幕が開く

紫鳥コウ

幕が開く

 首を絞めてください。お願いします。この通りです。苦しくて仕方がないのです。

 バッと起きあがった。間違いなく悪夢だった。何者かに、心身の破滅を懇願していた。わたしは本当に、破滅を願っているのだろうか。暗がりのなか、息を整えながら、考えてみる。


 六月の二十日。締切りまであと十日。完成しているのは十八枚……そうか。残された時間の少なさに比して、することがあまりにも多く、喘ぎ苦しんでいたのだ。三十日が三つの文学賞の締切りになっている。それなのに、進捗しんちょくが良くない。

 理由は分かりきっている。連載を三本抱えており、毎日掌篇小説を投稿するのを六月三十日まで続けることにしているのだから、応募作にける時間が自然と減るのは当たり前だ。だけどそれらをほうりだしてしまいたいとは思えない。

 

 だからこそ、苦しいのだ。優先順位はあるけれど、どれも切り捨てたくない。そんな欲張りのせいで、悪夢を見るまでつらくなっている。でも、小説を書くというのは、楽しいことだ。楽しいから、打ち込んでしまうのだ。きっと。

 しかしわたしは、楽しいだけでとどめておくわけにはいかない。苦しみのなかで作品をつくらなければ、プロの作家になることはできないだろう。だから、毎日悪夢を見たところで、くじけてはならない。どうせ、もう眠れない。書こう。


 部屋の電気をけると、まだ外が暗いことがはっきりと分かった。カーテンの隙間から、なんの明かりも差し込んでこない。あまりにも静かだ。この静寂を破らないようにコーヒーを作って、掌篇小説を書くためにファイルを開いた。


     *     *     *


 母さんから電話がかかってきた。愛犬がうまく立ちあがれなかったり、歩けなくなったりするとのことだ。それを快復させるための薬は長い期間服用すると副作用を起こすので、定期的に血液検査をしなければならず、その度に多額のお金が必要になるらしい。

 早急に実家に帰ることになった。母さんの代わりに、愛犬の世話をしなければならない。というのも、わたしが下宿先にいるあいだに、母さんはうつ病になってしまったのだ。


 わたしだって、万全の心身ではない。一日に十錠もの薬を飲んでいる。だけど、うちの家族のなかで一番若く、まだ体力はある方だ。愛犬が吠えて歩けないことを訴えたらすぐに飛んでいき、世話をしてあげることはできる。たとえ寝ているときだって。

 母さんは嘆きの言葉を繰り返す。もう楽しいことはひとつもない。はやく死にたい。生きていたくないと。わたしはそれを聞きながら、もっと親孝行をさせてくださいと祈っているが、そういう言葉を口にすることが、いまの母さんにどれくらいつらく響くかは、重々承知している。


 おばあちゃんは、二回も手の甲を噛まれてんでしまった。それからというもの愛犬の世話ができなくなった。だからわたしが、すべてを引き受けなければならない。となると、執筆に使える時間を作るには、睡眠を削るしかない。


 というか、愛犬が母さんを呼ぶのは、深夜の二時までだというのだから、わたしは寝ずに、それくらいまで起きていればいい。執筆をして、吠え立てる声を聞けば階下におりる。そして二時に寝て、六時くらいに起床する。

 父さんが夏休みになって単身赴任先から帰ってきたら、わたしは自分の仕事をするために下宿先へ戻ることになっている。しかしすぐに、わたしが帰省する番が回ってくるだろう。


     *     *     *


 六月三十日まで続けてきた「毎日、掌篇小説を投稿する」という目標は、本作をもって完結する。しかしタイトルは『幕が開く』になっている。

 昨日、親友の鹿野との作業通話中に、《一年くらい創作を止めたら?》と言われた。だけどわたしは、すぐにこう答えた。


「わたしの小説を読んでくださる方がいるかぎり、わたしは書き続けることができるから。読者の方はどんどん増えているし、イベントでも投稿サイトに掲載した小説の感想をくださる方もいらっしゃるし、中には長期連載を一気に読んでくださった方もいる。わたしはその人たちが大好きで、裏切りたくないんだ」


 鹿野は言う。

『あーしは、そういうスタンスは好きだけど、実生活の苦労と齟齬そごをきたしてない?』

 わたしは答える。

「わたしは、家族のことも好きなんだよ。それに、みんなの世話をすることは、わたしの役目であって、責任でもある。だけど、わたしの小説を読んでくださる方々に、次々に作品をお届けすることも、使命だと思ってる。齟齬はないよ。両方、根っこは同じスタンスなんだから」


『あーしは、家族とは縁を切って仕事に集中しているから、そういうのは分からないけど……まあ、できるところまですればいいよ』

「七月は、いろいろと忙しいけど、八月にまた、毎日投稿チャレンジをしてみようと思ってる」

『応募作をつくる邪魔になるんじゃない?』

「ううん。このチャレンジは、決して無駄じゃないし、応募作をつくりながらできることだと思うよ。というか、それくらい負荷をかけないと、プロにはなれないから」


『同じようなことを繰り返しやってれば、惰性だせいを産んじゃうと思うけどね』

「だから今度は、曜日ごとにジャンルを決めるとかやってみたいと考えてる。いままで挑戦してきてないような――」

『あーしはね、「やってみたい」という気持ちがあるのなら、大丈夫だと思うかな。大丈夫っていうのは、とりあえず前に進んでいれば、なにか意外なことが起こる可能性があるってこと。まあ、がんばりたまえ。前進あるのみ。現状維持をしているやつは、なにも成しえないから』


 わたしはいま、実家に帰る準備をしながら、原稿用紙百枚の小説を作っている。今度こそ、なんらかの賞を取りたい。

 そして間もなく発表される、コンテストの結果を、ドキドキしながら待っている。


 最後にひとつ、約束をさせてください。

 わたしは絶対に、夢半ばにくじけたりしません。命あるかぎり、書き続けます。



 〈了〉

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