にっかり青江

彩戸ゆめ

第1話

 堺からやってきたという男は、細い目をさらに細めて、うさん臭い笑顔を浮かべていた。

 勝家は上座から、自分に献上するために台に置かれた刀を見る。

 それは栄華を極めた平氏の時代が終わり、源氏が台頭してくる頃に作られた二尺五寸程の大脇差で、備中の国青江の刀匠、貞次という者が鍛えた、身幅広く大切先の豪壮な姿の刀である。

「して。これを儂に献上すると申すか」

 立派な髭をもてあそびながら勝家が尋ねると、男は「その通りでございます」と平伏した。

「上様が、しゅにくれてやれば刀も喜ぶであろうと申されておりまして。それでこうして柴田様の元へ参りました次第にございます、はい」

 慇懃に平伏してはいるものの、どうにも腹の内をこちらに見せぬ態度に、勝家は思案した。

 勝家の主君である織田信長に重用されている今井宗久という男には、どこか得体のしれないところがあった。

 もう五十を過ぎたとはいえ、勝家の襟元や袖の奥から窺える体は、若い頃と変わらずに鍛えられている。眼光も鋭く年を経た重みすら感じられ、世間に広く流布する武勲も相まって、大抵の者は勝家の前に出ると委縮する。

 だが宗久には一向に気圧されている気配はない。まるで柳のように勝家の放つ覇気が流されているようにも感じる。

 この物おじせぬ所が、上様のお気に召したのであろうか。

 いや、日頃上様のお側に控えているからこそ、そういった圧にも慣れているのであろう。

 そう考えながら、勝家は平伏したままの男を見下ろす。

「刀も喜ぶとはどういうことだ」

「この刀、ただの刀ではござりませぬ。妖刀と言われる類のものでございまする」

 顔を伏せたままの宗久の表情は見えぬ。

 けれどもうっすらと笑っているのだろうという妙な確信があった。

 気に入らぬ――。

 勝家はそう思ったが、信長の口添えであれば受け取らざるを得まい。

 自分がこうと決めた事を覆されると、烈火のように怒りだすのだ。常には寛容で心の広いお方であるが、一度怒りだしたら手の付けられない所がある。

「御託はよいから、さっさとその刀の由来を話せ」

「はい。これなる刀は大江山の酒呑童子を退治したわたなべのつなの末流にあたる、佐々木六角の十番備そなえかしらを務めましたこまたんごのかみと申す者が所有しておりまして」

「狛丹後守……。もしやそれは、こうしゅうがもごおりちょうこう城の」

「さようでございます。柴田様が観音寺攻めの際に上様から守りを任された、長光寺城の城主だった方にございます」

「長光寺城か」

 勇猛果敢の誉れ高い柴田勝家といえども、あわやこれまでかと思った戦が何度かある。

 そのうちの一つが長光寺城における籠城戦だ。

 朝倉攻めの折りに同盟を結んでいたはずの浅井に背後をつかれ、間一髪のところで難を逃れた。

 更には摂津守護の池田城主、池田勝正の一門である池田知正と家老の荒木村重の謀反が重なり、畿内での信長の影響力が衰えた。

 これを好機とみた、それまで伊賀に潜んでいた六角承じょうていが一向一揆を扇動し、浅井とも同盟を結んだ上で、伊賀甲賀の武士を含めた五千もの軍勢を率いて、勝家の立て籠もる長光寺城を包囲して城の奪還を計ったのだ。

 それに対抗した勝家は、八百余名の兵と共に城を堅く閉じ、ひたすら籠城策をとった。

 中々城を攻め落とせなかった六角承禎は、郷民から長光寺城内は水が出ず、後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、城の水源を断つ事にした。

 それからしばらくして配下の平井勘助を使者に出し城内の様子を探らせたのだが、予想に反し水に困っている様子はなく、中庭で兵たちが沐浴をし、馬の体も水で洗っているという報告を受けた。

 しかしこれは勝家の策で、実際には飲み水にも事欠く有様であったのだ。

 勝家は使者が帰った後、水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに背水の陣の覚悟を持って戦うべしと言って三つの瓶を割り捨てた。

 もはや城内には水の一滴もなく、生きのびるためには討って出るしかない。

 そうして士気を高めた勝家は、あれほどの水が残っているのであればまだしばらく籠城するだろうと油断していた六角勢を急襲して大敗させた。

 勝家が『かめわりり柴田』と、また長光寺城が『かめしろ』と呼ばれるようになった所以である。

「この長光寺城で子供を連れた幽霊が現れると噂になりまして。豪胆で知られる狛丹後守は儂が退治してくれようと、この青江貞次を腰にいて幽霊退治に向かったのでございます」

 宗久が顔を上げて話し始めると、気のせいか台の上に乗せられた刀が鈍く光ったように見えた。

 その様子に気づいているのかいないのか。宗久は何事も変わったことはないという顔で話を続ける。

「漆のようにのっぺりとした闇の中、不意に空気が重くなったと思いましたら、透き通るように青白い母子の幽霊が現れたそうでございます」

 低く語る声を聞いていると、刀の方から冷んやりとした空気が流れてくるような気がする。

 勝家は、そろそろ秋の訪れであろうかと、宗久の話から意識を逸らすように考えた。

「母の幽霊は狛丹後守ににっこりと笑いかけると、背中におぶった赤子を振り返って、ほら、殿さまに抱かれなさいと指差しましてな。するとまだ歩けぬはずの赤子が、母の背から下りて、よちよちと歩み寄ったのでございます」

 カタリ、と刀から音が聞こえた。

「狛丹後守は近寄る赤子をえいやと抜き打ちにし、続いて迫って来る母幽霊をも斬り捨てて、やれこれで一件落着だと安堵しまして翌朝明るくなってからもう一度行ってみますと、そこには首の切られた石仏が二体あったそうでございます」

「では幽霊ではなく仏を切ったのか」

 再びカタリと刀が鳴った。

「さてそれは分かり兼ねますが、それ以来幽霊の怪は収まったと伝えられておりまする」

 カタカタと、もうこれ以上は無視できぬほどに刀が音を立てている。

 しかし豪胆で鳴らす勝家は、少しも動じずに揺れる刀を指差した。

「ではそれはなんじゃ」

「おやこれは。柴田様、刀に魅入られましたなぁ。今までうんともすんとも鳴かなかったというのにこの喜びよう。やはり上様のお見立てに狂いはなかったということでございましょう」

