へびがらすの砦
第19話
「おかしいのよ。絶対に変だわ」
一昨日から姿が見えないのだそうだ。中川さんは美冬たちに庭の鉢植えを指し示した。
「毎朝花に水をやってたのに、見てよ、ほら」
確かに、毎年大きな青い花をつける朝顔は、心なしか元気がない。
玲音と商店街に買い物に行った帰りだった。南階段の下で深刻そうな顔をして佇んでいた中川さんが気になって、声を掛けたのだ。
「旅行にでも行ったんじゃないですか?」
玲音の言葉に首を振って、中川さんは水やりのホースを手にした。朝顔の鉢に水を掛ける。
「ここに越してきて二十年になるけど、あの人が旅行に行ったのなんて見た事が無いの。大事なへ……可愛いペットがいるから、外泊なんてとんでもない事みたいよ。毎日必ず定時に帰って来てたし」
何故言い直したのだろうか。
ロマンスグレイのイケオジ砥草さんは、五十代独身。公益社団法人が付く会社に勤めていると聞いた。爬虫類ひとすじ。部屋に入ったことはないが、中川さんの話によると、大きな水槽に入った数種類の蛇を、我が子のように可愛がっているのだという。
「確かにおかしいですね」
寺から戻って来たところだろう、黒い僧衣を纏った光善寺さんが言う。
「出掛けるなら一声かけていきそうですし。……大家さんは?」
「お留守。今日は揃って娘さんのお家で夕食だって」
何か聞いているかもしれない。戻って来たら尋ねてみるのがいいだろう。
「心配なら、電話してみましょうか」
僧衣の
「……出ませんね」
首を傾げた光善寺さんが、電話を切りかけて、ふと何かに気付いたように顔を上げた。
「あれ?」
どうしたのだろう。皆が見守っていると、光善寺さんはそのまま、おもむろに自宅のドアを開けた。
「入ってください」
振り向いて、後ろにいる美冬たちに、そう声を掛ける。
「お邪魔します」
すっきりと物が少ない部屋だ。隅々まで綺麗に掃除がされているが、飾りが無さ過ぎて、少々空虚な印象も否めない。光善寺さんは奥の和室まで入ると、何故か一旦台所に行き、コップを持って戻って来た。
104号室との境の壁に、コップの口をつけて耳を当てる。
「何……してるんですか?」
玲音が恐る恐るといった様子で声を掛けた。光善寺さんが黙って玲音にコップを差し出し、壁を指さす。
「え? ……あ、はい」
素直にコップに耳を当てた玲音の顔が強張った。
「聞こえるでしょう」
中川さんと美冬も壁に耳を当てる。微かに電話の呼び出し音が聞こえていた。
「まさか……ね」
「そうですよ。まさか」
中川さんと光善寺さんが言葉を濁す。
そうだ。言葉にしてはいけない。シュレーディンガーの猫だ。いや、ちょっと違う。また波留都くんに注意される。
「蛇に、吞まれたんじゃ……」
言霊という現象を知らんのか、この男は!
