コーポレイブンの怪

第21話

「それは妙だね」

 波留都くんが呟いた。

「でしょう。何だか気持ち悪くて」

 そう言う真紀ちゃんは、あまり眠れてないのか、少し顔色が悪い。

「下をのぞいても、誰もいなんだよね」

 波留都くんは、腕を組んで考え込む。

 二、三日前から、真夜中に窓を叩く音がするのだそうだ。カーテンを開けても何も見えない。窓を開けて下を見ても誰もいない。小さな街灯があるだけだから、はっきりとはしないが、少なくとも動くものは見えないのだという。

「もしかして、ストーカーとか?」

 真紀ちゃんの肩に手を置いて、早紀ちゃんが言う。

「怖いね」

「それにしても、窓の下に誰もいないっていうのが変だな」

 波留都くんが腕組みを解いて顎に手をやる。

 暫しの沈黙があった。

「よし、今日の夜、僕と志村さんで見張りに立つよ」

「えっ、俺も?」

 玲音の言葉は聞こえないふりをして、波留都くんは続けた。

「南階段は僕が担当する。志村さんは北階段。念のため一階の人たちにも声を掛けて、窓の外を注意しておいて貰おう」


「構いませんよ。一晩ぐらい起きていても平気です」

 光善寺さんは、二つ返事でOKしてくれた。

「私も明日は休みだから、窓の外を見張っておくわ。でも途中で寝ちゃったらごめん」

 中川さんが、そう言って肩をすくめた。

「いざとなったらボアちゃん達を出動させるから、安心して任務に就いてください」

 砥草とくささんのありがたい申し出は、安心という言葉からは程遠く、唯々ただただ不安材料でしかなかった。


 早紀ちゃんと美冬が真紀ちゃんの部屋に泊まることになり、和室に布団を三つ並べて敷いた。

「何か、修学旅行みたいね」

 早紀ちゃんが言う。

「さあて、女子会しましょうか」

 外で待機しているナイトたちは置いておいて、真紀ちゃんが切ってくれたフルーツを肴に、チューハイで乾杯した。


「伊達さんには、この事は話したの?」

 美冬が尋ねると、真紀ちゃんは小さく首を振った。

「心配かけたくないから。……っていうより、きっと彼、一緒に住もうって言うと思うの」

 生真面目な性格の真紀ちゃんは、正式に結婚する前に一緒に住むことに抵抗があるらしい。だから、どちらの姓を名乗るかはっきり決まるまでは、それは不可能なのだという。

──まだ解決してなかったんだ。

「話をすればするほどこじれてきて、もう堂々巡りというか水掛け論というか」

 グラスを置いた真紀ちゃんが溜息をつく。

「くだらないことだと思うでしょうね」

 傍目から見れば大した問題ではないように思えても、本人にとっては重大なことは、世の中には数多くある。時間が経てば笑い話に出来るような事でも、悩んでいる最中は深刻なのである。

「難しいよね。恋愛も、結婚も」

 早紀ちゃんが言う。遠距離恋愛中の早紀ちゃんも、様々な悩みを抱えているに違いなかった。

「迷路って、引っ張るとどうなるか知ってる?」

 うさぎの形に切った林檎をフォークで刺して、早紀ちゃんが言う。

「中川さんに聞いたんだけどね。迷路がゴムみたいな素材で出来ているとして、入り口と出口を持ってムニューって引っ張ると、すべての道が全部、それぞれ正しい一本の道になるんだって」

