玲音

最終話

 子供の頃、仲良しの女の子がいた。

 引っ込み思案で、少し臆病で。でも冗談が好きで、よく笑う。

 その子が大好きだった。

 毎年一緒に誕生日を祝った。成長するに従い、その気持ちが恋だと気づいた。

 ずっと一緒に居られるのだと思っていた。大人になったらプロポーズするつもりだった。一生守ると決めていた。

 それが叶わぬ願いだと知ったのは、十三歳の誕生日の夜。いつものように二人で蝋燭の火を吹き消して、たくさん笑って、幸せな眠りにつく筈の夜だった。俺は、自分がこの世に存在したことによって、その子が手にする筈だった幸せを消滅させてしまったことを知った。

 その夜、母は何故その話を俺にしたのだろう。俺たちが今以上の関係にならないように釘を刺したのだろうか。それとも、父との別れを予感していたからだろうか。

 どちらでも構わない。ただ、情け容赦ない真実だけが目の前にあった。

 美冬は妹なのだから、この気持ちは許されないものだ。忘れてしまおうとした。父と母の破局を機に引っ越しを決め、遠く離れることにした。

 それでも、胸の奥に押し込めた想いは、どれだけ時間が経っても消えてはくれなかった。無意識に美冬を探した。心がその姿を追い求めた。

 限界だと思った。疎遠になっていた父に頭を下げ、居所を聞いた。我慢できなくなって、会いに来てしまった。

 二人で吹き消した二十本の蝋燭は、忘れようとしたすべての努力を無に変えた。

 そして俺は美冬の元に通い続けた。誕生日を祝うだけという言い訳を自分にしながら。いつか気持ちを抑えられなくなる予感におののきながら。

 はけ口は外に求めた。とても簡単だった。後腐れの無い関係。都合が悪くなれば、さっさと逃げ出した。考えてみたら、出会った女たちは、すべて美冬の代用品だったのかもしれない。だとしたら酷い話だ。最低のクズ野郎だ。けれど、俺はそれを否定できない。

 美冬を大切に思ってくれている奴が、身近に居る事には気付いていた。悩んだ末に、そいつに委ねようと思った。こんな俺が隣に居るより、その方が良いに決まっている。

 だから、少しだけ想い出を貰って姿を消すことにした。遠くに去って、もう二度と美冬の前に現れないつもりだった。

 なのに──。

 どれだけ美冬の幸せを願っていても、この手を離すことが出来ない。長く一緒に居るほどに想いが募る。離れられなくなる。

 自分のものでないことが苦しい。抱き締められないことが辛い。

 そんな未練がましくて情けない俺に下された、これは制裁なのかもしれない。

 ならば従容と受け入れるしかないだろう。

 そして、頭のどこかで、こういう消え方も良いかもしれないと考えている自分がいる。


 もし叶うならば──。

 俺が奪ってしまった多くのものを、お前が再び手に入れられることを願う。

 美冬、──幸せになれよ。



                ※



 あれから十年が過ぎた。

 七月七日、晴天。午後六時を過ぎても空はまだ明るい。庭に目をやると、色とりどりの短冊飾りに枝をたわませた笹と、中央に置かれたバーベキューセットが目に入る。今日はコーポレイブンの住民と、美冬たち元住民が集まっての七夕祭りなのだ。

 折り畳み椅子に座った美冬の前を、野菜が入った大きな籠を下げて、大家さんの二人のお孫さんが通る。千鶴ちゃんは中学生、翔和とわくんは五年生になった。

「カレー作るよ」

 二人にそう声を掛けて、燈子とうこさんが籠からタマネギを取り出した。力一りきいちさんはジャガイモをき始める。脂身や切れ端をタッパーに放り込みながら肉を切っていた砥草とくささんが、ニコニコしながら大きな鍋を取り出した。

「僕も手伝う」

 翔和くんが人参を手に取った。

「包丁、気を付けて。左手は猫の手よ」

 弟に注意する千鶴ちゃんを、娘さん夫婦が微笑みながら見ていた。

「翔和くんには、こっちをお願いしようかな」

 火起こしに苦戦していた光善寺さんが声を掛ける。そっちの方が面白そうだと思ったのか、翔和くんは人参を放り出して駆けて行った。

 代わりに自分が手伝おうと立ち上がった美冬を、まあまあと椅子に押し戻し、中川さんが大量の氷が入ったグラスを手渡してくれた。テーブルに置かれた薬缶やかんを持ち上げ、まだちょっと熱いからと笑う。

「ママー、帰って来たよ」

 入って来るカローラを指さし、娘の菜々が大きな声で美冬に教える。

「菜々、危ないから避けてなさい」

 バーベキューの準備をしていた波留都くんが、金串にトウモロコシを刺しながら声を掛けた。

「分かってるよ。パパは心配性なんだから」

 長女の菜々は、先週五歳の誕生日を迎えたばかりだ。波留都くんに似たのか、なかなか口が達者である。

「菜々ちゃん、こっちこっち」

 小学校の先生をしている江戸村早紀ちゃんが上手に呼び寄せてくれ、千鶴ちゃんが手を繋いでくれる。

 綺麗な青い色をしたカローラが、近くに停車した。

「遅くなりました」

 トヨタ車の窓が開き、本田昴ホンダスバルさんが顔を出す。真紀ちゃんと結婚して名前が変わってから、営業成績が急激に伸びたとかで、あっという間に出世したという話だ。そして、後部座席から真紀ちゃんと一緒に降りて来た男の子の名前は、拓人タクトくんという。詳しい説明はいらないだろう。現在小学校二年生。もう、将来の仕事は一択である。

