線香花火
第22話
網戸にとまった蝉がうるさい。窓を開けると、明るい陽射しが部屋の隅々まで差し込んだ。紺碧の空には入道雲。暦の上ではもう秋であるにも関わらず、気候は夏真っ盛りである。逃げた蝉の代わりに、庇の下に吊るした風鈴がチリンと音を立てた。
「なあ、花火買ってこようか」
コーポの庭で花火大会をしようと玲音が言う。楽しそうだ。千鶴ちゃんや翔和くんも、きっと喜ぶだろう。
「線香花火、今だったら最後まで持つかしら」
「みんなで競争するのもいいな。誰が最後まで落とさずにいられるか」
線香花火大会?
「大家さんに声を掛けてみよう。チラシ作って回覧板回すのもいいな」
「うん」
コーポレイブン大線香花火大会。楽しそうだ。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。気を付けてな」
外に出ると、よりいっそう陽射しが眩しかった。踊り場を、少しだけ爽やかさを纏った風が吹き抜ける。
──許されたのだろうか。
ふと、そう思う瞬間がある。こんな毎日が、この先ずっと続いていく。そんな錯覚を覚えてしまう程に、あまりにも平穏で幸せな日々。けれど、それは続かない。分かっているのだ。ひと夏の想い出をつくって、玲音は消えようとしている。
空を見上げ、天に向かって手を合わせる。
神様お願いです。どうか、もう少しだけ、このままでいさせてください。
合掌は仏様だったと、後で気が付いた。
「おはよう須藤くん。今日も、いい天気だね」
課長は昨日から上機嫌だ。美冬がデザインした車カバーが意外にも好評だったとのことで、景品ではなく商品として販売されることになったのだ。
「桜木さんが押してくれたのよね」
友佳さんに連れられて行った車販売店の屋外展示場には、様々なカバーを掛けた車が並び、ちょっとした動物園のようだった。ちなみに一番問い合わせが多かったのはメンダコらしいが、それだけは理解できない。
「次の注文が来てるよ。休んでる暇ないぞ~」
メールを確認していたミカが言う。
「営業の佐野くんから。お正月の凧のデザインのことだと思う」
「思う?」
どういう意味だろう。
「市民の皆さんが驚くようなものをお願いします。とのことですよ」
笑うのを我慢しているような表情でミカが続ける。美冬は背中越しにパソコンの画面をのぞき込んだ。
『お疲れ様どす』
京都市役所の依頼かもしれないなと思った。佐野くんのメールは誤字が多い。
『蛸揚げ大会の蛸のデザインです。市民の皆さんが驚くようなものをお願いします』
眉を顰めた美冬に、課長が声を掛ける。
「須藤くん、よろしくね」
「え?」
「俺は午後から居ないから。先方とのすり合わせも、しっかり頼むよ」
──妖怪人任せジジイ。
声を出さずに陰口を言って、美冬は席に着いた。
「妖怪タノムナ―、だね」
やっぱりミカの方がセンスがいい。
笑っていると、友佳さんに小突かれた。
「打ち合わせ準備するよ。相手の斜め上を行くアイデアをお願いね。メンダコみたいに」
「はい。頑張ります」
──これはもう、ディメンターしか無いな。
久しぶりの残業で遅くなった。会社を出ると、綺麗な夕焼けが広がっていた。
明日もきっと暑いだろうと思いながら、美冬は駅へと急いだ。スマホをサイレントモードにしていたことを思い出し、鞄から取り出すと、つい今しがた、見知らぬ番号から立て続けに着信があったのが分かった。
──誰だろう?