「……上様がそうおっしゃっておられたのか」

「この刀は案外素直な筋だから、柴田様のように生真面目な唐変木には持ってこいだと……あ、いや、私が申し上げたのではなく、上様のお言葉にございますよ」

 無礼な言葉に勝家の手が腰の刀に伸びると、宗久は細い目を見開いて慌てて弁明した。

 しかしこの男の言うように本当にそれが信長の言葉だとしたら、ここで無下に斬り捨ててしまっては勝家が信長に叱責されてしまう。

 信長には何がその勘気の火種になるか分からないところがあるから、慎重に対応しなければいつ不興を被って遠ざけられるか分かったものではない。

 勝家は下ろした腕を胸の前で組んだ。

「いずれにせよ、ひとたび刀に魅入られた以上、どうあってもこの刀は柴田様のお手に巡って参りましょう」

 したり顔で頷く宗久に腹が立つ。

 勝家は半眼になって宗久をめ付けたが、堪える様子はない。

「刀が憑くとでもいうのか」

「上様も同じでございますよ。あちらは国護りの刀でございますが。――おっと、口が過ぎたようで」

 わざとらしく袖で口元を覆う宗久を見て、勝家は大きく聞こえるようにしてため息をつく。

「相分かった。ではこの刀を受け取ろう。上様にもくれぐれもよろしく頼むぞ」

「はっ。しかと申しつかまつりました」

 宗久が退出しても、勝家はその場を動こうとはしなかった。

 あれは本物の今井宗久であろうかとふと考える。もしや狐に化かされたのではないか。

 そうであれば、この刀も本物の妖刀ではなくまがい物という事になるが、はて。

 勝家がじっと見つめる先にある刀は先ほどのように揺れてはおらず、今では何の変哲もないただの刀のように見える。

 いや、ただの刀と言っては語弊があろう。

 よく見れば澄んだ肌目は映えり立ち、白いもやのような匂いが多い匂出来と呼ばれるもんで、ゆるやかな曲線のところどころに山型の曲線があるところなど、誠に美しい。

 なるほど、さすがに青江の刀だけのことはある。

 これで幽霊が現れるのでなければ世に名だたる名刀となったものを、と思いながら、勝家はじっとその刀を見続けた。

 さて上様の命じたのは、この刀に巣食う幽霊退治であろうか。であるならば、腰の刀で斬れるのだろうか。

 幽霊が刀に憑いているとなると、刀を折るのが一番だろう。そうしないのは刀の美しさを惜しまれたか。

 それとも――。

 勝家は千々ちぢに思いを巡らせながらも、人払いをして怪異が現れるのを待った。

 しかし、いつになってもその時は訪れない。

「むむ……。もしや宵闇でないと現れぬか」

 もう日が沈んだというのに何事も起こらぬとは。

 仕方があるまい、仕切り直すかと腰を上げた勝家だが、その耳がかぼそい声を拾う。

「もし……」

 障子の向こうに姿が映る。

 ひょいと現れたのは、青白くやつれてはいたが、整った顔立ちの女だ。

 勝家はいつでも刀を抜けるようにして立ち上がった。

 目が合った女は、にっこりと微笑みを浮かべる。そして背に負ぶった赤子を振り返る。

「さあ、殿様に抱かれておいで」

 まだ首が座り切っていないのか、グラグラと揺れる頭の赤子がよたよたと近づいてくる。右に左にと大きく揺れながら歩く様子は、恐ろしいというよりおぞましく、何よりも哀れを誘った。

「まだものの道理も分からぬ年頃だというのに、この世に未練を残すほどの恨みを覚えたのか」

 勝家は刀から手をはずすと、しゃがんで両手を広げた。

 青白い赤子がその太い腕に収まる。

 軽くゆすってやると、さっきよりも首のしっかりした赤子がきゃっきゃと笑い声を上げた。

「あれ、まあ。ほんに抱いてくださるとは」

 着物のたもとで口を覆った女は面白そうに笑う。

 幽霊のくせによく笑う女だ。

 勝家はしばらく赤子と遊んでやった後、女の腕に返した。

 赤子は満足そうに目を閉じる。

 女は色を失ったままのふっくらとした頬を、そっと指でなぞった。

「殿様は変わったお人ですねぇ。憑り殺されるとは思わなかったんですかい」

 女が目を伏せたまま聞く。

 その目元が勝家の憧れてやまないかの方に少し似ているような気がしたが、主家の姫と市井の女では天と地ほどの差があると思い直す。

「赤子があんねいを得るくらいであれば、いかほどでもなかろうよ」

「……変わった殿様ですねぇ。じゃあ、あたしの事も抱いてくださいよ」

 そう言って女は勝家に近づこうとしたが、勝家は意外なほどの身軽さで後ろに下がった。

「あれ。まあ」

 透き通るように青白い女の幽霊は、赤子を抱いたままもう一歩踏み出す。

「待て。お前にくれてやるほど安い命ではない。そこな赤子のように純粋無垢という訳ではあるまい。寄らば斬るぞ」

 再び刀に手をかける勝家に、女は微笑みを浮かべる。

「ほんの少し、気を分けてくれればいいんですけどねぇ。まあでも、坊やだけでもほんの束の間安らげれば有難や」

 母の顔をした女は、抱いた赤子に頬を寄せた。

 どうやら、生きている者と見れば誰彼となく取り憑いて殺してしまう悪霊の類ではないらしい。

 ふと興味を覚えた勝家は、なぜ幽霊になったのか女に聞いてみることにした。

「うちの旦那は、腕の良い刀鍛冶でしてね。いく振りも、そりゃぁもう見事な刀を打ったもんですよ。……けど、それだけじゃ満足できなかったんですねぇ。魂の入った刀を打つって夢に取り憑かれちまって。寝食を忘れて、来る日も来る日も刀を打って……」

 懐かしむように目を細める女の目尻に、その年にしては随分大きな皺が浮かぶ。

「貯えも底をついてこれから先どうすればいいのかって時に、今まで見た事もないくらい見事な刀ができたんですよ。あたしにはそれでもう完成に見えたんですけどねぇ。旦那はそうは思わなかったみたいで、その刀で赤子を抱いたあたしをばっさり――」

「夫に殺されたと申すか」

 では腕の中の赤子は父に……。

 なるほど、成仏出来ぬ訳だと納得する。

「この刀にねぇ、魂を入れたかったんじゃないかと思うんですよ。でも斬ってから正気に返っちまったんでしょうねぇ。我に返ってすぐに自分の首を切った大馬鹿者ですよ」

「ではこの刀にはそなたの夫も憑いておるのか」

「いえねぇ、それが。どうも、死んでからこの刀にあたしと子供の魂が入っちまってるのに気がついたらしくてねぇ。刀鍛冶としての念願が叶ったからか、あっさりあの人だけ成仏しちまったんですよ。ひどい話じゃあ、ありませんか」

