ホームパーティー

真花

ホームパーティー

「私の愛人になりませんか?」

 話があると言うので庭にあるウッドデッキのテーブルに向かい合わせに座った。初夏のよく晴れた空を独り占めしているような開放感と、庭に植えられた木々のしんとした匂いがした。男の名前が北原きたはらであることは知っていたし、これまでも今日と同じ貴子たかこの主催するホームパーティーで話をしたことがあった。北原は清潔で、五十代くらいで、財をたくさん持っている。話題は仕事のことが主だがいつも余裕があった。だが、今は違う。穏やかさを装っているが、じっと私の目を覗き込む瞳とやわらかく組んだ手は細かく震えていた。

 いい加減にしてはいけない。どんな恋でも愛でも、それを受けるときにはどう応えるのであっても真剣でなくてはならない。求める側は無責任でいいが、受ける側には責任がある。理不尽だな、私は腹の底で困ったような苦笑いをして、言葉を錬成する。視線を強く叩き付ける。

「すいません。なりません」

 北原はぎゅっと体を、まるで巨大な手で叩かれたかのように縮こませる。それに耐えるような表情を一瞬して、また元の穏やからしき顔に戻る。深い呼吸を一つする。

「月に三十万円と、マンションを提供出来ます。どうでしょう?」

 それは多分悪くない条件なのだろうが、それを貰ったら北原と寝なくてはいけないのだとしたら、私は安く見積もられている。と言うか好きでもない男と寝るなんて、幾ら積まれても嫌だ。北原が持ち掛けているのは長期継続の売春に過ぎない。バカにするな、と喉まで出かかって抑える。ここは貴子の場だ。貴子の面子を汚すことはしてはいけない。

「条件の問題じゃないんです。愛人にはなりません」

 言いながら、高志たかしのことをやっと思い出した。私は高志とだけがいい。思ったら、高志は引っ込んで、また目の前の北原にだけ集中する。北原は口を一文字に結んで私を見ている。勝算があったから声を掛けたのだろうが、その根拠はどこから出て来たのだろう。その勝算と一緒にプライドも砕かれて、かと言って北原もここで無茶な行動をする訳にはいかないから、爆発しそうな己を力づくで形の中に抑え込んでいる、そう言う状態だと言うことが垂れ流しで伝わって来る。下手なことを言うべきではないし、私から何かを言うのも違う。かと言って置き去りにしていなくなることも正着とは言えない。私は待つことしか出来ないが、この場を収めなくてはならない。視線を外すことも出来ない。

 ほのかに汗ばんで来た。私は今更に緊張して、口が渇くのを感じる。北原は荒くなりそうな呼吸をずっと整えている。私は心の中で、これまでと同じようなパーティーだけの関係でいましょう、仲良くも悪くもない、袖が振れるくらいの距離で、と念じて、ぐっと丸めてイメージの中で北原に放った。北原が、ふー、と大きく息を吐く。

「分かりました。この話はなかったことでお願いします」

 誰にも言うなと言うことだ。もちろん言わない。こうやって握り潰されている事実はたくさんあるのだろう。北原の震えが止まっていた。

「なかったことですね。分かりました」

「では」

 北原は椅子から立って、シャキシャキと歩いて家の中に入って行った。今度は私が大きく息を吐く番だった。途端に、空が青くて、緑が茂っていることに気付いた。水色のハンカチを出して汗を拭き、遠くの方から聞こえる電車の音を見付ける。体がずんと重くなる。何かを飲みたい。だが、少し待った。北原がパーティーに馴染むまではここにいなくてはならない。

 景色を見ながら、たった今行われたやり取りが反芻される。私は北原に愛人になってくれと言われてそれを断った。それは心のエネルギーをたっぷりと消費することだったが、この疲労の中に隠せない嬉しさがあった。それは高志には決して言えないし、自分としても認めたくないものだ。私は北原を男性として魅力的だとは微塵も思っていないし、寝るとかむしろ気持ち悪いくらいだし、強引に触れられたりしたら絶対大声を出していたし、それなのに、心の端にむず痒いピンク色の嬉しさがうずくまっている。

 両手の手のひらを見る。息を吸い込む。

 嬉しさの正体はもう分かっている。女としての価値を見出されたからだ。高志に求められれば、違う、想われていればそれで十分なのは間違いない。十分の十プラスアルファのアルファ分が北原だ。おまけみたいなものだ。そしてこれはきっと、数日以内に消えるものだ。責任を果たした分のボーナスでもいい。ちょっと気持ちよくなってもいいと思う。それと北原に靡くのは関係のないことだから。

