第九話【六月二十四日(土) 相馬蒼太】

「ご苦労」

 喫茶店にほど近い路地裏でデータを渡すと、誠一郎せいいちろうは礼も言わずに立ち去った。

 態度の悪さにむっとしたが、まあいい。誠一郎は見事に役割を果たしてくれた。

 五歳離れた妹は、俺にとってかけがえのない存在だった。葵は妹で、俺は兄。妹を守ることが、俺に与えられた使命で役割なのだと悟った。

 俺が守っているおかげで、妹はすくすくと可憐に育った。彼女が男のいない女子校で青春を送るのは、俺にとっても好都合だった。

 容姿端麗で頭脳明晰な妹に恋をする無粋な男は、俺が妹の視界から叩きのめした。幸い妹は恋愛に興味を持たず、自分から動くことはなかった。

 葵からマッチングアプリを始めたと報告された時は、悪夢のようだった。

 マッチングアプリの悪評をあえて広めて、マッチングアプリをする奴なんぞ、ろくなやつじゃねえと吹き込んだつもりだったのに。

 まだ危険性を理解していないのなら、もっと怖い目に遭うべきだ。

 葵がマッチングアプリを始めたと知った夜、誠一郎を呼び出して事の経緯を話した。誠一郎は便利な存在だ。葵は勘づいてはいなかったが、俺たちは対等な関係ではなかった。

 ずっと前――小学校の頃に誠一郎は葵を好きだと言ったから、ボコボコにして裸の写真を撮った。

 その写真をネタにして、脅し続けていた。

 小学校を卒業以降、誠一郎は俺に逆らう気をなくしたから楽だった。パシリ、アシ、葵を見張らせるのもなんでもやらせた。

 下の存在だから、俺の命令を聞くことは絶対だ。今回も誠一郎は俺の提案を承諾した。


 フォーチューンで、なりすましアカウントを作らせた。プロフィール写真、サブの写真も提供した。運転免許証も撮らせた。俺はあくまでなりすまされた被害者を装うためだ。

アカウント名はS.Sにした。俺も誠一郎もイニシャルが同じだったから、より信憑性があるだろうと思った。

 アカウントを作ったまではいいが、葵のアカウントを探すのは困難を極めた。東京にいる二十歳の女子大生は途方のない数だった。一瞬、葵のスマホから盗み見たプロフィール写真を手掛かりに、葵のアカウントを見つけたときには、もう夜が明けていた。

 誠一郎に俺になりすまして、aoiにメッセージを送るように命令して、葵に見つからないように帰宅して、ベッドで泥のように眠った。

 葵に起こされて、誠一郎が俺のなりすましを始めたと確認した。いい仕事をしてくれた。

 このままいけば、葵はマッチングアプリを自主的に辞めるだろう。


 欲が出たのは、IT企業に勤めている友人を思い出した時だった。この先変な男と葵が一緒になるよりも、安全圏の男とくっついた方が絶対にいい。

 友人たちに妹の写真を見せた際に、食いつき度合いは確認していた。塩尻は特に葵の容姿に心を奪われていた。大学時代の彼女とは自然消滅して、今はフリーと確認済。

 塩尻は善意の塊だ。友人の頼みを喜んで聞き入れて、骨身を惜しまない。

 何も知らない塩尻に電話をして、すぐに協力を取り付けさせた。葵との仲を取り持つことを仄めかすと、とても感謝された。

 塩尻と葵をくっつけるためになりすましを延長する報酬として、誠一郎から金とこれまで俺が撮った誠一郎の写真の削除を要求された。ぶん殴りたくなったが、葵の前でなりすまし犯として暴くつもりだったし、寛大な心で受け入れた。


 葵が好男子の塩尻にたいして関心を払わなかったのは計算外だった。恐ろしいことにS.Sに惹かれている素振りすら見せた。それでS.Sは誠一郎かもしれないと匂わせて悪口も吹き込んだし、今日こうして葵の前でS.Sの正体を暴いた。

 以後誠一郎は葵に近づけないし、近づくこともない。今頃は塩尻が葵を口説いているだろう。何もかも俺の描いた絵の通り。善人は善人と結ばれるのが摂理なのだ。


 ……本当にそうなるか?


 俺が実家を離れて働いているうちに、葵がマッチングアプリを始めだした。俺が管理できていない、把握しきれていなかった葵の一面だった。

 本当に葵は御しやすい女なのか?


『葵ちゃん、どこかに行っちゃった! 相馬のところに来てない?』

 塩尻からLINEが届いて、俺は駆け出した。

 役立たずが。どうして俺の思い通りにならない! 恋愛にうってつけの相手を紹介してやったろ! いや落ち着け、葵はハイヒールを履いていた。そう遠くまでは行けないはずだ。運転免許も持っていないあの娘が遠くにまで行けるはずはない。

何かを蹴飛ばして立ち止まる。よく磨かれて光沢を放っている靴だ。葵のハイヒールだった。

 地面に目が釘付けになった俺の横を、車が横切った。よく知っている車だ。俺が幾度となくアシに使わせた、青の軽ワゴン。

 やめてくれ、と反芻しながらのろのろと顔を上げた。

 助手席の女はひだが幾重にも連なった赤いワンピースを着ている。白魚のような素足を上品に組んで座っていた。

「あ、」

 女は運転席の男を愛おしげに見つめていて、俺には気づかない。

運転席の男は流し目を寄越して、車はスピードを上げて遠くに走り去っていった。

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なりすまし 泉野帳 @izuminuma

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