愛の夢

坂本忠恆


 この街には雪は降らないと、彼が故郷に押した請判は、この日反故にされた。お陰で傘を持ち出す用意を怠った私の身体は酷く凍ててしまった。今朝方からしんしんと降り始めた雪は私のくにのものとは甚だ違う。大味な、私からすればどこか贋物じみた雪だった。彼が忘却を望んだからだろうか、私には天が彼の意図を汲んで、私の眼前でだけこの街の景色を漂泊するために応急的にそれを降らしたのだと、そのようにさえ思われるのだった。

 私が彼の故郷の街に来たことは偶然だった。医者同士のつまらぬ寄り合いがあるのだ。ここへ来るのは初めてだったが、街の名前は彼が私に話したので知っていた。それどころか、それはただの世間話といってしまえるほどお気楽なものではなかったから、私は彼の実家の場所でさえ、彼のそれを話したときの記憶を紐解いて探り当てることができた。この一事だけからしても、彼がどれだけ仔細に故郷の情景について私に語ってみせたか、想像に難くはないだろう。


 会合は午後からの予定だったが、私は彼の私にした話が私の中に形作った借り物の記憶の検証をするために、始発の新幹線を使い、その街に到着したのはまだ地元の人々の駅に集まりだす時分だった。通学中の学生の姿が殊に目立った。

 駅舎の外には既に雪が積もりだしていた。このことに私は少しく戸惑った。人間と同じように、街にもまた褻の装いと言うものがある。雪を着慣れぬ街にはやはり雪は似合わぬ。雪への仕度が不要であるということは、それが入用であるのと同じだけ、そのこと自体が街の風情になるわけだが、この街のそれは瞬く間に雪に侵略されて、彼の念頭に置いていたであろう故郷の姿と、私の実際に見る街の景色とを明らかに隔絶していたのである。

 在来線の運休がアナウンスされた。新幹線の運行も次期に怪しくなるだろう。午後の会合は取り止めになるやもしれない。勤め人と思しい大人たちは、どこか途方に暮れた様子で電光掲示板を流れる報せを目で追っている。男子学生の一団は対象的に、嬉々として雪の降る街中へと駆け出て行った。私は彼のした話の中の、少年時代の彼の姿を、この学生らに重ねた。すると、嗚咽にも似た不思議な感銘が私の胸を打つのだった。


 彼の実家を探し当てるのに、積雪は寧ろ好都合だった。実際的な色彩を排した私の印象の中のこの街の姿は、その曖昧な輪郭を透き絵のように雪の白さに暴かせて、雪の上に落ちる明晰な陰影は、その漠としたものの線を上から新たに引き直した。

 私の知るこの街と、彼の生きた故郷は、記憶の中でも、実際に目に映る景色の中でさえも、交わることはないのだ。私はそのことに少し安堵さえした。


 程なくして、私は彼の実家だと思われる邸の前まできた。表札の御影石には「川島」の字が彫ってあった。その邸は駅近くの宅地開発地の一隅にあって、その堂々とした二階建ての造りは周囲の凡々とした建売の屋並みと比して水際立っており目を引いた。土地も、目方で周りの家々の倍はあった。

 振り返ると、私は私道を一車線隔てて佇む二軒の家を見た。どちらも同じ外観の一戸建ての二階家で、両方合わせて丁度川島邸と正面で向かい合う格好になっていた。同じ意匠の金属製の表札には、右方から「吉田」、「井畑」とあった。

 私はもう一度川島邸を、その二階部の中央にある出窓を見上げた。白いカーテンが掛かっているのが分かった。あの部屋が、彼の、川島慶介の嘗ての部屋で間違いないらしい。

 私は知れず携帯電話を取り出していた。それから私は、すぐにこの自分の無意識の行動に気が付いて、少し躊躇った。誰かに連絡を入れようとしたのではない。雪が携帯電話のディスプレイの上を積もることなく濡らしていく。私は衝動に任せて徐に指を動かし、ある音楽を再生した。リストの「愛の夢第三番」である。

 私はそのまま携帯電話を外套の胸ポケットに入れると、もう一度彼の部屋を仰ぎ見た。

 下らない感傷だと思った。まったくあいつはつまらない思い出話をしてくれたな、と思った。そして、今頃あいつは何をしているのだろう、と思った。

 通勤の時間だろうに、周囲はやけに静かだった。雪降りの鳴らす輪郭の無い縹渺とした白い微音が、それを意識するときにだけ私に耳打ちをした。この大きすぎる余白を、リストのピアノが塗りつぶした。


 一曲終えたら駅へ戻ろうと思ったとき、私は背後の気配に気が付いて慌てて振り返った。そこには、ひとりの妙齢の女性が私の様子を注意深く伺いながら、玄関先に立ち竦んでいた。彼女は顔中に恐怖の色を湛えていた。

 私はいけないと思って、咄嗟に口を開いた。

「あいつは今、海外にいます。ほら、あいつの親父さんと同じで……」

 私は何を口走っているのだろうか。明らかに冷静さを欠いているのが自分でも分かった。

「……川島さんの、お知り合いですか?」

 と、恐る恐る彼女が訊いてきた。

 私は頷いた。

「大学時代の同期です」

 そうですか、とだけ彼女は小さく一言すると、そのまま俯きがちに駅の方へ歩き去って行った。私は無言で彼女の背中を見守った。その歩様は心持ち急いて見え、まるで私から逃げているようにも見えた。

 私は彼女を捕まえて言い訳をしようか、とも思った。しかし、何をどう言い訳するというのか。そもそも、何か言い訳をする理由が私にあるだろうか?