「黄昏てるの?」

 振り向くと貴子がビールを二杯両手に持ってテーブルの脇に立っていた。大きな目で私の顔を覗く。私はまるで何もなかったかのように柔和な顔を作る。

「たまにはね」

「飲むでしょ?」

 貴子はビールを置きながらさっき北原が座っていた席に座る。

「ちょうど喉が渇いていたから、ありがとう」

 飲み込んだビールは命の水のように全身に沁み渡って、プハァ、と声を出したら、貴子が大笑いした。

「よっぼどね」

「まあね」

 二人で秘密めいた笑みを交わし合うのは、大学生の頃から全然変わっていない。風がふわりと二人の間をすり抜けた。

美希みきは最近どうなの?」

「相変わらずだよ」

「彼とは結婚しないの? そろそろいい歳だよ、私達」

「貴子は結婚してるじゃない」

「でも、子供が出来ないままずーっと来ている。これはこれでしんどい。……それはいいんだ。美希も早く結婚すればいいのに」

「そうね」

 私達はしばらく黙ってから、全然違う話題、共通の友人のこととか、に移って、ひと花咲かせたら連れ立って家の中に入った。パーティーのメイン会場であるリビングに十五人くらいの人が入っている。何度も参加しているから知らない顔はいない。もし、貴子が出産をしたらこのパーティーも無くなるのだろうか。それとも形を変えながら続くのだろうか。貴子の夫はかなり年上で、夫の知り合いが中心のパーティーなので、人生が済んだ段階に近い人が多い。北原は中では若い方だ。まだ人生の中盤の私とは自然に話が合わない。それでも参加しているのは貴子の手伝いをするためで、貴子の友人はここには少ない。

 トイレに行き、鏡を見ると、顔が少し尖っていた。アルコールのせいじゃなくて、貴子のせいでもなくて、嬉しさのせいだろう。高志は気が付くだろうか。気が付いて欲しいような、欲しくないような曖昧な感触がある。

 お開きになり、後片付けを手伝って、貴子に見送られて家に帰った。貴子の家を出てやっとどこかまとわり付いていた北原の気配から解放された。……帰るまで北原とは一切話さなかった。視線も感じなかった。きっちりとしているようでちょっと安心した。


 家に戻ると、高志がテレビゲームをしていた。

「ただいま」

「おかえり」

 高志はゲームをすぐに中断して、私の近くに来る。くんくんと匂いを嗅ぐ。

「酒の匂いで美希の匂いが分からないよ」

「ごめんね」

 高志は私の顔をじっと見る。顔に霞がサッとかかった。

「何かあった?」

 私は動揺しそうになる心臓と表情を軟着陸させる。疚しいことはない。だが、ありのままを言うことはしたくない。高志が拗ねるのは目に見えている。

「何もないよ。飲み過ぎたくらいかな」

「……そっか。ならいいけど」

 高志はゲームに戻る。大柄な体を小さく丸めてゲームをする姿はかわいい。部屋の中にギターが出されていない。最近ギターを弾いているのを見かけない。私は丸まった背中に声を放る。

「ねえ、次のライヴはいつ?」

「まだ未定」

 もしかしたらもう二度と高志はギターも弾かず、ライヴもしないのかも知れない。私の家に高志が住み着いてから二年が経つ。高志にはギターと夢しかなかった。私には仕事とお金と家があった。私達は噛み合っていた。だが、もし高志がギターを弾かないのなら話は違う。高志そのもののことを想ってはいるが、生活を援助しているのは夢のためだ。

 そこまで思って、気付く。

 自分がしているのは北原に夢を足しただけのことなのかも知れない。高志が私を抱くのは、生活のためなのかも知れない。もうちょっとよくても夢を追うためなのかも知れない。その夢も形骸化しようとしているのかも知れない。違うかも知れない。どっちでも同じだ。だったら、高志も私に想われてちょっとは嬉しいはずだ。そのちょっとだけが二人を繋いでいるのだとしたら……、胸が真っ青に重くなる。ウッドデッキから見た空とは全然違う、深海の青だ。

 高志は丸くなってテレビゲームをしている。

 私達、そろそろ、と声を掛けたら、その後に続ける言葉に結婚は選べない。だからそう言う声掛けは出来ない。同じ毎日を繰り返すことしか出来ない。

 私は高志の背中を見ながら立ち竦み、今日もまた決断を先送りにする。


(了)

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