部屋の温度が、一度とはいわず五度ぐらい下がったような気がした。
「大家さんに連絡して、鍵を開けてもらいましょうか」
「いや、それより警察を……」
「まだ、食われたって決まった訳じゃないでしょう」
だから具体的な単語を出さないで欲しい。想像してしまうから。
「こんなこと言うのもなんだけど……」
中川さんが口ごもる。
「何ですか?」
妙に飄々としたまま、光善寺さんが尋ねた。
「扉を開けた途端……出てくるんじゃ」
背筋がぞっとしたのは、きっと美冬だけではない筈だ。
「光善寺さん、透視とか出来ないんですか?」
「出来る訳ないでしょう」
美冬の
蛇は苦手である。
昔、玲音の家の近くに小さな竹林があった。家一軒の敷地ぐらいの、小さな竹藪である。そこからいつも、綺麗な鳥のさえずりが聞こえていた。どんな鳥なのか見てみたくて、美冬は玲音と二人でこっそり探検に出かけたのだ。
小学校低学年の頃だったと思う。蒸し暑い日だったが、竹藪は涼しかった。鳥を探しながら、美冬たちは背の高い竹の隙間を抜けるように奥を目指した。微かにさえずりを聞いて、二人は顔を見合わせて頷いた。近くに居る。どんな鳥だろう。きっと、色鮮やかな羽毛と、すすきの穂のような
さえずりが大きくなる。しかし、どこにも鳥は見えなかった。何処にいるのだろう。すぐ近くに居る筈なのに、姿が見えない。
──もしかしたら、透明の鳥なんじゃないかな。
玲音が言う。透明の鳥……。想像すると、ワクワクした。その鳥は僅かに空間の揺らぎを作り出し、大空に飛び立つのだ。
ふと、目の端に小さな動くものを見た気がした。竹の隙間に目を凝らすと、くすんだ緑色の尾羽が目に入った。小さな鳥だ。竹藪に溶け込むような地味な色合いで、想像していた鶏冠も色鮮やかな羽根も持っていなかったし、もちろん透明でもなかった。
──なーんだ。
少々がっかりして、美冬はそう言った。鳴き声は綺麗でも、本体は地味だ。騙されたような気がした。
──つまんない。
帰ろうと玲音に声をかけた時、誰かに肩を叩かれた。
「え?」
何気なく振り向いた美冬の目の前に、感情の無い大きな二つの目玉と、チロチロと動く赤い舌があった。
どうやって家まで帰ったのか憶えていない。玲音が心配そうに、泣きじゃくる美冬の背中を撫でてくれていた。
──鳥を莫迦にしたから
そう父に言われて、美冬は「御免なさい」と竹藪に向かって手を合わせた。
あの時肩の上に落ちて来た蛇は、実は鳥が化けたものではないかと、美冬は今でも思っている。
「どうしましょう」
既に日は暮れかけていた。
「何匹いるんでしたっけ?」
「六匹だったかな? こないだ逃げ出したボアちゃんは、一番小さい子だったわよね」
四十センチのボアちゃんが一番小さいということは、当然もっと大きな奴がいる訳で……。巨大なアナコンダが和室でとぐろを巻いているのを想像して、美冬は倒れそうになった。支えてくれた玲音が、大丈夫だよというように背中を撫でてくれる。ありがとう。
「やはり開けてみた方がいいようですね」
やめて!
「ドアを破りますか」
駄目です!
「そうだ」
と光善寺さんがポンと手を打つ。
「ポストの投函口から覗いてみましょう」
「……どう?」
中川さんが尋ねる。
「うーん、暗くてよく見えませんね」
「ポストの向こうは蛇の口の中だったりして」
中川さんの冗談に、ポストから二股に分かれた赤い舌が出て来たような幻覚が見えた。
「何してるの?」
燈子さんの声だ。振り向くと、大家さん夫妻と、その奥に大きなキャリーバッグを引いた砥草さんの姿があった。
「無事だったんですね!」
中川さんの言葉に、砥草さんはキョトンと首を傾げた。
「なかなか予約が取れなかったんだけど、キャンセルが出たと連絡があって、
砥草さんは、二泊三日の温泉旅行に行っていたらしい。
「大家さんには声を掛けたんだけど、みんなに言う暇がなくて。心配かけてしまったかな」
砥草さんは、そう言って爽やかに笑った。
「夏場は空いてるかと思ったんですけど、やはり人気みたいで。今回はラッキーでした」
爬虫類のペットと一緒に温泉に入れる、とても珍しい旅館なのだという。キャリーバッグに見えたものには、窓のような空気穴が付いていた。何が入っているのかな~?
「露天風呂でね。お友達もいっぱい居たから、ボアちゃん達も楽しそうでした」
楽しそうって、蛇に表情などあるのだろうか。いや、それよりも、お友達って……。
「旅館の人に写真を撮ってもらいました」
砥草さんは、トランクの側面に付いたポケットから、筒状に巻いた紙を取り出した。
「ポスターにして貰ったんです。どうです、いい写真でしょう」
砥草さんが、美冬の目の前でポスターを広げる。
夥しい数の蛇がひしめく温泉に浸かって微笑む砥草さんという、さながら地獄絵図の様相を呈した写真を見せられて、美冬は腰を抜かした。
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