 何が言いたいのか問うように、真紀ちゃんが首を傾げる。

「一時的に誤ったとしても修正はきくんだって、中川さん言ってた。ただ、遠くにある目的を見失っちゃいけない。そしたら、戻れなくなるから」

 林檎を噛む、サクッという音が耳に心地いい。

「いざとなれば、方法はあるわ」

 めちゃくちゃ面倒くさいみたいだけど。と、早紀ちゃんは続けた。


「玲音さん、ずっと居るんですか?」

 真紀ちゃんが尋ねる。

「うん……まあ。分からないけど」

 曖昧に答える美冬のグラスにレモンサワーを注いでくれながら、真紀ちゃんは意味ありげに笑った。

「結婚しちゃえばいいのに」

 従兄だったら結婚できるでしょう、と言う真紀ちゃんの口に、早紀ちゃんがキウイフルーツを押し込む。

「色々あるのよ」

 そう。他人のことには冷静な判断をくだせても、自分のことになると人は簡単に結論を出せない。人間とは不器用な生き物だ。もちろん、結婚など出来はしないが。

「それに、誰かの幸せが、別の誰かにとって辛いことだってあるし」

 何の話だろう? 何かあったのかと視線で問いかけた美冬に、早紀ちゃんは困ったような笑みを返した。

 三人三様に物思いに耽り、会話が途切れた時だった。窓の外でこつんと音がした。続けてコンコンと、確かにノックのような音がする。

「嫌だ!」

 真紀ちゃんが美冬の腕を掴む。和室の電気をつけた早紀ちゃんが、カーテンを開けて、間をおかずに窓を一杯に開いた。

 窓の外の花台には小さなプランターが置かれていて、真紀ちゃんはそこでプチトマトを育てている。部屋からの光に照らされた中に、丸くて赤い実がっているのが見えた。

「誰もいない」

 下を見下ろした早紀ちゃんが言う。

「確かに、ノックの音がしたのに……」



「まさか……ね」

 波留都くんが言葉を濁した。言葉にしてしまえば本当になりそうな不安があるのだろうか。少々顔が蒼い。季節は夏だ。肝試しにぴったりの時期でもある。

 人は、得体の知れないものを恐れる。コミュニケーション不可能な存在。何をするか想像もつかない、けれどこちらにアクセスしてくる存在。

 誰が名付けたのだろうか、怪異、あやかし、物の怪、霊……。



「勘弁してくれよ。美冬、助けて!」

 ほぼ涙目になっている玲音を引き摺って、波留都くんが真紀ちゃんの部屋に入る。

「ストーカーならいいけど、お化けは無理!」

 今夜は、真紀ちゃんには早紀ちゃんの部屋に行ってもらうことにして、波留都くんと玲音、美冬の三人が、改めて真紀ちゃんの部屋で夜を明かすことにしたのだ。美冬がいるのは、女性の部屋に男二人だけというのを問題視した波留都くんの気遣きづかいである。

 カーテンを開け放し、部屋の電気を消して、三人は和室にひそんだ。

 窓の外の闇が、次第に濃くなっていく。

──お化けなんて無いさ、お化けなんて嘘さ♪

 美冬の隣から、震える歌声が聞こえてくる。

──寝ぼけた人が、見間違えたのさ♪

「志村さん、しっかりしてくださいよ」

 呆れたように波留都くんが言った。


 玲音はオカルトものに弱い。

 あれは、中学二年の夏休みに久しぶりに玲音の家に行った時だった。玲音がソファでうたた寝してしまったので、退屈だった美冬は『リング』の再放送を見ていた。玲音はストーリーの終わりの方で目を覚まし、テレビから出てくる貞子を見て悲鳴を上げたのだ。寝ぼけていたせいで本当にテレビから出て来たと思ったらしい。その頃はもう喧嘩上等けんかじょうとうだった玲音が、美冬の背にしがみついて震えていたのを思い出すと、今でも口元が緩む。


南無阿弥陀仏なむあみだぶつ阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう、怨敵退散、怨敵退散」

 玲音が小さい声でぶつぶつ言っているのが聞こえる。

「何も起きませんように」

 拝んでいるようだ。怖くて堪らないのだろう。

「起きてくれないと困るんですよ」

 波留都くんの冷静な声が、その願いを打ち砕く。ちょっと可哀想な気がした。

 静かな中、どこからか時を刻む時計の音が聞こえる。

 突然、波留都くんが言葉を発した。

「志村さん、後ろ」

「何⁈」

 玲音が跳び上がる。

「のクーラーボックスに飲み物が入ってるから、飲んでいいですよ」

「……うん。あ……ありがとう」

 ほとんど泣き声のように聞こえた。


 長い時間が過ぎた。何時ごろなのだろう、と思った途端、時計が十二時を打った。

「今、十三回鳴らなかったか?」

「鳴りません」

 窓には街灯の光が反射して、うっすら丸い輪をつくっていた。今日は一階の皆さんにも電気を消しておいてくれるよう頼んであるから、それ以外は真っ暗である。そんな中、微かに音が聞こえた。風の音のようで少し違う。窓の外の空間が揺らいだような気がした。

 隣で玲音が息を呑むのが分かった。静まり返った部屋の窓を、何かがコンコンとノックしている。

 玲音にしがみつかれて身動きがとれない美冬の隣で、波留都くんが立ち上がる。そっと窓を開け、外を見た波留都くんの背中が、凍り付いたように動かなくなった。

「え?」

 妙なニュアンスを含んだ声に、美冬は急いで立ち上がった。纏わりつく玲音を引き摺りながら窓辺へと進む。

「え?」

 波留都くん越しに外を見た美冬の口からも、全く同じ声が出た。

「……カラス?」

 窓の外では、プチトマトの赤い実を咥えたカラスが、「どうも」というようにお辞儀をしていた。

「……どうも」

 何となく三人ともお辞儀を返し、波留都くんが静かに窓を閉めた。

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