 結局私は曲が終わるまでその場に立ち尽くしていた。ただ漠然と、彼が私にした話のことを思い出しながら。



 彼は医学生時代の私の同期だった。彼は進んで交友関係を広げる質ではなかったが、これと決めた人物とは努めて深く関係しようとする男だった。殊に、私たちは互いを親友と呼び合えるほどには親しかった。

 私たちには共通点があった。彼は幼いころに父親を亡くしており、私もまたそうだった。

 私たちは医学生向けの奨学金を借りていたが、それでも金銭的な余裕は当然なかった。比較的裕福な家庭出身の人間の多い医学科の学生の中で、私たちは互いに引け目を感じることなく接することができた。

 私たちは同じ学生寮に下宿しており、多忙な課業の合間を縫って、よく互いの部屋を訪ねた。そこで、私たちは色々な話をした。多くの議論を交わした。過去の出来事から将来の展望まで、種々様々なことを語り合った。私たちには金がなかったから、時間の取れるときにはそのようにして過ごしたのである。


 ある土曜日の夜のことである。例によって彼は私の部屋を訪ねてくると、手に提げた買い物袋を示しながら「講義の復習をしないか?」と、だしぬけに提案してきた。袋の中には大量の缶チューハイが入っていた。

「アルコールの代謝なんて高校生物の範囲だろ。学費の安い大学に受験でもし直すつもりか?」

 私は笑いながら冗談で返した。

「これは、どちらかと言うと麻酔分析の類だよ」

 彼もまた笑いながらそう返してきたが、その表情にはどこか陰りがあった。

「酒を使ってか? 聞いたことがないな」

 私は少し心配になったが、気付かないふりをして彼を部屋に招き入れた。

「おい、さてはもう飲んでるだろ、臭うぞ」

「まあ、少し……気付けにな」

「何かあったのか?」

「いいや、何も。昔のことを少し思い出しただけさ」

 言うと彼は私のベッドに腰を下ろし、早速一本目を開け、一気に呑み干してしまった。

「おい、俺に世話を焼かせる気か? 無理してぶっ倒れるなよ?」

 私はそう窘めながら、彼とテーブルを挟んで対面の座椅子に座った。

「これぐらい大したことないさ。俺の肝臓は鋼鉄製なんだよ」

「それが本当なら死後献体をお願いしたいな。そんな人間は前代未聞だ」

 ふははと私たちは笑った。そして、少しの沈黙があった。点けたままにしていたテレビから同じように耳障りな哄笑が響いてきた。

「……なあ、それ、消してもらえるか?」

 彼は二本目を開けながら言った。その言い方のどこかただならぬ感じに、私は少し気圧されながら従った。

 私も一本手に取って、飲むでもなくそれを手の上で弄んだ。結露した水滴が掌を濡らした。私はその酒缶の、アルコール度数の表記などに目を留めながら黙っていた。


 彼が口を開いた。

「それで、復習の件だが……」

「本当にやるのか? 何の復習だよ」

「そうだな、強いて言えば臨床精神医学かな……」

「おまえって精神科志望だったか?」

「いいや、違うが……」

 私は手に持っていた缶に口を付けずにそれをテーブルに置いた。掌が少しべたつくような気がして、私はそれを服で拭った。

「やっぱり何かあったんだろ?」

「ないさ、本当に何もない」

 私は訝し気に彼を見た。

「そういえば昔のことを思い出したって言っていたな。もしかして親父さんのことか?」

 彼は首を横に振った。

「いいや、それも違う。もっともっとつまらないことだよ。だけど、精神医学の見地からすれば、もしかすると少し興味あることかもしれん」

「そうか、つまりおまえはその昔話をしに来たんだな? しかし、どうしてまたそんな辛気臭い切り出し方をするんだ」

 と、彼は今度は酒をちびちびと飲みながら目を伏せると、言った。

「俺の幼馴染が近々結婚するらしいんだ」

「……分からないな、だからどうしたと言うんだ?」

 私は中々要領を得ない彼の受け答えにだんだんと苛立ちはじめていた。

「だからどうしたという話でもないのだが……」

「なるほど、つまり傷心中というわけだな? その幼馴染とやらの件で」

 私はふと思い至ってそう言った。

「バカ言え、そいつは男だよ」

 彼はすかさず答えた。

「じれったい。ならいったいどういうわけなんだ」

 私の苛立ちを気取ったのか、彼は真面目な顔を作ると、漸く私と目を合わせた。


「今からする話を聞いて、俺の心理を分析してほしいんだ。いや、分析とは言っても別に医学的な厳密さを求めているわけではない。ただ、おまえの感じたままのことを教えてほしいんだ。このことを誰かに話すのは初めてなのだが……。なに、本当にただのつまらない思い出話だよ。少し長くはなるが、あまり深刻に受け取らないでほしい……」

 私は小さく頷いてみせた。

 すると彼は、初めは訥々と、酔いの回りと共に徐々に語気に熱を込めていきながら、自分の故郷の街と、そこでの思い出について、殆ど丸一晩かけて話をした。私は酒を一口もせずに、それを聞き続けた。


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