 なるほど確かに、と勝家は同意した。

 だが職人として極めようとする者は、多かれ少なかれそういうたちを持っている。

 確か『宇治拾遺物語』に似たような話がある。不動尊をとりまく火炎を描く為に、自分の家を燃やした絵仏師良秀の話だ。

 完成したその絵は背後の火炎の燃える様子をよじれたように見事に表した不動明王像で、「良秀の捩り不動」と人々から賞賛されたと結んでいる。

 しかし絵の為に家を燃やすのと、刀の為に妻子を殺すのとでは訳が違う。

「何とむごい。せめて子だけでも成仏させてやりたいが」

 の高僧に経を唱えてもらえば成仏できるだろうか。

 だがまだ分別のかけらもない赤子に、仏の道を説いて道を示せるのだろうか。

「……殿さまは良いお方ですねぇ。死んだ子供の心配なんかしてくれて。……どうなんでしょうねぇ。この子は死んだあたしの子なのか、それともあたしの未練が生んだ幻なのか、今となっては、あたし自身にも分かりゃあしないんです。……でも、独りこの刀の中にいるんじゃ寂しいじゃないですか。だからこの子がいてくれて、良かったと思うんですよ」

 刀の側まで行った女は、その刀身に顔を映そうとする。だが銀色の刀身に女の姿は映らなかった。

 女はついと指を刃に滑らせる。

 しかしその指先から赤い血が流れることはない。

 女は指を見て、寂しそうに笑った。

「そうですねぇ。もし殿様がずっとあたしの話し相手になってくれるなら、この子を手放す気持ちになるかもしれませんねぇ」

 女の幽霊はそう言うと、青白く光る刀身にすうっと吸い込まれていった。

 それをじっと見つめていた勝家は、耐えきれぬように噴き出した。

「鬼柴田とも呼ばれる儂を、話し相手にと所望するか。坊主に読経を上げさせて成仏させてやろうかと思うたが……。気が変わった」

 もしかすると上様はこの刀の幽霊の事を知っていて、儂がどうするかを面白がっておられるのかもしれぬな。

 有り得る、と勝家は一人ごちた。

 天下の権大納言となられたというのに、信長は未だに少年のような悪戯を好む。

 かつて大蛇の噂を聞いて、本当にそのような物がいるのかと池の水をさらって確かめた時と、全く変わっていない。

「相も変わらず、うつけのままじゃ」

 主君をうつけと呼びながらも、その声音には情愛が込められている。

 最初にもりやくとして任されたのは信長の弟である信行だったが、信長もまた、幼き頃より見守った主家の大切な子供だ。一度は信行の反乱に従い信長に反旗を翻したが、許された後は信長の為だけに働こうとの誓いを立て、今に至るまでその誓いを守り続けている。

「さて。これなる刀は、儂に仇なすか吉となるか」

 勝家は若き頃に信長に振り回され続けた日々を懐かしみながら、宗久から贈られた刀を手に取った。

 そして鞘へ収めて腰に差す。

「試してみるのも一興よの」

 ぎょろりとした目が、笑みの形に細まった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 それからというもの、女は月のない夜にばかり現れるようになった。暗闇の中に茫と現われるから最初は驚いたものの、そういうものだと得心すれば身構えることはなくなった。

「ほら。殿さまに抱かれておいで」

 今では薄い靄のようになった赤子の幽霊が、よちよちと勝家の元へ歩いてきた。

 リーンリーンと鳴く鈴虫の音が、足音の代わりに聞こえる。

 段々と姿も薄れ、いよいよか、と思う。

 勝家は腕を広げて赤子を迎える。

 そしてその太い腕に抱き上げられた赤子は……小さな笑い声を上げると、すうっと腕の中で消えた。

「あれ、まあ……」

 寂しそうな嬉しそうな、そしてほんのわずかな羨望を込めて、女が消えていく赤子を見守る。

「迷わずに、金銀七宝の橋を渡ってくれれば良いんですけどねぇ」

「罪のない赤子だ。心配いるまい」

 幽霊とはいえ、憑り殺すわけでもなくただ話をするだけの相手だ。豪胆な気質の勝家は、赤子を成仏させる為にもと、生者にするのと同じように女の話し相手を務めていた。

「あたしは地獄行きでしょうから、もう二度とあの子には会えないんですねぇ」

「誰かに取り憑いて殺しでもしたか?」

「今のあたしの体はこの刀ですからねぇ。取り憑いたわけじゃありませんけど、何人殺したか分かりゃしません。殿様だって何人もお斬りなすったじゃないですか」

 確かに、戦で青江貞次を腰に佩いて戦った。厄介な一向宗をそうとうしたのを好機として、漁夫の利を得ようと越前に攻め込んできた上杉との戦いでは、何度も剣を振るって退けた。

 だから女が地獄へ行くというのなら、それは勝家のせいでもあるのだろう。

「では儂と一緒じゃな」

「……え?」

「刀は道具に過ぎん。それを振るう者にこそ責があろう。だが今は戦乱の世。上様の目指す太平の世を支える為には、この手がどれほど血に塗れようと、退く事はできん。行く道は地獄であろうとも、それが織田の忠臣ぞ」

