渡り鳥の巣
第20話
年に一度、七夕の日にだけ逢うことを許される織姫と彦星。雨が降ってしまえば逢瀬は叶わない。けれど旧暦の七月七日は現在の八月で、とっくに梅雨は開けている。アルタイルもベガも、夜空に美しく輝いている。なのに……。
お盆には帰って来るのかと伯母から電話があった。仕事の都合でどうなるか分からないと曖昧に言葉を
『そろそろ、いい話を聞かせてくれないと。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも楽しみにしてるんだから』
美冬の花嫁姿を見るまでは死ねないと、いつも祖父母は言う。二人ともまだまだ元気だが、長年営んでいた産婦人科医院は数年前に閉院した。今は悠々自適であるが、やはり美冬のことが気になるようだ。喜ばせてあげたいとは思うが、こればかりはどうしようもない。
『予定が立ったら連絡してね』
最後にそう言って、伯母は電話を切った。
「帰ってあげればいいじゃん。祖父ちゃん祖母ちゃん、楽しみにしてるんだろ」
玲音は、そう言った。
「でも……」
「ちゃんと留守番してるからさ。安心して行っといで」
小さい子にするように美冬の頭を撫で、玲音は笑ったけれど。
離れるのが怖かった。もう二度と会えなくなるのではないか。そんな思いが心を乱した。
実家で父と顔を合わすことはなかった。お盆の少し前に一人でふらりと立ち寄り、お供えだけ置いて帰ってしまったのだという。
美冬は伯母と一緒に墓参りに出かけた。先祖代々の墓を綺麗に水で清め、新しい花を供える。蝋燭の炎と杉線香の煙。美冬の手にある紅水晶の数珠は母の形見である。真夏の陽射しの中でも、それはひんやりとして、淡く控えめな光を纏っていた。
夜、少々酒が入った祖父は、美冬が母に似てきたと言って、祖母と笑みを交わした。
改めて見た母の遺影は、結婚してすぐの頃の写真だろうか、少女のようにあどけない微笑を浮かべていた。
──ごめんなさい。
墓前でも、仏壇の前でも、美冬は心でそう呟きながら手を合わせた。
永遠に許しの言葉など聞けないことを知りながら。
二泊三日の帰省を終え、美冬はコーポレイブンへと戻って来た。
扉を開けるまで不安だった。玲音はもう居ないのではないか。ただ蒸し暑く、がらんとした部屋があるだけではないのか。かつては普通に生活していた筈の空間を見るのが恐ろしくて、鍵を持つ手が震えた。
ドアノブが回る。扉が開く。
「お帰り」
玄関に、玲音が立っていた。
「ただい……」
言いかけた途端、何故か視界が歪んだ。荷物を手放して両手を差し伸べる。頬に当たるシャツの感触。玲音の匂い。確かにそこに居ることを確かめてから、美冬は再び同じ言葉を口にした。
「ただいま」
玲音の手が、優しく背中を撫でる。
「参ったな……」
呟く声が聞こえた。
「子供をつくらなきゃいいんだよな」
テーブルにお土産を広げていた時、玲音が脈絡もなく、そう呟いた。
「マンガではよくある話だし」
何の話? と美冬が尋ねると、玲音は慌てて目を逸らし、その後、困ったように笑った。
玲音の頭越しに、窓ガラスを通して夕焼けの紅い色が見える。
「いや、……何でもない」
俯いて逡巡しているように見えた玲音は、顔を上げて何かを言いかけ、やがて諦めたような笑みを浮かべて目を伏せた。
「あのさ……」
小さな声だった。視線だけを上げて、探るように言葉を継ぐ。
「写真で稼げるようになったら、副業はやめようと思ってる」
思いがけない言葉に、美冬は声を出さずに玲音の顔を眺めた。
「そしたら、この部屋で美冬と暮らすのも良いかな、なんて。……ヒモとして」
美冬の沈黙をどう解釈したのか、玲音は再び目を伏せた。
「やっぱり駄目だよなあ」
冗談だよと笑う。
「後半は却下。ヒモって何よ。せめて、どんぎつねにしてよね」
美冬がそう言うと、玲音は優しく目を細めた。立ち上がって窓を開ける。燃えるような夕日が空を紅く染めていた。
「じゃあ、ビューネくんにする」
そう言った後、玲音は美冬に背を向けたまま、しばらく黙って夕日を眺めていた。
