメな男を見て育ったからな? だから男選びは間違いないはずだ。

 おそらく俺とは正反対の男だろう」


 そう言って私はジンライムを飲んだ。

 気のせいか、いつもより少しほろ苦い味がした。


 「でもね、ママに言わせるとどことなくパパに似ているんだって。若い頃のパパに」


 初めて優香が俺を「パパ」と呼んでくれた。それがうれしかった。


 「じゃあそいつは辞めた方がいいな? 優香が苦労するのは目に見えている」

 「いいの私、苦労しても。

 だっていつもパパが言っていたじゃない?「生きることは修業だ」って。

 だから平気。恋愛ってお互いに足りないところを補っていくものでしょう?

 力仕事が出来ない女の代わりに男がそれをしてくれて、お料理やお洗濯が苦手な男の代わりに女がそれをしてあげる。そうだよね? パパ?」


 私はいつの間にか精神的にも成長した優香を見て、目頭が熱くなった。

 私は何も言わず、視線をサン・ジェルマンの大通りに向けた。

 グラニュー糖のような、サラサラの雪が降っていた。


 「そろそろ帰るか?」

 「うん」



 外に出ると寒さが身に沁みた。

 すると優香は少し照れ臭そうに、私と手を繋いでくれた。幼かったあの日のように。


 「パパの手、温かいね?」

 「酒を飲んだからな?」



 私はタクシーを拾うのを止め、メトロで帰ることにした。

 このまま、娘の柔らかい手の温もりを記憶に留めるために。





 冬のパリの高緯度のため、日中は極端に短い。

 次の日の日暮れ前、私たちはミラボー橋へ出掛けた。

 私は大事をとって車椅子に乗り、優香にそれを押してもらった。



 「これがパパとママの思い出の場所?」


 優香が言った。


 「流石はパパ、小説家だね? こんな素敵なところへママを連れて来るなんて」


 アリスが言った。



 セーヌ川は蕩々と流れ、さっきまで降っていた、スノードームような雪が止んだ。

 雲間からは天使の梯子のような光が降りて来ていた。


 晴美が言った。


 「あなたと結婚して本当に良かったわ。

 たとえ今は別れて暮らしても。

 アリス、あなたのお陰よ、ありがとう。

 次の人生もまた、あなたでいいわ、たとえまた苦労してもね?

 あなたは何度でも立ち上がる人だから。

 それに気づかずにごめんなさい」

 「俺でいいのか?

 俺はもうイヤだけどな」

 「あら失礼ね? 折角私はあなた#でも__・__#いいって言っているのに」

 「もう、お前たちに苦労はさせたくはないからな? 俺が辛い・・・」



 人生とはオセロゲームのようなものだと思う。

 アリスというたった一枚の白いオセロが、真っ黒だった私の人生を真っ白に変えてくれた。



 「アリス、ありがとう・・・」

 「どうしたの? 良く聞こえないよ、なあに? パパ?」 



 私はだんだん眠くなって来た。

 遠のいていく意識の中で、私はアポリネールの詩を口ずさんでいた。


    

     ミラボー橋の下をセーヌは流れる

     我らの愛も

     忘れないでおこう

     苦痛の後には喜びがあることを・・・



 教会の鐘の音が聞こえる。

 私の人生のロードショーは、最高のラストで終わるらしい。


 愛すべき妻と、娘たちに見送られて。


                  『巴里の細雪ささめゆき』完



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【完結】巴里の細雪(作品230608) 菊池昭仁 @landfall0810

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