 力強く胸を叩く勝家を、女は濡れたような黒い瞳で見つめる。

 ざわりと闇が蠢いたような気配がした。

「ねえ、殿様。もしも天下を取れるなら、何を犠牲にしても良いと、お思いですかい?」

「何をいきなり、おかしな事を――」

「答えてくださいよ、殿様」

 薄く開いた戸の向こうから聞こえていた鈴虫の音がピタリと止まった。

 部屋の中が、まるで清らかな水に墨を一滴垂らしたような気配に変わる。

 そうだ……これは、あやかしだ。

 無害な成りをしていても、闇の領域に棲む者なのだ。

 勝家の手が自然と腰の刀に伸びる。だが刀を抜くのは、女の妖気に気圧されて負けたように思えて躊躇われた。

 勝家はぐっと腹に力を籠める。

「天下を取るのは儂ではない。上様じゃ」

 その器ではないと自覚している。それに……。

 勝家は己の胸の中に住む、ただ一人の女性の事を思う。

 信長の同母の妹君であるお市御寮人――。同盟の証に浅井長政の元へ嫁いだが、夫である長政は信長を裏切り敵対した結果滅ぼされてしまった。今は未亡人となって三人の娘と共に織田に身を寄せている。

 絶世の美女と謳われる美貌は未だ衰えず、妻にと望む者は多い。

 だが勝家が魅かれたのはその目だ。織田の姫として何不自由なく育っているはずなのに、どこか寂しさを滲ませる瞳に一目で心を奪われた。

 例え妻として迎えられずとも、の方が幸せであってくれれば良い。

 そう願っているのだから、兄である信長と天下を争うつもりなど欠片もない。

「じゃあその上様に、もっと力添えしたいと思やしませんか?」

「む……」

 勝家の心が少しだけ揺れる。

 妖の言う事などに耳を傾けてはいけないと思うのに、その言葉は勝家の心に響いた。

「なに、ねぇ。殿様のおかげであたしの可愛い坊やが成仏できたんですし、恩返しをね、したいと思うんですよ」

「幽霊の恩返しなどいらぬ」

 揺れる心を押し留めて、勝家はきっぱりと断る。

 妖の甘言に乗せられて向かう先は、破滅しかないのだと知っているからだ。

「あれ、まあ。……確かに幽霊の言う事なんぞ信じられないっていうのは分かりますけどねぇ。それでもあたしは、ちょっとばかり不思議な力を使えるんですよぉ。……証明、してみましょうかねぇ」

 リリ、と虫の音が小さく聞こえる。一匹が鳴き始めると、一斉に他の虫も鳴き始めた。

 リーンリーンと、虫たちが歌い始める。

 それに混ざって、ジジ、と、灯り取りの油の芯が燃える音が重なった。

 勝家はいつの間にか止めていた息を吐きだした。

 これは妖だ。決して惑わされてはならぬ。

「くどい。武士に二言なし」

 腕を組んだ勝家は仁王立ちして女を見据えた。

「まあ、殿様の大事な上様には、おっかない刀がついてるから大丈夫でしょうけどねぇ」

「刀だと……? もしや義元左文字か」

 信長の栄光はあの桶狭間の戦いから始まっており、それからの信長は神懸ったかのような快進撃を続けている。

 もしあの時に義元から戦利品として得た左文字が妖刀なのだとしたら、全て辻褄が合う。

「いいえぇ。もっと恐ろしいもんですよぉ」

「もっと恐ろしいだと。それは――」

「あれ、まあ。ちょいと喋り過ぎちまいましたねぇ。……じゃあ殿様への恩返しは勝手にやっておきますよ」

 笑みを浮かべた唇を着物の袂で隠した女は、すうっと姿を消す。

 風もないのに、灯りが揺れた。


 それからというもの、勝家の周りでは全て物事がうまく行くようになった。

 戦ではどれほど無茶をしても怪我をしないようになり、鉄砲の玉すら避ける始末だ。

 内政においても長年に渡って難航していた奥州の名門、伊達家との交易までもが叶った。

 上様に献上している鷹や馬も、より優れた物を探せる事であろう。

 満足げに一人祝杯を挙げていた勝家は、夏の盛りだというのに肌に刺すような冷気を感じた。

 あの女か……。そういえば今宵は月のない夜であったな。

 女の幽霊は、どういう訳かあれから勝家の前に姿を見せる事がなくなった。ここ最近の幸運が恩返しをすると言った女のおかげだと信じているわけではないが、それでも相手をしてやっても良いと思うくらいに機嫌が良いのは確かだった。

