第16話

 夕食は結局残り物で済ませた。

 湯上り。乾き切らない髪を手櫛で梳きながら外に出た美冬は、階段の上から空を見上げた。星空が綺麗だ。部屋の窓から見ても良いのだが、虫が入るのは困る。蚊取り線香を買ってこなければ。そうだ、一緒に花火も買おう。藁の先に黒い火薬が付いた線香花火。子供の頃に玲音とよくやった。藁の先で丸まった火の玉を落とさないように気を付けるのだけれど、どうしても揺れてしまい、綺麗な菊の花のような火花は、いつもほんの少ししか見ることが出来なかった。

 カンカンと、階段を上がって来る足音が聞こえた。

 玲音が戻って来たのかと思って振り向いた美冬は、薄闇に立つ人物を見て息を呑んだ。

「こんばんは」

 階段の踊り場には、岩崎ほの香の姿があった。

「玲音は……」

「いいの」

 いないと言いかけた美冬を遮って、ほの香は唇の端を吊り上げた。

「あなたの処なら構わないわ」

 残りの階段を上がり切り、美冬の前に立つ。

「でも、そろそろ帰るように言ってくれないかしら」

 顎を上げ、美冬を見下げるような視線で。

「もう、怒ってないからって」

 勝ち誇ったように、ほの香は言った。


 突然牙を剥いた現実に闇討ちされたような気分だった。ほの香が帰っていってからも、美冬は暫くその場を動けなかった。

 我に返り、部屋に駆け込んで鍵を掛ける。玲音が鍵を持っていないことを思い出して、再びサムターンを回した。部屋の灯りを消して点けて、また消して……自分が何をしているのか分からない。

 和室の入口で躓いて、美冬はそのまま畳に蹲った。

──あなたの処なら構わない。

──もう、怒ってないから。

 敗北感に似た思いが湧き上がる。自分が取るに足らない存在だと言われた気がした。そうだ。どうやったって勝てない。玲音はきっと行ってしまう。だって私は……。

 噛みしめた歯の間から、嗚咽が漏れた。



 どれぐらい、そうしていたのだろう。玄関のドアが開く音がして、足音と、何かに躓くような音がした。

「痛てっ」

 玲音の声だ。台所が明るくなり、水音が聞こえた。

「美冬、寝てるのか?」

 気遣うように、声が掛けられた。

「そんな寝方すると、風邪引くぞ」

 背中に手を置かれる。ほんの少し、酒の匂いがした。

「……うん」

 重い身体を起こし、顔だけを玲音に向ける。

「ちゃんと布団……」

 逆光になっているので、玲音の表情は分からなかった。何故言葉を切ったのだろう。何故、何も言わないのだろう。

「美冬」

 身体が反転し、背中に畳を感じた。玲音の顔が目の前にある。押さえられた腕が動かせず、組み伏せられたのだと分かった。

 一瞬目が合い、次の瞬間、玲音の視線が彷徨うのが見えた。

「玲音……」

──いいよ玲音、好きにしても。

 美冬は身体の力を抜き、目を閉じた。

 耳元に息づかいを感じ、首筋に微かに唇が触れた感触があった。

 けれど、それはすぐに離れて行った。抱き起こされ、さっきまで力任せに押さえつけていた筈の腕に、そっと包まれる。

「ごめん」

 玲音の顎が、肩に乗っていた。

「ごめんな。美冬……」

 震える声は、泣き出すのを堪えている子供のようだった。大きく息を吸う音が聞こえる。

「なあ、美冬」

 耳元の囁きは悲し気で、美冬は手を伸ばして玲音の背を撫でた。

「将来、美冬が誰かと結婚して……子供ができたら」

 切れ切れの言葉に、美冬は耳を傾ける。

「もし男の子ができたら。……二番目でいい。二番目の男の子に、俺の名前付けてくれよ。……玲音、って」

 何度も息継ぎをしながら、玲音はそう言った。どこかで聞いた、映画のセリフのように思えた。何処で聞いたんだっけ? 思い出せない。

「玲音が、二人になっちゃうよ」

 美冬がそう言うと、玲音は小さく首を振り、「いいや」と言った。揺れた髪が頬に触れる。

「美冬が幸せなのを見届けたら、……俺は消えるから、心配いらない」

 優しい口調だった。

「俺、美冬の子供になるからさ」

 諭すように。願うように……。

「可愛がってくれよな」


 そんなの嫌。

 だったら私は……。

 絶対に、……幸せになんか、ならない。

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