放浪時代編

第7話 アル爺

「あーくそ。ミスった」


 拳がヒリヒリと痛む。殴った衝撃で皮がずり向けていて、走ると傷口が風に吹かれて顔が歪む。


冷静に考えればわざわざ壁を壊す必要はなかったのではあるまいか。全く自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。


あれから随分長い間走ってきたんだ。そろそろ歩きに戻ってもいいだろう。


 追手が見えないことを確認してからゆっくりと速度を落としていき、歩きに転じる。


「ここ、どこだ」


 辺りは畑、畑、畑。一面に広がる麦色の穂が風に揺さぶられている。家に帰ろうとは思ったものの、考えてみればここがどこかも分からないのにどうやって帰るつもりだったのか。


 足りない自分の頭を恨ましく思う。その時は気に食わなかったかもしれないが、一先ずあいつらに頭下げて後を付いて行くのが最善策ではなかったか。


「いや、うじうじ後悔しても何も変わらん」


 頬を怪我してないほうの手の平でぱんっとはたく。俺の頭が悪いことは、とうの昔から知っていたことだ。今、考えるべきは自分の頭のことではなくて、ということだ。


 顔を上げると、視界に一軒の小屋が見えた。おそらくこの畑を管理している人間が住んでいるだろう。そいつに聞いてみるか。


 クルトはずんずんと小屋の方を目指して進んでいった。



コンコン、とドアをノックする。


中からゴトッと何かモノが落ちたかのような音が聞こえたので、クルトはしばらくドアの前に立って人が出るのを待っていた。


ガチャっという音と共にドアがゆっくりと開き、家の中から白くて長い髭を生やした爺さんが怪訝な顔をしながら出てくる。


「こんなど田舎に住んでる儂に一体何の用で」

「は…………?」


絶句した。その顔には見覚えしかなかった。


「なんで、くそ爺がここに」

「初対面の人間にくそ爺とはなんだ、口が悪いのう」


治療室でいつも世話になっていた、金に目がないあの爺さんにそっくりな奴が目の前に立っていたのだ。しかし、初対面とはどういうことなのだろうか。



「へえ、双子の兄なのか」

「………さっきから気になっていたが、言葉遣いが気に入らん。敬語を使え、敬語。親に習わなかったのか」

「敬語なんて習った覚えねえから使えねえ。あれは上流階級の奴らが使う言葉だろ」

「…まあ、闘技場上がりの人間に期待することでもなかったか」


椅子にどっぷり深く座り、差し出された茶を飲む。あっつ。


「その話が本当なら、そうか。イルはまだ生きているのか。」


へえ、あの爺さんの名前イルって言うのか。じゃあ今度からイル爺って呼ぶことにしよう。まあ今度がいつ来るかは見当もつかないが。


「俺ら奴隷から金を絞りに搾り取ってしぶとく生きてるぜ。俺は合計して、最低でも銀貨十枚は取られたんじゃあないか」

「にわかに信じられないな。怪我をした人がいればどんな人間であろうと――例え人外であろうと、性格がクズであろうと――無償で助けていたあの優しい奴がなあ」


環境は人を変えてしまうのかもなあ、そう言って目の前にいる爺さんは黙り込んだ。


クルトは咳ばらいをして本題に移ろうと試みる。


「えっと、名前はなんていったっけ」

「アルだ」

「俺は今、母親と兄妹に会うために実家へ向かおうとしているんだが、ここがどこなのかがそもそも分からない。教えてくれないか」

「ベネット地区の東だ」

「…………地図持ってないか」


アル爺は無言で席を立ち、後ろにある本棚を漁り始めた。

正直なところ、大陸の名前すらあやふやなのだ。なんとか地区とか言われてもわかるはずがない。


一冊本を取り出してきて、一番後ろのページを開いてから机の上に広げた。


「大体この辺だ」

「めっちゃ、右じゃん」

「右じゃなくて東と言いなさい。クルト君が行きたいところはどこだ」

「確か旨いパンが有名らしい」

「そんな所、どこにでもあるわい」


呆れた顔をしたアル爺に見つめられる。


…………頭が悪いのは自覚しているが、他人に言われたら流石に腹が立つし何かしら暴言を吐ける。しかし何も言わず可哀そうな子を見るような眼で見られれば、どうしようもなくて下を見るしかなくなる。


「………小麦の特産地は、確か三つほどあった。一つはこの大陸、マーナ大陸の最西端のパラート地区。他二つはそれぞれ、ガルファン大陸とペルセポネ大陸にあったはずだ。後で地区名を調べといてやる」


ぱっと顔を上げる。影がかかって見えなくなっていた行く先が、明るくなったのだ。


「ありがとな、アル爺」

「で、これからどうするんだ。どうせ金もほとんど持っていないだろう」

「それは大丈夫だ。闘技場でたんまりと稼いだ」

「大陸を渡るのにいくら必要か知っているのか? 銀貨50枚だぞ、銅貨にすれば50000枚だ」


銅貨50000枚。とてもじゃないが、払えそうもない。

再び黙り込んだクルトに声がかかる。


「銀貨十枚ならくれてやる、儂の弟に取られたんだろう?」

「いや、それは誇張して言っただけで」

「そんなこと分かってるわい、儂を馬鹿にしてるのか。さっき言った通りだ、銀貨10枚くれてやる。ただし条件付きだがな」


アル爺はお茶を飲みほしてからこう言った。


「お前を用心棒として一か月雇おう」

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万年敗者の奴隷剣士 @chatnoir_0321

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