「久しぶりだな」

「あれ、まあ。もしや、殿様はあたしを待っていてくれたんですか?」

 冷気の渦が靄となって固まると、段々と女の姿になっていった。久しぶりに会う女の腕の中に、赤子の姿はない。

 今一度、無事に成仏したのだと安堵した。

「別に待ってなどおらぬ」

 勝家が顔を逸らすと、女は目を三日月の形にして袖で口を覆った。

「それで、また話をしに来たのか?」

「今日はねぇ、殿様、大事な話をしにきたんです。殿様、好いたお方がいらっしゃるでしょう? このままだと、他の男に取られちまいますよぉ」

「なんだと?」

「ここよりも北の戦でねぇ。殿様の嫌いな男が、大手柄を立てちまうんです。それでその褒美に、上様の妹をと願い出るんですよぉ」

 勝家は、次の戦、と胸の内で呟く。先日、ここより北にある能登の七尾城より信長に救援の要請が届き、既に派兵する事が決まっている。総大将は勝家だが、確かに勝家が嫌う筑前守――羽柴秀吉の名前も援軍の中に入っている。

 羽柴秀吉は元々足軽だったのだが信長に気に入られ、今では侍大将にまで上り詰めた男だ。信長からの信頼は篤いが、どうにも勝家とは反りが合わず相容れない。

 最近では調子に乗ってお市御寮人を正室に迎えたいなどと言い出したものだから、腹に据えかねていた。

 あの禿げ鼠がお市様を――。

 勝家はたちまち悪鬼のような憤怒の表情を浮かべた。

 自分よりも高貴な身の上ならともかく、あんな足軽上がりの、信長にへつらうばかりの下卑た男と夫婦になるなど、決して許せるものではない。

 それにお市は、浅井長政との間に生まれた嫡男を惨たらしく殺した秀吉をひどく恨んでいる。その男の元へ嫁げなどとは、いくら秀吉を気に入っている上様といえども――。

「大将首をね、獲っちまうんですよ。そりゃぁもう大手柄なもんですから、上様は喜んで褒美に妹を与えるってあんばいですねぇ」

 大将首――それはもしや、あの軍神と呼ばれる男の首であろうか。

 まさか、そんな。

 勝家は妖に化かされてはならぬと気を強く持った。

「では、代わりに儂がその首を獲ってくれば良い」

「無理ですよ、殿様。運命なんてものは、そう簡単に変わってくれはしないんですよ。……対価でもなければねぇ」

 勝家はやはり、と思う。やはりこの女の幽霊は、口から出まかせで儂の命を奪おうというのだろう。

 勝家の心から、わずかながらも女に覚えていた憐憫の気持ちが消えうせた。

「どのような対価だ」

 腕を組んだまま、勝家は低く尋ねる。戸の向こうから吹く冷たい風が、勝家の髭を揺らした。

「千人ばかりの命ですかねぇ」

 女は軽く口にするが、その言葉の意味は重い。

「千人だと? それほどの命が対価として釣り合うとでもいうのか、馬鹿馬鹿しい」

 一笑に付した勝家に女はめいた笑みを浮かべる。意外な事に、女がその顔に色を乗せたのは、これが初めてだった。

「信じるも信じないも殿様次第。……さあ、どうします?」

「……儂に、どうせよと言うのだ」

「別に、何も」

「そのような事、信じられるか」

 女はそれには答えず、笑みを浮かべたまま消えた。

 勝家はううむと唸り腕を組むと、家老の織田順のぶもとを呼んだ。順元は、元は織田の一門衆として信長に仕え津田姓を賜っていたが、勝家の家臣となる際に織田に姓を戻していた。

「殿、お呼びでございますか」

「金左衛門よ。例えば……例えばの話じゃが。……もし上杉との戦で関東管領の首級を挙げたならば、その褒美にお市御寮人を賜れると思うか?」

「もっ、もちろんでございますともっ。そのような事をおっしゃるとは、もしや我らが越前を平定したとみて、盗人のごとくこの地を奪い取ろうとしているあの上杉を倒す秘策が御有りかっ」