十一桁の番号は、見覚えがあるような無いような。掛け直そうか迷っていたところ、同じ番号からの着信があった。つい出てしまった美冬は、電話の向こうの荒い息遣いを聞いて後悔した。いたずら電話だ。そうに違いない。
切ろうとした時、息の向こうで女性の声がした。
「美冬さん……」
泣いているのだろうか、言葉がはっきりしない。
「どちら様ですか?」
美冬の問いに、妙にヒステリックな声が耳元で響いた。
「私です。ほの香です。……美冬さん、何で出てくれないの」
何処で美冬の番号を知ったのだろう。玲音の携帯を勝手に見ていたに違いない。大切な時間に余計なものが混ざり込んだようで不快だった。
「失礼します」
電話を切ろうとした美冬に気付いたのか、ほの香は「待って」と悲痛な声を出した。
「すぐに戻って来て。玲音が……」
そのまま電話の向こうで、ほの香は泣きじゃくり、その後は全く要領を得なかった。不吉な予感に苛まれた美冬は、通りかかったタクシーに手を上げた。
自宅のドアには鍵が掛かっていた。解錠し、ドアを開けた美冬は、玄関に蹲っていた人物にぶつかった。
「ほの香さん?」
声を掛けても、ほの香は返事をしない。
「玲音?」
押しのけて部屋を覗いた美冬は、目の前の光景に息を呑んだ。
「何……?」
台所の床に、玲音が倒れていた。身体をくの字に折り曲げた、その腹部が赤く染まっているのに気付いて、美冬は悲鳴を上げた。
「玲音、……玲音!」
靴のまま駆け上がり、玲音を抱き起す。流れる血が白いシャツを赤く染めていた。その中心に果物ナイフの黄色い柄が突き出しているのを認めて、全身の血が引いていくような恐怖に襲われた。
「玲音、しっかりして」
呼びかけると、玲音が薄く目を開けた。美冬の顔を認めて、安心したように笑う。
「……美冬さん?」
悲鳴を聞いて我に返ったのか、漸くほの香が声を出した。
何があったか聞かなくても、もう状況は明らかだった。ほの香の両手は、玲音の血で真っ赤に染まっていたのだから。
「救急車は」
美冬の言葉に、ほの香が震える手で携帯を取り出したとき、玲音が身じろぎした。
「やめろ!」
驚くほどに強い口調だった。同時に口から鮮血が吐き出される。玲音は身体を起こし、ほの香に向かって、行けと言うように手を振った。それでもなお動こうとしないほの香に叫ぶ。
「行けよ!」
叫んだ後、また口元を血まみれにして床に崩れる。ほの香が背を向け、廊下へと出るのが見えた。階段を降りていく足音が聞こえる。
「美冬……」
「玲音、じっとして。動いちゃ駄目」
ナイフが刺さった腹部からの出血よりも、夥しい吐血が恐ろしかった。
「転んで、……自分で刺したんだ。彼女は……関係ない」
「分かった。もう、それでいいから」
ほの香を庇おうとしているのは明らかだったが、彼女のことは、もうどうでもいい。それより、早く救急車を呼ばなければ。美冬が鞄に手を伸ばそうとした時、再び階段を上がって来る足音が聞こえた。
「どうした?」
波留都くんの声だ。
「波留都くん、救急車!」
波留都くんは何も訊ねることなく、すぐに電話をかけてくれた。電話を切った後、一歩近づきかけて立ち止まり、そのまま黙って玄関に立っている。
玲音の頭をそっと膝に乗せ、美冬は掌で口元の血を拭った。
「痛いよう」
甘えるように、玲音が言う。
「すぐに、救急車が来るから」
小さく頷いて、玲音は美冬を見る。視線が合った。驚くほどに強いその眼差しが、まるで最後の輝きのように感じられて、美冬はぎゅっと瞼を閉じてその考えを振り払った。
「なあ……」
息づかいに消されてしまいそうな声だった。
「約束……守ってくれよ」
言葉を発するたびに、口から泡のような血が零れる。
「玲音、もう喋らないで」
どんな言葉も、最悪の結果につながるフラグに思えた。
「男の子ができたら……玲音って……」
玲音の視線が宙を彷徨う。数秒前まで強い光を湛えていた筈のその眼は、もう何処を見ているのか分からなかった。
探るように差し出された手を握り、美冬は頬を摺り寄せた。
「玲音」
「みふ……ゆ」
握った手から力が抜けていく。
「玲音。……しっかりして、玲音」
ゆっくり瞼が閉じられ、それでも尚、何かを告げようとするように唇が震える。
「玲音」
細く長い息を吐いた後、玲音は微かに笑ったように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます