原罪

第17話

 七夕の夜だった。季節外れの台風が来ており、外は暴風雨だった。

──急患です! 二十四歳妊婦。既に破水しています。

──受け入れられません。他を……。

──間に合いません。何とかお願いします!

 ある小さな産院に、臨月の妊婦が急患として運び込まれた。朝から降り続いていた雨のせいで川が増水し橋が使えなくなったことで、市をまたいで移動する車は、かなりの距離の迂回を強いられた。救急隊員の判断により、妊婦は一番近い産院へ運ばれたのだろう。

──仕方ない。受け入れます。

 勤務しているのは初老の産婦人科医師と、その妻である助産師だけ。分娩室が一つしかないその産院には、当日出産予定のハイリスク妊婦が入院していたのだが、担ぎ込まれた妊婦の状態では、もう他院への搬送は不可能と思われた。

──急いで分娩室へ。

 ストレッチャーに乗せられた妊婦に付き添っていた夫と思われる男性を見て、助産師は顔色を変えた。

──何故?

 問い質す間もなく、助産師は医師に促され、分娩室へと向かった。

 難産だった。陣痛は強かったが、出産には長い時間を要した。一時は母子ともに生命が危ぶまれた為、分娩室は混乱状態となった。

 慣れている筈の医師も助産師も、その夜は冷静ではなかった。そしてタイミングの悪いことに、運び込まれた妊婦の対応中に、もう一人の妊婦が産気づいた。

──誰か来て。……助けて!

 分娩監視装置は見逃され、十分な処置が出来ないまま出産した妊婦は大出血を起こした。運び込まれた妊婦の処置が終わり、漸くモニターの異常に気付いて病室へと走った医師は、扉の下から流れ出す血液を見て立ち竦んだ。

 幸いなことに、それぞれの妊婦が生んだ赤ん坊は無事であったが、大出血を起こした妊婦の意識が戻らず、翌日、大病院へと搬送された。元々身体が弱かった彼女は長期の療養が必要となり、返って来た診療情報提供書には、彼女がもう今後の妊娠が不可能な身体となったとの記載があった。

 普通であれば大きな問題になる出来事であったが、医療事故としておおやけにはならず、不可抗力として内密に処理された。何故なら、入院していたハイリスク妊婦は医師たちの身内であったから。

 医師と助産師は美冬の祖父母であり、大出血を起こした妊婦は美冬の母である。そして、救急で搬送されたもう一人の妊婦は、玲音の母親だった。

 赤ん坊の美冬は、祖父母と、離婚して実家に戻っていた伯母によって育てられた。同居していた筈の母のことは、実はあまり記憶に残っていない。はっきり憶えているのは、幽霊のような青白い顔をして、美冬を呼んだことだけだ。そう、悲鳴のような声で。

 ヒステリックな母の叫びと、ごめんなさいと泣き崩れる玲音の母。映画のワンシーンのような映像が美冬の頭の中に残っている。美冬にとって母は遠く、そして怖い人だった。入退院を繰り返していたせいで、接点は殆どなく、病院にお見舞いに連れて行って貰った記憶もない。家に帰って来た時も、奥の部屋のベッドで横になったまま、虚ろな眼差しで、知らない子供を見るように美冬の顔を見ていた。

 玲音たちとの交流が始まったのはいつからだろう。父に連れられて行った先で、美冬たちは家族のようだった。とても楽しくて、幸せで……。けれど、美冬は知らなかった。それが母にとって、どれほどむごい仕打ちであったのか。

 中学生になって、玲音は荒れだした。喧嘩のせいで生傷が耐えなくなり、時折り暗い眼をして遠くを見つめているのを、美冬は何とも言えない気持ちで見ていた。急に「美冬」と呼び捨てにするようになったのも、その頃だと思う。近しくなったというより、よそよそしさを感じたのが不思議だった。

 引っ越していく少し前、玲音が美冬に言った言葉がある。

「俺たち、一緒に居ちゃいけないんだ」

 意味が分からなくて聞き返した美冬に、玲音は言った。

「美冬は、幸せになれよ」

 中学生とは思えない、大人びたセリフだった。

 その年の誕生日を迎えないまま、玲音たちは他県へと引っ越して行った。父が別の人と新しい家庭を持ったのは、そのすぐ後だ。

 美冬が真相を知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。大学に合格して家を出る前だったと記憶している。何かしらの予感はあっても、つい耳を塞いでしまう性格のせいだろう。母のことも父のことも、もちろん玲音たちのことも、美冬は大人たちに尋ねることをしなかったから。


「あなたのお母さんが付けたのよ」

 私は夏生まれなのに、なぜ美冬というのだろうと、何気なく伯母に尋ねた時だった。

「新婚旅行で北欧を旅して、とても美しい景色を見たそうよ。どこもかしこも真っ白な一面の雪景色で、湖に張った氷がキラキラ輝いてて。見惚れていたら、微かにハープを弾くような綺麗な音が聞こえたんですって。薄氷が割れる音だったらしいけど、煌めきがそのまま音になったような気がしたって」

 氷は薄い程、割れる時に高い音を立てるのだと聞いたことがある。母が聴いた氷の音を美冬は想像できなかった。煌めきに似た音。柔らかな陽射しが戯れに奏でた美しい音色。

「寒さを忘れるほどに美しい冬の景色と、煌めくような音が忘れられなくて、子供が生まれたら、それを名前にしようと決めたそうよ」

 伯母はそう言って、和室に飾られた母の遺影に目をやった。

「可愛い人だった」

 愛おしさがこもった声だった。自分が知る母の面影との乖離かいりに驚き、美冬は言葉もなく伯母の口元を見ていた。

 母は、祖父の知人の娘だった。恩人とも言える人だったという。両親を相次いで病気で亡くして天涯孤独となった母を、祖父は息子である父とめあわせた。

「幸せなんだと思っていた」

 微笑を形作っていた唇が微かに震えた。

「女の子が生まれたら美冬、男の子だったら玲音って付けるんだって、そう言ってたわ」

「え?」


 その日、美冬は伯母からすべてを聞いた。

 玲音の母親は、父の愛人だった。多分、母と結婚する前からの……。祖父の勧めによる結婚は、父にとって本意ではなかったのだろう。

 妊娠中であった玲音の母が、七夕の夜に父に会いに来ていたところ、急に陣痛が始まった。父は救急隊員に実家である産院への搬送を依頼し、祖父は何もかも承知した上で彼女を受け入れたのだ。

 異母きょうだいという言葉は聞いたことがあったけれど、自分には関係の無いものだと思っていた。玲音が異母兄なのだということを、美冬はあの日、伯母から聞いて初めて知った。

 玲音の戸籍にも、美冬の──つまりは父の戸籍にも、認知事項は記載されている。

 父は、妻が産んだ娘に『美冬』、愛人が生んだ息子に『玲音』と名前を付け、出生届を提出した。何を考えていたのかとなじりたい気持ちだ。祖父に向けて、我が子だと示したかったのだろうか。それとも、次の子供を望めない妻の想いを汲んだつもりだったのだろうか。まさしく悲劇の登場人物だ。状況に酔っていたとしか思えない。

 そして父は、入退院を繰り返す母を尻目に、娘を連れて愛人の元に通った。まるで、こちらが本来の家族だとでも言うように。

 残酷な話だった。幽霊のようだと美冬が恐れた母は、純然たる被害者だった。何の罪もない母が、夫の愛情も、安全な出産も健康も、子供に付けようとしていた名前すらも奪われたのだ。そしてとうとう、実の娘にさえ拒絶された。

──美冬、帰るわよ。

 そう言われて、美冬は叫んだのだ。

──嫌!

 怖かった。ただ怖かったから……。

 母は、どんなに悲しかっただろう。

 玲音が荒れ出したのは、真実を知ってしまったからに違いない。

──俺たち、一緒に居ちゃいけないんだ。

──美冬は、幸せになれよ。

 生まれながらの罪。玲音は美冬に負い目を感じている。けれど罪人つみびとであるのは、美冬も同じだ。いや、きっと自分の方が罪は重い。娘に投げつけられた言葉によって、母は最後の希望を失ったのだから。

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