第八話【六月二十四日(土) 相馬葵】

 私は赤いティアードワンピースを着て、存分にお化粧をして、喫茶店のテーブル席でS.Sを待っている。五センチのハイヒールはぴかぴかに磨き上げてきた。

 私の地元では誰もが知っている、名物の喫茶店だ。建物の外観はツタで覆われ、店内もどことなく薄暗い。

 二つ返事で、この喫茶店を受け入れたということは、S.Sはやはり――

 ウェイターさんが運んできた水を飲み、私は一呼吸ついた。

 兄さんと塩尻さんは離れたテーブルから、私のいる席を見張ってくれている。

 塩尻さんは兄さんの大学の交友関係をあたって、怪しい人物はいないと言っていた。


『俺も楽しみ。大丈夫。悪いことにはならないさ』


 落ち着かない私の気持ちが鎮まるよう信じて、静謐な空気を深く息を吸い込む。

 喫茶店の鳩時計はまもなく、十二時になろうとしていた。長針がぴったりと短針に合わさる。赤い屋根の小屋から鳩が飛び出して、時を告げる――

 ドアのカウベルを鳴らし、一人の男が店内に現れた。

 根元が黒い中途半端な茶髪、覇気のない表情、アイロンがけをおろそかにした綿のシャツ。

 瀬川さんは店内を見渡して、私に気が付いた。彼はぎこちなく笑って片手をあげると、私の席へ近づいてくる。


「やっぱりお前が! 俺を陥れようと!!」

 腰を浮かせかけた時、兄さんと塩尻さんが私と瀬川さんの間に入った。二人の背中で瀬川さんが見えなくなってしまう。

 飛び交う怒号と悲鳴。

 喫茶店の責任者が慌ててやってきて、兄さんと瀬川さんは店の外へ追いやられた。

 人の壁越しに、瀬川さんと目が合う。瀬川さんは朗らかに笑っていた。

 何も言葉をかけることができなかった。


「大丈夫かい?」

 力なくその場に座った私を、塩尻さんが心配している。

 知り合いが兄さんになりすましていたなんてショックだよね。お兄さんが彼を連れて行ったから大丈夫だよ。ここの喫茶店、サンドイッチが美味しいんだって。葵ちゃんも食べる?どのメニューがおすすめ?

 耳通りのいい塩尻さんの声が、BGMとして右から左に通り抜けていく。

 非の打ち所がない好青年が、親身になってくれている。

 それなのに、私は別のことで頭がいっぱいだ。

「ごめんなさい!」

 私は携帯を握りしめて、立ち上がって、喫茶店を後にした。

 S.Sのアカウントはもう削除されていた。けれど彼の連絡先は数年前に交換している。

 短くメッセージを送る。ヒールが走りづらいし、ティアードワンピースの裾は邪魔だ。私はヒールを脱ぎ捨てて、裸足になって走り出した。

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