「落ち着け、金左衛門。そのような物がある訳ではない。例えばの話じゃ」

 興奮して詰め寄る順元を宥めながら、勝家は女が消えた場所に目をやる。無論、そこに女の姿はない。

「例え話でござりまするか。某はてっきり……。しかしながら、あの鬼神のごとき強さを誇る関東管領をたおしたとなれば、確かに上様はお喜びでしょうなぁ」

「では」

「ぜひにと願えば、叶うと思われまする」

「……それが儂ではなく、筑前守であったとしても、か?」

 その名前を聞いて、順元は顔を顰める。

「筑前守でござりまするか……」

 武勇に優れるならば勝家がいる。智略に優れるならば光秀がいる。だが秀吉が優っているのは、その良く回る口先だけである。

 表立っては言えないが、そう陰口を叩いて秀吉を嫌う者は多い。

 織田の一門の出である順元も、ただ口の上手さだけで出世した秀吉を嫌っていた。

「そのような事はあり得ない、と……断言できれば良いのですが……」

 その歯切れの悪さが答えになっていた。

 やはり秀吉の功績によってお市を娶る事も可能なのであろう。

 そしてそれを止めるには千人の命を贄とする。

 勝家は深く息を吐くと、腰に佩いた刀に目を落とした。そこには妖が宿っている。

 儂も知らぬ内に憑かれたか……。

 そう自嘲するが、この身を地獄に堕とそうとも、必ず守りたい人がいる。飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長の妹だというのに、権勢を好まず穏やかな暮らしを望むお市を、そのかたきともいうべき秀吉に渡すわけにはいかぬ。

 勝家はその厳つい顔に決意を秘めて、刀の鞘に触れた。

「その願い、叶えましょうかねぇ」

 姿の見えない女の声が、ねっとりと勝家の耳元で囁いた。


 七尾城救援の為に、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、佐々成政といった錚々たる武将たちが集結した。織田方の軍勢は約四万。籠城する七尾城の者達を救うには十分すぎる兵力であろう。

 だがその進軍の途中、軍議の席で勝家とささいな口論をした秀吉がいきなり怒りだし、利家らがなだめるのも聞かずに引き返してしまった。あまりにも無礼な振る舞いに、残された将たちは憤った。

 早馬でそれを知らされた信長も激怒し、長浜城での蟄居を命じた。

 勝家はそれを聞いて安堵した。だがこの先のどこかで千の死者が出る事を、勝家だけが知っている。

 しかしこの戦ではなく別の戦であろうと思う。

 秀吉の軍勢がいなくなったとはいえ、織田の兵は多い。例え相手が軍神と謳われる上杉謙信であろうと勝てぬはずはあるまい。

 なれば苦戦するのは中国攻めか四国攻めか――。

 そう考えていた勝家であったが、事態が急変した。

「申し上げます! 七尾城は上杉の調略により落城し、対馬守が討ち取られてございます! また上杉軍は末森城を落とし、既に松任城に入城との事!」

 これが上杉殿の軍神と呼ばれる由縁か――!

 伝令の言葉に、勝家は動揺した。

 籠城する七尾城の手勢と織田の援軍とで、城を囲む上杉軍を挟み撃ちにすれば楽に勝てる戦のはず。だがこちらが攻城するとなれば、いくら数で勝る織田軍とはいえ堅城で名高い七尾城を簡単には落とせまい。