 拓人くんが翔和くんに駆け寄り、火起こしに加わった。チャッカマンを手に悩まし気な様子の光善寺さんの横で、二人が力を合わせる。

 美冬の子供は女の子だ。もう一人お腹にいるのだが、また女の子だと先日医者に言われたばかりである。どうやら、玲音の願いは叶えられそうにない。

 美冬のグラスに、中川さんが暖かい麦茶を注いでくれる。氷が割れる小さな高い音がした。控えめなその響きは、母が聴いた音に似ているだろうか。

──俺、美冬の子供になるから。

 もしかしたら、玲音は美冬に名前を返そうとしたのかもしれない。母が大切にした想い出の音を。美冬が男の子だったら付けられていたであろう、煌めきにも似た美しい名を。

 手にしたグラスの中で、氷がまた、きらりと音を立てた。

 生憎あいにくですが、ご希望には添えません。却下だ。そうは問屋が卸さない。

 カローラの助手席のドアが開き、菜々が駆け寄る。

「玲音!」

 降りて来た人物に、菜々が飛びつく。沈みかけた夕日が、その顔を紅く照らした。

「菜々ちゃん、ケーキが崩れるから」

 手に持った箱を頭上に避けて、玲音は菜々の頭を撫でた。商店街のケーキ屋に予約していた、10号サイズのケーキである。

「ロウソクは何本?」

 菜々が尋ねる。

「七本にしたよ。七夕たなばた様の七本」

 それを聞いて、菜々が鷹揚おうように頷く。

「それが良いわね。三十七本もロウソクを立てたら火事になるから」

──まったく、口が減らない。


 玲音の生命力はかなりのものだったようで、コーポレイブン201号室は、すんでのところで事故物件にならずに済んだ。死線を彷徨い、ようやく意識が回復した玲音は警察に、酔っぱらってナイフを持ったまま転んだのだと言い張った。どれだけ説得されても、鎌をかけられても、玲音は決して折れなかった。その後、ほの香が美冬の前に現れることはなく、玲音の口からその名を聞くこともなかった。

 一年半の療養を経て、玲音は写真家として復帰した。入院中に出版された写真集が、そこそこ話題になったことから、玲音は写真で食べていけるだけの収入を得るようになった。生活が安定したことでペット稼業は間遠くなり、最終的に足を洗った次第だが、事件のことで多少は懲りたか、もしくは年齢を重ねて需要が減って来たのが本当の理由ではないかと美冬は推察している。

 今は、以前美冬が住んでいた201号室が玲音の住居となっている。参考までに付け加えると、蝋燭の炎で出来た天井の黒い焦げの正体は実はすすで、玲音が掃除して綺麗にした。天井から壁に沿って視線を下ろせば、昔のままの飾り棚にマリモの瓶が二つ仲良く並んでいる。マスキングテープに書かれた片仮名の名前は、薄くなってほとんど読めなくなっているけれど、マリモはずっと、生き生きとした緑色を保っている。

 夕焼けが西の空を覆っていた。紅い空をバックに翼を広げたコーポレイブンが、黒いシルエットとして浮かび上がる。

 子供たちの歓声が上がり、振り向くと、少し薄暗くなった中に、炎の揺らぎが見えた。


「ねえ。玲音は、まだ彼女いないの?」

 菜々がまた余計なことを言う。

「早紀ちゃんの彼氏、北海道から帰って来るのよ」

 結局、早紀ちゃんは遠距離恋愛を貫き、彼氏はなんと転職してこちらに戻って来るらしい。

「玲音は、モテないの?」

 言われて、玲音は「うん、まあ」と頭を掻いた。助けてくれという視線を美冬に送って来る。ごめんね。

「ふうん。じゃあ、可哀想だから、菜々が大人になったら、玲音と結婚してあげてもいいわよ」

 少女の言葉に、皆の口元に笑みが浮かんだ。翔和くんと拓人くんが顔を見合わせる。

「いいね。楽しみだ」

 玲音は、そう言って美冬に微笑を向けた。

「でも約束して。菜々と結婚するなら、ずっとカッコよくなくちゃ駄目よ。お腹が出たり、ハゲたりしちゃ駄目なのよ」

 容赦ない言い様に、庭中の男性陣が一斉に頭やお腹に手をやった。光善寺さんまで頭を押さえている。叱るべきか、それとも流すべきか。困った美冬が夫に目をやると、波留都くんが、手にしていたビールの缶を置いて糖質オフのものに取り換えるのが見えた。お前もか。

「それは努力目標ということでお願いします」

 玲音の言葉に、菜々は意味が分からないだろうまま「わかった」と頷いた。


 余興の漫才が始まった。

「どうも~。レオンハルトです」

「パパ~、玲音~、頑張れ~!」

 菜々が声を掛ける。

 ケーキには七本の蝋燭。赤、白、黄、緑、紫。そしてピンクが二本。

──ハッピーバースデイ。

 あなたが生まれて来た事に、心からの祝福を。


 夜空には満天の星々。織姫と彦星は、今夜はきっと逢えるだろう。



                                 おわり

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Leon 古村あきら @komura_akira

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