一緒に居たいと思う。もし玲音と暮らせるなら。寄り添って生きていくことが出来るのなら。もう他に何もいらない。恋人でなくても、夫婦でなくても構わない。側にさえ居られたら、それでいい。けれど。
嘘つきだ──二人とも。
もし言霊というものが存在するのなら、どうかその嘘を
優しくて、悲しい嘘を。
──俺たち、何で二人なんだろうな。
泣きそうな声が、耳によみがえる。
──一人だったら、良かったのに。
そうだね。
本当に……そうだね。
「悩みがあるんですか?」
何の前置きもなく、光善寺さんにそう言われた。
剃髪された頭。綺麗な瓜実顔の中にある切れ長の眼は子供のように澄んでいて、目尻の皺が優し気な雰囲気を添えていた。
「はい」
誰にも言えない秘密の筈なのに、つい素直にそう答えてしまう。光善寺さんは不思議な人だ。
「悩むのは若者の特権です」
こないだと同じことを言うのだなと思った。美冬は小さく笑って、黒い瞳に視線を合わせた。
「煩悩が消えません」
叶わないと諦めていた願いに手が届きそうだと思った途端、心はそれに縋りつこうとする。
「情けなくて、嫌になってしまいます」
美冬はそう言って目を伏せた。途中で、光善寺さんの口角が上がるのが見えた。
「
「嫌です」
即答すると、光善寺さんは「冗談ですよ」と笑った。
蛇足もしくは手長蛇的な説明ではあるが、補陀落渡海とは昔の仏教界で行われていたという噂のトンデモ修行である。赤い鳥居に似た飾りのついた小舟に乗り、遠く南の方角にある
その後、光善寺さんは暫く黙っていたが、やがて小さく息を吐いて、慈しむように美冬を見た。
「愛情というのは強欲なものです。相手の幸せを心から願っていても、そこに自分がいないことを受け入れられない。耐えられぬほどに辛いと感じるのです」
淡々と言葉を継ぐ。
「愛することが許されないのであれば、なおさらに」
この人は、すべてお見通しなのだろうか。美冬と玲音の想いも、そして背負っている罪も。
母を傷つけてしまった美冬の罪。そして、玲音が背負わされてしまった、生まれて来たという罪。
──俺たち、一緒に居ちゃいけないんだ。
誰かを不幸にしたまま自分の幸せを求めるなど許されない。私たちは、償わなければいけないのだ。
「光善寺さんは、罪というものを、どうお考えになりますか」
思わず口をついた言葉に沈黙が返る。光善寺さんの視線を追って見上げた空には、絵に描いたような白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
「人は、罪深い生き物です」
光善寺さんは美冬を見ないまま、小さな声で、そう呟いた。
「どれだけ悔いたとしても、犯した罪が消えることはありません。例え相手が許したとしても心の底に残ります」
消えそうに微かな声が、薄い唇から漏れる。
「
一瞬の苦悩を感じさせる深いため息の後、光善寺さんは美冬に視線を戻した。その表情はもう、いつものように穏やかで飄々とした趣を持っていた。
「人の世は極楽ではありませんから」
修行の場なのですよ、と光善寺さんは続けた。口元に小さく笑みが浮かぶのが見えた。
「けれど、贖罪を人生の目的にしてはいけません。罪を償おうとするあまり、不幸になってはいけないのです」
この人はお坊さんなのだと、改めて思った。この痩せた僧は今、美冬に道を説いてくれている。
「幸せの形は様々です。そして」
一息ついて、光善寺さんは続ける。
「幸せになることから、逃げてはいけません」
どこか遠くで、カラスが鳴く声が聞こえた。少し寂し気に、誰かを呼ぶように。
「今度、焼き肉でも食べに行きますか」
驚いて顔を上げた美冬に光善寺さんは、また、「冗談ですよ」と目を細めた。
しばらく声を出さずに笑っていた光善寺さんは、去り際に、ふと真面目な顔になった。息すらしていないように見えるほど静かに、美冬の眼を覗き込む。心の奥底を見透かされているような気がした。
「心配いりません。若い頃の悩みなんて、十年経てば笑い話です」
それだけ言うと光善寺さんは、またふわりと笑みを浮かべ、そのまま黙って背を向けた。
微笑だけが、空間に残っているように思えた。
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