 もしやこの戦で千人の犠牲が出るのではないか。

 そうであれば、ここは撤退するのが良い考えのように思えた。今ならばまだ上杉もこちらが七尾城の撤退を知った事に気付かず、息を潜めて待ち構えているに違いない。

 妖の策など、鬼と呼ばれる儂が打ち負かしてくれよう。

 だが夜陰に紛れて行われた撤退は上杉の知る所となり、たちまち猛追を受ける。そして遂には手取川で追いつかれてしまった。

「わぁぁぁぁっ。あれは上杉の旗だっ! 追いつかれるぞ」

「逃げろ、逃げろ!」

「待て! 我らの方が数は勝っておる。敵に背を向けるな!」

「わぁぁ。軍神が追ってくるぞ! 逃げろぉぉ」

「待て。川が増水しておる」

「先陣はもう川を渡り切っておる。続け続け!」

 織田の軍勢の将たちは殆ど渡り終えている。残るは殿しんがりなまず貞利らの軍を含め、およそ千。

 女の求めた贄の数も同じ千。まさか――。

 勝家の肩越しに、川の半ばまで進んで足を取られ兵たちが波間へと消えていく。未だ向こう岸の浅瀬にいる兵たちは、勢いづく上杉の兵に、次々に討ち取られてゆく。

 撤退を指揮する勝家は、思わず腰の青江貞次へと手を伸ばした。

 手の平に触れる鞘がカタカタと揺れる。まるで対価を払わずに済まそうと考えた勝家をあざ笑うかのように。

 勝家はその柄を強く握ると、後ろを振り返らないままに馬を走らせた。


 上杉との戦に敗退はしたものの、そもそも七尾城が落城していた事に加え、秀吉の無断での離反の件もあり、勝家の失態はそれほど問題にはならなかった。

 女がなにがしかの力を使って、お市が秀吉の元へ嫁ぐ定めを防いだのかどうか、本当の所は分からない。けれど結果として秀吉は信長の勘気を被って遠ざけられた。

 今はただ、それだけでも良しとせねばなるまい。

 勝家は女の幽霊が現れたら礼の一つでも言ってやろうかと待ち構えていたが、それからというもの、月のない夜に女が現れる事はなかった。

 勝家があれは現の事だっただろうかと思い始めた月のない夜、刀がカタリと鳴った。

 あれほど勝家を苦しめた上杉謙信が突然の病に倒れ、その後継者争いで上杉の勢力はかなり弱まった。京の馬揃えの時期を狙って仕掛けられた戦も難なく撃退する事ができ、勝家を総大将とした織田軍が謙信の後継となった景勝を討ち取る日は近いだろう。

 信長とは、その功績でもってお市を賜る約定を交わしている。お市は浅井長政との死別後、影になり日向になって支えた勝家を男として慕っている訳ではなかったが、頼りに思う気持ちはあり、その縁組を承知していた。

 もしやそれを寿ことほぎに参ったかと、勝家は思った。幽霊とはいえ、中々に殊勝な心掛けである、と。

 しかし――。

「お久しぶりですねぇ、殿様。あれから増々とご立派になられて」

「とっくに成仏したかと思うておったぞ」

「あれ。まあ。……そうですねぇ。今度こそ、成仏できるかもしれません。……ねえ、殿様。好いた女と天下と、どちらをお取りになります?」

「何をいきなりふざけた事を言うておる」

 好いた女というのはお市の事であろうが、なぜ天下などという言葉が出てくるのか分からない。天下を取るのは信長で勝家ではない。

「何故にそう申す」

「さてねぇ。あたしにも詳しい事は分からないんですよぅ。ただね、それが織田様の命運とやらで」

とぼけたことを。しかし何事かあるのであれば、対価を払えば良かろう」

「それがねぇ。残念な事に、それを覆せるだけの対価がないんですよ」

「ないはずがあるまい」

 戯言だと思いはするが、なぜか女の言葉を笑い飛ばせなかった。

「でもねぇ。殿様はまだ間に合うんですよぉ。だから……」

 女はにこりと笑って勝家を見た。

「さあ、選んでくださいよぉ。天下か、女か」

 ごくり、と喉の奥で鳴る音を、勝家はどこか他人事のように聞いていた。


 轟々と城が燃える音がする。

 あれから事態は急変した。本能寺で信長が明智光秀の謀反によって討たれ、その光秀を討伐した秀吉が信長の後継者として名を馳せた。

 そして織田家の行く末を決める清州会議において信長と共に討たれた嫡子信忠の子である幼い三法師を当主とし、その後見として信忠と同母の信雄を推す秀吉と、母の出自が低いが武勇に優れる信孝を推す勝家との間で対立が起こったが、最終的に信雄と信孝の二人が後見となり、傅役として堀秀政、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が補佐する体制となった。

 領地の再分配については秀吉が最も多くの領地を得たが、その不満を躱すかのようにお市の方が勝家の元へ嫁ぐ事となった。

 勝家がお市と共に越前へ帰ると、秀吉はすぐさま三法師の傅役の堀秀政と組み、執権の丹羽長秀と池田恒興を懐柔し織田家臣の中で台頭する。

 そして勝家と秀吉の対立は激化し、遂にしずたけの戦いが起こる。

 勝者は秀吉であった。

 北ノ庄に退いた勝家はお市の方と共に自害したが、最後に天守に爆薬を仕掛けて自分とお市の躯を秀吉の手に渡すのを拒んだ。

 勝家の養子である柴田勝敏はお市の三人の娘と共に城から逃れ、落城する北ノ庄の赤い炎の影がその背に映っている。

 その腰には養父から譲られた青江貞次があった。

 ゆらり、と刀から黒い靄が現れるのに、逃げるのに必死な彼らは誰も気がつかなかった。

 靄はやがて人のような形になり、女の姿を取る。

「殿様のように好いた女を大事にするお方もいるんですねぇ。男は皆あたしの旦那のように、自分の夢の為には妻子すら犠牲にしても構わない奴らばかりかと思ってましたよ」

 女は天守があった場所をじっと見つめる。 

「……確かに対価、頂きましたよぉ」

 そう言うと満足そうに……にっと笑った。



妖ファンタスティカ2初出

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にっかり青江 彩戸ゆめ @ayayume

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