フェレンゲル・シュターデン
第18話
「郵便が来てるよ」
コーポイレブン201号室 須藤様方 志村玲音様 と書かれたA4封筒を、エプロン&三角巾姿の玲音に渡し、美冬は買って来たタコ焼きを皿に移して電子レンジにセットした。レンジで温めた後でオーブントースターで一分焼けば、外カリ中とろの熱々タコ焼きが食べられるのだ。続けて、冷蔵庫を開けて飲み物の数を確認する。ジュースにコーラ、今朝作ったばかりで、まだ冷えていない麦茶。千鶴ちゃんは冷たいものを飲むとすぐにお腹を壊すらしいから、ちょうどいいだろう。炭酸水は玲音用だ。流れで何となく冷凍室の引き出しを開けると、先日買って来たプリンが凍っていた。
すっかり忘れていた。これは、出さない方がいいかな。
「タコ焼きかあ。いいな。ビールは?」
「ありません。小さい子が来るんだから」
大家さんの娘さんである
尖った物や口に入りそうな小さな物を
「こんなもんかな」
さすがに玲音は手際がいい。あっという間に部屋は綺麗になり、いつ小さなお客様をお迎えしても安全な空間になった。
「見事なものですねえ」
冗談っぽく褒めると、玲音は「だろう?」と笑った。
「いい仕事しますよ、奥さん」
「何それ?」
笑っていると、インターホンが鳴った。早々に御登場か。
……と思ったら、早紀ちゃんだった。
「お昼ごはん買ってきました」
両手に持った袋に入っているのは、お好み焼きのようだ。ソースの良い匂いが広がる。粉物が重なるけど、まあいいだろう。
早紀ちゃんは小学校教員を目指しているだけあって子供好きだ。今日も千鶴ちゃんと遊ぶために来たのだろう。
「さきちゃん!」
少し舌足らずの可愛い声が聞こえた。
「いらっしゃい」
ピンクのポシェットを下げた千鶴ちゃんと、翔和くんを抱いた燈子さんが階段を上がって来る。
「お邪魔します」
その後ろから、やはり袋を下げた力一さんが現れた。
「焼きそば」
袋を持ち上げて、力一さんが言う。みごとに三種類そろった。
キッチンのテーブルだと狭いので、和室にビニールシートを広げて紙皿を並べた。お好み焼きと焼きそばとタコ焼きが並んでいるが、これはこれでいい。ピクニックのようで楽しい。
「パパは、がいこくへいくの」
美冬が開発した倒れないコップで麦茶を飲みながら、千鶴ちゃんが言う。
「ちーちゃんたちも、いくのよ」
嬉しそうに言う千鶴ちゃんを見て、燈子さんが溜息をついた。
「半年経ったら、居なくなるのね」
単身赴任は半年だけ。年明けには、翼さんたちも中国へと旅立つのだ。
「社宅もちゃんとあってね、結構広いんですって。日本人の社員さんの家族が大勢住んでるし、学校も日本語の学校があるらしいの」
一つ一つ、安心材料を探すように燈子さんが言う。
「とーちゃんは心配性だから」
かーちゃんこと力一さんが、言い訳をするように言葉を添えた。
「かーちゃんだって、あれこれ聞いてたくせに」
燈子さんが言う。そして二人で顔を見合わせ、諦めたように小さく笑った。
「寂しくなるね」
何と言っていいのか分からなくて、美冬は黙って焼きそばを口に運んだ。
隣でタコ焼きを丸ごと口に入れた玲音が、声もなく暴れ出した。炭酸水をラッパ飲みしているところを見ると、熱かったのだろう。皆の視線が玲音に向いている間に、燈子さんがそっとハンカチで目元を拭うのが見えた。
「会いに行ったらいいじゃないですか」
突然、早紀ちゃんが言った。
「海外旅行したことないって言ってませんでした? 行ってくればいいわ。ここの住民は一週間やそこら放っておいても大丈夫だから」
目を丸くしている力一さんと燈子さんの横で、早紀ちゃんは千鶴ちゃんに「ね~」と首を傾けて見せた。
「ね~」
千鶴ちゃんも真似をして首を傾ける。
「海外旅行……」
今初めて気づいたように、燈子さんが呟く。
「……そうだな」
力一さんも、そう呟いて、今度は大家さん夫婦が顔を見合わせ頷き合う。
早紀ちゃんは美冬と目が合うと、何か言いたげに唇を尖らせた。
不採用になった試作品のうち、危なくない玩具を出してあったので、食事が終わると、千鶴ちゃんと早紀ちゃんはそれで遊び始めた。お昼寝から覚めた翔和くんが、這い這いしてそちらに向かっていく。大人たちは片付けを始め、美冬もお茶を淹れようとキッチンに立った。
視界の端に入っていた翔和くんが、ふと動きを止めたのが見えた。台所の天井付近に目をやり、何かを不思議そうに見ている。
言葉を話す前の幼い子供や、猫などの動物は、時々何もない空間を見詰める事がある。フェレンゲル・シュターデン現象と呼ぶとか呼ばないとか。翔和くんの視線を追った美冬は、危うく茶葉をテーブルにぶちまけそうになった。
キッチンの天井には、黒い焦げ跡がくっきり付いていた。こないだケーキが燃えた時のものに違いない。
──やばい。どうしよう。
大人なのだから正直に話して謝ればいいのだが、咄嗟の時に隠してしまうのは小心者の悪い癖である。
「あら、翔和くん、どうしたの?」
早紀ちゃんの声に、大家さんたちが振り向く。
「翔和く~ん。こっち向いて」
事態を察した玲音が、音の出る玩具で気を引く。
──ナイス!
鈴の入ったボールに手を伸ばした翔和くんは、嬉しそうに両手で降って音を鳴らした。
「ちょっと疲れたな」
危うく忘れ去られそうになっていた冷凍プリンにスプーンを刺しながら、玲音がそう言って笑った。
「なあ、美冬」
何か言いかけた途端、目を閉じてこめかみを押さえる。アイスクリーム頭痛だろう。プリンの復讐かもしれない。
「何?」
笑いながら尋ねると、玲音は目を開け、持っていたスプーンを置いた。
「出版社と正式に契約したんだ」
専属のカメラマンとして雇ってもらえることになったのだという。玲音は、今朝届いた封筒の中身を見せてくれた。細かい字がびっしり書かれた書類の束。タイトルに『契約書』とあり、出版社社長と玲音の名が書かれている。印鑑の朱色が鮮やかだった。
「こないだ見せた写真を気に入ってもらえてさ」
白い桜と蛍の写真が編集者の目に留まり、過去に撮り溜めたものも含めて写真集を出して貰えるかもしれないという。
「おめでとう」
そう言った美冬に、玲音は少々はにかみながら「ありがとう」と答えた。
外は夕暮れである。窓硝子を通して、夕焼けの紅い光が差し込み、畳の上に置かれた玩具に不思議な色の影を作った。
「なあ」
「……何?」
玲音が、美冬と目を合わせる。
「来年、連れてってやるよ。天の川」
川を埋め尽くす蛍を二人で見に行こう。玲音は、そう言った。
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